中:彼方千里行
「あ。……えへへ、起きた?」
目が覚めると、彼方は天国にいた。
剣道場の匂いがすることは残念だけど、後頭部越しに感じるふわっふわの太ももの感覚でお釣りが来る。視界に広がる二つの大スペクタクルなお山の向こうには、この一年間会いたくてたまらなかった人の顔があった。
「幸村円香先輩……? ゆめ……? 本物……?」
「ほ、本物だよー?」
「……うそ……」
真実を確かめるため、彼方は膝枕をされたままもにゅっと掴む。円香の豊かな胸を。
「ぎゃあああ―――――――っ!? 馬鹿っ!」
「いぎゃっ!?」
不可視の稲妻がずばぁん! と轟き、もみじとなって彼方の頬に迸った。
「ウオオ……いだぃいい……!」
「もうっ! 当たり前だよっ! ほら、夢じゃないでしょう!?」
頬を押さえて、彼方は円香の膝の上でごろごろ転がる。
どうやら本当に夢じゃない。
痛みに涙目になっていたが、彼方の口元はどんどん弛緩していく。
「ほ、本物の円香先輩だ……! ふひっ、円香先輩が、カナに膝枕を……!」
「うわっ、気持ち悪。わたしもう帰るね。どいてもらっていい?」
「えっ。い、嫌です! ごめんなさい! カナ土下座でもなんでもするからっ!」
「も、もう土下座はいいってばあ! もー……」
ため息をついても、円香はそれきりどけとは言わなかった。
この問題ある女の頬をよしよし撫でて、まるで女神さまみたいに笑って言った。
「叩いて、ごめんね?」
「そ、そんな! 今のはカナが悪いし……」
「あはは、それはその通りだね。……じゃなくてね。あのとき、叩いてごめんね?」
「あ……」
「本当に、ごめんね。……痛かったよね。それだけ、ずっと言いたかったの」
膝の上で、彼方が首を振る。
ごめんなさいを言うのは、こっちの方だった。
「謝らないでください。嬉しかった、です。……カナ、あれで助かったから」
「ええっ? 叩かれて?」
「ししし。だって誰も、カナのこと怒ってくれなかったんだもん」
彼女がいなかったら、今頃自分はどうしているだろう。考えたくもない。
今がこうして幸せなのは、紛れもなく彼女がいてくれたからだった。
「ありがとうございました。カナを叩いてくれたの、円香先輩が三人目でした」
「……はい。わたしは人叩いたの、カナちゃんが初めてだったけどね」
カナちゃん。……カナちゃん! それは初めて!
この気持ちをどう伝えたらいいだろう。彼方は膝の上でまた悶える。
「カナ、もし地球人と結婚するなら円香先輩がいいなっ」
「あはは。わたしはカナちゃんは嫌かな。無理です」
言葉で心臓をひと突き。即死であった。
吐血しそうになりながら、彼方はようやく状況を整理し始める。
ここは……そうだ、藤宮の剣道場。
「あの、カナはどうして膝枕されてるんすか?」
「うん。今日はカナちゃんが来るっていうから、テストの後に道場に寄ってみたの。そしたら壁に寄りかかってひとりで寝てて……こう、ずるずるといくから、きゃっちしちゃった」
「……ああ、そだそだ。また眠くなっちゃったんだった」
頭だけ動かすと、確かに剣道具とバッグが道場に置きっぱなしになっている。
不覚だ。でも仕方がないところもある。
「だってさー、千紘たちがいないんだもん。呼んだくせにさ」
「あっ、三年生以外はね、あと一時間だけテストがあるの。まだもうちょっとかかるよ」
「えっ、そうなんですか?」
「うん。……だからね。カナちゃん、これから暇?」
今まで、生きてて暇を過ごしたことがない。
でも今は、前へ進むための自発的な充電期間だった。
「はい! 暇になりました! カナと遊んでくれますか!」
「あはは、よろしい。じゃあ、一緒にお昼ご飯食べにいこっか?」
「おっ、ぜひ! そうだ、立花纏も――」
「だめー♪ 今日は、纏抜き」
くいっと、人差し指で顎を上げられる。見上げた笑みに心臓が高鳴った。
「えへへ。今日は、わたしがカナちゃん独り占め。いいでしょう?」
「……はいっ。カナでよければ!」
「よーし行こっか。いいアイスクリームを出すお店があってねえ」
「おおっ! カナ甘いもん大好きっす!」
「あっ、そうなの? わたしもなんだー♪」
荷物を持って、二人で学校の外に出かける。先輩とご飯に行くなんて初めてだ。
藤宮に来ていれば、それが日常になっていたのだろうかなんて考えると、少し羨ましい。
「ねえ、カナちゃん。星蘭って楽しい?」
「はい! 最高! だってカナよりすげーやつ沢山いるもん!」
「あはは。上昇志向だ」
「イエス。宇宙まで昇っていくよ!」
でもやっぱり、星蘭の今が一番いい。
この人が叩いてくれたお陰で、後悔はなくなったから。
「わたし、カナちゃんのお話が聞いてみたいな。纏じゃなくて、カナちゃんの」
「……ししし。ちょーっと長くなりますよ?」
「いいよ。わたし、気が長いもん」
こうやって、聞いてくれる誰かがいてくれて嬉しい。
誰かに観測されなければ、その道筋はなかったことと同じになってしまうから。
「ありがとうございます! ……それじゃあですね、清船中三本刀のおはなしを」
あなたという救世主が現われたあの瞬間から、全てが終わるまでの千里の道を。
「おしまいまで、ちゃんと聞いてね」
× × ×
暴走に暴走を重ねた、一年前の団体戦の後。幸村円香とエンゲージ。
弾けた光が、暗闇を割いた。
打たれた頬を機械的に押さえて、彼方は光のない目で自分を叩いた円香を見上げる。
「馬鹿にしないでっ!」
激した叫びに、反射で身体は反応する。機械のアラートが鳴っている。
エラー発生。エラー発生。至急対処せよ。
解決方法を高速で記憶領域に探すが、しかし見つからない。身体がオーバーヒートする。
今まで、どんなことでも上手くやってきた。怠けず努力を惜しまなかった。
「纏はねえ、本当はもっと凄いんだ!」
だから誰にも怒られたことがなくて、こうして叩かれたこともなくて。
お前は間違っていると、こうやって誰かが止めてくれたことだって――。
――ざ、――ざ。
「……っ」
過負荷に熱された彼方の頭の奥で、白黒のノイズがちらついた。
「見ててよっ! 来年本気でやったら、勝つのは絶対、立花纏なんだからっ!」
来年。絶対。繋がる言葉に息を呑む。
もう要らないと捨て去った記憶に向かって、光路は繋がりシナプスを駆けた。
『あと一年あるんやぞ! 彼方なら、絶対できる!』
『やれるって。打倒、剣姫じゃん?』
「…………あ、あ……」
心が、再起動をかける。
彼方の瞳がハイライトを結んで、世界を美しく描き出した。
打たれた頬はひりひり痺れて、再び身体に巡り始めた血潮が熱い。
「絶対許さない! 土下座させてやるっ!」
解散の日、誰も落としてくれなかった雷を彼女が代わりに与えてくれて。
彼方の心に、ようやく正解が届いた。
――捨てちゃ駄目だった。
彼女のように、想いを背負って進むべきだった。
その果てに、たとえ道を同じくすることができないのだとしても。
言葉を尽くして、二人が預けてくれたものに向き合うべきだった。
――そっか。
カナ、間違えたんだな。
「おいアンタ、急になんだよ!? 頭おかしーの!?」
「いい、愛莉。……いいから」
かつて必要ないと切り捨てたものを取り戻すように、愛莉の肩を強く掴む。
盲従し、愛莉はあっさりと嬉しそうに頷く。思考なき機械のように。
血の気が引いた。こんなの人形だ。
人間じゃない。
一体誰が彼女をこうしたかなんて、考えてみるまでもない。
彼方はここに、己が犯した罪の途方もない深さを知った。
――終わらせなきゃいけない。
責任を取らなければいけない。
預かった命は、最後まで面倒を見るべきだ。
愛莉が、千紘が、過去を振り切っていけるように。
――頼りになるキャプテンは死んだんだって、教えてやらなきゃ。
彼方は一瞬だけ目を閉ざし、最後の計画を脳裏に描いてやる。
回りのいい頭は、己が演ずるべき役割をすぐに教えてくれた。
「……いーよ、土下座な。するするしてやる! その立花纏だっけ、覚えとくし次にやるのも楽しみにしとく。しょーじき言って、あの程度なら百回やっても百回カナが勝つし!」
――悪役になろう。打ち倒される。
剣姫が自分を倒しても、二人の夢は覚めない。
普通の人間に無惨に自分が打ち倒されてこそ、悪夢は終わる。
――連れてきてくれるかな。
自分を斬ってくれる誰かを、この人は本当に連れてくるだろうか。
可能性は薄い。それは分かる。
けれどそんなことを度外視して、自分を叩いてくれたこの勇気の女神を信じたかった。
「キミも何かしろよ。立花纏って子が担うにふさわしい何かを、キミも賭けてよ」
「いいよ。命でも何でも、纏のためなら賭けてあげるよ!」
少しでも可能性を上げるため、人質を取る。
走ってみろ。誰だか知らないけど、行けるとこまで行った自分に追いついてみるといい。
友のためなら誰かは走ると書いたあの嘘くさい物語に、彼方は賭けてみることにする。
「一年後を見てろ! 次に勝つのは、絶対纏なんだから!」
吠える円香に、瞑目する。敵対したくはなかった。
初めて、自分から友達になりたいと思えた人だった。
でも自分が得ることよりも、かつての仲間に与えることを彼方の理性は優先した。
遠ざかっていく彼女の姿に未来を託して、彼方はすぐに動き始める。
「愛莉。自分のところに戻んな。カナも学校に帰るよ」
「え……? で、でも久々に会ったばっかじゃん! もっと――」
「先輩が迎えに来てるよ。行ったげな」
彼方は座っていたベンチから立ち上がり、向こう側から歩いてくる小さな女性を指した。
ツインテールの彼女は首をきょろきょろさせて、心配そうな表情で誰かを探していた。
「げっ、速水……。い、いいよ、別に。一ノ瀬のほうが――」
「愛莉」
見上げる星は光が届ける過去の姿で、そこに実体はない。
そう諭すように。
言いそびれた言葉を、彼方はようやく遅れて手渡した。
「ごめん。……カナ、愛莉たちとは一緒に行けない。夢があるから星蘭に行くよ」
古傷に触れると、愛莉は顔から色を失っていく。
昔の自分はここで終わった。
今の自分は、もう違う。
「でもね。千紘と愛莉のことも、愛してた。……とっても大事だったんだよ」
「……嘘、つくなッ!」
「嘘じゃないよ。ちゃんと証明する」
二人に促されたからでなく、彼方はその目標を、初めて自分の意志で口にする。
「一年後、乾吹雪を倒す。二本で勝つ。千紘と愛莉の二本分取って勝つよ」
目標は定量的に。反省は定性的に。
かつて敵わなかったのなら、今度は条件を変えて挑めばいい。
「出来なかったら、カナ宇宙飛行士を諦めるよ。学校を辞めたっていい」
「っ――!?」
「命、預ける。愛莉だからだよ」
作り笑いでない笑顔が、自然と愛莉に向けられる。それが嬉しかった。
「場はどこでもいい。でも楽しみにしててよ。きっと、特等席を用意すっからさ」
「…………分かっ……た……」
「ししし。よーし、約束! クイズ正解は一年後! じゃーなっ!」
一ノ瀬彼方は、いつも即断即決。
誓いと別れを一度に済ませて、彼方はベンチから立って駆けていく。
今、二つの計画がある。
二人の悪役として成敗される計画。二人の英雄となって成敗する計画。
全く逆の性質を持つ二大計画は、しかし重ね合わせの状態で同時に存在することができる。
――絶対、叶えてやる。
たったひとりで一年間、今から途方もない旅に出る。
千紘と愛莉はもういないけれど、しかし不思議と寂しくない。
透き通るような青空から差す光が、今一度彼方を奮い立たせる。
三人で並んで肩を組み、夢を語って見上げた蒼天を、彼方は決して忘れない。
これは、自分が愛した故郷の色。
どんな孤独な暗闇にも決して侵せない、蒼くて丸い心の宝石。
熱い鼓動が波打つ場所に手を置いて、目を閉じれば、ほら。
光速を越えて、心の故郷にひとっ飛び――。
『これができたら、ぜってー面白いって! やろうぞ!』
『……よっしゃ! うちは乗った!』
『しゃーね~。付き合ってやんよ~』
一ノ瀬彼方が静かに笑う。
月が綺麗ですねなんて、遠回しな言葉は好きじゃない。
「愛してる」
――思い出さえあれば。
もう、寂しくない。
「っ……し。行くぞ―――っ!」
× × ×
いつまでも月を目指す兎は、亜光速で日々を駆け抜ける。
夢のための勉強も、上達のための環境構築も、それから血反吐を吐くような稽古も、全部徹底的にやる。
家に帰るといつもエネルギーはゼロだった。
倒れるように眠って夢を見ず、起きたらエネルギーは満タンになっている。
再起動は一瞬。
今日もまた厳しい一日のループに、目を輝かせて駆けていく。
遊ぶことも惰眠をむさぼることも、一瞬たりとも己に許すことはない。
キツくなかったと言えば嘘になる。
けれどそのたび胸に手を当てて、待っている二人の顔を思い浮かべるのだ。
「ししし。永久機関だ」
心の熱量は、第二法則を無視して永久不変。
そんなものはないって科学者が言ったって、笑って言い返す言葉は決まってる。
「うるせー! カナの宇宙にはあるんだよ!」
一年は一秒のようだった。一秒は一年のようだった。
偉大な物理学者が言った通り、時間は相対的で、飛ぶように過ぎて――。
高校二年の個人戦。目標地点に着陸前。
最大の障害は、いつもそこに現われる。
『準々決勝の組み合わせを発表いたします。Aコート、女子個人。
赤。私立星蘭高校二年、一ノ瀬 彼方選手』
本能が、歓喜のアラートをけたたましく鳴らす。
約束の名前が自分を呼んで、彼方は目を閉じた。
『白。県立藤宮高校三年、立花 纏選手』
顔を見ないようにしていた。噂も聞かないようにしていた。
必ず勝ちたいのなら話は別だけど、みんなの目を覚ませる道具なら誰でもいいし。
それに話が合って、また情が移っても困るし――。
「ししし。やめやめ」
なんてのは、ただの言い訳。
本当は期待したかった。たまには効率を捨てて光路から外れてみたかった。
あんな美しい人が待ち望むヒーローの姿を、未来のお楽しみに取っておきたかった。
「二度目まして。立花纏――」
さあ、観測だ。あそこからどう化けた?
銀河のように瞬く彼方の瞳が、その名前を背負う者をついに捉えた。
「……ふ、ふふ。あはははははははっ!」
声を出して笑ったのは、果たしていつぶりか。
予想が外れた。嬉しい方に。
目の前に立っていたのは、幸村円香が予告したような清廉潔白なヒーローじゃなかった。
燃え上がるように髪を染め、ブーイングを声援のように浴びて涼しく笑っていて。
しかも一度も話したことのない女にずけずけ近づいて来て、中指立ててくるような女だった。
「人の顔見て笑ってんじゃないわよ。失礼な奴ね」
「あっは。よくそう言われ――」
「でも案外普通ね。あんたみたいな奴、その辺にごろごろ転がってるわよ」
「……ししし。そう?」
「ええ。あたし以外はみんな凡人」
――無理だな。好きだ。
悪役。暴君。それでいて、同類項。
大言壮語なヒール大好き人間は、間違っても万人には好かれない。
――こいつなら、別に全力で斬っていい。
彼方は目を輝かせ、己の業と再度向き合う。
立てた理論や計画と食い違うものと出会ったとき、自分はどう対処すべきなのか。
――計画変更。カナが勝つ!
正しい道は、心が決める。
戦う準備をするために、彼方は纏に背を向ける。同時に彼女も背を向けた。
そして審判を立てて防具を着けて試合前、彼方は纏と正面から向き合う。
「……ああ」
纏の後ろには、沢山の仲間がいた。
それは捨てた自分にはもうなくて、猛追をしてきた彼女の背にだけあるものだ。
――自分がいる。
あり得たかもしれない、自分が。
遠回りをしてようやく彼方は、夢とは違う自分の本当の望みを知った。
――あの日、カナは。
みんなに、止めて欲しかったんだな。
並行世界の自分は眩しい。
隣の芝生はいつも青くて、もしも過去に行けたらと願う引力が、前へ進むなと邪魔をする。
けれど――そんなときは。
胸を打つ熱い心の臓腑に手を当てて、心の故郷を確かめたなら。
大切な宝石はどんな芝よりも蒼く蒼く、燦然と輝いているのだ。
お前が選んできた道を、過去を誇れと、いつも同じ熱量で!
「ししし。……どけよ運命。カナが通るぞッ!」
剣道が好きだ。
みんなと積み重ねてきたこの宝物が、夢と同じくらい大好きだ。
「このカナを止められる奴がいるかっ!」
奇声を上げても怒られない。急に叫んでも目立たない。
誰より抜きん出た自分が、唯一ただの人間になれる場所。
つるぎのかなたに夢を託して、一ノ瀬彼方は願いを叫んだ。
そうしたら。
「ここにいるわよ! 一ノ瀬彼方ッ!」
もうひとりの自分は嬉々として、叶えてやるぞと叫んでくれた。
幸せだ。それ以上、言葉はいらなかった。
「始めっ!」
「ギぃぁああア―――^―――――^――――ヤぁあああぁ亜ああぁぁ亜あッ!!」
「キゃぁああア―――^―――――^――――ヤぁあああぁ亜ああぁぁ亜あッ!!」
最高の試合ができた。同時に史上最悪の泥仕合でもあった。
分かっていたけど、鏡写しの自分との殴り合いは不毛で、試合は四十分オーバー。
審判も観客もみんないい加減にしろよという顔で見ていた。
笑っていたのは、自分たちだけ。
時間は相対的だ。一瞬だったし永遠だった。いつまでも終わらなくていいと思った。
けれど身体は退屈な物理法則に縛られて、体力の限界を迎える。
終止符を打ったのは、立花纏が取り出した秘密兵器。
「はあッ――」
吸い込むようなテイクバックの動作に、彼方は瞠目し。
――そっか、キミも。
同じものを担った彼女に対する親しみと、唯一の弱点を的確に突いてくる彼女の強かさに、彼方は笑って目を閉じた。
「ドぉおおお―――――――――――らあああッ、死ねコラぁあああ――――――ッ!」
骨身に沁みる、良い一本だった。
これほど無様に負けたら、千紘と愛莉の幻想も綺麗に砕けてくれたはず。
礼が終わると、彼方は最後の力を振り絞って面を取り、仰向けになって倒れてしまった。
準々決勝敗退。程度の低い天井で頭打ち。
それでも大の字になった視界には確かに、晴れやかな蒼天が広がっていた。
頭ももう回らないし、身体も乳酸漬けで動かない。この後試合とかどのみち無理だ。
そういえば立花纏はどうだろうと、彼方は頑張って首だけ動かして向こうを見る。
「……えぇえええー?」
見てすぐ恋人と分かる男に、手を繋いで起き上がらせてもらっていた。
「ず、ずるくないすかぁ……?」
初めての感情だ。恋人がいるなんて妬ましい。
こちとらお一人様を極めて個人戦に臨んで来てるのに。どうなってるんだ惨めすぎる。
「……はーあ。いいよいいよ。どうせカナは悪役だし……」
でもある意味、計画通りではある。甘んじて受け止めよう。
彼方は拗ねて、態度悪くそのまま大の字のままでいることにした。
どうせ不良なんだ。今更何を言われても同じ。
連盟の人に怒られるまで、テコでも動いてやらない。
「なあ、大丈夫?」
そのつもりだった。
ぱちっと目を開いて、彼方は顔を覗き込んできた声の主を見る。
優男だ。中々に整った顔立ち――には興味がなく、目の下に着いた傷に目を奪われた。
垂れネームには、水上の名前。それから藤宮の学校名もある。
藤宮。たった今戦ったばかりの敵の名前だ。
「ふふふ……。カナにとどめを刺すなら今だよ、ミズガミくん」
「み、みなかみです。なあ、大丈夫? 学校の人は?」
「今日はいないよ。カナは、おひとりさま」
そのことを、寂しいことだとは思わない。
誇るべきことなのだと、優しそうな顔立ちの男ににかっと笑いかけた。
「すげーだろ。カナはひとりでも、こんなとこまで来れんだよ?」
「……うん。凄いな。……そっか、だからなんだろうなあ」
目の下の傷を掻いて、彼はくすぐったそうに笑う。
どうせもう会わないし、と一瞬だけ周りを見回して頷いた。
「どうしたの?」
「これ、内緒で。……実は、君に勝ってほしかった。纏さんのこと大好きなのになあ」
寝転んでいる自分に向かって、彼は右手を差し出して爽やかに笑った。
「めちゃくちゃ格好良かった。ファンです」
「……ししし、ありがと」
彼の右手を掴むと温かくて、何だか久しぶりに体温に触れた気がする。
見た目に反して強い力で引き上げられる。今日は人肌が恋しいので、そのまま胸の中にでも倒れこんでやろうかなあ、と考えていたときだった。
「悠ー! 医務室、話通しといたよ。連れてきてって」
「ああ、悪いな快晴。大一番の前に」
「いいよいいよ。条件は君も同じだし」
またまたイケメンくんが走ってきた。ここまで格好良いのが次々来ると価値がない。
今度は、どことなく既視感があった。
首を捻って垂れネームを見るも、秋水の知り合いはいない。名前は乾。……乾?
「あ。……お、お兄ちゃん?」
ひとりっ子なので中々使わないワードを口にすると、快晴と呼ばれた彼の表情が一気に曇る。
「僕は乾快晴であり、お兄ちゃんという名前ではありません」
「いやお前お兄ちゃんだろ……何先生はトイレじゃありませんみたいなこと言ってんだ……」
「君には分からないんだ! あんな奴の兄と呼ばれる辛さが!」
あれだけ強くて綺麗な子を妹に持つと、何かと苦労するのだろう。
横顔を眺めていると、確かによく見れば似ている。
元から他人に興味のない自分だ。噂の類は一切知らない。
あの宿敵に兄がいるのだということだけは、かろうじて聞いたことがあるけれど。
「……そっか。そうだね。最後の計画が、残ってるなあ」
――剣姫ちゃん、倒さなきゃ。
泣いてる暇も寝ている暇もない。引き続き急がないと。
息を吐き出して歩き出そうとすると、膝が笑ってがくっと転けた。
「な、なぬぅ……」
「おい無茶すんなって!」
「だ、大丈夫!? あの、医務室連れてくから」
どうやらもう、今日は完全に無理らしい。人のボディはままならない。
ぐぬぬと顔を上げると、丁度彼らの背後を立花纏が通り過ぎていった。
恋人らしき男と一緒に。いらっ、とした。
「ねえねえおふたりさん。カナに肩貸しとくれよ。医務室までエスコートプリーズ」
転んでもただでは起きない。それが一ノ瀬彼方だ。
剣道では負けてしまったけれど、ここでは二倍勝ってやる。
……あと、たまには。
たまには女の子したい気持ちも、プランク長ぐらいはあったりする。
「ああ、いいよ! ついでに俺竹刀袋持つから、快晴は面運んでやってくれ」
さっと、水上という人は左脇に入ってくれる。
あんまりに躊躇いがなく密着してきたものだから、さしもの自分も少しどきっとした。
一瞬出遅れて、同じように戸惑っていた兄の人も、頷いて右側に入ってくれる。
体格差があるから、なんだか自分が捕まった宇宙人みたいで笑ってしまった。
「悠はそういうところだよね……。女子慣れというか……なんなんだろう……」
「えっ何が? だから快晴だって妹いるじゃん」
「原人を経験に含めないで」
「ししし、キミ妹嫌いすぎでしょ。……カナなんてさぁ」
ある意味、ずっと追っかけしてるのに。
そんな台詞を、なぜか彼方はぐっと呑み込んだ。
追いかけるという言葉を使わない。使うべきじゃない。
身体がなぜかそう言った。
「……近いうち、剣姫ちゃんに試合を申し込もうと思ってるんだ」
命を賭けてさ、と笑って続ける。
これに負けたら、夢を失う。因縁の重みだって纏の比じゃない。
なのにさっきからずっと、気負うどころか心も身体もふわふわして仕方がないのだ。
「ねえ。カナ、勝てるかなあ?」
まるで十年来の友達に、家までの行き方を尋ねるみたいに自然に言った。
「うん。勝てるんじゃないか?」
「体調だけ気をつけてね。準備万端なら大丈夫だよ」
そして二人は、ああすぐ近くだから迎えに行くよというみたいに気楽に答えた。
なんでだろう。初めて会った気がしない。
自分はずっとこの二人を、探していたような気がする。
別れるのが名残惜しい。開いた医務室の扉が、少しだけ恨めしかった。
医務室の先生に自分の身柄が引き渡されると、二人は満足げに頷いて背を向けた。
「よし。じゃあ俺たちは行くか」
「そうだねー。悠も、また後でね」
「おう。あとちょっとだしな」
「ここで転けたら一生恨むよ」
「思ってもないこと言うなよ」
「あはは、まあね。じゃあ上で待ってるよ」
「うん。すぐ行くわ」
観覧席での待ち合わせの話だろうか。二人はとても楽しそうに約束を話す。
新参者だから当然だけど、自分がいてもいなくても同じみたいに。
「ねえ」
そんな扱いをされたことは初めてで、彼方は末っ子みたいに頬を膨らませる。
まさかまだ行かないでよ、なんて言えるわけもないから。
「二人って、強いの?」
話よ広がれと、拙い言葉で後ろ髪を引いてみる。
「こいつよりは強いよ」
「彼よりは強いかな?」
しかし上手くいかず、二人は互いを指差し笑ってじゃれて、扉の外に消えてった。
「……ちぇー。大失敗」
防具を外して、医務室のベッドの上で唇を尖らせる。
どうにも誘惑が上手くない。そういうのを全く勉強してこなかったせいだ。
愛莉ならもっと可愛く、二人をどきどきさせて手玉に取れたのかな。
千紘ならもっと楽しく、二人とわいわい話すことができたのかな。
また会いたい男の子がいるんだって言ってみたら、あの二人はどんな顔をするかなあ。
またファミレスで話したい。
なんだか無性に、二人の顔が見たくて仕方がなかった。
「……宿題、終わらせなきゃね」
こう見えて、真面目ちゃん。遊ぶのはやるべきことをやってから。
一ノ瀬彼方は笑顔でタオルケットを被り、今日できることをすぐに実行する。
「寝るかあ」
体調を整えよう。目が覚めたら、愛莉に乾吹雪との場を設けてもらいに行こう。
それで完璧。……あれ、でも、何か大事なこと、忘れて――。
「……むにゃ」
かつてないくらい、気持ち良く寝た。
起きたら閉会式まで終わっていて、あまりの大寝坊に笑ってしまった。
まるで冷凍睡眠から目覚めたみたい。
ひとりきりの帰り道で、彼方は夕焼け空を見上げる。
「綺麗だなあ」
茜に染まる、大きな大きな入道雲。
全てが終わる、夏はすぐそこ。
× × ×
あの日、医務室のベッドで最高の夢を見た。
『……なーんだ。道理であのとき、ふわふわしてると思ったよ』
それは夢が叶う夢。
月面の上にざくっと旗を突き刺し、呼気で曇る宇宙服を通し、蒼い故郷をじっと見ていた。
そうしていると、肩をとんとん叩かれて彼方は振り向く。
背後に、こんな場所でも変わらない乾吹雪が、胴着姿で立っていた。
本人のようで、本人じゃないかもしれない。
心が描く彼女の表情はいつも無で、相変わらずかぐや姫みたいに美しい。
『こ、こんにちは。はじめまして……じゃないんだ。カナのこと、覚えてます?』
宇宙服越しに話しかける。でも彼女は首を傾げるばかり。
当たり前だ。ここは宇宙で真空だから、音が伝わるはずもない。
『覚えてない。だってあなた、わたしに話してくれないんだもん』
『いっ……!?』
だというのに彼女は、全部を無視して普通に喋った。
それも見たこともない、大福みたいに頬を膨らませたかわいい顔で。
『あっ、そっかこれ夢か! 夢だから……変なことが?』
『ねえ。ひとりごと話さないで。ここにわたしがいるよ』
『え、でも……宇宙で音が……伝わるはずが……』
『ねえ!』
急に彼女の手からぶぉんと湧いたライト竹刀セーバーが、激しく月面を叩いて鳴る。
音がおかしい。でも彼女は、それが当然だというように動じなかった。
『常識の奴隷だね、彼方は。つまらない人』
『……む、なんだい我儘に。夢の主に向かって!』
『そう? わたしが見てる夢かもよ?』
『……あ』
間抜けに声を出すと、くすくす笑う彼女の肩に蒼い蝶がふわりと止まった。
『ほら。あなただって、そうやって決めつけでモノを見た』
『……そうだね』
自分に限って、そんなことはない。
でも足を引っ掛ける奴は、大体みんなそう思っている。
『カナ、特別じゃない。普通の人間だったよ』
『うん』
『でもね。だから特別なものがこの世にあるんだって、どうしても信じたいんだよ』
知らないことを知ってみたい。行ったことのない場所に行ってみたい。
自分がちっぽけな存在だと知るためにこそ、遙かな宇宙の旅に出たいのだ。
どれだけ知っても解明できないロマンが、そこにあると信じて。
『ここだけの話。まだわたしの故郷、誰も来てない』
『えっマジ!? やっぱ陰謀論だったの!?』
『うん。あとね、うちで大きな兎を飼ってるの。見に来る?』
『行く! 行く! 行くぅ―――――ッ!』
邪魔っ気なヘルメットを脱ぎ捨てて、月面をぴょんぴょこ跳ねて彼女の後を着いていく。
景色が白く染まっていく。束の間の夢の終わりが近い。
『彼方』
全てが消えて行く前に、彼女はこっちを振り返って笑い、
『わたしも実は、人間なんだ――』
最後に最も、そんな夢のあることを言った。
× × ×
一ノ瀬彼方は、夏への扉の前に立っている。
過去に通じて幸せな結末を取り戻すための、桐桜学院剣道場への扉。
身に纏うものは宇宙服じゃなくて、剣道着だ。今度は彼女もお気に召すだろうか。
「ありがとな愛莉。口添えしてくれてさ!」
「……い~よ。でもこれだけ覚えてて」
にやりと笑う彼女は、自分とは違う装束を身に纏っていた。
愛莉の桐桜学院の胴着姿に、過去の面影はもう見えない。
「一ノ瀬の味方は、これっきりだかんな。あたし上書き保存の女だから」
知ってるよ。忘れてない。
だってこう見えて、名前を付けてクラウドに永久保存の女だ。
「ししし。うん、そだな。前に進もう!」
最後の扉に手を掛けると、とくんと心臓が静かに告げた。
――そっか。
無限だった燃料が、もうじき尽きる。
過去はここで終わりにしろと、神様が言っているようだった。
彼方は光差す両開きの扉を開き、恭しく礼をして、その地に踏み入った。
顔を上げると、道場の奥に彼女がいる。
相変わらずの無表情。
でもそれは自分が悪かったのだと、夢で彼女に怒られた。
「おいっす! ハローはじめまして!」
厳密に言えば、初めましてじゃない。
でもそれを説くのは無粋だし。
『常識の奴隷だね、彼方は。つまらない人』
面白さの前では、厳密性など些細なことだと教わった。
ずいっと間合いを詰めて、一ノ瀬彼方は吹雪に笑う。
「よっす、剣姫ちゃん。勝ちに来たよ」
「……うん! 上等!」
――ああ。
夢はいつか、本当になるんだ。
輝くような彼女の笑顔を見た瞬間、全てのわだかまりは解けてしまった。
月に、無慈悲な夜の女王はいなかった。そこに見たのは、かわいいひとりの女の子。
――終わらせよう。
古い夢を。そして次は、新しく燃える夢を見たい。
彼方は剣を携え、未来へ向かって歩き出す。
ここにいない千紘にも聞こえるように、消えゆく名前の最期を叫んだ。
「行くぞ剣姫。
一歩、二歩、三歩。担った剣を携えて、宇宙の中心で静かに抜いた。
立ち上がる前の一瞬、彼方は故郷を想って目を閉じる。
変わらぬ景色。けれどここに、新たな色を加えたいと。
「始めっ!」
意志で開いた眼で、未来を観測した。
細かいことは覚えていない。
でも尊大な思い込みでも何でもなく、微塵も負ける気がしなかった。
二本取った。夢を守った。
清船中三本刀が、ここに終わった。
「――――っ。…………っ、―――――っ――――う、―――」
面を取ると、滂沱と涙が流れ出る。
積年の想いが洪水のように溢れてきて、強固だと自負する意志でも止められない。
達成感もあった。でも一番は、それじゃない。
「……………おわっ、……ちゃっ……た……っ…………」
さみしい。さみしい。さみしい。
終わりたくなんてなかった。永遠があってほしかった。
次に進みたい、夢に向かいたいとこんなにも願うのに、どうしても涙が止まらない。
ついに独りでは立てなくなって、一ノ瀬彼方もここで終わりかと自嘲する。
そんな自分の前に、手が差し出される。
これは何だろう。
顔を上げると、遙か遠くにいたはずの乾吹雪が立っていた。
『わたしも実は、人間なんだ――』
夢が、手触りを確かめろと言っている。
彼方は恐る恐る、人差し指でちょんと突いた。
「……ああ。そっかあ」
「な、なに?」
夢は本当になる。
本当にする。何度だってそう言うだろう。
だってこんなにも強い人の手が温かいことは、宇宙人が本当にいることよりも夢がある。
同じ熱量で頑張る人がこうして生きてくれている限り、自分はどこまでも行けるだろう。
「キミも、温かかったんだね……」
恋人繋ぎで捕まえて、彼方は力強く立ち上がる。
最後は笑顔で、めでたしめでたし。
清船中三本刀のおはなしは、これでおしまい!
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