連作短編「蒼天光路」

上:ファミレスの乱


 物心と一緒に、夢を覚えた。

 それは一ノ瀬彼方の、はじまりの記憶。

「ねーねー、パパ。カナからしつもんがあります!」

「おおっ、なんだい?」

「お空があるじゃない?」

「うん。どうして青いのかかい? あれはね――」

「れいりー散乱でしょ。それはもういいの」

「お、おう……。妻よ、娘が天才だ!」

「あなたはただの親馬鹿。どうしたの、彼方?」

「お空の先には、何があるの?」

 学徒同士の間に生まれた子どもは、自然と親の後を追う。

 三つ子の魂百までと言うけれど、それはきっと正しかった。

「宇宙!」

 だって両親も揃って、おんなじ顔をして笑ったのだから。

「宇宙には、何があるの?」

「なんでもあるぞー。ないものがない!」

「強いて言うなら可能性かしらねえ」

「……じゃあ、カナとお話が合うおともだちも、そこならいる?」

 まだ、特別であることに傷ついていたあの頃。

 父と母は俯く幼い自分の頭を撫でて、嘘偽りなく眩く笑った。

「いるさ、宇宙人。彼方より凄いやつもたーくさんいるさ」

「ほんと!?」

「ええ。月の裏側にだってひょっこりいるかも。……だからね彼方、決して腐っちゃだめよ」

 優しい母は知性を湛えた優しい瞳で、幼い自分にも対等に話してくれた。

 それが今でも自分の瞳に、純粋な輝きが残る所以なのだと思う。

「たくさん本を読みなさい。たくさん知らないところに行きなさい。アンテナを張って怠けることなく、上を向いて日々を生きるのよ」

「……あんてな?」

「そうよ。知性あるものに生える、宇宙人との仲間の証」

「あったら毎日楽しいぞ。きっと宇宙人も彼方を見つけてくれるよ」

「……うん。うんっ! 分かった! カナ、はやす!」

 その日から、頭に緑のアンテナを植え込んで生きることにする。でもまだ足りない。

 わくわくで一杯の三つ子の魂は既に、幸福を待つなと言っていた。

「カナ、宇宙にいく! じぶんでいく!」

 けーかく立案。まずは、あの月から始めて。

 そしていつかは、もっと遠くまで行って必ず見つける。

「カナね、宇宙人とっつかまえる!」

「あはは、いいわね。それからどうするの?」

「うん! カナ、宇宙人とけっこんするの!」

「えっ……パパとじゃないの?」

「だってパパつまんないもん」

「あなた、やっぱりこの子天才よ! もう真理に到達してる!」

「ごめんな……一家のデブリで……」

 あの日、愛と光にあふれた夢を見た。

 そして今も、夢を見ている。

 寝ても覚めても、背が伸びても環境が変わっても、この胸に抱く想いは永久不変。

 叫んでも恥じることはない。

「えー、一ノ瀬彼方です! みんな、カナのこと覚えとけ! 一生の自慢になるからさ!」

 一ノ瀬彼方は全速前進、最短経路で一直線。

 光のように、夢へと進む――。


「目標は、宇宙飛行士です。ぜってー飛んでってやるから見ときなっ!」



 あの日、彼方が夢を宣言してから何年が経ったんだろう。

 藤宮高校新女子剣道部の主将である二宮千紘はシャーペンを手放し、指折り数えてみる。

 あれは中学一年の四月で、今は高校二年の七月頭。期末テスト期間の真っ最中。

 ということは引き算をしてみると、この三人の付き合いは、今年で五年目になるらしい。

「あ~! 一ノ瀬、寝てんじゃん!」

「あっ、ほんまや。なーんか珍しいでなあ?」

 いつものファミレスの窓際席で、彼方は向かい側の背もたれにもたれてくうくう寝ている。

 緑の付け髪を着けていたり、じゃらじゃらしたアクセやパンキッシュな服装をしていたり、あとぶっ飛んだ言動が多くて近寄りがたい女だけど、こうして寝顔を見るとかわいらしい。

 五年の付き合いの中で、初めて見る彼方の顔だった。

「許せね~……。あたしらがこんなに勉強で苦しんでるってのに……」

「せやな。これは制裁やな」

 お前らが悪いだろという正論は聞こえない。元清船中三本刀は何かと逆恨みする。

 千紘は愛莉が差し出したブラックコーヒーにタバスコを加えて愛莉に託すと、彼女は泥棒猫のようにするりと彼方の隣に忍び寄る。

 そして毒杯のようにくっと飲ませた。

 発射三秒前。

 スリー、ツー、ワン、ゼロ。

「がはっ、げほっ!? ぅおお、オア―――――――っ!?」

 電気ショックを受けたように彼方が小刻みに身体を痙攣させる。

 久々に見た百面相は面白くて、愛莉と一緒に声を出して笑った。

「はーいおはよーさん」

「目ぇ覚めた? 足りないならちゅーしたげよっか」

「いらねーよっ! ひっでえなもう、カナが何したってんだよい!」

「え~。色々じゃん?」

「余罪しかないでなー? ほら、解散ときとか」

「……そ、そのときのこと引っ張るのは反則じゃんよう」

 コーヒーを飲んだときより、彼方の顔は苦々しい。こっちは笑ってる。

 もうネタに出来るぐらい、みんな前へと進めたということだった。

 彼方は口直しにメロンソーダをストローで啜ると、ほっと一息をつく。

 そして口元に手を当てて、それはもう大きなあくびをし始めた。

「……くぁ。……ねむいねえ……」

「あんた今日ずっと眠そうだね~? 一夜漬けでもしたん?」

「ししし、んなわけねーじゃん。愛莉じゃねーんだよ?」

「うるせっ」

「でも、ほんまにどないしたん? うちあんたが寝てるとこなんか初めて見たわ」

 彼方はいつも生き急ぐ。何もしてないときがない。

 難しい本を読んだり英語以外の語学の勉強をしたり、みんなの上達計画を練っていたり。

 とにかく時間を一秒も無駄にしたがらない、そういう女だった。

「んー。今ねえ、充電期間なの。リフレッシュしながらゆっくり考えてんだよ~う……」

「だよ~うって……、一ノ瀬らしくないね~」

「燃え尽き症候群っちゅーやつ?」

「んにゃ。自分の意志でのびーってしてんの。何もしないを……する…………くぁあ……」

 またあくび。こっちにまで眠気がうつってきそう。

 まさか一仕事を終えた彼方は、このまま緩くて丸い女になってくんだろうか?

「ね~、一ノ瀬。ここ分かんないんだけど。教えてよ」

「おっ任せろ物理か! はい間違えてる!」

「……適当言ってね?」

「適当は愛莉の回答! これ中学の範囲だぜ。しょうがねえなあカナ先生が教えてやろうぞ!」

 彼方の瞳に電源が入る。銀河のように眩く光る。

 好きを語る熱量に、千紘は手で自分を扇いで苦笑する。

 燃え尽き症候群なんて、どうやら取り越し苦労みたいだ。

「これは光のルート取りの問題。屈折をちゃんと考慮すんの。んでんで千紘、ここ単語違えから。屈折はreflectionだけど心が折れ曲がる方はwarpなの。ワープだよワープ!」

「あんたもよー話が跳ぶなあ……」

 彼方は逆側から右手で愛莉のノートにシャーペンを伸ばす。

 ついでに左手の赤ペンで千紘の英文法を添削しながら解説を続けていく。

 器用、というより脳みそが二個以上ある感じだ。

 何かをしながらも、立て板に水とばかりに解説の口調は滑らかだ。

「光はさあ、目的地に到達する無数の道筋の中から、かかる時間が最短になるルートを自動で選ぶ性質があんだよね! これが結構不思議なところがあってさあ」

「……何が不思議なの? そんなん当たり前じゃん?」

「おっ、どしてそう思う愛莉先生」

「だってそんなん、真っ直ぐ進むのが一番近いに決まってんじゃん?」

「あっは、だよねだよね。でも簡単に真っ直ぐ行けない道だと話が変わってくるんだな。ほら、こーいうさ。途中に水があったりしたら屈折するし、邪魔モノがおいてあったら避けなきゃ駄目だし。空気の抵抗でも道が折れ曲がったりする。どうルートを取れば目的地に対して最短かなんて、全部試してみないと分かんなくないかい?」

「うん、それはそうじゃん……?」

「でもね。光は当たった瞬間に、もう最短ルートを結んでる。絶対的に正しくね」

 愛莉のノートに、彼方が光路を描く。

 開始点から放たれた直線は、数々の障害をカクカクと越えて、目的地に辿り着いた。

「これ、フェルマーの原理ってんだ。あ、最終定理とはまた違えかんね! アレを語るには今回じゃ余白が足りねえす。ワイルズ先生の次回作にご期待ください!」

「んんん……? 愛莉さん、ちんぷんかんぷん……」

「なあ彼方。横からやけどうちが質問していい?」

「イエス! どうぞ! 今日は恩を売りに来た!」

「なんでこうなるん? よー分からん。実際にあるげんしょーの話なんやでな?」

「おう! マジであるよ!」

「じゃあやっぱりヘンやわ。これやったら……光が、未来のこと知ってるみたいやない?」

 知らなかったら、つい遠回りのルートを選んじゃったりするはずだ。

 でも、それがないと彼方は言う。

 だったら最初から、光はどれが一番近いルートなのか、初見なのに知ってることになる。

「ししし。……それはねえ! その理由はだねえ!」

 二人して、彼方の頼もしい表情を見つめる。彼女は何でも教えてくれる。

 自分の知っていることなら、全部。

「わっかんねー!」

「お~い!?」「あっはっは、なんやねん知らんのかいな」

「知らないんじゃなくて分かんないんだよ。本当に。何でこうなるのか、えらーい学者さんたちが考えても分かんないまま。ただそうなるからそうなる、としか言えねえの」

 もう「分からない」と言うことを躊躇わない彼方は、穏やかな笑顔でそう言う。

 いくつか説があってね、と語りながら、彼方は緑の付け髪を撫でた。

「観測によって確率が定まるってやつ。千紘たちが見るまでは、全部の道が最短ルートになるかもしれない可能性を平等に持ってる。でも千紘たちの観測がスイッチになって、最短ルートの可能性がひゅって一つに定まるんだよ。難しい言葉で、これを波束の収束、収縮なんてゆー」

「あのさ~、日本語で言って?」

「箱猫」

「ざつい! 諦めんとってや!」

「ししし。つまり、俺が見たもんが結果的に一番近くなるんや、っていう説。……もういっこの説はねえ。カナ、あんまり好きじゃないんだけどね……」

「……またそういう珍しいこと言うじゃん?」

「今日はなんかおかしいでなあ?」

「んへへ。ちょっち身も蓋もねえというか……身につまされるところがある説だからさ」

 そう言うと、彼方は目を細めて窓の外を見た。

 今日は、あの日と違って雨は降っていない。

 心地の良い夏の夕陽が、彼方の綺麗な横顔を照らしていた。

「並行世界に、分岐してるんだって」

「へ?」「へーこう世界って……あれ? パラレルワールドっちゅーやつ?」

「お。千紘こそ今日はらしくないねえ。イヤに冴えるじゃん」

 喉を鳴らして、彼方は嬉しそうに笑う。

 意外とうちの野郎共が、この手の話は好きだ。特にきのっち。

 たまに悠とかと宇宙人の話をしているのをほけーっと聞くことがあった。

「宇宙が、無数に分岐して生まれてるんだよ。光が最短ルートを結ばなかった世界も、どこかには生まれてて……カナたちが観測してるのが、たまたま最短ルートの世界だって説」

 それは、後ろ向きな話なのか? 千紘にはいまいちピンとこない。

 むしろ、夢のある話なんじゃないだろうかとも思う。

「……だからね。分岐点の果てに、この世のどこかにはあるかもしれないんだよ」

 あ、と声を上げる暇もない。

 彼方はさっきの罰ゲームコーヒーを手に取ると、ぐっと飲み下す。

 声は上げず、苦渋に満ちた顔を作って背けて彼方は言った。

「夢から、遠回りした世界がね……」

 すぐに、千紘は後ろ向きだと彼女が語った意図を知る。

 自分たち三人にとって、分岐点とは、あの――。


 ――ばぁん! 


 と、両手で突如テーブルが叩かれる。

 お約束で、千紘と彼方がぴょこんと椅子から跳ねた。

「あのさぁ!」

 叩いたのは、愛莉だった。

「あたしからも質問して~んだけど! なんかもうむずむずすんの!」

「う。な、なんだよい、愛莉……」

「あんたなんで今日こんな遠回しな誘いしてきたの? 勉強会とか……不自然!」

「せやなっ。ええ加減マクラが長いねん! ダレてきた! 大体あんたは難しい話好きかもしれんけど、うちらはアホやからそういうのはどうでもええねん!」

「そ、そんな! 友達に勉強教えてあげよって……カナの善意じゃん!」

「あんたにそんなもんあるわけね~だろ! この超絶自己中が!」

「ほんまや! 中学んとき頼んだら『アリとキリギリスって知ってる?』ってだけ言うていっつも見捨てて帰りよったくせに!」

「あ~ほんっとそれ! 『勉強はひとりでするものだよ? 勉強会なんて非効率じゃん』はいこれ絶対言った! 言ったね!」

「む……昔のことねちねち言うなよい! 二人とも馬鹿なんだからさらっと忘れろよなッ!」

「あぁっ!? アホ言うたぞこいつ!」

「正体現わしたなこのド外道が~!」

 初めて、平等な喧嘩をした。そのうち店員さんに止められた。

 次やったら貴様ら出禁にするぞという氷の目線つきで。

「……で。何企んでんの。何が狙いなんだよ~?」

「カ、カナが友情に見返りを求めてない説はないんすか……?」

「そんなパラレルワールドはあれへん。第一、さっきボロ出とったやんけ」

「ほっ?」

「イエス、どうぞ、今日は恩を売りに来た、やろ? もうええねんはよせえ」

 二人で睨んで問い詰めると、彼方がううっと身体を引く。

 そして観念したように、身体を縮こまらせて下を向いた。

「……あの、ね」

 もじもじして、伏し目がちになったり髪をいじいじし始めた彼方に、二人して瞠目する。

 誰だこいつ。ひょっとして、一ノ瀬彼方じゃない?

「ほ、本日はカナから、大切なお願いがあります……」

 いや違う。本人だ。

 あの嵐の日をなぞるような言葉を選べるのは、彼方以外にありえない。

「な、なんだよ~? あたしもう泣かないから! 遠慮しないで頼ってよ!」

「せ、せやせや。うちらが力になれることやったら何でも聞いたるで!」

「……あれでも、あたしらに出来て一ノ瀬に出来ないことなんてあったっけ……」

「……せやな。あれへんな」

「い、いや。ふ、二人にしか頼めないことなんだよね……」

 照れ笑いをする彼方は、所在なさそうに緑の髪をいじいじしている。

 ぴょこんと出た耳も、ほんのり紅くなっている。……かわいい。

「いひひ、なんだよ~? 恋か? 恋なのか?」

「愛莉。それほんまに思って聞いてる?」

「いや五億パーセント冗談だけど。清船中の伝説じゃん。『性欲なら他の女の子に委託してくんねえかな!』ってバサッと斬りまくるやつ」

「ああ……あれな……。せっかくこんな変人に寄ってくれたのにな……」

「ある意味吹雪よりひで~よね。いやー、そういえば吹雪にもあんな時代があったんだよな。もうすげー昔のことみたい。懐かしいよね~!」

 二人でにこにこ笑って、彼方と、その後ろにある窓の外の景色を見る。

 解散の時とは違って、それはそれは美しい夕焼け空だ。

 もう雷が落ちる心配をしなくていい。


「しょ、紹介してほしい男の子たちがいるんだけどもさっ!」


「「ぎゃぁああああ―――――――――――――――ッ!!」」

 なのに今まで経験したどんな天変地異よりも衝撃的な雷が、またまた二人に落ちた。


 × × ×


「ぬぬぬ……。あいつらめ、カナにだったら何言ってもいいと思ってるだろっ」

 彼方はその夜、自室で膨れて漫画を閉じた。

 横山三国志全六十巻、再登頂完了。やっぱり何度読んでも面白い。

 でも読み終わると、ファミレスでしまっていた感情がまたふつふつと湧いてきた。

 彼方は勉強机に不似合いな高級ワーキングチェアから立つと、本棚の前に建設された本タワーの一番上に、今し方読み終えた漫画を置く。

 もうこれ以上部屋に本棚を作れないので、こうなってしまうのは仕方ない。

「カナでも男の子に興味持つことぐらいあるっての……」

 いや初めてではあるけども。あんなに驚かなくたって。

 彼方は部屋でも外さないお気に入りのエクステを撫でつつ、椅子に戻って腕を組む。

 基本的にひとり上手のひとり好きだ。

 だから、誰かに会いたいなんて思うことは少ない。

 でも少ないからこそ、それを大事にしたいと思うようになった。

「……ししし。にしても良かった。引き受けてくれて!」

 ご機嫌にくるくる椅子を回して、彼方は左右に身体を揺らして微笑む。

 計画は順調だ。

『あのー、期待外れでわりいんだけど恋じゃないよ? カナ地球人とは結婚しないから』

 そう説明したあと、彼らと一度だけ話した経緯を説明すると、二人の表情は輝いていった。

 喜んで紹介してくれるという。しかも、テスト終わりの明日。

 藤宮で合同稽古を開催してやるから、そこで願いを叶えてくれるとのことだった。

『あ~でも、そん代わり条件出すかんね!』

『じょ、条件?』

『ふたりのこと、調べるんは禁止や! 当日のお楽しみにしとけ!』

 二人は耳元で何やらこそこそと相談してから、そんなことを言う。

 何かロクでもないことを考えているなと、すぐに分かった。

『あんさー、カリギュラ効果って知ってる? カナそーいうこと言われると余計に――』

『そう言うなって~。あんた、うちらのスローガン忘れたん?』

『せっかく手拭いにも載っけてんで。ていうかあんたが決めたんやん!』

 くすりと笑って、彼方は勉強机の正面の壁に立てかけたコルクボードを見る。

 もう頭に巻くことはない、清船中学剣道部の手拭いが画鋲で貼られてあった。

 創部当時に彼方が定めた四文字の精神は、今も不滅だ。

 冷暖自知。

 その意味をまだ二人が覚えてくれていて、胸が温かくなる。

「……そうっすね。自分で確かめなきゃ面白くねえもんな」

 千紘と愛莉に諭されるのは、いつ以来だろう。そういえばあれ以来かもしれない。

 中学二年のとき、初めて乾吹雪に負けたあのときの――。

「くぁ、あ…………」

 またまたあくび。

 どうやら充電期間はまだまだ終わらないようだ。

 少し早いが、明日は消化試合の試験と、それから待望の合同稽古が待っている。

「寝ちゃお…………」

 備えよう。藤宮に行くのだから。

 彼方は寝る準備として、エクステを外しにかかる。そのとき、

 ――ぴりり。

 まるで電波でも受信したような痺れが、触覚のないはずの髪に走った。

「……ふふふ。宇宙人でもいんのかなあ?」

 思わず笑って、そんな夢を独り言つ。

 なんだか今日は、やけに昔のことを思い出してアンニュイになってしまう。

「おやすみぃ……」

 その日、彼方は夢を見た。

 懐かしくて甘くて、何より苦い夢。

 しかし自分はアンドロイドではないのだと証明されたようで、嬉しかった。


 × × ×


 重大な分岐点から、たくさんのパラレルワールドが生まれているらしい。

 一ノ瀬彼方は、そんな未練がましい考え方が嫌いだった。

 もしもの世界に意味はなくて。

 自分の意志を持って観測した道だけが、結果的に正しくなる。それでいい。

 光のように最短経路を最高速度で駆け抜けて、必ず夢へと到達する。

 過去を振り返ったり、ありえた可能性を後生大事に持つなんて愚かしい。

 有限な時間を最大活用する、冷酷な機械のような存在として生きたいと願った。

 そして彼方には、それができた。

 できないことはなかった。後悔したこともなかった。

 やがて自分という領域から手を広げ、他人を使ったプロジェクトを思いつく。

 部活の立ち上げ。宇宙飛行士としての身体訓練。リーダーとしての経験蓄積。

 ――やるか。運動神経があれば、部品は誰でもいい。

 Aさんでも、Bさんでも。

 二宮千紘でも、三刀愛莉でも。誰でも良かった。

 特別な名前を定義して、魂を与える必要はなかったのだ。

 それが愚かしい思い上がりだと思い知る、アクシデントに出会うまでは。


『どォッ、たぁああ―――――――――やあッ!!』


 中学二年の夏だった。

 剣姫――乾吹雪が二本で自分を屠る。信じられないほど簡単に。

 彼方は月からかぐや姫を迎えに来た軍勢を見た凡人のように、終わった後動けなくなった。

 ――無慈悲な、夜の女王がいる。

 こちらを人だと思っていない氷の瞳は、まるでブラックホールのみたい。

 夢へと続く光路が、あの日初めて、途絶えて見えなくなってしまった。

『……あ。……むりだ、これ……』

 自分の辞書になかったから、この気持ちを理解するのに時間がかかってしまった。

 でも振り返って考えた今なら分かる。

 心が呑み込まれ、黒く塗りつぶされてしまうようなあの感覚。

 あれを人は、挫折と呼ぶのだろう。

『でも来年はイケるよね?』

『せやな! 彼方やったら来年勝てるやんな?』

 残念会のファミレスで無遠慮に、二人は笑う。

 いつも自信満々、大言壮語だと彼方は言われる。

 それは自分の中に、明確な成功のイメージがあるからだ。

『……ん。どう、かな。……分かんね。ちょーっち、厳しいかもねえ』

 でも言えなかった。

 根拠のない嘘をつくのは好きじゃないから。誤った判断はリーダーの罪だから。

 建前でもあり本音でもあるそんな思いが、言葉を黒く濁させた。

 しかし二人はそんなの知るかと――両側からばしんと、頬を叩いてきた。

『っ、痛ぁ――――!?』

『なに眠たいこと言うてんねん、彼方のくせに! タバスコ足りてへんのと違うか!』

『オアー!? カナのメロンソーダが――っ!?』

『いーから肉食えって肉~。奢ってやっから! 二宮と!』

 驚いて、しばらく口が利けなかった。

 二人が自分に刃向かうなんてありえない。

 

 そう、心を操縦してきたのに。

『あと一年あるんやぞ! 彼方なら、絶対できる!』

『やれるって。打倒、剣姫じゃん?』

 自分の意志を持ち、計算外に動き出した二人の表情。

 その向こうに、呑み込まれて消えたはずの眩い光路が一筋、見えた気がした。

『……ししし。よし、やってやっか!』

 暗闇から漏れてきた熱量が、彼方の瞳を再起動させる。

 ブラックホールにだって抜け道はある。かつてはホーキングだって間違えたことだ。

 夢へと込めた熱量が、消えてしまうだなんてありえない。

『じゃあまずは、カナたちもなんかカッチョええ名前付けようぜ!』

 本当は、剣道じゃなくても良かった。

 本当は、千紘と愛莉じゃなくても良かった。

 でもこれからはもう、違うから。

 他とは違う特別の証に、これからは魂を宿すのだと、愛すべき名前を定義した。

『じゃあ決定! カナたちは……清船中三本刀!』

 旗印に、担ぎ胴を創り出して駆けていく。……楽しかった。

 不思議だった。喜びは達成の中にしかないものだ。

 なのにどうして、過程そのものが楽しいのだろう?

『ししし。わっかんねー!』

 言ったらはたかれてしまうから、禁断の言葉はひとりで夜空に投げて笑う。

 やってみなければ分からない、なんて無責任で無計画な言葉を。

 少しだけ好きになりかけていた、一年間の結末――。


『どォッ、たぁああ―――――――――やあッ!!』


 何も変わらなかった。

 まるで一年前から数秒しか経っていないように、剣姫の一刀が自分をさらった。

『全国中学剣道大会県予選、女子団体の部。優勝は市立清船中学校に決定致しました!』

 勝つことも負けることも、最初に観測した通り。

 悲しいほどに、自分が見通した未来は無謬だった。

 心の在処を探すように、彼方は胴を着けたまま心臓を押さえてみる。

 まるで機械になってしまったように、鼓動を感じることができなかった。

『次、次こそ完璧に勝とや! 彼方!』

『そーそー。まだまだ、高校があるって!』

 次は、ない。

 ここで三カ年計画はおしまいだ。

 あの日垣間見た光路は幻で、なら障害を避けて迂回する。

 それが夢――宇宙へと繋がる最短経路なのだから。

 彼女たちは切り捨て置いていく。

 漏れてしまった計画は、後でひとりで遂行するから。だから。

『……そっすなあ。高校で、やるしかねーな!』

 嘘でも真実でもないこの言葉を吐くことを、せめて許してほしかった。

『高校どこがええかなー? うちらも勉強せーななあ!』

『う、うぅぐ……! いやでも! 練習よりマシっしょ! あたしやるかんね!』

『よっしゃ、じゃあ目標決めよか! そっからやること逆算するんやでな?』

『ねえ、一ノ瀬。あたしらって頑張ったらどこまで行けんの?』

 そんな輝いた目で見ないでほしい。

 熱く跳ねた声を聞かせないでほしい。

『あんたにうちらのレベルまで降りてこいとは言わんから!』

『今度はさ~、あたしらに頑張らせてよ!』

 そうやって光り輝くように、成長した姿を見せないでほしい。

 自分の光路から外れた道を、夢と結んでいかないでと、叫んでとどめを刺してやるべきだ。

『星蘭は、何があっても行けないよ』

 先延ばしせず、損切りは早い内に。切り離しのタイミングは適切に。

 宇宙へと至る道は、緻密な計算こそ全て。

 保留という選択肢は、何より愚かなはずだった。

『……でも藤宮くらいなら、頑張れば射程に入るかもね』

『よっしゃ、やるで! うちやるで!』

『い、一ノ瀬、勉強教えてね!? あたしやるから! 明日から早速さ~!』 

『……うん。いいすよ。全国大会が、終わるまでね』

 冴えたやり方を選べなかった、たったひとつの愛しい誤算。

 一ノ瀬彼方は、人間だった。

 ……人間だったのに。

『えー、今日はお二人に、大切なお知らせがあります!』

 愚かしいにも程がある。

 一体、どうしてだろう。

『本日をもちまして、清船中三本刀は解散しまーす!』

 どうして自分はあの日、止まれない機械なんかになってしまったんだろう――。




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