特別短編「決戦前夜」その2
× × ×
「よし。ここなら広い。ここ寄ろうぜ、史織」
「おっ、いいですよ。先輩は結構本読むんですか?」
服屋を堪能したあと、エスカレータで階を二つほど上がると、悠は何かに納得したように大きな本屋さんを指差した。ところで途中、「ここは狭いから駄目」とか「一本道だからキツい」とかよく分からない独り言を言っていたのは何だったんだろう。
「いやー、活字はあんまり。漫画はそこそこ読むけどな。史織は?」
「私は何でも読みますよ? 小説メインですけども」
「おっ、じゃあオススメ教えてくれないか? 朝読のとき読んでるやつがそろそろ終わりそうでさ」
「わ、分かりました! どーんとお任せです!」
意気揚々と、悠を連れて文庫本のコーナーへ歩いて行く。これは個人的に大ときめきイベントだった。好みの服を悠に着てもらうよりも、よっぽど。
良い。これは良いぞ。私色に染めてやる。
史織の眼鏡が、ソムリエの如く光り出す。
「ところで先輩はどんな本が好きなんですか?」
「んー……。ミステリーは寝る。恋愛はキツい」
「えっ……。れ、恋愛がお嫌いですか?」
「嫌いっていうか何も共感ができない。なんでこいつは俺なんか好きなんだろうって」
「主人公に感情移入して読むタイプの人か……」
にしても毎度この人の自己評価の低さは何なの。一体どこから来てるの。
「あ、でも昔読んですごい共感した本あったよ」
「おお、それは良いヒントですね! ちなみに?」
「うん。『人間失格』って本なんだけど」
駄目。手記の一行目から『恥の多い生涯を送ってきました』で始まる。
「先輩は病気です」
「なんでだよ……いいじゃん太宰……。でもメロス読むといっつも王様に共感しちゃう」
「治療! 治療が必要です! 明るい恋愛を読みましょう! 苦手を放置するのは良くないですよ!」
「……それは一理ある」
知ってる。先輩はこう言うと丸め込めるのだ。
史織はうんと頷くと、平台の上から一冊ポップなのを手に取った。「これとかいいですよ」
「『夜は短し歩けよ乙女』。何か聞いたことあるかも」
「面白いですよー。京都が舞台のお話で、なんだかキュートなお話なんですよ。なむなむ」
「なるほど。じゃあこれにするよ」
「えっ? そ、そんな簡単に決めていいんですか?」
「史織が面白いって言うんなら信じる」
なんか凄くじんと来た。信頼されてる。嬉しい。
「お前、つまんなかったら凄いディスりそうだし」
「ちょっとどういう意味ですかそれっ!」
そっちの信頼かい。怒りながら悠に本を手渡した。
「ちゃ、ちゃんと……これ読んで、勉強ですよ?」
ところで、この本は『先輩』が黒髪の乙女こと『後輩』に恋してアプローチするお話なのだ。
長い黒髪をふぁさっと払って、悠にアピールする。
「やっぱ髪長いな史織。剣道の邪魔じゃない?」
「……うるさい。やっぱり勉強が必要ですねっ!」
「な、何急に怒ってんだよ? レジに――」
言葉の途中で、また悠の顔が張り詰める。にやりと牙を見せて嗤った。
「悪い。俺他の本見に行くから、これ買っといて。お金渡すから」
「え? じゃあ、私も一緒に付き合いますけど……」
一体、この表情は――
「いや。凄くどすけべな本だから俺ひとりがいい」
「非常に恐縮なんですが死んで頂けませんか?」
「気持ちいい。じゃ、よろしく」
荷物と千円札を置いて、悠はどこかへ駆けだして行く。史織はぶすっと膨れた。
「全く! 乙女の前で!」
さっきといい、肝心なところでなんなんだ!
× × ×
「あれ? 水上、どこ行ったのかしら」
参考書コーナーの本棚から半身で標的を覗き込み、纏は全く黒ではない髪を触りながら首を傾げる。
「史織はレジ……。じゃあ、トイレか」
千紘葉月は途中でなぜか消えてしまったが、奴らは四天王の中でも最弱。この立花纏は手強い。
ちなみに四天王最強の円香は、気になる女性誌やら占いの本やらがあるというので一旦分かれた。
どっちも興味ない。恋愛は自己流でいいし占いは気にする意味が分からない。運命は自分で決める。
「にしても、でかい本屋ね……。品揃えがいい」
史織が会計をしている間はフリータイムだろう。トイレから奴が帰ってくるまで、ちょっと本を見る。ふと、目をつけていた英文法の参考書を見つけて棚から手に取った。ぱらぱらと開く。
「うん……。中々、使えそうじゃない」
「尾行の参考にですか?」
血が凍る。
右隣を振り向くと、コピペで貼り付けたような無機質な笑顔で悠が立っていた。……しかし。
「あら、水上。偶然じゃない。あんたも参考書探しに来たの?」
「……へえ。さすが纏さん。ちっひとは違うな」
慌てず、動揺を隠して参考書を棚に戻す。竹刀袋を片手に持っているのと、防具袋を下に置いているせいでちょっと手間取ったが、まだ想定内。戦える。
「纏さんにいい参考書を見つけたんですよ」
「え? あんたがあたしに?」
「はい。ぜひ参考にしてほしくて」
「はっは、釈迦に説法でしょ。いいわよ、見てあげようじゃない!」
「はい」
裏っ返しにして、大判の本を渡される。……やけにでかい。重い。雑誌みたい。一体これは何の本?
純粋な好奇心で、表紙側にひっくり返す。
それがいけなかった。『ゼクシィ』
結婚雑誌――!
「しまっ――」
かしゃりという無情なシャッター音が、まるで日本刀が脊髄にぶっ刺さった音のようだった。
「おや、頬が赤いなあ。未婚の生徒会長さん」
「あ、あんた……まさか……っ」
「『偶然』本屋で会った纏さんが結婚雑誌を見ていたところを『たまたま』写真に収めただけですね? あれ、俺『なぜか』部長にこれを送らないといけないような気がしてきたなあ……」
「あ、あ、あ、くぁあ……っ」
身体が羞恥に震え出す。日本語が出てこない。
「効きますよねえ? 部長の前でクレープ食うのも女子っぽくて恥ずかしいとか言ってたらしいし」
「……わ、分かった。分かったわよっ! 何でもするからそれ消しなさいよ!?」
「その言い方興奮しますね。……どうしてやろうか」
あ。終わった。
絶望に打ちひしがれていると、悠が口を押さえて静かに笑い出した。史織に見つからないように。
「冗談ですよ。でも、今日は帰ってください」
そう言うと、悠はこっちに見えるように画面を出して、すぐに削除ボタンを押した。
「え、えらく簡単に消すのね……?」
「はい。その方が効くんで」
携帯をしまって、悠は目を見てにっと笑う。
「俺は筋を通した。だったら纏さんも通しますよ」
「……あんた、私のこと分かってきたわね……っ」
「分かりますよ。部長の相棒なんだもん」
ああもう最悪。弱点をちゃんと突かれた。
そんなことを言われたら、これ以上何もできない。
「……帰って試合に備えるわ。悪かったわね」
「はいはい。ていうか纏さんは部長とデートしてろ」
「……っさい馬鹿。集中の邪魔したくねーのよ」
「俺のところには来るのに。愛だなあ」
それじゃあ、と言って悠は背を向ける。
「あ、水上。……言っとくけど、遠慮なんてしちゃ駄目よ?」
この馬鹿とうちの馬鹿が順当に進めば、乾快晴の前に準決勝で当たるはず。だから色々気にしがちなこいつに、ちょっとばかりの老婆心。
「まさか。誰に言ってます?」
そう思ったけれど、やっぱり杞憂か。
振り返った悠は、晴れやかな笑顔をしていた。
「部長と纏さんとこの子ですよ。したくても、できません」
「うん。よろしい!」
そういうわけで。あとは、若い者同士に任せた。
× × ×
「眼鏡屋さんに試着に来ると、いつも微妙な気持ちになっちゃうんですよね」
「なんで?」
「目が悪すぎて、新しいのかけても似合ってるかどうか分からないんです……」
「ええ……」
そして大概眼鏡屋に寄るときは、コンタクトつけてない。鏡にぼやけた虚像を見て、見切りで「多分似合ってるだろ」で新しいのを買うことになるのだ。
例によって今もそう。史織はふたりで寄った眼鏡屋で、微妙な気持ちで色んな眼鏡を試着していた。
「似合ってます?」
「素直に言っていいのか?」
「……その質問がもう答えになってませんか」
「んー、悪い。でもなんか、今の赤い眼鏡が一番史織って感じがするんだよ」
似合っていると言われるのは、素直に嬉しい。試着している青いやつを外して、自分のものをかけた。
「うん、史織になった」
「まるで眼鏡が本体のような言い草ですね……」
「だって青いとまるでクールみたいじゃん? 黒いと普通にいい人みたいじゃん?」
「じゃあどっちも似合いますよね?」
「眼科より先に脳外科だよな」
「どういう意味ですかっ! 先輩こそお医者さんに口見てもらえばいいんじゃないですか!?」
なんでこの人は自分相手だとこんなに口が悪くなるんだ。乾吹雪にはあんなに丁寧にするくせに。
むかつくから、えいっと今までかけていた黒縁の眼鏡を悠にかけてやる。
「お? 似合うか?」
「……し、知りません」
「はは、気ぃ遣うなって。素直に言っていいのに」
――言えない! めっちゃタイプっ!
でもでも、せめてこれだけは逃がせない。史織はポケットから携帯を取り出し、すぐに眼鏡姿の悠を撮った。「げ、げっとー! かかったな!」
「……まさか同じような手ではめられるとはな」
「えっ?」
「何でもない。撮るのはいいけど誰にも見せんなよ」
するわけない。そんな勿体ないこと。
こくこくと頷いていると、悠は鏡で眼鏡姿の自分を見てうーんと唸る。
「やっぱ似合わないかな。吹雪にも言われた」
「……は?」
なんで乾の名前がここで――とちょっと不機嫌になるが、思い出した。この人は奴とのデート中、眼鏡屋に寄るがてらラインを寄越してきたのだ。
あいつといるのに、自分のことを思い出して。
「あ、あの!」
「ん?」
「わ、私は結構。似合ってると、思いますけど……」
奴には負けてられない。ちょっと照れて赤くなってしまったが、ちゃんと目を見て言う。
そうすると、悠は目を細めて笑ってくれた。
「ありがとう。……まあ、今後PC眼鏡とか検討してみるかな。ちょっと高いから今は無理だけど」
「そ、それは凄くいいと思います! ほら! 目に優しいですし!」
私の。史織はぐっと拳を握りしめる。
そうしていると悠が眼鏡を外してしまった。とても勿体なくて、ついがっかりしてしまう。
「……あ。目に優しいで思い出したけど、史織、剣道のときのコンタクト、ちゃんと度合ってるか?」
「え? ……合ってると思いますよ。あ、でもどうなんだろ。中三のとき測った度で買ってますね」
「一回、ちゃんと測っといた方がいいんじゃないか? 中々時間ないだろ?」
「まあ、それもそうですけど……。ちょっと、時間かかるかもしれませんよ?」
「ああ、いいよいいよ。俺一瞬うろついてるから」
言うが早いか、返事を聞かず悠が店員を呼ぶ。口を挟めず、視力を測り直すことになってしまった。
「じゃ、終わったら携帯で呼んでくれ!」
「あっ、ちょっと、先輩っ!?」
今度は防具一式を持ったまま、悠がどこかへ駆けだしていく。それで、ついに気付いた。
さっきから悠は、ひとりになりたがるときがある。
「……私といるの、つまんないのかな……」
変なの。
眼鏡が曇っていないのに、少し視界が霞んだ。
× × ×
「……あ。ダメだー、見つかっちゃったな」
近くの雑貨屋さんでウインドウショッピングがてら眼鏡屋の方を見ていた円香が、異変を察知して苦笑する。こっちに来てるな、あれ。
ひとりひとりみんなが帰っていったのも、薄々感づいていたがこういうことなのだろう。ナイト様として百点満点すぎる。
円香は悠が来るルートを先回りして、眼鏡屋から死角になる棚の陰で彼を迎えた。
「えへへ。見つかっちゃった」
「……くー。他はみんな暗殺できたのに」
「いやー。水上くんも隠す気なかったでしょう?」
「……お見事」
片目を瞑って彼は苦笑する。ちょっと楽しみだった。「それで、わたしはどうやって追い払ってくれるのかな?」
いっつもいじめているから、たまにはいじめられてみたい。我ながら性格悪い。まあ他人のデートを尾けている時点で明らかなのだが。
わくわくしていると、しかし彼は首を振った。
「いや、もう何も思いつきませんでした。幸村先輩、弱点ないから」
「えー。つまんないなあ」
「はは、そうです。つまんない奴なんで、俺は」
そう言うと、彼は苦笑してぺこりと頭を下げた。
「今日のことは何も見なかったことにして、帰ってあげてくれませんか?」
「……もう。頭まで下げちゃって」
「うーん。すいません、カッコ悪くて」
とんでもない。むしろ逆につぼ。
なんだかんだちゃんと弱点を突いてくるところが、天才なんだなあとしみじみ思う。
「あんな奴なんですけど、一応、恩人なんで。今日は何も考えずに楽しんでほしいんですよ」
「……うん、わかった。えへへ、ごめんね」
いけない子だ。反省。
でも最後に、これだけは聞いておきたい乙女です。
「ねえねえ、今日は水上くんから誘ったの?」
「はい。前にちょっと悪いことしちゃって、ようやく埋め合わせしてるところです」
「……え? それだけ?」
「それだけですけど、他に何の理由が?」
がっかりしたような、ほっとしたような。
大きく息を吐いて、円香はかぶりを振る。
「なんていうか、水上くんは水上くんだねえ」
「……褒め、られてる?」
「うん。君は今のままでいいよ」
飽きなくて。もっと状況を面白くしてほしい。
そういう意味での言葉だったのだけど、彼はなんだか違う意味に受け取って、柔らかく笑った。
「はい。俺も、今の俺が一番いいです」
「……そっか。じゃあ、わたし帰るね」
「はい。俺は本当にトイレ行きたくなってきたんで、寄ってから奴の元に戻ります」
ぺこりと頭をまた下げて、彼は歩いていく。その途中で、一度振り返った。「あ、幸村先輩」
「ん? どうしたの?」
「言っときますけど、俺が色々やってたことは史織には内緒ですよ」
「……格好付けだなあ。おばかさん」
「男の子なんで」
それだけ言って笑って、悠はたっと駆けだして行ってしまった。そういえば、試合前の激励の言葉を忘れてしまった。しまった。
「まいっか。試合が終わってからにしよ」
とりあえず内緒にしろと言われたので、史織の連絡先を開いて受話器のボタンをタッチした。いやあ、すみませんね。
「えへへ。女の子なんで」
男の子に内緒で、暗躍してあげましょう。
× × ×
視力の測定が終わり、眼鏡屋から出て悠と連絡を取ろうと携帯を取り出した瞬間、着信が来た。
「えっ? 円香先輩? ……もしもし?」
『あっ、史織ちゃん。えへへ、デート中ごめんね? 今、水上くんそこにいないから、ちょっとだけ話してもいいよね?』
「……なっ、に……ぃを……うぅうう?」
なんでバレてる? 全部バレてる!
脳から煙を上げて奇声を漏らしていると、電話口の向こうでけらけらと悪魔が笑った。
『だって道場から明らかにおかしいんだもん。バレバレだよねえ』
「ふぁうあっ……、で、でも! なんで今先輩が、」
『えへへ、尾けてた☆』
「『尾けてた☆』じゃないですよぉ―――っ!?」
待て待て待て待て。これは、ひょっとして。
「もしかして、ほ、他のみなさんも……」
『んーん。みんな、水上くんに追い払われちゃった』
「えっ……?」
『多分ひとりひとり、ずばばばーってね』
そんなの、全然知らない。言ってなかった。
しかし、そう言われると思い当たるような行動がいくつもあって。もしかして、さっきからやけにひとりになりたがっていたのは――。
『気付かなかったでしょう?』
「……はい」
言葉が継げないでいると、彼女はまるで母親のように優しく、わたしが告げ口したことは内緒だからねと笑った。
『ずっとお姫様してるのも気持ちいいんだけどね。でも史織ちゃんは、それじゃだめ』
「……え?」
『だってこのままだと史織ちゃん、ただの後輩で終わっちゃうよ?』
ぐさりと容赦なく突き刺して、彼女は笑う。
『史織ちゃんも、もっと見合うだけの女の子にならなきゃね。わがままでかわいいだけだと、振り向いてもらえないよ?』
「……はい」
『全部分かった上で、知らない振りしてあげようね』
それから、と彼女は言葉を続ける。
『たまには何をしてくれるかだけじゃなくて、何をしてあげられるかも考えてあげること。分かった?』
「……はい。ありがとうございます」
『えへへ。以上、お節介ストーカーおばさんでした』
優しくて痛い愛の鞭が、身体に沁みる。
でも貰えるだけありがたいなあと思ってしまって、自分も剣道部に染められたなと笑ってしまった。
「頑張ります」
『うん。それじゃあ史織ちゃん』
水上くんの代わりにあなたに、と言って。
『健闘を祈る!』
電話が切られると、ちょうど悠が戻ってきた。
円香はもしかして、近くにいたのかもしれない。
「よっ。どうだった? 視力は」
「……はい。見る目は、確かみたいです」
じっと、優しく笑う彼の顔を見る。すっとぼけて首を傾げているのが、愛しかった。
「さて、どうする? 明日早いしそろそろ帰るか?」
「……いえ。最後に、ひとつだけ付き合って下さい」
深瀬史織は、要領がいい女。一度言われたらすぐできる。
「私が、行きたい場所があるんです」
――最後に、あなたの喜ぶ顔が見たいから。
× × ×
「ありがとうございました。また、来ます」
史織が先に武道具店から出て、星空を見上げながら待っていると、悠もそう言って出てきた。古ぼけた引き戸ががらがら閉まる。
振り向くと、悠が新しい竹刀を一本持っていた。どうしても贈らせて下さいと、買ってあげた竹刀を。
まあそれは置いておき。店主にタレコまれたぞ。
史織は似合うと言われた赤い眼鏡から、灼熱悋気光線をびびびと飛ばす。
「乾と一緒に来た武道具店に私を連れてくるとは、いい度胸してますね先輩も」
「ええ? 別に誰と来ようが関係ないだろ?」
「ありますよ! 大ありですよっ!」
全然ぴんときてない顔。全く。
「先輩って、ほんと先輩ですよねー」
「それ、今日言われたの二回目だな」
「……二回目?」
「あ。いや、なんでもない気のせいだ」
嘘つけ。絶対部員の誰かだろ。
さっきまで気付かなかったことが、途端に見えるようになる。まあ、解答ありきだから当然なのかもしれないけれど。
苦笑し、史織は悠と並んで夜の帰り道を歩き出す。
「今日、一番楽しそうでしたね。ここが」
「……まあ恥ずかしながら、落ち着いちゃったよ」
やっぱり、先輩は先輩だ。
ひとつ年上で、でも子どもっぽいところがあって。
「ごめんなさい、今日。大事な試合の前の日に、連れ回しちゃって」
それから時々、信じられないくらい大人びた人。
甘えてしまってごめんなさいと、ちょっと成長した自分で頭を下げる。
すると悠は目を丸くして、それから笑った。
「面白すぎる。史織が他人に気を遣ってる」
「なぁっ!? ちょっと! ひ、人がせっかく――」
「迷惑じゃない。楽しかったんだから謝るなよ」
防具袋を背負って、竹刀袋とビニール袋で包まれた新しい竹刀を両手で持って歩く悠の姿を、街灯の光が夜から切り取る。
静かで穏やかな人が、隣で笑っていた。
剣を握っているときとはまるで別人。なのに史織には、今の悠が間違いなく一番強いと確信できた。
「俺から声かけたんだぞ。お前が気にするなよ」
「……でも。大事な一日でしょう?」
「剣道部に入ってからは毎日が大事だよ。……でも、そうだな。最後は剣道するよりも、普通の一日を過ごしたくなってさ」
歩みを止めず、隣で悠がこちらを見て微笑む。
「今日、楽しかったか?」
「……はい。とても」
「俺も楽しかった。かたや剣道な」
「ほんと終わってますよね」
「痛いしな。辛いしな」
「臭いですし。なんですかあの匂い。呪いですか?」
「言った通り最悪だったろ」
「はい」
「……でも俺は、それがどうも、辞められないんだ」
立ち止まって、悠はぎゅっと竹刀袋を強く握る。
「これだけ、他に楽しいことが沢山あるのに。……もう、これしか考えられない」
もう二度と離さないというように、強く。
彼がその愛を語るとき、満面の笑みが現れることは決してない。きっともうこの人は、好きだなんて簡単なものはとっくに通りすぎているのだ。
「史織」
「……はい」
愛憎を過ぎた、業のようなもの。
それをもう一度掴ませた諸悪の根源に向かって、悠はぴしりと頭を下げた。
もう命の一部となった、綺麗な礼で。
「剣道部に入れてくれて、ありがとう」
色んな言葉が、脳裏を巡った。
聞きたいことが、たくさん。
恨んでないですか、とか。どうして剣道を辞めていたんですか、とか。それから。
私にもその荷物、背負わせてくれませんか、とか。
この眼鏡にはもう、あのときに見えていなかったものがたくさん見えている。だから、言ってあげた。
「はい。どういたしまして」
知らない振りをしてあげよう。遠慮せずわがままを言い続けて、いつも通りの自分で居続けてやろう。
いつかこの人がその背に背負う何かを、自分から預けてくれるその日まで。
女と剣の腕を磨き続けて、乾吹雪を斬って倒して。
最後にこの人と背中を合わせるのは、この私だ。
「明日の試合、期待していいですね?」
「ああ。任せろ」
「ふふ、言いましたね? 言い訳できませんよー?」
びしっと、試合に出ないくせに生意気に。
悠が持つ、ビニール袋に包まれた竹刀を指差した。
「私が買ってあげた刀で先輩が負けたら、それは武器じゃなくて先輩のせいなんですからね」
いつか言われた言葉を、そっくりそのまま返してやる。それでも、悠は格好良く笑ってくれた。
打った技は、次に自分に返ってくる。
その痛みを、恐怖を分かった上で打っているから。
だからこの人は、強いのだ。
「期待しててくれ。だって、約束しただろ?」
「……はい」
明日、この人は勝つだろうか。
それとも負けてしまうだろうか。
それは神様以外、誰にも分からない。
「格好良いところ、見せてくださいね」
ただ、確かなことはひとつ。
この人は絶対に、約束を守るということだ。
「いってらっしゃい」
――世界で一番格好良い、私の先輩。
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