下:天下三分の計
随分と長い間、話をしていた気がする。
みんなとお喋りできる楽しい休憩は終わって、もうすぐ地稽古が始まるだろう。
彼方は期待に胸を躍らせて、自分の面の前に戻ることにした。
今日は愛莉と吹雪、それから快晴と自分は合同稽古に来てくれたお客様扱いだ。
一列に並ぶ藤宮部員たちとは対面の、上座に面を並べている。
彼方はその中でも、一番隅っこに自分の面を置いていた。
誰より早く面の前に正座し、手拭いを手に取って軽く汗を拭う。
そして手拭いにかける前に端と端を両手で持って、文字が見えるようにぴぃんと張った。
濃い緑の生地に、白抜きで『冷暖自治』とある。
星蘭高校の、新しい手拭いだ。
「ししし。おニューの道具っていうのは、本当にテンションが上がるね」
「あれ~? あんたその字、清船中で使ってたやつだよね?」
「ほんまや。前の合同稽古んときはちゃうかったでな?」
「おう! これはね、カナがキャプテンになったから新しく作り直したのさっ」
座る自分の両隣から覗き込んでくる千紘と愛莉に答えて、胸を張る。
手拭いの右端にあるのは『星蘭高校剣道部』の文字で、もうあの頃とは違っている。
けれどあの三年間が、清船中三本刀が、無かったことになるわけじゃない。
「大事なものは、捨てちゃダメだからね。この意志はカナが継いでくんだ」
これから新しいことに挑戦していくからこそ、古くなったものの精神を大切に。
そんな風に生きていくのだという決意を、ここに表すことにした。
「忘れないよ。カナは。今も昔も全部背負って、これから一番になってやるぞ!」
言葉には、魂が宿る。
だからどんなに恥ずかしい生意気だと言われても、一ノ瀬彼方は自分に忠実に生きていく。
そんな彼方を肯定するように、千紘と愛莉は両側から肩をばしんと叩いた。
昔ファミレスで折れかかった自分を、叩いて再起させてくれたように。
「今日だけ再結成ね。二宮」
「せやな! 計画通りに行こか!」
「さ……再結成? 計画?」
目を白黒させていると、千紘と愛莉は歯を見せて笑ってくる。
楽しい悪だくみをしているような顔だ。この顔に、どこか既視感があるような。
「い~からい~から。一ノ瀬はなーんも考えないで楽しんでればいいの」
「せやせや。後は全部、うちらに任せろ!」
分かった。二人は昔の自分の真似をしているらしい。
この意図が見えない意趣返しに、伸るか反るか。
「ししし。なーんだか分かんないけど……じゃあ、甘えっからな!」
乗るに決まっていた。面白いことは逃せない。
笑う二人が突き出す拳に、彼方は自分の熱いそれを合わせる。
これは三人の出陣の儀式。久方ぶりの鼓舞に、胸が躍った。
「よーし、行くぜッ!」
「「おうっ!」」
全員配置に着く。
向こう側で本当に嬉しそうに笑う悠が、空気の通った声で号令をかけた。
「面着けっ!」
座礼をし、彼方は顔を上げて深呼吸する。
目の前には、ひとりきりだった時代を超えて沢山の人がいる。
彼らの後ろの窓には、曇っていた頃を越えて、すっかり晴れ渡った蒼天が見える。
不思議と、胸が一杯になった。
人間は光ではないから、何が最適で最短かなんて、どれだけ考えても分からない。
けれど自分で考え抜いて選んだ道が、結果的に最高だと思える今があるなら。
これから観測する夢への光路も、蒼天の向こうの目的地へと繋げていける。
「……よっし!」
彼方は決意を新たにし、息を吐き出し、新たな手拭いに手を伸ばす。
「お願いします!」
すると目の前に深々と座礼する悠が瞬時に現われて、彼方は瞠目する。
早すぎる。号令から三十秒も経ってない。
まさかワープを使ったんだろうか。いやいやそんな、宇宙人じゃあるまいし。
「カ、カナから行こうと思ってたのに。……ふふふ、そんなにカナが好きかい!」
「うん。すごい好きだ」
愛莉を参考に上手くからかったつもりが、爽やかに切り返されて彼方はびくっと震えて身体を引いた。
――な、なんぞ。なんだこやつは。
「一目見た時から気になってた」
「そ、それは……そ、その、い、今練習中だし、ちょっと、困るって言うか、あ、あの……」
何だこの反応。誰だこのぽんこつ。
というか練習後だったらいいんだっけ!? アレ!?
オーバーフローを起こそうとしていると、隣に座っていた快晴が手拭いを置き、咳払いした。
「悠。それはどういう意味で?」
「なんか他人とは思えなくて。でもさっき分かった」
屈託のない笑顔で、少しだけ頬に赤みを差して彼は言う。
「俺に兄妹がいたらこんな感じなのかなあって!」
彼方の目から、シャットダウンした機会みたいに光が消える。
うまくCPUが急速冷却されていった。
「……ふーん。受けるよお兄ちゃん。カナが着けるまで待ってなよ」
「了解。場所取ってるな!」
皮肉というバターを多分に乗せたのに、美味しく頂かれてしまった。
なんなんだ腹立つ。
好きとか嫌いとか抜いといて、兄妹とか言われて嬉しい女子はほぼいない。
舌打ちをしながら手拭いを巻いていると、隣で快晴が笑っていた。
「夢壊してごめんね。でも現実見るのは早い方がいいよ」
「別に夢見てねえしお兄ちゃん二号。カナ別にそーゆうの興味ねえし」
「どっかの馬鹿も春まで同じこと言ってたよ。人間どこで事故るかわからないね」
それは言えているけど、一体どこの馬鹿?
彼方はんー? と首を傾げながら面を着け始める。
悠と違ってゆったりと着ける快晴も、彼方と同じ進度だった。
「吹雪に勝ったんだってね。おめでとう。今日終わったら何か奢るよ」
「……ししし。キミもひねてるねえ。普通よくもうちの妹をって言わないかい」
面の中から、僅かに息が漏れる音がする。
どんな表情をしているのかは分からなかった。
「負けられないっていうのも、それはそれで不幸だからね。現実見るのは早い方がいいよ」
そんなの知りたくなかったけどね、と彼は何やら不機嫌に舌打ちする。
様になってない。
自分と違って、あんまり悪役が似合わない人だなと思った。
「ふふーん。快晴はやっぱり、お兄ちゃんだねえ」
「その呼び方本当にやめてもらえる? 僕がお兄ちゃんなんじゃない。吹雪が妹なんだ」
「一緒じゃん……キミ結構めんどくせーな……」
「一緒じゃない! 九九だってどっちが先かでちゃんと分かれてるでしょ!」
憤懣やるかたなしとばかりに、彼が面紐を引っ張る。
こういう面倒くさい人が好きだった。悠と同じく、きっと仲良くなれる気がする。
「僕も一ノ瀬さんに聞きたいことがあるんだ」
「おっ、なんだい? カナが知ってることならなーんでも」
「ありがとう。……吹雪に勝って、大きな仕事が終わったんだって三刀さんに聞いた」
籠手を嵌めて、先に快晴は立ち上がる。
頭を掻くようにちょこんと後ろから出た手拭いを頭の奥に追いやり、首を傾げた。
「次は何を目標にする? ちょっと参考にしたいんだ」
「……んー。充電期間中、計画は練ってるんだけどねえ。まだハッキリとは分かんない」
彼方も準備を終えて立ち上がる。
剣道に不要だからと短く切りそろえた髪の代わりに、面紐を撫でて笑った。
「でも剣道星人が地球に攻めてきたとき、地球人代表はカナがやれるレベルにはなりてえな!」
「おっ、なるほどね。良かったじゃない、すぐに夢が叶って」
「へっ?」
「この惑星の住人は意外と鈍い」
コーヒーのCMみたいに渋めの声を作って、快晴も笑いながら悠のところに歩いて行く。
彼も彼で、前に会ったときよりテンションが高いように見えた。
「ねえ悠、僕もやりたい。一本ずつ回さない?」
「おっ、いいぞ! ちっひからもそう言われてるしな」
「よーし。じゃあ僕も今日は本気で遊ぼうかな」
それにしても。
この二人はいつも自分をいてもいなくてもいいみたいに扱って、一体何様のつもりなの。
彼方の頬はまたまた末っ子みたいに膨れ出す。「おーい?」
「快晴が珍しいな。女子相手なのに」
「僕も気に入ってるんだよ。吹雪をぶちのめしてくれたからなあ」
「歪んでるなー。ところでさっき何話してたんだ?」
「うん。地球人代表として戦ってくれるんだって」
「なるほど。それは興味深い」
「こぉら! ヘイ悠! 快晴っ!」
だんっと思い切りその場で踏んで、顔を寄せていちゃつく二人の目を無理矢理向けさせる。
不思議だ。この二人といると何だか幼くなってしまう。
しかしそれはそれとして、理解させてやる必要がある。
彼らが対峙しているのは一ノ瀬彼方。元清船中三本刀の大将で、星蘭高校のキャプテン。
そして剣姫――乾吹雪だってぶっ倒してる。
現時点で女子最強の剣士ぞ! なめんな!
「男だからって手加減しねーからなっ!」
彼方は竹刀の柄を二人の方向に突きつけてにかっと笑う。
男のプライドなんて非科学的なものは、ここで遠慮なく破壊させて頂こう。
お得意のヒール上等の挑発に、しかし悠はのぼせ上がらない。楽しそうに笑ってる。
「了解。手加減してやろうか? 女の子」
「ししし。負けた言い訳が欲しかったらそうすれば?」
「ははっ。よしやるか!」
「じゃあ僕が審判やるねー」
周りで、地稽古の竹刀が弾ける音がする。
床のビリビリした震動が足裏を伝わって心臓に届く。
戦いの咆吼が道場一杯に満ちると、彼方はワクワクが止まらない。
こんな状況なら、どんな突飛なことをしても目立たない。
「星蘭高校二年、一ノ瀬彼方! カナに勝てたら友達になってあげてもいいぜっ!」
子どもみたいにはしゃいで叫んで名乗りを上げる。
そうしたら、彼も笑って一緒に遊んでくれた。
「藤宮高校二年、水上悠! ……そうだな。おい、地球人」
三歩歩いて、一緒に剣を抜く――その刹那。
嬉々として人の皮を脱ぎ捨てた者は、その貌を歪ませ黒く笑った。
「この星は我々が頂く」
「いっ……!?」
「始めっ!」
待ち望んだ未知との遭遇はある日突然、それも地球で訪れた。
彼の竹刀に自分のそれが触れた瞬間――重力の方向が変わった。
竹刀に命が生まれた。
勝手に暴れて意志を持ち、ぐるぐる回って彼方の手からひとりでに飛んでいく。
「――え」
ぽかん、と口を開けて上を見る。
天井。
ロケットみたいに飛んでいく竹刀。
その下に――既に竹刀を振りかぶった悠。
光の路が、三つも五つも同時に彼から伸びてくる。そのどれもに反応できない。
「はあッ――」
彼方の銀河のように輝く瞳が、やがてその軌道を観測する。
その技は、彼方が得意とする担ぎ胴とは逆軌道。
あまりに難しく、守りに寄った自分には向かないからと、彼方が涙を呑んで捨てた可能性。
「どォッ、しゃぁああ――――――――――ヤぁああッ、たああッ!!」
――逆胴。
頂点から弧を描く美しい光路が一本収束し、稲妻となって彼方の胴に轟いた。
破滅的な音と痺れが、胸を熱く甘く揺らす。呆けて言葉が出てこない。
がしゃん、と彼方の竹刀が遅れて床に落ちてきた。
「はい、胴あり! ……容赦ないなあ。鬼だよ悠は」
「出血大サービスって言えよ! 二本セットなんて女子に打ったことないんだぞ!」
「うっそだー。絶対基本稽古で下手くそのフリしててイライラがたまってたんでしょ」
「あっ、バレた。てかお前もそうだからだろ」
「あはは、バレた」
夢見心地で彼方は呆然と立ち尽くす。これは何だろう。幻覚?
自分はまだあの医務室のベッドの上にいて、都合の良い夢を見ているんじゃなかろうか。
例えば業者から買った追憶とか。そういう、SF的な――。
「はい一ノ瀬さん。次僕ね」
「……あ。う、うん……」
快晴が拾ってくれた竹刀を反射で受け取って、彼方はまた戦いの位置に着く。
快晴もすぐに戻った。右籠手を脇に挟んで外して、面の後ろを掻いている。
「じゃあ次俺が審判な。彼方、剣道は三本勝負だぞ」
「わ、分かってらい!」
「えーっと、じゃあせっかくだから。秋水大付属二年、乾快晴。……一応、吹雪の兄だけど」
左腰に持った竹刀を悠然と右片手一本で抜き、身体の前で構えて快晴は嗤う。
それだけで体温が全部奪われて、彼方の肌が粟立った。
「あの程度と一緒にしないでね?」
「っ――」
「はい始めっ!」
「キャぁああああああ―――――――――っしャアあああッ!!」
これが夢か否か、確かめる為に彼方は思い切って攻めに出る。電光石火だ。
中心を上手くかすめ取り、刹那に床を空踏みする。ぴくりと快晴の目と剣先が反応した。
交差した剣先が弾けると、彼方は鋭く手首を返して快晴の籠手に向かって跳んだ。
――いただきっ!
「ッてぇえ――――やあッ!!」
起こりを狙った会心の出小手だ。避けられるはずがない。「よっと」
「いっ――!?」
常識の範囲内では、だが。
消えていた。確かにあったはずの籠手がない。
信じられないことに右手を抜かれて、左片手になった面は未だ自分を狙ってて――!
「しゃあぁあ―――やッ!」
「うお―――――っ!?」
それに気付けたのはもはや奇跡だった。彼方は打突を止めて竹刀を頭上に掲げ、身体を丸めるようにして快晴の懐に潜り込んだ。
「おっ。上手いなあ」
鼻歌を歌うみたいにそう言う彼を、彼方は歯を食いしばって鍔迫り合いに持ち込む。
――いらっしゃい。
持ち込まれただけだとも気付かずに。
身長差があるから、彼方は見上げるようにして快晴と眼を合わせる。
蒼く氷のように己を見下ろす、人じゃないものの瞳と。
一気に息が苦しくなる。身動きが取れなくなる。
なんだこれどうなってるんだと、氷漬けになった自分に動揺して彼方が瞬きをする。
一瞬で消えた。
快晴が遠くなっていた。
「ほえ――?」
間抜けに漏れ出た声が、最後まで紡がれることはない。
大気が揺らぐ。快晴が放った極大の光は垂直に――無慈悲に。
「めェエえええ―――――――――ンやああッ、しゃああらあッ!!」
固まった彼方を、抉れるような衝撃音と共に叩き下ろした。
――引き面。
快晴の電化の宝刀が脳天に炸裂すると、彼方の視界に星が散る。
衝撃に世界がぐにゃりと歪んで、遠い遠い宇宙が見えた。
「はい、面あり! 勝負あり! ……大人げなー」
「悠には言われたくないんだけど!」
「お互い様だろ別にいいじゃん。ところで地球ゲットしちゃったな」
「あっけなかったね。どうしようねこの星」
彼方は膝を折って俯き、痺れたようにその場から動かない。
何度も何度も瞬きしては、籠手を取って、打たれた頭と胴を交互に触った。
「か、彼方?」
「一ノ瀬さーん……?」
――痛い。
ちゃんと痛い。痺れてる。まだ起きない。
ということは、ということは、ということは!
心臓がどきどき言って、彼方の口からはじゅるりと涎が垂れる。
彼方は両膝を屈したまま、意を決して下げていた頭を上げた。
「や、やばいな。大丈夫か? ほら快晴がやり過ぎるから!」
「僕!? 絶対悠のほうが酷かったよ!」
「そ、そんなことないって! ……でもなあ。この程度で折れんのもなあ」
「うーん、まあ確かに。脆いよね、人って」
「すぐ壊れるよなーあいつら」
「もうちょっと手応えがねー」
心配げにのぞき込みに来てくれた二人は相変わらずで、実在していて。
ということはもう、これは……確定で。
――夢じゃない。
彼方は籠手を着けたまま、震える両手を二人に伸ばして。
「…………あ、…………あ、…………」
「「あ?」」
ぎゅうっと力一杯、飛び込むように二人の腕を抱きしめた。
「アモーレ―――――――――っ!」
「うわっ!?」「ちょっと、離して一ノ瀬さん!」
もう離さない。一生つきまとう。
一ノ瀬彼方は歓喜の涙と、新しい燃料が宿って動き始めた心臓と一緒に。
これまで頑張ってきた最高のご褒美を、全身で感受するのだった。
「ホントにいたぁ――――――! 宇宙人だ―――――っ!!」
× × ×
打ち上げが計画通り成功したのを見届けて、三刀愛莉は胸が一杯になる。
道場の下手で千紘と並んで、はしゃぐ彼方をずうっと見ていた。
「もっかいやって! もっかいやって――――っ!」
「ははっ、懲りない地球人め。よしやるか! ほら担ぎ胴打ってこい担ぎ胴」
「おりゃ―――――ッ!」
「ん、何それ遊んでる? こうやんだよ死ねコラぁ――――――ッ!」
ずがごぉ―――ん!
「ほぎゃぁあ―――――――!?」
「鬼畜だ。吸収して返すなんて……」
「大丈夫だって快晴。ほら見てみろ」
「あはははははは! もっかい! もっかい! 今のどうやったの!? 教えとくれ―――っ!」
「……この惑星の住人はとてもかわいげがある」
「分かる。もっと遊んでやろう」
「はい次僕ー♪」
どごがぁ――――ん!
「あはっ…………あはははははは! 殺して! もっと殺してぇ――――っ!」
本人は、練習中なら目立たないと思ってる。
けれどスターというものは、どうしたって自分たち凡人の目を眩く惹きつけるものだ。
月に辿り着いた、兎が跳ねて遊んでる。
煩わしい重力を切り離して自由に、月の裏側で仲間を見つけて喜びに震えて泣いている。
そういう光景を、見ているみたいだった。
初めて会ったとき彼女に聞いた。どうして宇宙に行きたいの?
『え。だって地球って狭くね!』
それも間違ってないんだと思う。けれど本当ではなかったんだと今なら分かる。
あの三年を共に過ごした今、同じことを聞いたら彼方はきっと答えてくれる。
『だって宇宙って広いじゃん!』
「……ほんっと、ド変態だよね~。あいつってさ」
「ほんまになあ。人の話聞かへんし、うちらの事情も考えへんし」
「振り回されてばっかでさ」
「人生歪んでもーたなあ」
自覚なしに、人を変えてしまう。天才とはそういうもので。
「どんだけ恵まれてたんだろうね、あたしら」
「せやなあ。……やっと、返せる」
同じ場所に生まれて良かった。同じ時間を過ごせて幸せだった。
たとえ違う生き物なのだとしても、同じものを目指したあの日々が、共通の宝物であることに変わりはない。
『本日をもちまして、清船中三本刀は解散しまーす!』
あのとき、本当は止めたかった。
でももしも、ここにタイムマシンがあったなら、きっとそうはしないのだ。
『……そっか、あんた夢があるからしゃーないね。でも一発殴らせろ』
『はえっ!?』
『うちもや、この自分勝手が! おら……飲めや! このタバスコ入りコーヒーを!』
『えっ……それはヤダ! ど、どけよカナは行く! 無理無理無理無理無理無理だって!?』
『一ノ瀬彼方に~?』『不可能はないんやでなー?』
『オア―――――――――――!?』
うんと痛い目に遭わせてやって、それから三人で沢山食べて、夜通し話して沢山泣いて。
そして最後には、たとえやせ我慢だって、笑顔で背中を叩きたい。
『行けよ、一ノ瀬。あたしらのことなんか気にすんな!』
『約束してや。高校でも剣道やってや! 絶対やで!』
『……うんっ』
『よ~し。じゃあ、後のことはあたしらに任せて、先に行きな?』
大仰な言い方や、ダサいお約束が大好き。
そんな彼女に影響された三刀愛莉と二宮千紘は、声を揃えて必ずこう言う。
――大丈夫。後から必ず、追いつくから。
「ねえ二宮。覚えてる? 清船中三本刀の文字の意味」
「あっはっは。知らんのんか? うちはあんたよりは頭ええねんぞ」
「やかまし。じゃあ計画の前説は、必要ないよね?」
当たり前だと答える千紘と一緒に、自分の胸に手を当ててみる。
今、頭に巻く文字はそれぞれ違う。けれど心に焼き付いた精神は、いつまでも不滅だ。
冷暖自知。
素人三人で全国なんて、無理だろうと笑われたときに彼方が定めた。
そこに何かがあったとき、冷たいのか暖かいのか、自分で触れてみるまで分からない。
未来は、観測するまで未確定。つまりその意は。
――やってみなくちゃ、分かんないじゃん。
「あたし、一ノ瀬に勝つ。一年後、絶対ね」
「うちも、って着いていくのはダっさいなあ。せやったら、うちは藤宮としても勝つ!」
「あ。じゃああたしもそれ追加~。一番は桐桜学院じゃん?」
「あっ、真似すんなや!」
「いひひ。結果オーライならいいんだよ~」
凡人が天才に追いつけないなんて、一体誰が決めたんだ。
吹雪じゃなくて、今度は自分の手で泣かせてみせたい。
だって一ノ瀬彼方が大好きだ。
大好きな人が自分を振ったんだから、死ぬほど後悔してもらわないと沽券に関わる。
――絶対、泣かせてやるかんね。
「あんたにだけは譲んない」
「それはこっちの台詞やなあ?」
分かれ道を前にして、お互いの主張は平行線。
どれもどれもが正しくて、だったら最適解はこれしかない。
「天下三分だね」
「不倶戴天っちゅーやつやな!」
きっと昔より、もっと楽しくなる。
竹刀を持った拳を共に交わして、千紘と愛莉は最後に背中を合わせ――そして駆け出した。
一ノ瀬彼方と二人の至福の逢瀬を妨害しようとする、共通の敵の前に。
「どいて、愛莉っ!」「邪魔しないでください、千紘先輩っ!」
返す刀は決まっている。
二人は息ぴったりに笑い、声を合わせた。
「嫌で~す」「邪魔はあんたらのほうや!」
全身に悋気の炎を纏わせた史織と吹雪が、裏切られたと顔を歪ませる。
美人がそうすると、並々ならぬ迫力がある。
でもこんなもの、今の千紘と愛莉には涼しくてしょうがなかった。
胸には、無限のエンジンが鳴っている。
未来を夢見る永久機関は、計画のためならどんな敵だって打ち倒す馬力を生むだろう。
「な……なんで愛莉は邪魔するの!? み、味方してくれないのっ!?」
「ち……千紘先輩も! 団体戦のときはごめんなさいって謝ったじゃないですかあっ!」
ん? と千紘と愛莉は首をお互いの方に傾げる。
どうも、思い違いをされているみたいだ。
「いつあたしらが」「あんたらの味方って言うたんや?」
ずばっと切り出す。
二人から表情が抜け落ちているうちに、畳みかけてやる。
「だって吹雪はいっつも決めきんないしさ~? 快晴くんには迷惑ばっかりかけるし」
「しおりんはゆーくんにわがままばっかり。一方的にもらってばっかや!」
吹雪か史織か。
林檎がいつも悩んでいたけど、何のことはない。
『愛莉! 推しカプがあれば、世界は美しいのだぞ!』
『え~。あたしそういうの分かんない』
『大丈夫愛莉。いつか分かる。そのうちガンにも効くようになる』
ガンに効くかは分からないけど、教育の賜物でようやく理解できた。
元清船中三本刀は――誰を推すか。
「その点、うちの一ノ瀬は推せるよね~? バシッと決めるし優しいし?」
「わがまま言う分、ちゃんとくれるもん。あんたらとは違う!」
ここに、天下三分の計を現実のものとするために。
千紘と愛莉は呉越同舟、揃って夷狄に剣を向ける。
「てなわけでここ、通さないかんね?」
「今日は誰にも負ける気ぃせえへん。帰るんなら今のうちやぞ!」
「ぬうう……愛莉の分際でっ! 深瀬っ!」
「……今日だけ。今日だけ、手を組んでやるッ!」
きっと、未だかつてない戦乱の世が幕を開ける。
早速弾ける怒号と悲鳴と、大地を揺るがす剣戟と踏み込みの音がその証。
でも、きっと楽しくなるだろう。
「あはははははは! 好き! 好き! 楽しすぎ―――――ッ!」
脳天気に今を楽しむ彼方の笑い声が、未確定のはずの未来を、明るく保証してくれていた。
× × ×
楽しすぎた一夜が明けて。
彼方は目覚ましが鳴る前に、自室のベッドの上でぱちりと目を覚ます。
夢は見なかった。それぐらい熟睡していた。
――あれ。
あれだけ全身に漂っていた眠気が、微塵も残ってない。
彼方はベッドからぴょんっと跳ね起きて、勢いよくカーテンを開く。
透き通るような青空。それから眩い朝の光が、彼方の全身を包む。
――充電完了。
ガラスに映る輝く自分の瞳が、再出発の時を告げていた。
「ししし。行くぜ―――っ!」
身体に元気が漲っている。胸のどきどきは一夜明けても止まらない。
彼方は乱雑にパジャマを脱ぎ捨て身支度を調え、少しだけ昨日のことを思い出している。
最高だった。恍惚だった。
βエンドルフィンがキマり過ぎて死ぬかと思った。
ほぼイキかけましたと大好きな野球選手がお茶目に言ってたけど、多分あんな感じだ。
悠と快晴。大好きだ。愛しているという言葉では陳腐だった。
ずっと探していた宇宙人が、こんなに身近にいたなんて。
彼方は千紘と愛莉から、練習後に二人の正体をようやくバラされた。
そしてその場で、膝から崩れ落ちて頭を抱えた。ちょっと泣いた。
一ノ瀬彼方の辞書に、今度こそ後悔の二文字が追加された瞬間だった。
「……うぐぐぐぐ。あぁああ! 馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿カナの馬鹿! ほんと死にたい……っ」
今もお着替え途中でベッドに飛び込み、ジタバタするレベルで悔やんでる。
個人予選の決勝で、なんとあの二人が戦ったらしいのだ。
しかもみんな口を揃えて言うし。
世紀の一戦だったとか、ちょっと泣いたとか、見逃したら自殺もんよねとか。
そんな世紀の一戦が行われている最中、自分は何をしていたか?
まるでサボってる兎みたいに、医務室のベッドで気持ち良く寝てた!
「何で誰も起こしてくんないんだよぉおお――――っ!」
答えは明確。おひとりさまだから。
後悔三秒――そして、再起動には一秒。
「……動画を探そう。絶対誰か持ってるはず。アレ、そもそも二人が持ってんじゃね?」
転んでも悔やんでも、意志は折れない。
一度屈んだ分だけ更に飛んでいけるように、自慢の頭は回転する。
そして最短最速、最高効率の光路を導き出して笑うのだ。
「ふふ……。これ口実に、連絡取っちゃえばいいじゃんか」
未来が明るいと、天が保証してくれるわけじゃない。
でも未来を明るくしようとすることだけは、自分の意志で決めることができる。
「よし! とりあえず夏休み、二人をデートに誘おう!」
即断即決。未来をよりよくするために、一ノ瀬彼方は動き出す。
もたもたしている他人がいたら、容赦なくチャンスをかっさらって独り占めしてやろう。
「楽しみだなあ。夏休み」
今よりもっと勉強できる。今よりもっと練習できる。
それから新旧入り交じった愛すべき人たちと、沢山遊ぶことができる。
二人の全国大会だって見に行きたいし、みんなで夏祭りに行くのもいい。
それに――今日から始まる、新計画が楽しみで仕方ない。
「行ってきますっ!」
支度を調えて速攻、彼方はブーツを履いて外へと駆け出す。
十秒で飲めるウイダーを口に突っ込んで、時間が勿体ないぜと笑顔で通学路を走った。
早朝、爽やかな夏の空気が髪を揺らす。雲一つない蒼天が彼方を抱く。
踏みしめるアスファルトの感覚は重力に満ちていて、遙かな宇宙へ旅立つ足がかりにしろと地球は告げてくれている。
――宇宙の前に、まずはここから。
昨日、最後に三人が分かれる三叉路で。
愛莉と千紘は自分に竹刀袋を突きつけて言った。
『今日は一ノ瀬に、大切なお知らせがありま~す』
『うちらが立てた計画や。まあ彼方の意見は聞けへんけどな! 強制参加!』
『あははっ、なんだよそれ! カナの事情も考えろよい!』
『どの口が』『それを言うとんねんっ!』
二人は対等に並ぶ者として、両側から頬を叩いてくる。
そして同じく夢へと邁進する者として、遠大な計画を嬉々と語った。
それは愚かにもこの自分を打ち倒して見せるという、天下三分の計だった。
『あたしがキャプテンだからね。来年も桐桜が優勝に決まってんじゃん?』
『あっはっは、何を言うとんねん! うちが部長になったからには藤宮や!』
『……ししし。千紘、愛莉。寝言かな? 夢は寝て見るのがお似合いだよ?』
全く救いようのない馬鹿だねえ! と高笑いして言ってやる。
『キミたちがカナに勝てるわけねーじゃん! 来年の一番は、星蘭だよ!』
この血はヒールで出来ている。批判や敵意を向けられるとわくわくして仕方がない。
難しいものに挑ませろ。出来てたまるかとみんな言え。
敵が強いと燃えてくる。
宿敵が二人もいるなんて、なんて恵まれた人生だろう。
――この日のために、カナは星蘭に進んだんだ。
納得とともに彼方は最寄り駅に辿り着き、早朝の誰もいないホームで電車を待つ。
待ち時間を有効活用すべく、トークルームの招待画面を開いて携帯を空にかざした。
「面白そうじゃん。乗ってやんぜ!」
一ノ瀬彼方 が 清船中三国志に参加しました!
三人、道が分かれた。
けれど空はどこでも繋がっていて、今もそれぞれが己の夢をここに見ている。
一体誰の軍勢が天を握るのか。
それを決めるのは、これからの自分の行動次第だ。
「よーし。まずは人を集めんぜっ!」
奴らと違って自分が選んだ環境には、才ある人が満ちあふれている。
ひとり残らず登用して悪の帝国を創りあげ、一年後、桐桜と藤宮を見事打ち砕いてやろう。
「ししし。天下三分の波束を我が手にっ」
青空に伸ばした手を、力強く握りしめる。
夢は、起きて目指すもの。早速始発の電車の中で計画を練ろう。
再出発を誓う彼方に、いよいよ乗り物が到着する。
「一番線、発車します。藤宮へは逆方面の電車です」
関係ない。そっちじゃない。
「駆け込み乗車はご遠慮ください」
聞かない。時間は有限だ。
彼方は先頭車両に駆け込むと、運転席の先の窓に向かって笑顔で竹刀袋を突きつける。
「行くぜ! 出発進行っ!」
彼方の夢を乗せた乗り物は、超特急で未来へと進んでいく。
その先には確かに――宇宙へと。
この蒼天の果てへと続く、眩い光路が見えていた。
了
つるぎのかなた/第4巻今冬発売! 渋谷瑞也/電撃文庫・電撃の新文芸 @dengekibunko
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