「灰色に鳴る」三合目:罪と罰
ポケットに入れた紙片を手で弄びながら、橋倉は待ち合わせの喫煙所に歩いて行く。
蒼天旗の組み合わせ表。それが、手中にある。
ずっと出たくて仕方がなかった試合で、自分の唯一の目的地。
「……間違いに、決まってんだ」
紙片を、再び開くことができない。
見逃した一回戦の相手の名前を確認することさえ、震えてできなかった。
「……げ」
現実から目を逸らして歩いていると、喫煙所に目当ての相手を確認できた。
空気が、冷たい。纏った紫煙がまるでドライアイスのようだ。
近寄ると、無数の煙草の残骸が灰皿の中にあるのが分かった。
右の人差し指と中指に煙草を挟んだまま、姉の麗奈は顔の右半分を押さえている。
左の人差し指はとんとんとんと一定の速度で太ももを打っていて、すぐに不機嫌であることが分かる。漏れる眼光に、刃物のような鋭さがある。
ぼろり、と煙草から放置されていた灰が落ちたその瞬間。
「答えなさい」
姉は自分を見つけて、煙草を持っていた手をすうっと下ろす。
鋭い爪先で、頸動脈を撫でられたような恐ろしさがあった。
「お前が暴れたと聞いた」
「………………ああ」
「私は伝聞で物事を断ずるのが嫌い。だから、真偽は直接お前に問うわ」
冷たく、しかし燃えるような苛烈さを持った灰の瞳が、己を睨む。
「お前は、人に手を挙げたのね?」
「……そうだ」
「愚かね」
激することは、決してない。
だが姉は、失せば必ず冷酷に鞭を打つ。
「愚物に手を挙げるものこそ、最も愚物。一体お前はこれまでの人生で何を学んだというの」
「……」
「過程など誰も興味ない。人は上辺だけで人を判断する。であれば行動と結果のみで在り方を示せと、せめて己に恥じぬ生き方をせよと、私は、会長は、常々言い聞かせてきたはずね」
「……ああ」
「礼と規則の上に生きぬ者は、どんなに強かろうとも畜生以下」
ぐさりと胸を突き刺すように、姉は煙草の火を心臓に向けてくる。
「己を堕するな。孤高に生きるものこそ、人である矜持と責任を持ちなさい」
「……悪かっ、た」
「そう、分かればいいわ。お腹空いたわね」
急にあっけらかんと言い放つ姉に、荷物を手放してこけそうになる。
「……深々とした反省ムードをどうすりゃいいんだよ」
「だってこれ以上は無意味だもの。お前は、己を恥じているのでしょう?」
煙草を消し、薄く笑う姉に向かって、渋面ながらもゆっくり頷く。
「であれば良し。罪悪感こそ、人が人である証左」
「……姉貴もちっとは、弟に対してそれを示せよ」
「なぜに? 正義は私にあるじゃない」
その通りではあるのだが、この容赦のなさ。
警察官になると聞いてはいたが、詰問のうまさも含めてまさしく天職なのだろう。
橋倉がため息を吐いていると、ぴろんと場違いな携帯の通知音がひとつ鳴った。
自分のはマナーにしている。姉だろう。
ズボンのポケットから携帯を取り出し画面を見るなり、姉は舌打ちをした。
「うぜー広告か?」
「彼氏よ」
「それが彼氏に対する反応なのかよ……」
よく分からない。恐らく既読も着けずにポケットに即しまったし。
中三の三月から姉の元に身を寄せているので、八月の今で、大体半年を共に過ごした。
だから知ってる。見てる限りで、この彼氏は確か三代目だ。スパンが短い。
家を出るまでは、身持ちが堅いイメージがあったのだが。
「……なあ。あんまこういうこと言いたかねーけど、なんで毎回クッソくだんねー男とばっか付き合うんだ?」
「あら。姉が心配?」
「……おかしいだろ。どう考えても、姉貴には釣り合っちゃねーよ」
何でもできるし、肉親のひいき目を排して見ても容姿は抜きん出ているだろう。
何より、気高い人だ。
この人が言うところの、愚物が触れていいものじゃない。
なのにいつも、駄目な奴と付き合う。悪食だ。しかも今みたいに、全然楽しそうじゃない。
「釣り合う男なんて、そう居ないわよ。ないなら作るしかないでしょう?」
「だったら、マシになった瞬間なんで別れる?」
「……存外、見られているものね」
くすりと笑って、秘密よと姉は理由を語らない。そういうところは姉らしくて安心する。
だが、たまに。
「……腐肉で良いのよ。飢えていられるから」
こうして寡婦のように暗い顔をする姉を見ると、いつも落ち着かない。
煙草だってそうだ。真面目で、体力が必要な剣道を好むこの人らしくない。
一体誰が、この人に影を落とした?
「……違え、な」
一体誰なら、この人に影を落とせる?
珍しく心配して姉を見つめていると、またまた姉の携帯がぴろんと鳴った。
舌打ちと共に取り出す。
「……!」
謎だ。狼の耳っぽい何かが、ぴんと頭の上に見えた気がする。
「……彼氏、か?」
「馬鹿ね。女よ」
声が跳ねている。明らかに感情を間違えている。
この人が上機嫌になるところなんて、こっちに来てから一度も見たことがなかった。
「足を捕まえたわ。もうすぐ、ここに来るそうよ」
「は? 足?」
「車よ。お前もこの後、疲れた身体で電車を乗り継ぐのは嫌でしょう」
姉は上機嫌に、また煙草に火を点ける。
確かにありがたいが、一体誰なのか。
この人が女友達といるところも、あまり見たことがない。
ましてや、車に乗せてくれなんて頼み事をするなんて。
「――ああ、来た。全く、歩き姿まで適当なのだからすぐに分かってしまうわね」
麗奈が、煙草を指に挟みながら頭上で手を振った。
ゆらゆらと火が揺れる。それはまるで、妖しいものを呼び出す儀式のようで。
「おーい麗奈ー。来たよー」
果たして、魔女が現れる。
下がった目尻に、薄桃色の唇から僅かに覗く舌先が蠱惑的だ。声音は甘くて、耳をくすぐる。彼女が揺らす天然パーマの髪からは、人を惑わす花のような香りがした。
「十二分と二十五秒遅刻よ、瞳。あなたねえ、いい加減時間くらいは守りなさいな」
「あーあー、うるさいなー。細かいこと気にしてたらお肌に悪いよー?」
「誰が老けさせているのか一度だけ考えてみてくれない?」
「ねーねー麗奈ー、この子は?」
「人の話をたまには最後まで聞きなさいよ……。弟よ。崇仁」
紹介されたので、無言で微妙に頭を下げる。別に愛想良くできないわけではない。
しかし、あまりすり寄ってはいけないと、身体がなぜか警戒している。
「あー、噂の。こんにちはー。藍原瞳だよー」
「……藍原、瞳?」
つい、目が鋭く尖る。牙を覗かせるように、口を開いてその名を繰り返していた。
「御剣の『殺人姫』?」
「……そんな風に言われてたこともあったねー」
くすりと笑って、藍原瞳は肩辺りまで伸びた髪を摘まんでこちらを見ない。
「もう、忘れちゃったけどね」
言動とは裏腹に、この人も陰のある女の人だな、と思った。
× × ×
日曜夜の高速道路の渋滞は激しく、県を跨ぐ移動となると時間も結構かかる。夕食がてら、橋倉たちは長めのトイレ休憩としてパーキングエリアに停まった。
「……あー。腹、減ったな」
橋倉はトイレを済ませ、屋台で食べたいものを片っ端から買っていく。
試合の後は、いつも腹が減って仕方がなかった。
「にしてもパーキングで食う飯って、何でちっとテンション上がんのかね……」
右手に焼きそば、左手にたこ焼き、口には牛串。全部ひとりで食べるつもりだった。
うざったいほどに暑い八月だが、夜となると少しは涼しい。冷房に当たるのが嫌なので、屋外の空いているテーブルに座ってしばし食事に集中する。すぐに食べ終わった。
するとそれを待っていたのか、対面の席に、食べ物とは全く違う匂いの固まりが座った。
藍原だ。身体が、警戒を始める。
「あは、食べるねー。豪勢だねー」
「……姉貴の金なんで」
晩飯代と手渡されたのは五千円札だった。千円札と間違えてんじゃねーのと思ったが、まあ奴が上機嫌に戻ったならそれに越したことはない。
「麗奈も太っ腹だねー。甘やかしたいお姉ちゃん心かなー」
「……はあ?」
「優勝したでしょ、インハイ個人戦。今日の団体は負けちゃったけどね」
嫌なことを思い出させる。串から牛肉を引きちぎるついでに、曇った顔を逸らした。
「……恥だ。あんなもん」
「あはっ、一位なのに? そんなこと言わずにー、せっかく三十分も粘って勝ったんだよ?」
藍原が卓から身体を前に乗り出すと、人を駄目にするような甘い匂いが鼻腔をくすぐる。
「もうちょっと、笑ってもいいんじゃない?」
官能的な声音が、そこで留まれ堕ちろと魔女の誘惑めいて耳を舐めてくる。
「うるせえ。こんな低いところで、どうやって笑えってんだッ!」
だから、激した。何もかもが癪に障る。
姉の友人だろうが御剣の殺人姫だろうが知ったことではなかった。
触れることも、踏み入ることも決して許したつもりはない。
腐肉は犬にでも喰わせていろと、牙を剥いて容赦なく噛みついた。
そのはずなのに。
「あはっ。……なーんだ、君もちゃーんとこっち側なんだ? じゃあ、いっか」
いつの間にか空かされ、すうっと頭を撫でられたような気がして仕方がなかった。
妖しい笑顔を浮かべて、彼女はちろりと舌を覗かせる。
近づくなと身体が反応していた理由が、今になって分かった。
「君、弱いもんね。びっくりするぐらい」
この人は、自分などより遥か高みにいるのだ。
「見れたレベルは胴技くらいかなあ。他は酷いね。突きなんてあんなの、前に竹刀出してるだけだし。あは、そりゃー入らないよ。ちゃんとできてたら、決勝は延長なしで終わってたよね」
「………………」
その通りだ。
同じことを考えて、個人から団体までの間は突きに重点を置いていた。……それから。
「ねえ、崇仁くん。決勝の最後の技、なんで逆胴選んだの?」
「……それは」
言えない。言っても分かるわけがない。
黙り込んで、左の拳を強く握る。
すると藍原は、空いた手で口元を押さえてまた笑った。
「あれがねー、いっちばん下手だったねえ。あは、ていうか入ってないから。延長補正ってやつじゃない? 粘るのも持ち味だからいいけど、最後くらいエレガントにばしっと決めないとカッコ悪いよねー。君に憧れて剣道やりましたーって人、いなさそう♪」
全く、さすが姉が連れてきただけある。
言いづらいことをずけずけと、人を突き刺すように。
「反論はあるかな?」
「……いえ」
身体から、警戒が解かれる。目を見て、十度くらい頭を下げた。
「ありません」
試されていた。そして、果たして自分に試す価値があったのかどうか。
問いかけるように藍原を見つめると、彼女は頬杖を解き、悲しそうに笑った。
「ごめんね。意地悪しちゃった」
「そんなことないです。……ありがたかった」
今の自分は、奴の次元から見たらどの程度なのか。
それだけが知りたかったのだ。
「……崇仁くん」
「はい?」
藍原が指で自分の口元をとんとん触り、言ってくる。
「笑ってるよ。気付いてる?」
「……んなわけねーでしょ。馬鹿にされてんだぞ」
「あはっ、無自覚かー。……笑ってたよ。助かった、って顔だった」
また陰のある笑顔で笑い、藍原は席を立つ。
そしてその場で、星空を見上げた。
「惜しいね。なんでいっつも、間に合わないんだろ」
「……間に合わない?」
「あたしにも、弟分がいてねー。……崇仁くんにも、会わせたかったな」
泣きそうな顔で、彼女が振り返る。
下がった目尻から、まるで涙が見えるようだった。
「君みたいな顔して、よく笑ってたんだ」
「……剣道、強いんですか?」
「うん。……宇宙一、ね」
息を呑む。
それ以上、藍原に何かを言われたわけじゃない。
だが、誰のことを語っているのか、なんとなく分かってしまった。
「宇宙一、強かったんだよ。……あの子は」
そしてなぜ、過去形で語っているのかも。
橋倉は、ポケットに入れたその紙を震える手で握る。
聞きたい。……聞けない。
聞いたら最後、目を逸らし続けた現実と虫の知らせは、真実になってしまう。
「……行こっか。麗奈も来たし」
彼女が指差す方向を観ると、確かに喫煙所の方向から姉が歩いてくるのが見えた。
しかし藍原自身は、広い夜空を見上げているままだ。その目の先を追う。
雲が流れてきているが、そこにはため息が出そうなほど綺麗な星空があった。
故郷を離れ、今住んでいる場所とは大違いの。
「藍原さん」
「んー?」
「……御剣まで。あと、どれぐらいの距離がありますか」
藍原の車の行き先は、自宅ではない。
インハイ会場のある県からなら、直接向かったほうが早いのだ。
鬼の棲む山――御剣館には。
「まだまだ。……ずうっと、遠いよ」
そうだ。……遠いのだ。まだまだ、程遠い。
奴を斬り殺せるその距離まで、全く迫り切れてなどいない。
橋倉は瞑目し、奴の名前がない紙を再び破かんばかりに強く握りしめた。
答え合わせをしたくない。そんな失望はしたくない。
だが、どうしても。
「藍原さん」
どうしても奴を斬り伏せたいなら、在処を問わねば始まらないから。
「御剣悠は、どうして今回、いないんですか」
躊躇い続けたその問いを、彼女に投げかけてしまった。
もはや己の中で、答えが出てしまっている問題を。
「……あの子は、ね」
ようやく気付けたのだ。遥かに劣る自分でさえ、低い山に登るのはこんなにも虚しい。
ならば、奴は。
前回、誰よりも高い場所に、簡単に登り切ってしまった、奴は。
「剣道、辞めたの」
「……ッ」
空虚な爪先が紙屑を破く。
憤りを感じずにはいられなかった。
気に入らない。気に入らない、気に入らない、気に入らない!
強ければ何でもいいのか。追ってくる奴のことは考えないでいいというのか。
一番高いところにいれば、他は見下し嘲笑っていいというのか。
「強けりゃ。……逃げても、いいってのか?」
一番ひたむきであってほしかった。
一番泥臭くていてほしかった。
自分が追う強さの果てに、あの男がいて欲しかった!
「くだらねえッ!!!」
あらゆる憎しみで尖った牙が、己の唇さえ食い破る。
静かに滴る血液が、獣の涙のようだった。
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