「灰色に鳴る」二合目:斜陽


 ――全員、死ね。何が『常勝』だ。

 ゴミしかいねえ。

 秋水大付属、一年生にして大将――橋倉崇仁は今、目の前で勝敗が決した試合を見届けて舌を鳴らした。

 インハイ本戦――全国大会、男子団体の部。その初戦。ここにチームの勝敗が確定した。

 剣道の団体戦は五人が順番に戦う。先鋒次鋒中堅副将大将の順に。

 そういう試合もあるが、公式戦では勝ち抜きが不可能だ。よってどれだけ強力な剣士がひとりだけいようと、チームとしては一勝を確保できるだけにすぎない。

 五人戦ということは、大将に回る前に三人勝つか負けるかでチームの勝敗は決まってしまう。

 今、目の前で三人目のカスが負けた。

 橋倉は牙を剥き舌を鳴らし、竹刀を携え戦場に向かう。

 三年生の副将がちょうどコートから出て、白線上を沿って敗走してくる。

 奴は右拳を掲げた。これは団体戦で行う儀礼だ。拳をぶつけ合った後、互いの胴を叩いて「行ってこい」と激励するバトンタッチのようなもの。

 しかし橋倉は、その手を掲げることはしなかった。

 代わりに、血走った灰色の眼で睨み付けて言い放つ。


「死ね」


 触れたくない。雑魚がうつる。あまりに情けなさ過ぎて、涙さえ滲みそうだった。


「こんなところで……ッ」


 尖り過ぎた牙が、己の唇さえ食い破る。憎悪と血で汚れた刀を携え、白線を踏み越えた。

 何のためにここへ来た。何のためにここで生きた。

 再び頂点に這い上がって、剣鬼(あいつ)を殺すためじゃなかったのか。

 なのに、どいつもこいつも足を引き。そのうえ、奴は――。

 橋倉は一線を踏み越え、剣を抜く。


「始め!」

「鬼ィぁああああああ―――――――――――――殺ャああァああッ!!」


 怨念を吠える。

 行き場を無くした狼の爪先が、紙を破るように簡単に相手を裂いていった。




 × × ×




「おい橋倉! 待て!」


 試合が終わり、部活の顧問である村瀬の話が終わった瞬間、全員集合の命令を無視して荷物置き場に戻ろうとすると、引退する雑魚の総大将が呼び止めてきた。

 競技場外の体育館廊下に、遠吠えが耳障りなほどよく響く。舌打ちと共に振り返った。

 三年生三人と、その後ろに所在のなさそうな瀧本がいる。


「ああ、お疲れ様。引退してくれてありがとよ。清々したわ」

「……っ、お前! ふざけるな! 先輩に向かって、その態度は何だ!」

「……態度? 態度つったか今? 千度負けても何も改まんねえてめーらが態度っつったのか」


 一度でも。

 一度でもこいつらが、負けて心の底から己を鑑みたことがあったのか。

『常勝』の名にたかり、それ以上は何もしないカス共が。

 中途半端な二流ほど、性格も言動も話にならない。二年も、多く生きているというのに。

 枷を握りしめるように、右の拳を強く握る。

 手を出してはいけない。人を殴ってはいけないと、生まれ変わったときに強く誓った。


「はぁ? ちょっと強えからって調子乗ってんじゃねえぞッ!」

「一年で大将だから何だっつうんだ」「お前なんてどうせ――」


 だが。


「石動のコネで入って、大将になっただけだろうが」


 こいつらは、人間ではなかった。


「死ね」


 黒く濁った血が、拳を動かす。

 ゴミの顎をごきんと鈍く打ち抜いて、壁に叩き付けていた。

 場がざわめく。押さえつけにくる。何事かと周囲が騒がしくなる。

 だが、静止できる理性は既に無かった。


「てめえらが先輩だと!? ふざけるなはこっちの台詞だカスどもがッ!」


 予選でも一度激したことはあったが、あのときは瀧本に免じて矛を収めてやった。

 だが、負けてしまった今回だけはもう、我慢ならない。

 吹き飛ばした奴の胸ぐらを掴んで吠え続けた。


「おめーらには歳ぐらいしか誇れるもんがねーのか!? どいつもこいつも、この雑魚共が! いい加減にしやがれ! おめーらなんざ負けて当たり前だ! 今ここで、腹切って死ね!」


 引き剥がしに来る奴を蹴り飛ばし、殴られても言葉は止まらない。

 限界だった。

 何を我慢して、こんな畜生共と団体を組んだのか、もはや分からなかった。


「おめーらが三年間、一体何してきたってんだ!? 厳しい秋水の稽古に堪えました? 頑張りました? うるせえそんなもん当たり前なんだよこのカス共が! 苦労に酔ってんじゃねえ! じゃあ聞くけどよ、全国大会は我慢全国大会なのか!? 一番我慢した奴が無条件で優勝すんのか!? 違うだろうが! 勝つために何してきたかが重要なんだろうがッ! おめーらは……おめーらは、ここに居座る以外で、勝つために何してきたって言うんだッ!」


 狂ったように吠えると、なぜか涙が止まらない。

 どんな稽古でも泣いたことがなかったのに。ただ、下らない他人への絶望が胸を締め付けた。

 どうしてだ。

 どうして属する場しか、名前しか、誇るものがない。


「秋水に来たら自動的に強くなんのかよ! 仲間との絆とやらで、勝手に強くなるってのかよ! ……ふざけんな。ふざけんなァッ! 他のこと全部捨ててでも、独りでも、勝ちてぇ奴がいるからおめーらは剣道してるんじゃねーのかッ!」


 間違いだった。こんなところに来たのは、間違いだった。

 故郷を捨てたのに。頭を下げたのに。

 何より離れがたい恩師の顔に、泥まで塗りさえしたのに。

 ――なんでだ会長。どうしてこんなところに、俺を寄越した。

 これが罰だというのか。

 こんなゴミ溜めを新たな家として、生きろというのか?


「……くそ。……ちくしょうッ!」


 やがて他の部員たちがやって来て自分を引き剥がし、事態を収束させる。

 余所にも、連盟にも漏れることはなかった。

 部内には箝口令が敷かれ、自分はしばらく秋水の一員としての試合を禁じられた。


「……好きにしろ。こんな腐ったとこは、捨ててやるッ!」


 つくづく、業が深い。

 もはや居場所を、最後の拠り所に求めるしかなかった。

 そこにならきっと、剣鬼(やつ)がいる。いるに、決まっている。


「……蒼天旗だ」


 一番強い奴を斬れるその場所だけが、行き場を無くした自分の唯一の在処だ。




 × × ×




 閉会式が終わり、顧問との話も終わり、荷物を揃えて体育館の外に出る。

 夕陽が眩しい。ずっと屋内にいたから、入ってくる光量が多い。目を瞑ってしまう。

 ようやく慣れてきた頃に眼を開くと、そこには誰もいなかった。


「……清々する」


 強がりでも何でもなく、独りが心地良い。独りなら、誰にも牙を剥かずにいられる。

 もう誰とも何も話したくないほど、疲れ切ってしまっていた。


「橋倉」


 そんなときほど、人は尋ねてくる。

 もう、噛みつく気すら起きない。怒るのだってエネルギーが必要た。

 同じ一年にして、既に百九十を越える肉体を持つ瀧本が、同じく独りで声を掛けてきた。

 奴は僅かに口元を緩ませて、竹刀袋を肩に掛けていた。


「蟄居やと聞いた」

「……武士みてーな日本語使ってんじゃねーよ。謹慎って言え。しばらく試合禁止なだけだ」

「はっは、お前になら通じるじゃろ。何でも読みよるからな」


 別に好きでいつも本を読んでいる訳じゃない。単に、居場所がないだけだ。

 人と距離を突きつけるのに、本は便利だ。踏み込んで来たら、邪魔するなと怒る大義名分もできる。いつも新しい本が少しずつ増えていく姉の本棚には、世話になっていた。


「……何しに来やがった。笑いに来たのか」

「阿呆。逆じゃ。……礼を言いに来た」


 百九十の巨体が、折れる。

 黒々とした短髪が、陽光を吸収していた。


「よう言うてくれた。スカッとしたわ」

「……おめー、止めなかったな。予選のときは止めたのに」

「そら予選は人が見とる。出場停止になったら困るからのう」


 息が抜けるように奴は笑う。ややあって、じゃが、と奴は続ける。


「もう、負けてしもうたからな。……あいつらは、阿呆じゃ」


 こちらではなく、瀧本は沈み行く太陽を遠い目で見ている。

 少しだけ手を伸ばそうとして、何かを悟ったようにすぐにその手を下げた。


「『常勝』、か。……もはや、名前だけじゃのう」

「まあ負けたからな。たった今」

「そういう問題とは違う。……俺らの県は、弱いからのう。全国には、腐っても行けよる」

「……負けかけたとこが一校だけあったろうが」

「じゃのう。あの瞬間だけは一瞬、学校間違うたかと思うたわ」


 嫌な相手だった。きっと今後もつきまとってくるだろう。

 こういう勘は良く当たる。

 思わず禁を破って味方のカスを蹴り飛ばしてしまうほど、イラついて嫌な相手だった。

 舌を打ってそっぽを向いていると、尚も瀧本は話し続けた。


「外から見たら、綺麗に見えるんやろうのう。毎年全国に出るん言うんは」

「……こんな腐ったとこはもう終わりだ。おめーも身に沁みてんだろうが」


 警鐘は、鳴っていた。

 今年、特待生の確保はあまり上手くいかなかったらしい。

 真に強い奴ほど、環境の善し悪しには敏感だ。

 自分のように半ば選択肢がない限りは、もはや好き好んで選ぶ場所ではないだろう。

 学費無料の特待生枠は、二枠。自分と、もうひとつはこの男が取った。

 なぜここに来たのか、問うたことはない。この先もきっと問わないだろう。


「辞める気か? 橋倉」

「……知らね。しばらくは、顔出すこともねーだろうよ。謹慎もある。……蒼天旗もある」


 蒼天旗は、一週間ぶっ通しで行われる。顧問にも休む許可は取ってあった。

 夏休みが終わって二学期になるまで、もうこの男と話すことはないだろう。

 最後に汚いツラぐらい拝んでおくかと、視線を感じるので振り向いた。

 変な表情だった。

 奴は、泣き出しそうになるのを堪えながら、笑っているように見えた。


「俺は、辞めんぞ」

「……馬鹿じゃねーのか。おめーならまだ芽があんだろ。好きによそに行けばいいじゃねーか」

「出来ん」


 首を振って、奴は沈み行く夕陽を背負って言う。


「もう俺は、逃げられん。ここで死ぬしかないんじゃ」

「……そうかよ」


 理由は、問わない。それがせめてもの礼儀だと思った。


「それに、のう。……特待で入った。俺が椅子を取ったばかりに、そこから漏れた奴もおる」


 顔向け出来んじゃろ、と奴は笑う。信じられない。


「……おめー、馬鹿、か?」


 側頭部を鈍器で殴られたような衝撃を感じていた。

 理解ができない。こいつは、いない他人なんかの重みを背負おうとしている。


「泥船から逃げ出せたんだ。むしろおめーに感謝してんじゃねーのか」

「じゃが、自分で乗りたい言うとった。そいつを、勝手な理由で押しのけたんやぞ」


 それにと、奴は続ける。


「ここで辞めるなら、何で俺はお前と暴れんかった? ……何のために、堪えたんじゃ」


 拳を握って震わせて。またしても勝手に背負って、瀧本は歯を食いしばる。


「黙ってても、場所は変わらん。……俺が、どうにかするんじゃ。そんためには、上に立たんと始まらんやろうが」

「……猿山の大将を目指すってのかよ。だったら、殴って聞かせたほうが早えだろうが」

「それは、いかん」


 また、奴は真っ直ぐに言い切って首を振る。


「上に立つ奴は、一度でも汚れたらいかん。分かるじゃろ」

「……理想論だな」

「それでもじゃ。……汚れは、上から下に流れよる。今がそれを証明しとる」


 眩しくて、瀧本を直視できない。「暴れたらいかん」

 顔を背けて耳だけ向けていると、何よりも痛い言葉が奴から発された。




「一度貼られたレッテルは、簡単には剥がせんもんなんじゃ」




 業。

 そんな言葉を、秋水にいると常に思い浮かべてしまう。


「勝手にしろ」


 竹刀袋と防具袋を携えて、瀧本に背を向けて歩き出す。


「またな。橋倉」


 言葉で、胸が痛い。

 逃げて、見捨てて背中を向けたのだ。


「待っとるからな」


 なのに、負け犬のレッテルをそこに貼ろうとしない。

 そんな善意が、何よりも自分に辛かった。

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