「灰色に鳴る」一合目:秋水組血風録



「おい快晴。何ぼーっとしてんだよ」

「あ、橋倉先輩。お疲れ様です。……いや、相変わらず死んだふりが上手いなあって」


 秋水道場に広がる裂帛の気合いの声をそよ風のように受けて、その男は穏やかに腕を組んで道場の下手に立っていた。

 乾快晴。人呼んで笑わない男。

 現時点で、地上最強の後輩だ。


「瀧本待ちか? わりーが無理だぞ。あいつは紺野を捕まえに行ったからな」

「ああ……。どうにも飄々と逃げますよね。でもレギュラーという」

「……まあ腕は悪くねーよ。性格は知らねーけどな」


 人格と強さは連動するか。少なくとも目の前の後輩は、それを証明している気がする。


「あーいうのは真っ直ぐな奴に預けた方が早えからな。三年も見てっと色々分かる」

「……橋倉先輩って、意外とちゃんとそういうの見てますよね?」


 顔を逸らして舌を鳴らす。恥ずかしい、ではない。


「苦労、してるんですね」


 余計なことを漏らしてしまった、だ。

 副主将が稽古中に、口にすべきことではなかった。


「うるせえ」


 ただでさえ今日は、顧問の村瀬が留守にしている。

 理不尽でも何でもいい。奴が自分より強かろうが、空気を締める必要があった。


「稽古中に下らねーこと喋ってんじゃねえ。殺すぞ」


 馴れ合いはいらない。快晴とでも。


「……失礼しました。では、地稽古をお願いします」


 そうしたら、真意を理解したのか、それとも単なる闘争心の発露か。


「楽しみにしてます」


 奴はぺこりと頭を下げてから、挑発的に笑って。

 この灰の瞳をしっかりと見据えて、少しだけ懐かしいことを言った。


「殺せるものなら」

「……くくっ」

「あ。笑った。……覚えてました?」


 忘れるわけがない。初めて、こいつと出会ったときのことだ。

 だが、ここは戦いの場。


「知らねえ。忘れちまったよ」


 そんな記憶は必要ない。早く上手に行けと、竹刀の柄で空いたスペースを指した。

 すると、快晴は久しぶりに曇った顔で「はい」と頷き、とぼとぼと歩いて行く。


「……そっか。……僕は結構、噛みつかれて嬉しかったのになあ……」


 情を湧かせるようなことを言う。

 今度は橋倉がため息を吐き、籠手を外して後頭部を掻いた。


「丸くなりやがって。……それでも今が一番強えってんだからな」


 調子が狂う。最近、昔とは異なることばかりだ。

 だが自分の方は、染みついて変わらないことも未だにあったりする。

 気付くと、地稽古のときは道場の全体を見渡しているのだ。

 そして、灰の瞳は自動で獲物を追尾する。

 ――ちっ。最近マシになったと思ったが、また湧いてやがる。


「おい快晴。やっぱ地稽古はなしだ。最後に回すぞ」

「……ええー? 逃げるんですか」

「ボケ、日本語パーか。最後に回すって言ってんだろ」


 にやりと笑って、啖呵を切る。


「美味えのは最後に残しとけよ。その方がおもしれーぞ」

「……今日こそ、逆胴決めてやりますからね」


 負けず嫌いめ。まだ覚えていたのか。

 橋倉は笑い、しかし最後の一押しだと煽ってやる。


「はいはい、無理無理。あれから三ヶ月、一本でも俺っちに入ったか?」

「今日がその日です。早くしてくださいね。…………くそ、練習しよ」


 よし。入った。これで周りが見えないだろう。

 あとは、それなりにやるスケープゴートだ。

 橋倉は丁度竹刀を納めた秋水レギュラーのひとりを見つけ、呼び立てる。


「おい影下ァ―――! 来い!」

「あ! はいっす! 呼ばれて飛び出まーすっ!」


 小さく素早く、影下彰が一目散にこっちに走ってくる。

 面金の中では童顔と、それから茶色い瞳が揺れていた。


「なんでしょう! なんでしょう! なんでしょう!」

「……一々うるせーな。返事は一回でいいんだ」

「でもでも三倍あったほうがお得っすよ!」


 がん、と面金を柄で殴った。やかましい。


「快晴の相手、しといてくれ」

「……あ、あの奥で待ってるやつですか? な、なんか蒼い炎出てません!?」

「くく。また逆胴チャレンジだろうな。……三本までに押さえたら、何か奢ってやるよ」


 人望はない。だから、モノで釣る。

 そうしたら、影下は首を傾げて言った。「いいんすか?」


「あ? いいに決まってんだろ。五百円までだぞ」

「そうじゃなくて。……オレに譲って、いーんすかって意味です」

「……いいさ。俺っちには、他にやることがある」


 意外と、よく見てる。

 自分が一年の頃はこうじゃなかった。他人が何を望んでいるかなど知ろうともしなかった。

 誰とでも仲良くなれるような明るい奴は、やはり見えている世界が違うのだろうか。


「とりあえず死んできな、下手くそ。期待してねーぞ」

「……ぐぬぬー! 行ってきまーす!」


 べーっと舌を出して、奴は死地へと駆けだして行く。

 やはり弱くとも、秋水のレギュラーを獲るだけのことはある。


「……さて」


 準備は整った。誰も見てない。

 上手に立つ瀧本に一瞬視線をやると、目が合う。

 右小手の親指を立てて道場下手にいる獲物を指し、そのまま指で首を掻ききる動作をした。

 奴が一度、重く頷く。

 許可が出た。仁義は通した。……だから。



 ――殺るか。



「おい」


 灰の瞳でぎろりと睨み、怠ける一年の肩を掴んだ。


「楽しそうだな。……俺っちとも、遊べよ」




 × × ×




「いやー今日も疲れましたねえ! みなさんおつかれおつかれおつかれっす!」


 三倍挨拶、影下彰が部室に帰って元気に挨拶をすると、大勢居る部員みんなから「うるせえ」「疲れてんだ」「うぜーぞ」と罵倒が返ってくる。

 みんなひどい。せっかく明るくしてるのに。

 しょぼんとうなだれてレギュラー陣のロッカーのところに着替えに行くと、もう学ランに着替え終わった銀縁眼鏡の男とすれ違う。

 一つ年上の、紺野翼だ。笑うと糸になる目を今も細めて、ぺこりと頭を下げた。


「お疲れ様でした。では失礼します」

「ちょ、ちょっ、着替えるの早すぎませんか紺野センパイ!?」

「君が遅すぎるんですよ、影下。一体どこで遊んでたんです?」

「遊んでないっすよー! 掃除手伝ってたんです!」

「一年は免除なのに? 君もお人好しですねえ」 

「だって落ち着かないんすもんー! 普通手伝いたくなりません!?」


 秋水大付属剣道部には、色々と厳しい規則が定められている。

 破ると、色々と厳しいことになる。主に練習での先輩方によるかわいがりが。

 ぴっしり守って楽しく練習すべきである。影下はふんすと鼻息を吹き出す。

 ただ、分からないルールだって多い。


「なーんで三年生が掃除も片付けもやることになってるんすかね? 普通逆じゃないっすか?」

「さあね。瀧本キャプテンたちがそう言ってるんなら、享受すればいい。……では、お疲れ様でした」

「あっ、ちょっとー! もうちょっとだべりましょうよー!」

「無意味です。さよなら」


 一刀両断。つれない人だ。かなしい。

 しょんぼりとしていると、「また影下がフラれてんぞー」というヤジが飛んで来た。


「ちーがうっすよ! これはツンデレってやつなんす!」


 部内の雰囲気は、いい。

 稽古も規則も厳しいけれど、まとまっている感じがする。やっぱり『常勝』秋水となると、みんないい人たちが集っているのだろうか。

 影下が胴着のまま腕を組んで考えていると、部室の扉から、ぬっと巨体が入ってきた。

 瀧本だ。


「おう、お疲れ」


 ――あっ、お疲れ様ですー。キャプテン!

 みんな笑顔で、軽く頭を下げて明るく返事をする。すると瀧本も破顔した。


「なんじゃお前ら、元気じゃのう。もっと練習増やすか?」

「えー!? 勘弁してくださいよ!」「今でも死にかけですよ!」「これ以上は!」


 彼の近くには、部員たちが自然と集まっていく。

 稽古中は厳しく手を抜いてくれないが、終わったらちゃんと優しい。主将というところもあって、みんなの信頼はバツグンであり、誰もが頼りにする。話しかけにいく。

 しばし、談笑を含めて明るい雰囲気が部室に流れる。……しかし。

 がちゃり、と部室の扉がもう一度開く音がする。

 撃鉄が起こった音のようだった。


「「「お疲れ様ですッ!」」」


 さっきまでの弛緩した空気が嘘だったかのように、彼の姿を認めると皆が腹から声を出し、頭を下げる。

 橋倉だ。

 彼は険しく整った顔立ちを緩めることなく、部員の挨拶にこくりと頷く。

 レギュラーのロッカーに向かって歩くと、誰もが静かに道を空けた。

 稽古前と稽古後、橋倉はほとんど話さない。

 話しかけたら殺すぞ、という雰囲気を常に纏い、静かに眠っているか本を読むかしている。

 瀧本とは違って、彼は誰とも群れないし群れたがらない。

 部員も、僅かな例外を除いて誰ひとり近寄ろうとしない。

 誰もが橋倉の強さを畏れているし、怖れているのだ。


「橋倉センパーイ! おつかれーっす!」


 なので僅かな例外は今日も話しかけにいく。みんなもったいないことしてる。

 にこにこ目の前に回り込むと、ヤクザみたいに顔をしかめてきた。


「……いいから早く着替えやがれ」

「おつかれっす! おつかれっす! おつかれっす!」

「うるっせえ! おめーと絡むのが疲れんだよ!」


 秋水名物、橋倉キックがどげしとボディに入ってしまった。痛い。


「……足長いっすう……。ちびだから羨ましいっすう……」

「蹴られた感想がそれかよ……。ほんっと騒がしい奴だな、おめーは」


 はあ、と橋倉が肩を落とす。表情から険が取れた。

 これで勝った。影下が小さくガッツポーズをする。

 すると、向こうで部員と話している瀧本の表情が少し緩んだ気がする。

 なんでだろう。別に面白いことをしているわけではないんだけど。気のせい?

 考え込もうとすると、珍しく橋倉の方から着替えながら話しかけてきた。


「よう。逆胴チャレンジの結果はどうだったんだよ」

「えっ、見てなかったんすか? 結構粘ってたんすけど」

「……まあ、仕事があったのさ。いいから結果だけ言いな」

「…………五本もらっちゃったっすう……」


 蹴られるかな。怒られるかな。

 そう思って身構えたのだが、橋倉はまたため息をつき、染めた前髪を右手で押さえて俯いた。


「……打つ技は分かってんだ。もうちょい、なんとかできねーか?」

「……す、すいません」


 謝る。

 でもこの反応は意外だし、不自然だ。

 いつもの橋倉なら「期待してなかった」と冷たく吐き捨てて終わるはずなのに。


「……橋倉センパイって、乾センパイが逆胴これで暴れる件、すげー気にしますよね」


 初めて快晴が暴れたときだってそうだった。

 なすがままにされてへこむ自分たちに、珍しく「しっかりしろ」と激励に来た。

 部活に入って三ヶ月。

 この人の性格を知った今なら、あれは不自然なことだったのだと分かる。

 なんでなんで? と首を傾げて橋倉を見ると、また意外なことに、彼が苦笑した。


「何でもねーよ。……今となっちゃ、杞憂さ」

「キユウ? なんすか? 果物?」

「……おめーもうちょい日本語勉強しろよ。まあ故事だから中国かもしんねーけどよ」


 白い肌に灰の瞳をした、異邦の出で立ちの彼にそう言われる。

 ハーフなのだろうか。クォーター? 海外経験は?

 そういったことも、彼は決して話さない。過去を語らない人なのだ。

 だが、今は雰囲気が柔らかい。もしかしたら、今なら――。


「あ、あの! 橋倉先輩!」


 そう考えていたとき、話しかけたのは自分じゃなく、一年の同輩だった。


「……おう」

「今日は、すいませんでしたッ!」


 彼に頭を下げられ、橋倉は表情を凍らせる。

 肩に触れることも、蹴り飛ばすことも、何もしない。

 だが、ぞっとするような低い声で。


「次は、ねーぞ」


 そう言った。

 頭を下げて、彼は部室の外に走り去る。

 そして、何事もなかったように橋倉は着替え続ける。影下は同じく着替えながら、おっかなびっくり問うた。


「な……何したんすか?」

「何もしてねーさ。楽しく稽古だ。決めたルールは守ってる」


 学ランに袖を通し切った最後、もうこれ以上近寄るなと言い渡すように、こっちを見て橋倉が嗤う。


「……ルール以外は知ったこっちゃねーけどな」


 びくっと、一歩引いてしまう。

 それを見て彼は満足したのか、部員と話し終わった瀧本に声をかける。


「快晴はどこ行った?」

「まだ鏡の前じゃ。凄い顔して逆胴の軌道研究しとったぞ」

「……へ。意地でも、逃げきんねーとな」


 橋倉と快晴の最後の地稽古は、みんな見ていた。

 今日も、彼にその技は入らなかった。

 本当に、強いのだ。橋倉は。

 快晴と悠がいるから、みんな感覚が麻痺しているだけで。

 この人は、誰かの英雄にだってなれるほど――。


「じゃあ俺っちは、警察行ってくるわ」

「おう。おつとめご苦労じゃのう」


 頭がトリップしかけていると、ふたりはそんなことを言う。

 あまりに驚いて、影下は荷物をその場に落としてしまった。


「……んだよ、影下。その目は」

「は、橋倉センパイ、警察行くんすか……?」

「あぁ? そう言ってんだろーが」

「出頭っすか!?」


 橋倉キックがまたまた無慈悲に太ももに刺さった。


「余罪プラスワンっすう……ッ」

「うるっせえボケ! 何誤解してやがる! 稽古だ!」

「け、稽古……?」

「警察道場だ。……姉貴が待ってんだよ」


 橋倉の姉。

 噂にだけ聞いたことがある。彼はよくゴリラと言うが、美人で怖くて、あと美人だとか。

 しかし、それは今はいい。

 彼もやっぱり、練習後に練習に行く人だったのだ。

 だから、あんなに強い。


「じゃあな」

「あ、あのっ! 待ってください!」


 剣道具を持ち、この場を去ろうとする橋倉の背に向かって叫ぶ。

 大きな声が出てしまい、何事かと他の部員たちもこちらを見ていた。


「んだよ」


 振り返る橋倉の表情に、好意的な色はない。

 分かる。ここから先は彼の領域だ。踏み込んだら、噛みつかれるだろう。


「オレも、連れてってくれません?」

「……はあ?」

「まだまだ動き足りないっす。元気ありあまってるんで」


 嘘だ。本当はもう竹刀なんか握りたくない。

 でも、にこにこ笑いはどんな状態でも使える得意技だった。


「お願いっす。ダメですか?」

「……練習してーなら、快晴に頼めよ。錬心館に――」

「ダメですかね?」


 食い気味に言う。

 少し、勇気が要った。本当に嫌われてしまうかもしれないということは、怖い。

 ダメかな。引こうかな。

 そんなことを思っていると、助太刀してくれたのは意外な人だった。


「橋倉。連れて行ったれや」


 瀧本は絶対、橋倉の味方をすると思っていたのに。

 優しく笑い、彼は大きな手でこの小さな肩をぽんと叩いて言った。


「男が、頼んどるんや」

「…………ちっ。五分で防具纏めてきな」

「はっ、はい!」

「校門にいる」


 ばたん! と乱暴に扉を閉めて橋倉は出て行く。

 振り向き、瀧本の大きな身体に向かって頭を下げた。


「……すんません。迷惑かけるっす」

「ええよ。せっかく同じ家におるんじゃ。助けたる。……じゃが、半端はやめえよ」


 瀧本は静かに首を振る。だがその目の光は、揺らいでいなかった。


「あいつに下らん迷惑かけたら、お前は退部じゃ」


 退部。

 この懐の深い人がその言葉をちらつかせるほど、二人の間には深い何かがある。


「分かってます」


 誰とでも仲良くなれる自分だが、そんな間柄を誰かと持てたことはない。


「オレも、秋水の一員なんで!」


 明るく家の名前を語ってみせるが、少しも一員になれた気はしなかった。




 × × ×




 橋倉が警察署の門をくぐると、後ろ暗いことだらけだからか気が引き締まる。


「おお……パトカーがありますよ! 橋倉センパイ!」

「そりゃあるに決まってんだろ……」


 それにしても面倒なことになってしまったなと、橋倉は竹刀袋を持っていない右手で、ぐしゃっと赤い前髪を掴んだ。目を細めて沈みかけの夕陽を見上げてから、腕時計を確認した。

 土曜、十八時前。稽古開始は十八時半だから、まだ時間がある。


「ちっと自販機で水買っとくわ。おめーはどうする?」

「あ、じゃあ着いてきますよ。ひとりで入るわけにもいきませんし!」


 こちとらひとりになりたいのだが、流石に放置するわけにもいかないか。

 橋倉はため息をついてから、署の外周をぐるりと回っていく。裏手には喫煙所があって、ベンチと自販機が置いてある。あまり人も来ないことから、稽古前はよくそこでうたた寝をするか、姉の本棚から適当に取った本を読んでいるかして時間を潰すことが多かった。

 しばしふたり無言で歩いて、目的地に辿り着く。

 先客が、ひとりだけいた。

 白くて細い指先に同じく細い煙草を挟んで、その女性はぼうっと夕陽を見上げている。

 灰色の眼を細めると、長い睫毛がよく見える。彼女は焦げ茶の長いポニーテールを空いた手でひと撫でした後、くびれた腰に手を当てた。スレンダーというのか、細くてしなやかな身体に夏用の黒いレディーススーツがよく似合っている。

 歩み寄るうちに、彼女が煙草に唇をつける。ゆっくりと吸い込むと、起伏の少ない胸が少しだけへこみ、それから紫煙を重く吐き出した。

 厭世的な、近寄りがたい色気がある。

 まるで己の中にある淀みを吸い上げて、身体の周りに纏わせているような。

 ――相変わらず、近寄りがたい女だ。

 自分に似て。

 苦笑して、橋倉が声をかけるより前に。


「橋倉センパイの、お姉さんっすよね?」


 影下は、姉に話しかけていた。

 虚空を見つめて煙草を吸っていた姉が、ついにこちらを見る。

 珍しく、目を丸くしていた。


「崇仁。……この子は?」

「影下彰といいます! パイセンの後輩です! お願いして練習についてきました!」

「……だってよ」


 勝手に喋る。所在がなくなり髪を掻き、そっぽを向いていると姉は言った。


「崇仁、こちらに来なさい」

「あ? 帰らせる相談か?」

「いいから」


 首を傾げて前に出る。「手を出しなさい」 

 竹刀袋を持っている左手を差し出す。かちゃん。


「……かちゃん?」

「逮捕」


 手錠だった。ガチの。


「おぉいッ!? 辞めろ不良警官ッ!!!」

「刑法224条、未成年者略取及び誘拐罪ね。三ヶ月以上七年以下の懲役」

「ざっけんなさらってねーよ! こいつが勝手に着いてきたんだ!」

「犯人は皆そう言うわ」

「犯人以外もそう言うっつーんだよ! おい、マジで外せ! 警察呼ぶぞ!」

「みんな私の味方だけれどね」


 くすくす笑って、姉は鍵で手錠を外す。ついでに煙草も灰皿に捨てていた。

 おかしい。こんなにテンションの高い姉は。

 当社比で言うと三倍くらい上機嫌だ。ちなみにキレているときのテンションは思い出したくもない。動物的な恐怖が身体の中に今も染みついている。


「お前が誘拐以外で友達を連れてこられるわけないじゃない。一体何事?」

「マジでついてくるっつって聞かなかったんだよ。……まあ、信じなくてもいいけどな」


 どうせ信頼なんかどこにもない。過去に色々やらかしすぎた。

 ふたりを放置して自販機で水を買っていると、話し声が聞こえてきた。


「姉の、麗奈です。崇仁がいつもご迷惑をおかけしています」

「そ、そんな! むしろオレが迷惑かけちゃってますから! すいませんっす!」


 全くその通りだ。こんなところまで着いてきて。

 深いため息をつきながら、橋倉は取り出し口から水を取って振り返る。

 ずいっと前に出てくる影下に、姉がたじろぎ距離を取っていた。


「あのあの! 敬語止めてくれると嬉しいっす!」

「……そ、そう? 馴れ馴れしくないでしょうか」

「そんなことないっすよー! というか、慣れてくれると超嬉しいです! 麗奈さん!」

「れ、麗……。わ、分かったわ」


 ――苦手そうだな。すげー分かる。

 姉もこれで結構、内弁慶だ。慣れるまでは攻められると弱い。

 こういうパーソナルスペースずけずけ少年には、さぞや苦労するだろう。


「確認だけれど、本当に脅されて来たわけではないの?」


 ただ、こういう風にしっかりと意思の疎通を図ろうとするところはやっぱり姉だ。

 真面目な大人は偉大だ。苦手な人間にも、しっかり対応しようとする。自分にはできない。

 姉の作り笑顔に、影下は天然のそれで明るく返事した。


「はいっす! お願いして着いてきました! すいません、迷惑でしたか!?」

「い、いえ。……大丈夫よ。皆には話しておく。影下くんは、秋水の子?」

「イエス! そーです! 一年です! レギュラーです!」

「あら、頼もしいのね。私とするときは、お手柔らかにね」

「あっ、やっぱり麗奈さんも剣道やるんすか!?」

「ええ。嗜む程度に」


 嗜む程度で全日本選手権に出る女がいるか? と思うが、面白そうなので黙っておく。


「ふふ、そう。崇仁が、後輩をね」

「……おい、勘違いすんな。こいつは誰にでも懐くんだからな」

「え、いや。橋倉センパイ、それは!」

「お前と話せている時点でそうに決まっているでしょう。聞くまでもないわ」

「るせえ」


 耳が痛い。相変わらず他人の前でも容赦がない。


「今日の稽古は、楽しくなりそうね」


 しかしそれを差し置いても、機嫌がいい。彼氏に貢ぎ物でも貰ったか?

 怪訝な顔をしていると、にやりと笑って姉は言った。


「私の方も、客をひとり呼んでいるの」


 荒れそうだ。この人の剣友なんて、どうせひとりしかいない。


「藍原さんか。……久しぶりだな」


 御剣悠の惚気を聞かされるのだけは、本気で勘弁してほしいところだった。




 × × ×




 胴着に着替え、橋倉は警察道場の下手に面と籠手をセットする。秋水の道場ほどではないが、ここも綺麗だし何より広い。ひとりで居る場所に困らなくて良かった。

 ここに通い始めてもう三年の月日が経つが、警官の誰とも必要以上の話はしない。

 麗奈の弟だからと、特別扱いもされない。純粋に稽古するひとりだと扱われる。

 乾いた関係だけで居られるこの場所が、何より心地良かった。


「……にしても」


 正座して垂れを腰に巻き、胴に手を伸ばしながらじとっと目を細める。


「――でな。影下くん……大人はいいぞ……」

「ええー! マジすかすごい! 今度オレも呼んでくださいよー!」

「はっはっは、未成年呼んだらパクられちまうわ」

「アキラ彼女いねーのかよ彼女!」

「いやー、今はドフリーなんすよ! でもでも最近合コン企画してまして!」


 影下が躍動していた。


「馴染みすぎだろ……」


 出会って五秒で舎弟。それが影下彰という男。

 社交という才能を太陽光の如く浴びせられている気分になり、橋倉は顔の前に手をかざす。

 一瞬目を瞑ると、ふわり、と花のように甘い香りが漂った。

 びくっと身体が震え、手をどかす。

 桐桜学院の白い胴着と白い袴を着た彼女が歩いてくる。

 あはっとかわいく笑っているが、歩き姿に重心のブレが全くなくて静かに圧倒される。

 胴を着けている途中だが、立ち上がってぺこりと頭を下げた。


「お久しぶりです、藍原さん」

「やっほー、崇仁くんも久しぶり。練成会以来だっけ? 地稽古したっけー?」

「……並びに行こうとしたんですけど、閉店してましたからね」

「あはっ、そうだったそうだった。あのときは悠坊と濃密な稽古をねー♪」


 懸念してたことを早速やってくるあたり、この人はさすが。というか確信犯か。

 一応あの稽古は、自分も見ていた。

 御剣悠と、地稽古をした後だったから。


「御剣にも使ってませんでしたね、上段。……俺っち結局、一回も使ってんの見たことねーな」

「あはっ、出し惜しみ出し惜しみー♪ おねーさんのことが気になっちゃうでしょ?」


 全く言えてる。

 その出し惜しみのせいで、姉は今もこちらを爛々と睨んでいる。怖い。

 髪を掻いていると、藍原はそんな視線を感じ取ったのか、自分の陰に隠れてこそっと言った。


「もうちょっとだけ、出さない。……君たちの試合が終わるまでね」


 少しだけ、顔が紅い。照れくさそうに笑う。

 この人も、昔に比べれば陰がなくなった。 


「一応、大人だからねー。子どもが遊び終わるまで、遊ぶべきじゃないかなーって」

「……へ。そんなちゃんとした大人でしたっけ? 姉貴じゃねーんだから」

「あはっ、麗奈は堅すぎだよねー」

「堅えっつーか金属ですね。温度がねーんだあいつには」

「あれだよあれー。ターミネーターのやつ。ほら、液体の」

「あー、2か。確かにどこまでも追ってきやがる……」


 背後で陰が揺らめいた。迫ってきている。それにしても動物的な地獄耳だ。

 しつこいところも、自分の悪口を聞き逃さないところも、悲しいかなよく似てる。


「しっつこいよねー、麗奈って。……でもねー?」


 ぺろり、と藍原が魔女のように長い舌を覗かせて笑う。


「あれをお預けするときの顔を見るのが、すっごい愉しいんだよねえ……♪」


 業が深い。いつだったか瀧本が言ったがこの世は地獄。

 そして手のひらで踊らされているとも知らず、常識の奴隷の姉は竹刀を携えやってきた。


「I’ll be back」

「全部聞いてたのかよ……」

「あはっ、本場の発音だー♪ ねーねー、あたしにアイラブユーって言ってー?」

「瞳に 言うくらいなら職場の銃で頭を撃ち抜いたほうがよっぽどマシよ」

「えー、連れないなー。飲み会でいっぱいちゅーした仲じゃーん?」

「ちょ、ちょっとッ!?」


 初耳。そしてなぜ姉はそんなに赤くなる。

 真っ白な肌に赤みが差していて、日焼けしたみたいになっていた。


「やめなさい! 崇仁の前でッ!」

「えー? ふたりっきりならいいのー? ねーねー麗奈、そんとき手錠借りていい?」

「駄目に決まっているでしょう!? 警官が職務以外で使ったら犯罪よ!」


 警察にたれ込んでは駄目なのだろうか。さっきのことを。

 橋倉が無言で批難の目線を姉に向けていると、藍原がぬるっと姉の耳元に近寄って囁いた。


「あは、バレなきゃ犯罪じゃないんだよー? ……あそぼうよ、麗奈」

「ひいいッ! やっ、やめなさいッ!」

「崇仁くん、麗奈は耳だよー?」

「マジクソきめー誰得情報で吐きそうになるんでやめてくれ……」


 肉親の女としての顔なんてホラーでしかない。見たくない。気持ち悪い。


「つーか彼氏の前でもこんな顔しねーよな……」

「瞳ぃっ! あなただけはいつか絶ッ対、牢屋にぶち込んでやるッ!」

「あは、こわーい♪ あのねー崇仁くん、大学二年の夏の飲み会でねー」

「ばっ……やめなさい! 言ったら殺すッ!!!」

「きゃー♪」


 ふたりの追いかけ合いが始まる。それを見届けて、橋倉はまた重たいため息をついた。

 二人は今年、確か社会人二年目。二十四歳。

 なのにいい歳して、まるでトムとジェリーだ。


「……結局歳くっても、俺っちもこのまんまなのかね」


 そうだとしたら救えない。

 色々やってきた自分だ。いつかは年相応に落ち着きたいとは思っている。

 ただ今の段階では「丸くなったな」って言われる度に腹立つ。足が出る。


「……にしても。姉貴も、変わったな」


 昔は藍原の前でだって、こんな風にはしゃぎはしなかった。

 笑うことはあっても、どこか陰があった。

 ふたりして寡婦のようだと思ったことを、今でも覚えている。


「……へ。今日はやけに、昔のことが絡みやがる」


 苦笑すると、何かが緩んだのか、疲れがどっと出てきた。

 稽古も本日二回目だ。

 それに、快晴から逆胴を防ぎ続けるということの心労は、何より大きかった。


「やべーな。もう始まるってのに」


 しかし見学するとか、逃げるとかの選択肢だけはない。

 どんなに疲れていた日だって、毎日稽古は欠かさなかった。

 半分習慣で、半分は意地。それに、決戦の日――インハイ個人戦は一週間後だ。

 ここで手を抜くくらいなら、自分の人生は何のためにあった?


「腹、決めっか」


 重い身体を引きずり、床に置いていた竹刀を取る。そのときだった。


「全員聞いて下さい。申し訳ないのですが、師範の到着が遅れるため、稽古の開始を十九時からに後ろ倒します。折角遠方より来て下さるので、稽古は全て見てもらいましょう」


 はい、という声が道場に響く。橋倉も返事をしながら、時計を見上げた。

 十九時開始。ということは、三十分と少しくらいはある。


「姉貴」

「……どうしたの?」

「隣の第二道場、荷物置きになってんだっけか?」

「そうね。皆の防具袋が置いているわ。……荷物を置く? 電気を点けましょうか?」

「いや、いい。……ちっと、そこで仮眠してる。五分前になったら起こしてくれ」


 胴垂れを外しながら姉に頼むと、奴は上品に口元を手で隠して笑った。


「相変わらず生態が獣ね」

「うるせーな。暗えとこが落ち着くんだよ」

「人のいないところも、でしょう?」

「……よくお分かりで」


 防具を全て外し、立ち上がる。

 心地良い闇に向かう前に、姉のほうを振り返った。


「わりーけど、影下が来たら相手してやっといてくれ。苦手な人種だろうけどな」

「……分かったわ。……崇仁」

「ん?」

「お前も、先輩になったのね」


 先輩。嫌な単語だ。

 ふっと息を吐き、振り返らずに答えた。


「立場が変わっただけだ。俺っちは別に変わってねーさ」

「……ええ。芯は、そのままでいなさいな」

「……おやすみ」

「ごゆっくり」


 おやすみ、なんて台詞。

 餓鬼の頃の自分には、考えられないだろう。

 人に噛みつくことしか知らず、礼儀など知る由もなかった。

 そして常に、怒っていた。あんな影下みたいに、にこにこ笑うなんて絶対にありえない。


「……高校一年、か」


 真っ暗な、誰も居ない小さな道場の中に入って扉を閉める。

 完全なる独りの暗闇に、ようやく落ち着いた。

 ここは自分の縄張り。誰も入って来ない。

 橋倉崇仁は、ようやく全ての警戒を切って目を閉ざす。

 安らかな肉体とは違って、心は遙か昔。

 一番自分が激しく燃えさかっていた頃へと、旅立っていった。

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