五本目:雪どけホットライン
どんなに仲の悪い国同士でも、やばい状況に備えて、熱いLINEが繋がっているらしい。
それをホットラインと言うのだとか。
世界史の教師は藍原だから、そんな単語を、吹雪にしては珍しく覚えていた。
言葉の意味が合っているかどうかは知らない。
しかし、今がやばい状況であることに違いはなかった。あと深瀬史織のLINEは知らないし、別に教えてほしいとも思わない。
吹雪は制服の薄い胸の前で両腕を組んで、行儀悪く脚を組んで椅子に身体を倒す。
先輩っぽい威厳を全面に押し出した。
一方で史織は机の上に両肘を突いて両手を組み、その上に顎を置いて眼鏡を光らせている。
後輩なのに、つよそう。でも負けられない。
ひりついた重苦しいこの場の空気は、まるで今にも戦争が起きそうな感じがする。
「お待たせしましたー。こちらミラノ風ドリアになりまーす♪」
でもここはサイゼ。JKの聖地。
全ての準備が整うと、吹雪はしょぼんと頭を下げて言う。
「作戦タイム……」
テーブルの向こうの史織もまた眼鏡を外し、目頭を押さえて答えた。
「認める……」
死屍累々? 阿鼻叫喚? いいやどっちも違うっぽい。
これは多分、本日限りの呉越同舟。
ああ、それにしても。
一体、どうしてこうなった――?
「出だしは良かったのに……」
吹雪はもっきゅもっきゅとドリアを頬張るついでに、不満に頬を膨らませる。
最高だったデートも一昨日終わって、公式戦の抽選会も昨日終わって、最後の一日。
やけに桐桜の練習が早く始まって早く終わったと思ったら、藍原に『はーい、今から藤宮に地稽古しに行くけど来る人ー?』って聞かれて。
今日はなんて最高の一日だろう。連休の締めにふさわしい。そう思っていたのに。
いざ藤宮に着いたら、理想と現実は違っていた。
たらこスパをくるくるフォークで回しながら、史織がそれを諭すようにじとっと睨んでくる。
「いや、別に微妙でしたけど……。悠先輩、地稽古で乾先輩のことガン無視でしたよね」
「うっ、うるさい! そっちこそ無視されてたくせに!」
「わ、私は初心者だから先輩と地稽古できないんです! 仕方ないんです!」
ぐぬ、と歯ぎしりする代わりにスプーンをかじって、吹雪は空になった耐熱皿の上にからんと置いた。その右拳で威厳たっぷりに胸をどどんと叩く。
かっこよい先輩として。
「そう……。わたしは、深瀬さんとは違うの。剣道強いの。女子で、優勝してるの」
人呼んで、美しき『剣姫』。
いつもは呼ばれて鬱陶しいが、それで悠の気が引けるなら万々歳。のはずだった。
しかし、現実はまたしても厳しくて。
悠が地稽古の相手をしたのは佐々木、藍原、江坂、藍原、そして纏を挟んでまたまた藍原。
吹雪なんか興味ないよ? と言われたようなものだ。
確かに恋してるはずなのに、悠が憎いなんて思ってしまうのはなぜなのか。
「ふっ。剣姫(笑)」
「わ、笑うな!」
がん、と吹雪がテーブルに拳を下ろしたところで我に返る。
いけない。わたしはお姉さん。雪の剣姫こと乾吹雪。……よし。
「落ち着こう、深瀬さん。わたしたちはクールになるべき」
「いや、勝手に取り乱しているのは乾先輩だけだと思いますが……」
「そ、そんなことないもん!」
「もん、じゃないですよっ! もう高校二年生なんでしょ、乾さんは!」
怒られて、一瞬たじろぐ。
『乾先輩』から『乾さん』に格を下げて、ものすごく大人っぽい年下の彼女が吠えた。
「そんなことだから、先輩を取られちゃうんですよ!」
× × ×
練習が終わったあと、せめて喋りに行くんだと悠のもとへ駆けたら、ちょうどこの女もやって来ていて。
『どいて! 先輩優先!』
『いやです! 先輩なら後輩にゆずってください!』
なんやかんやといがみ合っているうちに、事件は起きてしまった。
藤宮の三年生女子がふたり、隣を通り過ぎていく。
ちょうど藍原と話し終わったタイミングを見計らって、纏が悠の尻を軽く蹴った。
『おら水上、早く着替えなさいよ。時間なくなっちゃうわよ?』
『あっ、纏さん。すいません、すぐ着替えます!』
その纏を、幸村というとても穏やかそうでおっぱいな人が諫めていた。
『こら、纏はすぐ手を出さないの! ……もー。ごめんねえ、水上くん?』
『いや全然! 気持ちいいんで!』
『あははっ。なんか気持ち悪いね』
でれでれしている悠が、急に胸を押さえて膝を折る。
正直、ちょっとだけいい気味だと思った。
『早くシャワー浴びてきてねー? 水上くん、今動きすぎでとっても臭いよ?』
『そのへんにしときなさい円香。もう死んでるから』
『えー、もう?』
『痛い。いたいぃ……』
『あたしの手よりこいつの口のがよっぽど暴力よね……』
『纏さぁん……っ』
『……あーもう、そんな顔しないの。向こうでなんか買ってあげるから』
あっ、と史織とふたり揃って声が出る。
纏のことは大好きだが、大好きだがしかし、悠の頭をなでなでしているところを見ると非常にもやっとする。
その手を悠がゆっくりとどけて笑う。
『いりませんよ。それより、おふたりとも食べたいものは決まりましたか?』
『あのねあのね、わたしクレープが食べたいなっ! いいお店があるんだよ!』
『あぁ、円香好きよねぇ、あそこ……。つーか奢らなくていいのよ?』
『駄目です。それだと俺の気が済みません』
ぶんぶん首を振って固辞する悠を、ふたりが笑う。
『義理堅い馬鹿よねぇ、あんたも。別にいいのに』
『まーまー纏、ここは水上くんを立ててあげようよ。男の子したいときもあるもんねー?』
片目を瞑って悠は、あの頬の傷を掻いて照れ照れしていた。
いらっとする。でれでれしないでほしい。というか、一体何のことを話しているのか。
微妙な顔をして首を傾けていると、隣で史織が衝撃を受けていた。
『まっ、まさか……! まさかっ!』
史織の悲痛な叫びに応えるように、幸村円香がにんまりと黒く笑う。
『それじゃあ早く着替えて校門に集合ね! お姉さんたちと、デートだよ!』
そして爆弾を投下して、纏と一緒に悠の手を、ぎゅっと握って引いていってしまった。
道場には不毛な戦いを演じていた馬鹿ふたりが残って。
それを、後ろでけたけたと藍原が笑ってきた。
『やっぱりねー。悠坊はそーだよねえ』
動けないでいると、史織が手を離してずいっと藍原ににじり寄る。
『何ですか! 何がおかしいんですかあっ!』
相変わらずの度胸だなとちょっと感心してしまった。
結構な上背がある上に、あの綺麗な顔が歪むとかなりの迫力がある。
しかし、そんなものはうちの魔女には通じないのだ。
第二の、決定的な爆弾が放たれる。
『悠坊はねー。年上のお姉さんが大好きなんだよー♪』
先生みたいな、という哄笑を残して、年上の自称姉ちゃんが道場から消えて行く。
ややあって涙目の年下はこちらを振り返り、同じく涙目の同い年に向かって言った。
『一時休戦……しませんか……』
吹雪は唇を結んで、重々しく頷く。
『やむをえない……』
敵の敵は、とりあえず味方なのだ。
× × ×
そんなわけで、作戦会議のお昼のファミレスという訳なのだった。
目の前で史織がフォークを手放し、頭を抱えてまた言う。
「まずい……」
吹雪もまた、スプーンを置いて答える。
「おいしい……」
三個目のドリアも綺麗にからっぽ。
ご満悦のため息を漏らしていると、すぱーんと頭をはたかれた。
「なんで叩くの!」
「むしろなんで叩かれないと思ったんですかっ! どんだけ食べる気なんですか!?」
キレた猫みたいにふしゃっと睨んでくる史織だが、なぜ怒っているのか全く分からない。
「何キレてるの。これぐらい、いっつも食べてるもん」
「はぁっ!? デブ一直線じゃないですか! お腹ぽよんぽよんでしょ!」
「そんなことないもん! きれいだもん!」
制服のブラウスをシャツごとがっと掴んでおへそを見せる。なぜか史織があちこちに首を振ってうろたえていた。
「ほっ、他のお客さんがいるでしょ! あぁーもうっ! 早くしまって……しまえこのバカ!」
「ば、ばかって言うな! 先輩に向かって!」
「じゃあ乾さんはもうちょっとマシな振る舞いしてくださいよ! 心配になるわ!」
「心配って……だから、何が? ごはんのこと?」
制服を戻して、心底分からないというように首を傾げると、それもですけどと史織が首肯した。
これはチャンスだ。先輩としてちゃんと教えてやったほうがいい。
吹雪はどや顔で、自信満々に史織に言った。
「あのね。剣道やってたら、どれだけ食べても絶対太らないんだよ」
「……は?」
「わたし、一回も太ったことないし。ダイエットなんかしたことないもん」
ぶちっ、と何かが切れる音がする。
音が消え温度は氷点下へ転げ落ち、サイゼは一瞬にして真空状態みたいになって、ぼそりとこぼれた怨嗟のつぶやきがよく通った。
「死ねばいいのに」
「……今、死ねって言った?」
「言ってませんー。耳大丈夫ですかこのぽんこつ死ね」
「あぁっ! また死ねって言った! せんぱいに向かって!」
「何が……何が先輩だ、この、乾ぃ! 本っ当に死んでしまえばいいのに!」
その言葉で、ついに自分の頭からも何かがぶちっと切れた音がした。
「よびすてにするなぁ! ちゃんと敬語をつかえ! わたしの方が、お姉さん!」
自慢のスリムな両腰に手を当てて、自信満々に胸を張る。
またしても鼻で笑われた。
「小っちゃ。器が小っちゃいから胸も小っちゃいんじゃないんですか?」
「うるさい! 深瀬なんて胸も身長もでかいだけのくせに!」
「でっ、でっかいって言うなぁっ! どっちも気にしてるんですよ!?」
「本当のこと言っただけだもーん。大体、態度もでかいくせに剣道弱いってありえないし」
「わ、私はこれから強くなるんです! 乾なんて、どうせ剣道以外なんにもできないくせに!」
言い合っているうちに、額と額がぶつかってぬぬぬと互いに唸る。
密着距離。そこで史織はまるで憎き兄のように、必殺の一刀を繰り出してきた。
「乾なんて、先輩からしたらただの快晴さんのオマケのくせにっ!」
「ふぎゅうぅ……!」
踏まれたカエルのような声が出て心臓を押さえる。痛い。痛い。痛すぎる。
何か返す刀はないかと、必死に足りない脳内を探した。
こいつになくて、自分だけにあるもの。それは多分、一昨日の思い出!
「深瀬なんて、悠くんと一回もデートしたことないくせに!」
「あぎゅうぅ……っ!」
心臓を押さえて背もたれに沈んだ。今のうちだ、畳みかけろ!
「わ、わたしはあるもん! ちょ、ちょっとだけだけど……手だって、握ったもん!」
これが自分の一番の切り札だ。奴はきっと持っていまい。くたばるがいい。
そう思っていたのに、奴はなんと歯を食いしばって踏みとどまった。
「私だって、握ってもらいましたもん……! この前!」
「な、に……!?」
「ぎゅーって! 痛いぐらい強く! 逃がさないぞ、史織……って声つきでしたもん!」
「そ、そんなぁ! ずるい!」
「そっちのほうがずるいですよ! 自分だけが特別だって思わないで……くだ……さい?」
言葉の途中で、史織が力を失っていく。何かを思い出すかのように上を見ていた。
「どうしたの?」
「さっき円香先輩、先輩の手……握って帰りましたよね……」
「……あ」
吹雪も固まる。
そもそも、あの悪魔はさっき悠になんと言ったっけ。……そうだ。
「デートって、言ってた……」
ずぅん、と卓の空気が重くなっていく。
そもそも、何のためにここに集まったのか。
脱線していたレールにようやく戻ってきた。吹雪は、あわあわと史織に意見を聞く。
「ね、ねえ……。ほんとに、悠くんは年上が好きなの?」
「わ、私だってそんなの知りませんよ! でも、いっつも円香先輩にでれでれしてるんですっ」
史織は悔しそうに自分の大きな胸を押さえている。
でも別に、例の悪魔よりも大きいわけじゃない。というか藍原はさらにその上を行く。
「ち、違う。先輩はきっと他の男どもとは違いますよ! おっぱいだけで人を判断しない!」
「そ、そう! きっと剣道! わたし強いよ!? あの幸村って人より!」
「……あ、でも。纏先輩も強いですよね。年上で」
「あ」
「今日だって乾は無視ですけど、纏先輩には行きましたよね……」
「う」
「ていうかその理論だと、もしかして一番やばいのって……」
脳裏に、きっと同じ人物が浮かび上がる。
駄目女だけど、胸も大きくて本気になると手が着けられないくらい剣道もつよくて、それからあの謎のピンクい色気。幼馴染みとかいう反則持ち。
とどめに、二十四歳女子校勤務女教師とかいう、男子高校生が好きそうな単語の羅列――。
「ううう……。もう、だめぇ……」
威厳ある先輩タイム、終了。
せっかく今この瞬間まで頑張れていたのに(主観)、もうダメだった。
テーブルの上でぐずぐずに溶け始めると、史織が周りの客を見て慌て始めた。
「な、泣かないの乾! 剣姫なんでしょう!?」
「だってぇ、だってぇ……」
「だってじゃない! ああもう、顔拭いて! ほら、ハンカチないの!?」
「ない……」
「ない!? ないことなくない!? いっつもどうやって手ぇ拭いてるの!?」
「自然に身をまかせてる……それかスカート……」
「おっ……お前はぁ! このポンコツ! いい加減にしろ!」
その後、お説教を三十分され。
深瀬から敬語で接されることはなくなった。
× × ×
「いい……。稽古悠くん……いい……!」
「授業の先輩も捨てがたいの! これ見て! 寝てるの!」
それから卓でだらだらドリンクを飲んで、至福のひとときに浸っていた。
本当に何のために集まったのか分からないが、史織携帯秘蔵の悠フォルダの前に理性は無力だった。
写真の顔を見ながら、ため息をつく。
やっぱりとっても格好良い。ただ、写真じゃ分からないことだってある。
史織から手渡されていた携帯を、彼女に向かって差し出す。
「ありがとう。返すね」
「え? も、もういいの?」
「うん。全部いいけど、やっぱり悠くんの顔は、向き合って試合してるときが一番好き」
くすりと笑って、テーブルの上に広げていた荷物を鞄に入れていく。
「帰る用意して。わたし、帰って練習したくなってきた」
「……もう今日は、桐桜とうちで二回も出たんじゃ」
「うん。だから帰って、撮った自分の映像を見るの」
鞄に荷物を入れ終わると、史織はまだ携帯を両手に持ったまま固まっていた。
「……あの。ちょっと、聞いてもいいですか」
「ん? なに? 早くして」
「どうして乾先輩は、そんなに頑張ろうと思うんですか?」
まるで宝石の鑑定士のような真剣な目つきで、史織がこっちを見てくる。
「乾先輩は強いけど。……悠先輩や、快晴さんには、まだぼこぼこにされちゃうんですよね?」
「うん。だから、頑張るんだよ?」
何をそんな当たり前のことを聞くのかと、この子らしくなくて笑ってしまった。
「全然勝てなくて、どうしたらいいのか今も全然分からないけど。でも、そっちの方がいい」
「……どうして?」
「だってそのほうが、勝ったとき絶対嬉しいもん」
あなたもそうじゃないの? と問う代わりに首を傾げる。
しかし史織は何かに打ちひしがれているように固まったままで、声を発することすらしない。
何か声をかけようか、と吹雪が悩んだ瞬間。
沈黙を破るように、史織の手の中で携帯が激しく震えた。
電話だ。かけてきた人の名前が表示されると、史織が真っ赤になる。
携帯を落っことしそうになるほど慌てている彼女を見て、同じ女なのに思ってしまった。
「もっ、ももも、もしもし!? 先輩ですかっ?」
かわいい。
信じられないくらい、かわいい。
こんなに賢そうで何でもできそうな女が、たった一本の電話でこんなに変わってしまう。
これでぐらっと来ない男の子なんているのだろうかと、吹雪は苦しくなった胸を両手で押さえた。
話している内容が何だったのか、史織を見ているだけでは分からない。
「はい。……私のことは、いつでもいいので」
電話を切る前に、史織が自分の存在を忘れて、見たことないくらいに優しく笑う。
確かに分かることは、ひとつだけ。
「約束、ちゃんと守ってくださいね。悠、先輩」
――この子は本当に、悠くんのことが好きなんだ。
あまりにも強大な敵を前に、さっきまで激しく燃えさかっていた敵愾心が小さくなっていく。
「ご、ごめん乾。あの、私っ」
「……うん。もういいから、帰ろう。遅くなっちゃう」
テーブルの切った竹のようなプラスチックの入れ物から、伝票を左に取る。
これぐらいなら全額出せるなと頷いて、荷物を持ってレジに向かおうとする。
その手首を、がっと史織に掴まれた。
まめができている、同じく剣士の左手で。
「待って。いくら?」
「……これぐらい、出す。さっきも言ったけど、わたしの方がお姉さん」
「嫌。年上とか、そんなの関係ない」
もう片方の手で、史織が伝票をひったくる。
金額を見ると、うんと頷いて、彼女は財布からお金を取り出して手に握らせてきた。
「はい、ちゃんと握る」
「……いいのに」
「ダメ。乾とは、対等じゃなきゃ嫌なの」
とことん年上を立てない史織に、うううと唸る。
そうすると、彼女は笑った。「むかつく」
「……は?」
「だって、かわいいんだもん」
いつもは大人っぽい彼女が、まるで誰かのように頬を膨らませる。そしてすぐに萎ませて、困ったようにまた笑った。
「これね、実は本邦初公開。あっこれガチなやつだーって気付いたのが最近だし」
「……何が?」
「私ね、先輩のこと好きなの。ちょっと泣いちゃったくらい」
そんなの知ってる、と強く言い返すことができなかった。
言葉に出すとは、それぐらい勇気のいる行為なのだ。
自分だって、直接宣言したのは血を分けた兄だけなのに。この女は他人の自分に、臆すること無くちゃんと言い切った。
「あー、すっきりした。しばらく誰にも言わなくていいかなあ」
「……どうして、それをわたしに言うの?」
「……何で? 何でって……」
忌々しいくらい綺麗な女の唇から紡がれた言葉の意味が、そのとき、よく分からなかった。
「乾に言わずに、誰に言うの?」
× × ×
「はあ……」
憂鬱だった。
決して錬成会の後のように泣き濡れはしないが、吹雪は自宅から歩いて五秒の位置にある小さな公園の象さん滑り台の上で、膝を抱えていた。
両手で鳴らない携帯電話を持って見つめる、膝の向こうに広がる空はもう真っ暗だ。
もうすぐご飯できるからねと母に言われても、いつものように食卓で待機する気にはなれなかった。
食欲がない。きっと今日の夕飯は、おかわり一杯分ぐらいしかできないだろう。
胸がちくちくと痛い。胃がずきずきと重い。
本当にこの恋は叶うのかと、あの女に勝てるのかと、気を抜けば泣いてしまいそうになる。
「わたし、弱くなったのかな……」
きゅっと、また無い胸の辺りを握ってしまう。
どうして無いんだろう、と思ってしまった。
今までは別に、悔しさはあれど、動きやすいからこれでもいいと心の底から思えていたのに。
今は真っ先に、『悠くんはどう思うかな』が先に来る。
「……声、ききたい」
だったら電話を自分でかけたらいいのにと、今までの自分なら言えるのに。
「むり。恥ずかしぃ……」
吹雪はもだもだする自分に、唇を噛む。
ずっと浮かれてばかりだから知らなかった。史織がいたから初めて気づけた。
誰かを好きになることは、いいことばっかりとは限らないのだ。
「……さむい」
今一度冬の中に戻ったかのように、吹雪は震えて膝を抱える。
誰か、助けて――。
かつて剣道をしているとき、決して誰にも聞こえはしないと分かっていながら叫び続けていた言葉を、吹雪は今一度叫ぶ。
すると。
声なき声が、いつも彼だけには届いてくれるのか。
ぶぅん、とマナーモードにしていた携帯が強く震えた。
「えっ、あっ、わっ!」
彼からの着信が光る携帯が、吹雪の軽く握っていた両手から逃げて、滑り台を滑り落ちていく。
「ああああ―――――っ! やだぁ――――――っ!」
それを吹雪もヘッドスライディングの形で滑って追った。
携帯をキャッチすることには成功したが、クラッシュしたボブスレーみたいに惨めに地べたへ着地して身体を打った。
「ふぎゅぅうう……!」
間抜けな声を出して転がりながら、しかし執念で吹雪は受話器のボタンをタッチする。
「はいぃ……」
『も、もしもし吹雪? い、今……時間、いいかな?』
もちろんいつでもいいに決まってるよ! といつもならはしゃぎ回るところなのだが、あまりにも現状が惨めで冷静になってくる。謎の余裕が出てきて、違和感にすぐに気づいた。
「悠くん、声、裏返ってる。……どうしたの?」
『え、あ、いや! こ、これは……ちょっと緊張して』
「緊張? なんで?」
『えっ、だ、だって電話って何か緊張しない? 俺だけ……?』
それを聞いて吹雪は一瞬だけ目を丸くするが、すぐにくすりと笑って立ち上がる。
空いた手で制服についた土を払いながら、ちょっとからかう。
「悠くんにも、緊張とかあるんだ」
『あ、あるよ! 緊張するよ! てか他校の女子の携帯にかけるのは誰でも緊張するよ!』
「……じゃあ、メッセージで良かったのに」
心にもないことを言う。
本当は声が聞けて跳び上がるほど、というか滑り落ちるほど嬉しい。
深瀬には簡単にできるけど、自分には照れるんだ。そう思うとたまらなかった。
電話で顔が見えなくて良かった。こんな緩んだ顔、彼には絶対見せられない。
『いや。こういうことは、やっぱり直接言わなきゃなって』
「……えっ」
『本当は今日直接言えたら良かったんだけど、何か気恥ずかしくて。地稽古もつい行けなくて……いや、お恥ずかしい。相変わらず心が弱い』
一瞬で心臓が爆発した。
これはもしかして、もしかするやつなのか。吹雪が両手で携帯をぎゅっと握る。
「なっ、なに!? なんのはなしっ!?」
思いっきり裏返っていたが、もうそれどころではない。
『俺さ』
こくん。
『来月の個人戦、出ることになったんだ。……それを、吹雪に言いたくて』
五秒、静止する。公園の前を車が一台過ぎ去った。
「……えっ。それだけ?」
『そ、そうだけど……。それだけって何だよ!?』
「……だって」
ながーいため息を夜に漏らす。電話で顔が見えなくて本当に良かった。
今彼の顔が見えたら、多分がぶっと指を噛んでしまうだろう。
『……まあ、それだけのことかもなんだけどさ』
そして不思議なもので、顔が見えなくても何をしているのかが分かってしまう。
きっとまた、照れて傷を掻いているのだろう。
『俺にとっては、でかいことだったから。……ありがとうって、吹雪に言いたかったんだ』
「……そっか」
義理堅い馬鹿、と笑っていた纏の言葉が脳裏に浮かぶ。
「他の人には、もう言ってきたんだ」
『うん。いやー、ハードだった今日の練習後は……』
吹雪だけに言いたかった、だと本当は嬉しかったけれど。
この人は、吹雪にも言いたかった、とそういう意味で言っているのだろう。
半分拗ねて、でも半分愛しくて笑ってしまった。
「深瀬にも、ちゃんとお礼言った?」
『ん……うん。簡単には。でもあいつには悪いことしたから、落ち着いたあとにちゃんと――』
「またデートしてご機嫌とるんでしょ。わたしみたいに」
はい息呑んだ。もう確定。
女の子に悪いことしたら即デートなんて、本当にこの人はどんな育てられ方をしたんだろう。そう考えると、大っ嫌いな妖しい顧問が脳内であはっと笑っていた。
おそらく年上趣味も、あの辺が悪いのだろう。
ただまあ、それがなかったら、きっと自分だってデートには行けなかった。
敵は、生かしておいた方がいいこともある。
「ちゃんと、おもてなししてあげてね。手加減なしだよ」
だから、今回は塩を送ろう。こっちだけなのは、フェアじゃないなと思うから。
若干不機嫌声になってしまったが、それは乙女のご愛敬だ。
『うん。もちろん。……何だ、やっぱり史織と仲いいんだな』
「良くない。全っ然、良くない! 悠くんは反省して。胴外れて脇腹打たれてて」
『そ、そこまで言わなくても……』
「言うもん。大体、わたしは深瀬の連絡先だって知らないのに」
荒く鼻息を出して、ちょっと笑う。帰路につきながら夜空を見上げた。
雪を溶かすようなあたたかい春の月の光は、きっと同じ夜空の下の女にも見えているだろう。
「だから悠くん。……ちょっと教えて」
× × ×
二階の自室から窓を開いて、夜に向かって腰掛ける。
行儀悪く屋根に向かって素足を出して組んでみて、テーブル越しに語りかけるみたいに不敵に春の満月を睨んだ。
どんなに仲の悪い国同士でも、一大事に備えて、熱いLINEが繋がっているらしい。
だったらこれもそうかなと、吹雪は緊張など何もなく、受話器のボタンをタッチする。
『嫌。年上とか、そんなの関係ない』
全く、その通りだ。彼女を舐めていた自分を恥じた。
「わたしも、あなたとは対等がいい」
心の準備をしろと言うように、彼女を呼び出すコール音は長かった。
あの子は強い。綺麗だしかわいいし芯が強いし、きっと剣道もすぐに強くなる。
それから、彼女だけじゃない。
悠の周りにいる女の人たちは、史織だけじゃなくてみんなかわいくて、それから強い。
「でも、負けないもん」
だからこそ、強く笑った。
自分はちょっと、弱くなったのかもしれない。でもそれすら、これからは楽しんでやるのだ。
変わらないことより変わる強さを選びたい。道は難しくて険しい方がいい。敵は強いに越したことはない。
だってその方が、勝ったとき嬉しいはずだから。
『吹雪はさ。勝ったとき、嬉しいのか?』
今なら自信満々に、あのときの悠の質問にだって答えられる。
「嬉しいよ」
ずっと自分にはいなかった、ある意味兄以上に勝ちたい不倶戴天の宿敵だ。
きっと勝てたら、泣いてしまうほど嬉しいだろう。
「宣戦布告」
熱いLINEが、たった今繋がる音がする。
その言葉を伝えた瞬間、どうしてわざわざ私に言うのと奴は言ったから。
「だって深瀬に言わなきゃ、誰に言うの?」
この両目からあたたかい雫がこぼれ落ちる日を夢に見て、吹雪は宿敵に笑いかける。
敬語じゃないやり取りからは、少しだけ雪どけの気配がした。
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