六本目:こなたより、かなたへ

 どんなに強烈な一打でも、絶対に折れない自信があった。

 激しい鉄火で鍛えた身体は強く、蘇った気概は天を覆うほどだ。

そんな熱病のような自信はしかし、小さな一打で冷水にかけられたように冷めてしまった。

 ぱしん。

 悠の身体が、痺れて動かなくなる。

 ひりひりとした痛みが刺す頰を呆然と押さえて、残心を取っている彼女を見た。

 振り下ろされた左の手のひらに竹刀はなくて、涙を流して母は叫ぶ。


「馬鹿っ!」


弱い人だった。

知る限り、最も小さく儚い人だった。

なのに剣鬼とまで呼ばれた自分は、この小さな女性に何一つ為すすべもない。


「おねがいだから……いかないで……」


 すすり泣きすがりつかれる弱い手に、どうしようもなく打ちひしがれる。

 戦いたくない。傷つけたくない。

 もう、喧嘩なんてしたくない。

 この人は誰より守りたい、たったひとりの家族なのに。


「……ごめん」


まただいじなものを、傷つけてしまった――








[Yu.M] ちっひ

[Yu.M] ちっひ

[Yu.M] ちっひ

[千紘] なんで三回も呼ぶねん……

[Yu.M] 大事なことだから

[千紘] 他にももっと大事なことあるやろ!

[Yu.M] あ、ごめん。そうだった

[Yu.M] 愛してる

[千紘] 朝からセクハラやめろ!!!

[千紘] もー、寝言言ってんと! 急ぎや! 電車の中走るんやで!

[千紘] はよせな遅刻やで? 

[Yu.M] ごめん、そのことなんだけど

[Yu.M] 俺今日学校休むから、部活のみんなにも伝えといてほしい

[千紘] えっ? そうなん?

[Yu.M] うん

[Yu.M] 風邪、引いちゃったらしい。どうも



「ごほっ、ごほっ! ……あー。くそ」


 朝、ひとりきりのリビングで制服を脱ぎながら、悠はソファでうなだれる。寝間着のスウェットになんとか着替えると、ぼーっとする頭で窓の上にかかっている掛け時計を見た。

 本日は月曜。紛うことなき平日。

 外には雲一つない晴天が広がっていて、あと十分で朝のホームルームが始まる時間だ。

 それなのにまだ家にいて、朝のニュースで星座占いを見ている。


「休むの、初めてだな……」


 風邪を引いてしまった。愚かが過ぎる。

 悠は忸怩たる思いと共に、携帯のカレンダーを睨んだ。

 今週は五月の最終週で、快晴が待つ個人戦までもう二週間もないというのに。


「何で、こうなったんだ……?」


 金曜日は練習をして、帰りに城崎を泊めて。土曜日は朝走って昼学校で練習して夕方錬心館で稽古して、夜は御剣に帰って寝て。日曜は一日御剣で稽古、それから新幹線で帰ってきた。

 たったそれだけだ。おかしなことは何もしていないはず。

 なのに昨日の夜、異変が起きた。

 寝る前に少しだけ咳が出始めて、ソファに座って新書を読んでいた母が目を丸くしていたことを思い出す。


『どうした? 嫌な咳だな』

『ああ、いや。ちょっとむせただけだよ。何でもない』

『そう、か……? あんまり無理しちゃ駄目だぞ。薬を飲むか?』

『大げさだなー、いいよ。でも今日は、ちょっと早く寝ようかな』

『うん、そうしなさい。……あの。頼りない母だが、何かあったら言ってくれていいんだぞ?』


 その心遣いだけで十分嬉しく、分かったと微笑み返して昨日は寝て。

 そして朝、爆弾は起爆した。

 いつもは走るために五時前に起きているのに、目覚ましが鳴っても起きられなかったのだ。

 しまったとベッドから抜けて制服に着替えるも、やけに身体がだるい。

 のろのろと食卓に向かって歩くと、怪訝な顔をした母がタブレットを置いて 歩み寄ってきた。


『悠……? どうした、ちょっとおかしいぞ』

『えぇ、酷い……。ちゃんと今日も立派な息子だよ』

『そういうことを言っているんじゃない。真っ直ぐ歩けてないじゃないか』

『難しいよな、人生って。どうしてズレちゃうんだろうな』


 遮るように、低い場所からおでこに手が伸びてくる。

 触れた瞬間、母が息を呑んだ。


『熱がある。今日は、休みなさい』

『い……』

『まずいな、今日は仕事を休めないんだ。セッションを調整すれば……いや、無理か。くっ……』


 うろたえ始めた母を前に、今度は悠が目を丸くする。


『いやいやいや、行くよ俺。この時期に休むとかありえないから』

『駄目だ。休みなさい。万一のことがあったらどうする』

『だ、大丈夫だって。これぐらい練習してたら治るって!』


 おでこに置かれていた手をどけて、カーテンのサッシにかけていたハンガーから胴着を取ってトートバッグに入れる。

 まだ早いがリュックも背負って、作り笑いを母に向けた。


『今が頑張り時だから。行ってきます!』


 逃げるような早足で母の隣を抜けていく。

 しかし、がっ、と。利き手の右で強くリュックを引っ張られ、後ろを向かされる。

 最近よく、背中を引かれるなあ――。

 そんなぼうっとした思考に冷や水を打ったのが、母の上げた手だった。

分かっているのに避けられなかった。頰がひりひりと痛んだ。

しかしそれ以上に、叩いた母の方がもっと痛そうだった。

 馬鹿と叫んで、胸ぐらを下から掴まれる。


『何が……何が、大丈夫なんだ!』


 烈火の如く燃えさかる母の表情を、初めて見る。その手が震えていた。


『ご、ごめ……』


 怒られている。母親に。

 呆然としてその事実を飲み込めないでいると、やがて母の手から力が抜けていく。

 そしてすうっと一筋、母の頬に涙が流れた。

悲痛にしゃくり上げて、濡れていく声音に息を呑む。


『そんなこと言って。……にどと、帰って…………』


 取り返しのつかないことをしてしまったのだと、継がれた言葉でようやく気が付いた。

 どうして忘れていたのだろう。どうして見えなかったのだろう。

 この人もまた、失った人だというのに。

 一番分からなければならない自分が、何も分かっていなかった。


『おねがいだから……いかないで……』

『……ごめん』


 つくづく、自分は病気だった。


「……治さないと」


 ぼんやりと過ちの回顧を終えて、がっくりと悠はうなだれる。自動で動き続けていた手が制服をたたみ終えてしまった。

 時計をもう一度見ると、ホームルームが始まっている。

 朝出ていく前に聞いた通りだと、この時計が十七時を示す頃には母が帰ってくるらしい。

 人生で初めて喧嘩してしまった、母が。


「……仲直りしなきゃ」


 切実だ。熱なのもあって心許ない。

 しかし、今の自分は昔とは違う。一度母とは向き合ったし、何よりもう高校二年生だ。

 きっと円滑に仲直りする案だって、すぐに思いつくし実行できるはず!


「よし」


 腕を組み、頷いた後に悠がカッと目を見開く。




「とりあえず寝よう!」




 三十六計、寝るに如かずであった。




 × × ×




「あ? 水上が風邪? 馬鹿なのに?」


 黒瀬が三時間目、社会科の時間で教室移動をして席に座ると、隣席の城崎が顔を見るなりそう言ってきた。


「そーなんだよ。朝、ちっひーにライン入っててさー。何かすげーびびっちまって」

「そんなに驚くことか? たかが風邪だろ?」

「でも悠って、今まで一回も遅刻も欠席もしたことねーって言ってたぜ?」

「……まぁそりゃ確かに、驚くか」


 眼鏡を右中指で上げながら、珍しいこともあるものだと黒瀬は思う。

こうして頬杖をついて、ここまで深刻そうな顔をしている城崎にしても。


「いつかこうなるんじゃないか、ってなんとなく思ってたんだよなー」

「……なんだ? やけに気にすんじゃねぇか」

「ん。この前、泊まりに行った時にさ――」

「なあ、きのっちー、クロちゃーん……。ゆーくん、ほんまに大丈夫なんかなぁ……?」


 歩いてきて話を遮ってきた千紘に、ふたりして目を向ける。

 いつもはさっさと教室を移動してしまうのに、大きな世界史の資料集を胸にかかえて一向に移動しようとしない。うろうろおろおろしていた。

 あまりに元気が無いものだから、黒瀬はつい眼鏡を額に上げて目を細めた。


「お前、誰だ? 二宮じゃねぇだろ、三宮とかだろ」

「せやな……。あれくらいおしゃれな名字やったら、うちももうちょい可愛いなれたんかなぁ……」

「おい俊。やり辛ぇんだが……」

「朝からずっとこうでさー。はーちゃんと喋ってりゃ治るかなって思ってんだけど」


 名前を聞きつけて、教室の扉の前で待っていた葉月がこちらに向かってとことこと歩いてくる。日本史で千紘とは教室が違うのに、相変わらず仲がいい。

 しかしポーカーフェイスの彼女にしては珍しく、明確に嫌そうな顔で首を二度振っていた。


「駄目。手遅れ。重篤」

「えっ……? ゆ、ゆーくん、そんなあかんの!? はーちゃん聞いたん!? なあ!?」


 椅子や机を押しのけて、千紘が葉月に詰め寄っていく。とりあえず静止することは諦めて、千紘が机の上から落としたものを城崎と一緒に持ち主に拾ってあげることにする。


「ち、違う。千紘のこと。……そんなに気になるなら、電話推奨」

「そんなんあかん! 寝てたら起こすやんか!」

「じゃあ、メッセージ」

「あかん! 起きてたら気になるやん! ゆっくり休まんと!」

「だったら、放置で良い」

「いや、でも、せやけどぉ……! 気になるやんかぁ!」

「…………千紘、うざ」

「うざいって言わんといてや!? こんなかわいいのに!」


 千紘が散らかした後始末を終えると、席に座った黒瀬は左の手のひらで頬杖をつき、城崎は右拳で頬杖をついていた。互いに顔をしかめて。


「なあ俊。二宮って意外とめんどくせぇよな」

「それな。ボール一個分の女子の出し入れな」

「細かいことにも結構うるせぇしな。もういいからたこ焼き焼いてろよ」

「それこの前悠と聞いたんだけど、やっぱ家にたこ焼き器あるらしいぜ」

「安定かよ」

「再現VTR。 ……あんなー、あんま舐めたらあかんでー。関西人がみんなたこ焼き器持ってるわけとちゃうからなー? まあうちにはあるけど!」

「関西人みんなそう言うじゃねぇか」

「肉まんつったらキレるしなー。何が豚まんだよ」

「思想が寄りすぎなんだよなぁ」

「だからエスカレーターも逆に寄るんじゃね?」

「二宮の方がよっぽど病気なんだよなぁ」

「風土病だよなー」




「そこ、聞こえてんであほ!」


 ぱこんぱこんと丸めた資料集でふたり揃って叩かれてしまった。

 関西人はすぐ叩く。

 黒瀬は甘んじて突っ込みを受けながら、しかしため息をついた。


「もうほっといてやれよ……。風邪ぐらい誰でも引くだろ。一日大事取って休むくらい、別に普通じゃねぇか」

「……そんなん、分かってんねんで? でも、おかしいやん」

「あん? 何がだよ」

「だって、ゆーくんやで? 頭いいクロちゃんとはちゃうねんで?」


 どういう意味だよ、と問い詰める前にしょぼんと千紘はうなだれる。




「うちの知ってるゆーくんやったら、絶対無理して学校来ようとすると思うんやけど……」




 あ、と二年全員の声が合わさる。そういえば忘れていたと、城崎が隣で腕を組んだ。


「悠も、意外と馬鹿だもんなー」


 始業のチャイムが鳴る。

 授業が始まる前に、ひとつ学んでしまった。


「馬鹿って風邪引くんだな」




 × × × 




「へっくし!」


 朝食兼昼食を食べ終えた悠が、リビングの食卓でひとりくしゃみをする。よく響いた。

 もう昼下がりだ。午前中はなんとか眠れたが、これ以上は寝過ぎてもう眠れない。


「……暇だ」


 所在の無さをぶつけるように、テレビをつけてチャンネルを回す。しかしワイドショーばかりで死ぬほどつまらず、悠は頭を抱えた。


「なんでみんな芸能人の噂話がそんなに面白いんだ……? こいつらそんなに強いの……?」


 頭痛がちょっとひどくなる。

 しばしチャンネルを漂流し、やがて安息の地に辿り着いた。


「あっ……がんこちゃんだ……」


 休みの日の教育テレビ、落ち着く。

 しかしすぐに終わってしまって、悠はまたそわそわし始める。


「剣道してないと、何していいかわかんねえ……」


 暇だ。退屈だ。そしてそんな状態であることに罪悪感を覚えてしまう。

 こんなことをしていていいのだろうか。何かやれることは本当にないのだろうか。

 剣道をしていなかった二年間、退屈を感じたら何をしていたか必死で思い出す。


「あっ。筋トレだ!」


 腹筋背筋などはさすがにやばいにしても、握力鍛えるとかならきっと大丈夫なはず。

 これは剣道とは関係ないから。ただの鍛錬だから。だからやりまくってもセーフだから。

 まじないのように唱え続けた二年間をしみじみと回想し、悠は身体に負担をかけないようにゆっくり立ち上がる。深呼吸して自室の一角の筋トレコーナーに向かった。

 更地になっていた。


「なぜっ!?」


 朝まで確かにあったのに。記憶を辿ってみたら、母が家を出る前に部屋に一瞬寄っていた後ろ姿がすぐに思い出された。


「おのれ、小癪な……!」


 謎の怒りがこみ上げてくる。妨害されると逆に燃えてくるタチなのだった。


「……そうだ。ちょっと外歩くくらい、いいよな?」


 部屋着から外出着に着替えて、またひとりで言い訳する。外の空気の方が新鮮だし、きっと治る。あと走るのは無理でも、早歩きくらいなら別に許されるのでは?

 うん、そうに違いない。運動して風邪菌を追い出せばすぐに―――

 ぶううううん!


「ひいっ!?」


 悠が玄関で外履きを履いた瞬間、けたたましく携帯が震えた。

 まるでお前を見ているぞ、と言うように。圧力のある一文字が相手を示す。


『母』


 ごくり、と唾を呑んで受話器のマークをタッチした。


「も、もしもし」

『……なぜ起きている?』


 声音が冷たい。あまりに恐ろしくて、熱が一瞬にして引くかと思った。


「も、もう昼過ぎだし。寝られないよ!」

『ならせめて安静にしていろ。何もするな。間違っても運動をするなんて考えるなよ』

「……やだなー。そんなこと考えるわけないじゃん」

『そうか。ところで母は貴様の携帯に GPSを仕込んでおいた。もし外出でもしようものなら、位置情報の移動を検知して瞬時に私の携帯が鳴る仕組みになっているからな』

「……え。じょ、冗談だよな?」

『ほう。この母にできないと思うのか?』


 嘲笑うような声が聞こえてきて、身体が震える。

 この仕事魔神なら簡単にやれてしまいそうだった。


『繰り返し言う。安静にしていろ。聞けないなら、ここから先お小遣いは永久に抜きだ』


 ぐぬっと唸るしかない。しかしここまで高圧的に言われると、少し腹が立つ。


「ずるいぞ! 財布握るなんて!」

『大人はずるいんだ。大体、誰が稼いでいると思っているんだ?』

「こっ、子どもに金の話するなんて! それでも親か!?」

『親だからするんだ』


 ぴしゃん、とまた頬を打つように言い切られる。


『頼むから、今日はおとなしくしていろ!』


 そう叫ばれて、電話は切れた。

 そして自分もキレてしまった。


「あー、おとなしくしてればいいんだろ! おとなしくしてれば!」


 自室に戻って、悠はプロレス技をかけるみたいに背中からベッドに飛び込む。携帯を開き、最近黒瀬に入れてもらったゲームアプリのアイコンをタッチした。


「グレてやる。もう知らねえ!」


 学校を休んでゲーム。これはもうれっきとした不良である。

 ところでこれも黒瀬に教えてもらったことだが、暇つぶしは英語でKill Timeと言うらしい。

 上等だった。


「ぶっ殺してやるッ!」


 たとえ剣道を休んでも、戦うことをやめられない自分だった。

 でも何と戦ってるのか、途中からよく分からなくなってきた。


「……みんな、今頃何してんのかなあ」


 ごほっ、と濁った咳がひとつ、またひとりきりの部屋に響いた。




 × × ×




 放課後の道場に、黒瀬はいつも重役出勤だ。あんまり早く行くよりも、最近練習前は部室でよく頭の整理をしている。闇雲に練習をしても強くなるものでもないからだ。

 礼をして道場に入って、正座して隅っこでちゃっちゃと胴垂れを着ける。道場下手には打ち込み人形があり、一年生ふたりが打ち込みつつたむろしていた。

 ふと、史織に人形を譲った八代がこちらの存在に気付いて近づいてくる。


「あれ、黒瀬先輩がラストすか。水上先輩は何してんスか?」

「ん、お前知らねぇのか。水上、風邪で休みだぞ」

「えっ!?」


 素っ頓狂な声を上げて振り返ったのが史織で、何とも分かりやすい。そして八代も分かりやすく顔を歪めだした。


「個人戦も近いってのに何やってんだか。腑抜けてんじゃないスか?」

「あぁ、寂しいのか。よしよし」

「おぉい触んじゃねぇよ!? 舐めてんスか!?」

「撫でてんだが」

「やっぱ舐めてんじゃねぇか! やめろ!」


 犬歯を剥き出しにして噛みつきに来るようだったので、にやにやしながら手を引く。舌打ちして狂犬のように睨んでくるが、どうもチワワ感があって嫌いになれなかった。


「水上先輩といい、いっつもなんなんだあんたらはよ!」

「今日は飼い主がいねぇからな。代行だよ」

「飼われてねぇっつんだよ! ……あの野郎、風邪なんか引いてんじゃねぇよ」


 へそを曲げ、八代は背中を見せる。「んだよ」隠せない不満を舌打ちの形にした。


「今日、かかれねぇのかよ。つまんねぇな……」


 ぼそりとこぼしたつぶやきが聞こえて、つい鼻を鳴らしてしまう。かわいい奴だった。


「狂犬でも、犬は犬か。……なあ深瀬?」

「はっ? な、なにがですか?」


 きゅっと身体の前で竹刀をかき抱いていた史織に今度は水を向ける。いつも練習前は悠と絡んで生き生きとしている表情が、段ボールの中に捨てられた猫みたいになっていた。


「拾ってください、って顔に書いてんぞ」

「書いてませんよっ! 捨て置いてください!」

「……そんなに残念か? あいつが来ねぇのが」

「は、はぁ? 全然そんなことないですし! むしろ清々してますし!」

「へえ。そうか?」

「そうですよ! 今日はバチが当たったんですよ! ざまーみろ!」


 知ってる。こいつ「あいつなんて全然好きじゃねーし! ブスだし!」の小学生だ。

 ふっふーんと腰に手を当てて精一杯得意顔を作っている彼女を撫でてやりたくなるが、さすがにそれは問題なので我慢する。


「お前は水上に不満があると」

「ありますよ! ありまくりですよ! 大体、悠先輩はいつもいつも私のこといじめすぎなんですよねー! 私、かわいい後輩なんですから? もっと優しく、お手柔らかにですね?」

「なるほど。じゃあおれから今度伝えといてやるよ」

「ええ! ぜひばばんと言っておいてくださいよ!」

「深瀬が『別に特別扱いなんてしなくていいんで、他の人と同じように扱ってください。乾の妹とするみたいに真剣にやらなくていいですから』って言ってた、と」


 作られた史織の得意顔が急転直下焦りに満ちる。愛い奴だった。


「そ、そこまで言わなくても……いいんじゃない……でしょうか……」

「あれ? 優しくお手柔らかにがいいんだよな? かわいい後輩の深瀬さん」

「……う」

「まさか。まさかなぁ? ハードめな練習されて喜んでる変態みてぇな奴、うちの部活にはいねぇよなあ?」

「……い、いるわけ、ナイジャナイデスカー?」


 目が泳ぎすぎ。よく悠たちがいじっている気持ちも分かろうものだ。

 こんなかわいい後輩にとどめをさすなんて、とてもとても。


「ところでこの前の打ち込み稽古は楽しかったか?」

「ちょっと!? どっ、どこまで知ってるんですかっ!?」

「お、なんだ水上。やっぱ来たのか」

「えっ!? 嘘!?」

「嘘だが?」

「もぉおおお――――――――――っ!」


 真っ赤になった史織がぷんすか逃げていくのを見届けて、とりあえず一仕事終わったかとため息をついた。少し疲れる。

 しかし悠はいつも最初にここに来て、一年たちの相手を毎日やっているのだ。

 いじるだけじゃなくて、剣道もしっかりと。


「……働かせすぎだな。そりゃ壊れるか、ターミネータでも 」




「整列! 体操!」




 はい、と応えて列に向かう。自分の位置に立って竹刀を床に置き、いつもは楽しそうに跳躍を始めている男がいるはずの、右隣の場所をふと眺める。


「……溶鉱炉、沈んでねぇよな?」


 俺は戻ってくる、と親指を立てる悠の幻が、不思議と儚く浮かんで寂しかった。




 × × ×




「ぐ……、けほ、ごほっ」


しばし、悠の息が止まる。

反射の涙で視界が滲み、痛み出した節々が病床から起き上がることを許してくれなかった。

 普段防具をつけても自由に動いているはずなのに、身体にかかった掛け布団を剥がすことさえ難しい。鉛を持ち上げるような重さを感じた。

 身体を起こすと、ずきっとした痛みがこめかみからこめかみへ走り抜ける。鈍く呻いた。


「……ねつ、上がって、きたな」


 明らかに慣れないゲームをして知恵熱を出したせいだ。馬鹿すぎて頭を押さえた。

 結局、楽しさは分からなかった。部室で入れてもらって黒瀬に教えてもらったときはあんなに面白く感じたのに、今はもう画面を見るのも辛い。


「……う」


 ゲームを終わらせ携帯を閉じると、途端に訪れた無音の世界に心臓が締め付けられる。カーテンで作った暗闇の世界に気が狂いそうになり、ベッドから懸命に這い出てカーテンを開いた。

 窓の外ではじわりと染み始めた夜に夕陽が飲まれ始めている。

 今頃、みんなは何をしているのだろう。

 基本打ちが終わった頃だろうか。地稽古をしている頃だろうか。

 自分のいない場所で、一生懸命に、変わらず笑顔で。


「……は。あたり、まえ、だろ」


 元々、部活に居なかった人間だ。そこに何の変化を望むのか。

 寂しいなんて思っちゃいけない。

 寂しがってほしいなんて、思い上がっちゃいけない。

 剣道しかできない自分が、どれほどのものをみんなからもらってきたか。

 これ以上を望んだら、罰が当たってしまう。


「……くすり」


 いけないことだと分かっていながら、自室の床に転がっていた竹刀を杖代わりにしてリビングに向かって歩いて行く。たかが数秒の道のり、だった。


「……なんで、こんなに遠いんだ?」


 自分が小さくなってしまったように、家にあるものが全て大きく遠く感じる。気のせいだ、気のせいだと心をねじ伏せて冷蔵庫まで這って、水の入った入れ物を出す。

 なんとか食卓まで持って行ってコップに水を注ぎ、置いてあった錠剤を飲み下す。

 はずだった。


「ごほっ、……かはっ、げほっ!」


 しかしむせ上がってしまい、吐き出してしまう。錠剤と水が身体の上にこぼれて、握っていたコップも倒してしまった。

 食卓に水が広がる。それを他人事のように見つめて、泣きそうになって笑った。


「なに、やってんだ……俺……」


 また咳が出てきて、頭痛で目の前の景色が歪む。

 自分でしでかしたことの後始末さえできずに、背もたれに身を預けて天井を見上げた。

 ――このまま、死ぬのかな。

 不意にそんなことを思う。

 それなら最期くらい、みんなに会いたかった。

 目を瞑ると、走馬灯のように色々なことが浮かぶ。

 そして最後に出てきたのは、一番新しい思い出だった。




『そんなこと言うなよー、悠さん。友達だろ?』




「………………」


 ポケットから携帯電話を取り出し、彼の連絡先を開く。

 十数秒迷った後に、人差し指を受話器のボタンへとおそるおそる伸ばしていく。

 まるで映画で見た、異星人が人類に触れるように。

 交信願うと、震える指先がついにSOSを発した。


「……あ」


 しかし、コール音が一回の途中で切れる。向こうが出てくれたわけではない。

 画面を見ると、空っぽになった電池のマークに赤いバッテンが出てくれていた。

 どうやら黒瀬の入れてくれたゲームのやり過ぎで、電池が切れてしまったらしい。

 それはまるで、彼が「冷静になれよ」と諭してくれたようでもある。


「……サンキュ」


 いつも、世話になってばかりだ。

 みんな今頃練習している。雑音を入れるわけにはいかなかった。


「早く、治そう」


 薬をもう一度飲み直して、時間はかかったが醜態の後始末をする。

 これで大丈夫だ。後はまた、寝ていればいい。

 幸いこれだけ辛ければ、すぐに眠ることができるだろう。

 そのまま永久に起きることなくあの世に行ってしまったら――まあ、そのときはそのときだ。


「向こうでじいちゃんに、稽古つけてもらうか……」


 それこそ楽しく死ねそうだと笑って、悠は携帯を放置したまま、床に入った。




 × × ×




「では、解散」


 練習後、制服に着替えて道場で円になって聞く号令が、心なしか穏やかな気がする。

 黒瀬は江坂と円香に挟まれた場所で顎に手を当て、眠るように瞑目してしばし立ち尽くした。


「どうした、黒瀬。帰らないのか?」

「……部長」


 目を開くと、腕を組んでいる江坂と、ずずいっとにやにやして寄ってくる円香がいた。

 近い。胸の圧力がすごい。気圧されてつい一歩下がった。


「えへへ。珍しいね、黒瀬くん。いつもは解散の『か』のところでもう後ろ向いてるのに」

「残業はしない、といつも言っているよな」

「……別に、おれにだって例外はあるでしょ。水上だって休んだんだしな」

「はは、まあな。……しかし、安心した。あいつも人間だったんだな」


 江坂が穏やかに笑うと、円香も片側に寄せた髪を撫でながら優しく笑う。


「こういうことがないと、あの子休んでくれないもんねー。わたしもちょっとほっとしたかな」

「たまに出す熱は消毒になると言うしな。にしても、無理を押して来なくて本当に良かった」

「江坂くんは来たもんね、昔。おばかさんだったなー」

「……いらんことを覚えているなあ、お前は」

「そりゃあ覚えてるに決まってるよー。ふふ、あのときねえ、纏がね――」

 がっ、と円香の背後から現れた乱暴な右手が胸を掴む。「ぎゃああああ―――っ!?」

「それ以上余計なことを喋るんじゃないわよこのおっぱい病が!」

「びょ、病気は纏でしょう!? どうしてそうすぐ手が……ああ、ちょっと!? 外さないでよっ!」

「あたしこれ上手いのよねー。必殺ホック外し」

「ん? なんだそれは」「おれも分からねぇす」

「なっ、なんでもないよっ!? ちょっと、ふたりとも見ないで! ちぎるよ!」


 何をちぎられるのか分からないが、さすがにそれは怖い。

 江坂と頷いて後ろを見た。眼鏡を光らせ、しっかりと映っている鏡の方向を見る。


「いいっすね」

「ああ。水上も惜しいことをしたよな」

「……おお。おおお。さすがにアレは、止めなくていいんですかね……」

「やめておけ。どんな巻き添えを食うか分からんぞ。今日は、特にな」


 苦笑して、江坂は鏡からこちらに向き直る。恥ずかしそうに頭を掻いていた。


「みんな、元気が有り余っているみたいだからな。……もう正直、あいつがいないときにどんな練習をしていたのか全く思い出せん」


 同感だ、とは言わなかった。芸風が違うからだ。


「ま、おれは楽できて助かりましたけどね」

「そうか? 今日は地稽古、真っ先に佐々木先生のところに行ったじゃないか。最初に面を着け終わる黒瀬なんて初めて見たけどな」

「………………」

「楽をしたい奴の行動とは思えんな」


 江坂がにやにやとし始めて、非常にばつが悪い。鏡から目を離したはずなのに、なんだかその表情を練習前にどこかで見たような気がする。「営業妨害すよ。部長らしくねぇ……」


「はは、すまん。俺もどうやら、平静ではないらしい」


 ふうと江坂が息を吐くのと、崩れだした円の一角で、城崎が「あ」と声を出して突如固まり出したのは同時だった。

 ポケットから取り出した携帯を見つめる顔が青い。少し、見たことのない顔だった。


「どうした、俊」

「きのっちまたフラれたんか?」


 千紘とふたりで歩み寄る。それでもこっちを見ずに、携帯の画面をずっと見ていた。


「いや……。なんか悠から、着信入っててさ」

「えっ、ほんま!?」

「なんだ、生きてたか。大方暇だったんじゃねぇの?」

「……暇で悠が電話かけてくるかな。この時間、練習中だぜ?」


 全員、声をなくす。さすがにそれは異常だと感じる。

 今の奴がいかに練習というものを真摯に捉えているか、知らない者は誰もいないからだ。

 弾かれたように、あれだけ躊躇っていた千紘が即座に電話をかける。


「………………あかん。電源切れとる」

「ミスタッチじゃねぇのか?」

「だったらそう送ると思うんだよな。……つーかさ。あいつ、家に誰かいんのかな?」


 悪い心当たりを見つけたように、城崎が顔をしかめて虚空を見上げる。


「こないだ悠んち行ったときに聞いたんだけど、あいつ母ちゃんとふたり暮らしでさ。仕事も毎日、結構遅いっぽいんだよな」

「……マジか」




「行くできのっち。家、知ってんねやろ?」




 指定カバンを縦にして背中に背負って、千紘は城崎の袖を引っ張る。


「し、知ってっけど……親御さんいたら、逆に迷惑じゃね?」

「そんときはごめんなさいして帰ったらええやろ! ひとりやったらどうすんねん!」


 袖を下に叩き付けるように振って離して、千紘は叫ぶ。一瞬そのことに城崎が目を丸くしたが、すぐに笑顔で頷いた。


「だな、行くか。熱出したときにひとりって、マジできついもんな」

「よっしゃ、はよ行こ! クロちゃんはどうする?」

「……おれはいい。馬鹿じゃねぇからうつっちまうしな」

「分かった! ……あれ? なんかおかしない?」

「よーしよし、ちっひーはそのままでいようなー?」


 撫でる城崎の手がはたかれる。上手いこと話を逸らしつつ、城崎は笑っていた。

 悠にはこのふたりがいればいい。第一、大人数で押しかけても迷惑なだけだ。

 自分がいたら、かえって気を遣わせてしまうだろう。


「……任せていいか?」

「おう!」

「行こ行こきのっち! ゆーくん家、ゆーくん家!」


 遊びに行くんじゃないんだぞ、という冷たい目線を浴びせていたら、円香を揉みしだいてご満悦の纏が寄ってきた。


「そこの馬鹿ふたり、待ちなさい。話は全て聞かせてもらったわ」

「なんか出てきたで」

「ぜってーそのセリフ言いたかっただけでしょ」

「おほほ。否定しないけどね。……ほら」


 口元に手を当てて上機嫌に笑うと、纏は財布から千円札を取り出して人差し指と中指の間に挟み、ぴっとふたりに差し出していた。


「手ぶらで行く気? なんか買って行ってあげなさいよね」


 とことん男前な人だなあ、と黒瀬は唸る。

 だからみんな嫌いになれないのだろう。江坂も円香も笑って寄ってきて財布を出した。


「立花にだけ格好を付けさせるのは癪だからな」

「かわいい後輩くんのためだからねー。おもちゃは大事にしないとね!」

「お、おお……やばいできのっち! こんだけあったら家買えんで!」

「な、なあ何買ってく? 焼き肉とか買ってくか!?」

「普通にポカリ買ってきゃいいんだよなぁ……」


 苦笑しつつ、黒瀬はみんなの集まりから離れていく。防具棚の横に置いてある竹刀入れまで歩いて行って、二年のパーティションから一本と、一年のパーティションからもう一本取った。

 やっぱり、女子用の竹刀は少し軽い。


「おい深瀬。ここから先は通さねぇ」

「……は、はい?」

「お前はおれが食い止める」


 それにしてもどうして毎回ベタな漫画演出が必要になるのか、このわがまま眼鏡っ子には。

 愛が重すぎるのもちょっとは考え物だなと、鼻を鳴らして笑ってしまった。


「ついて行きたそうにじっと見てんじゃねぇよ。バレバレだぞ」

「そ、そんなことは! ……別に。…………あります、けど」


 ついに素直になった。事態が事態だけにということなのだろう。つくづくこの後輩も、かわいい病気にかかっているものだと思う。


「やめとけ。お前が行っても誰も得しねぇ」

「……あぎゅ」


 このままいじめ続けても別にいいが、円香だって言っていた。

 おもちゃは、壊さないように適度に大事にするべきだ。 


「熱、上がっちまうだろ? お前の顔見たらな」

「……え?」

「自覚しろよ、かわいい後輩。あいつが治んなかったらどうすんだ」


 そう言うと、史織は少しの間俯いた。

 ――あれマズいな。ハズしたか?

 黒瀬が右手の人差し指と親指で自分の眼鏡の縁を掴んで顔をしかめる。

 しかしやっぱり策は当たったようで、再び上がった史織の顔はいきいきうきうきと輝き始めた。


「ふ、ふふ……。ふふふっ」


 得意げに右中指で眼鏡をあげて胸を張り始める。非常に頭が悪そうで、同じ眼鏡として少し情けなかった。


「ま、まあ? 別に、別に私特にかわいいわけじゃないですけど? 全然、全然そんなこと思ってないですけども? 悠先輩がどきどきしちゃうなら、やっぱり仕方ないですよねー! 熱上がっちゃ困りますもんねえ!」

「のぼせてんのはお前なんだよなぁ……」

「えっ?」

「なんでもねぇよ」


 ちょろい奴。しかし、これでいい。

 自分が悠だったら、後輩に弱っている姿なんて絶対に見せたくないから。

 だったらこいつは、ここで自分が引き受けてやろう。

 持ってきた史織の竹刀の剣先を掴んで、柄を差し出す。


「見舞いに来るより、いない間に上手くなってた方が喜ぶ奴だ。あいつは」

「……はい」

「ほらやんぞ、うちで一番の下手くそ」

「……一言多いです」

「事実は事実だろ。おれが言わなきゃ、誰も言わねぇからな」


 みんな、自分にしかできないことがある。だったらそれを精一杯こなせばいい。

 別に傍で寄り添ってやることだけが、全てとは限らないのだから。


「黒瀬」


 さて、史織に何の練習をさせようかと眼鏡を外して拭きつつ考えていたら、声をかけられる。眼鏡をかけて改めて振り向くと、葉月だった。

 手には竹刀を持っていて、靴下を脱いでいる。


「藤野、何すればいい?」

「……じゃあ、動画撮ってやれ。あいつに下手くそを思い知らせてやんぞ」

「ん」


 頷くと、彼女は珍しくその表情に満面の笑みを広げる。少し恥ずかしいというように、片手で手を覆って隠しながら。


「……どうした? 何がそんなに面白ぇんだ?」

「だって」


 笑い声までは隠せておらず、くすくすと笑う童女のような笑みに少しだけどきっとする。


「黒瀬が自分から残るの、初めて」

「……うるせぇなあ」


 照れくさくて顔を逸らしてしまうが、やがて笑う。

 きっと、沢山の人の中にいすぎたのが悪いのだ。


「おれにもうつっちまったかな、馬鹿が」


 帰ったら、手洗いうがいを徹底する必要があるだろう。


「……大丈夫なのかね。あいつは」


 咳の代わりに、今日だけはらしくない言葉を漏らすことにした。




 × × ×


 真っ暗な御剣の道場で、膝を抱えて泣いていた。どうして泣いているのか分からずに。

 床に刺さった白鞘の刀が窓の外から差し込む月光を照り返し、暗闇を切り裂く。

 剣の嵐が過ぎ去ったように床は刀傷でぼろぼろだった。

 後ろを振り返るが、誰もいない。寂しいがしかし、当然の末路だと悠は思う。

 このままここで眠っていよう。

 そう思っていたら、柔らかい一条の光が真っ暗な天井から差し込んできた

 懐かしい匂いがする。まるで春のような、花の匂い。

 心の氷が溶けていく。不思議とそれだけで、何かが許されたような気がして。 

 救いの光に向かって、右手を伸ばして。

 ぎゅっと、握った。




「あ。……悠坊、起きた?」


 目を開くと、自室だった。

 蛍光灯の光が眩しくて、三度瞬きする。手が温かいので寝転んだまま隣を振り向くと、いつの間にやって来たのか、藍原がベッドの隣に座って手を握ってくれていた。恋人繋ぎで。

 彼女の前に置いてある折りたたみの小さなテーブルの上には世界史の小テストが広がっていて、どうやら右片手でずっと丸付けをしていたのだろう。

 仕事のときにだけかける、と言っていた度が薄い紫の眼鏡の存在が、推測を確信に至らせた。


「瞳。……いつから、ここに?」

「姉ちゃん」

「いや、だから瞳」

「姉ちゃん」

「……質問に答えて」

「姉ちゃん!」

「何で三回も言うんだ!」

「大事なことだから。愛してるよー?」


 なんかどこかで聞いたことあるな、と思いつつわざと咳払いをする。

 喉のイガイガが取れていることに、同時に気付いた。


「……姉ちゃん。いつからいんの?」

「あは、よろしい。……授業が終わったらすぐ来ちゃったよー。もー心配で心配で」

「え、練習は? 桐桜だって試合近いだろ?」

「あのさ」


 ぎゅっと、手を握る力を強くされる。やはり鍛えた彼女の手は強かった。


「姉ちゃんが、悠坊より練習の方が大事だって言うと思ってるの?」

「……いや、でも、迷惑が」

「だから何で、いっつも自分のことが先じゃないの? ……姉ちゃん、ずっと助けられなかったから、何も言えないの分かってるよ? でも、どうしていっつも、頼ってくれないの?」


 もうひとつの手を重ねて、祈るように。

 泣きそうな顔で藍原は笑った。


「あたしにも、もっと迷惑かけてよ。寂しいな」

「……ごめん」


 もそりと身体を起こして、ちゃんと頭を下げる。

 謝ることができる相手がいるというのは、とても幸せなことだと思った。


「そういう病気っぽいから。治せるように努力します」

「うん。そうして。……綾華さんもね、姉ちゃんと同じくらいに帰ってきたんだよー?」


 藍原は両手を離して、自室の扉の向こうを笑顔で指差す。


「今ね、おかゆ作ってるから!」

「…………この匂いが、おかゆ、だと?」


 名状しがたい匂いがする。米をふやかすだけの料理のはずでは?


「念のため聞くけど、ちゃんとネットのレシピとか見て作ったんだよな?」

「ううん。勘! 姉ちゃんと綾華さんのスペシャル料理♪」

「Amen(エイメン)」


 さようなら、人生。

 一体どうして料理が下手くそな人間は、基本をすっ飛ばして応用に入ろうとする?


「……あれ。そういえば、鼻利いてる」

「あっ、ほんとー? 薬が効いたんじゃない?」

「かも。身体も軽いし……頭痛もそんなに」


 しかし、べたべたと身体が気持ち悪い。

 着ているシャツが重くなるほど、寝汗をかいていたらしかった。


「うわ……やば。ちょっとシャワー浴びてくる」

「えっ? ダメだよー! 風邪引いてるときにお風呂入っちゃ!」

「ええー。でも気持ち悪いんだけど」

「姉ちゃんが身体拭いたげるよ!」


 めちゃくちゃ早口で顔が瞬時に輝きだしたので、ベッドの上で後ずさりする。


「い、いや、いい! 自分でできるから!」

「姉ちゃんが身体拭いたげるよ!」


『はい』を選ばなければ永久に話が進まないRPG現象が発生していた。

 数回押し問答をしたのちについに折れて、シャツを脱いでベッドの上で背中を任せる。


「……じゅるり」

「おい!?」

「あ、あは。冗談だよ冗談ー。……ぉぃしそ」


 最後に聞こえた小声で、さらに熱が下がる。もう完治したのではないかと疑うほどだ。


「あっ、悠坊。リビングに携帯落ちてたよー? はいこれ」

「ああ、ごめん。……そっか、あのあとほっぽり出しだったのか」


 充電器を差し込んで数分待ち、起動する。


「な、なんだこれ……?」


 見たことがないほど、LINEの未読が溜まっていた。

 最初はどこかのトークルームが盛り上がっていたのかと思ったが、違う。

 個人宛てがたくさん届いていたのだった。


「……みんな」


 少し泣きそうになる。

 ぐっと堪えて、時間が若い、送ってくれた人順に読んでいくことにした。




[八代] 一日休んだら三日分弱くなるらしいスよ

[八代] 弱え先輩とか何の価値もないんでさっさと治してくださいよ



「二年休んだけど多分寝ながらでも勝てるぞ。アホめ」

 苦笑する。最初に送ってくれる程度には慕ってくれているのか、憎さが余っているのか。

 流れで他の人の分も読んでいく。



[Matoi] 薬飲んでちゃんと寝ときなさいよ

[Matoi] 明日も休んでいいんだからね


[江坂仁] 休むのも練習のうちだ。しっかり治せよ

[江坂仁] 立花に強制保健室送りにされるからな……


[ゆきむらまどか] (寝ているシロクマのキャラスタンプ)

[ゆきむらまどか] うつさないでね! 治るまで、出禁♪


[葉月] 朗報

[葉月] 今日夜九時、地上波で新撰組特集(`・ω・´)




「えっマジ……? 録画しないと」


 瞳を振り切って立ち上がろうとした瞬間、携帯がぶるぶる震える。


『乾 快晴』


 電話だ。表示された名前に、目を丸くする。首を傾げて電話に出た。


「……はい? どうした?」

『あっ、悠? 大丈夫? なんか風邪引いたんでしょ?』

「そうだけど……何で知ってんの?」

『錬心館に来てみたら、吹雪が騒がしくて。聞いてみたら藍原先生が家族看護で帰ったって言うし……。なんか、深瀬さんにも聞いたみたい。あそこって繋がってるの?』

「なんかよく分かんないけどそうらしい。何繋がりなんだろうな」

『……君って病気だねー』

「だから休んだんだけど……?」


 何を当たり前のことを言っているのだろうかと疑問を浮かべつつ、どうして快晴がかけてきたのだろうかを考える。あ、と間抜けな声が出た。


「ごめん、連絡してなかったな。今日は錬心館休むよ。館長さんに言っといてくれるか?」

『あ、うん。それは伝えたからもういいんだけど……本当に大丈夫?』

「大丈夫って、何が?」

『家に誰かいる? 僕の親がね、誰もいないならうちにさらって看病するって息巻いてて』


 優しそうなふたりの顔が、悠の脳裏に浮かぶ。

 なんとも魅力的なお誘いだったが、電話越しに首を振った。


「大丈夫。かーさんいるし、後ろに瞳もいるよ。ベッドの上に」

『……んんん。なんか色々危ないけど……吹雪より全然いいね! 頑張ってって――』


 がたんごとんと快晴の後ろで激しい音が鳴る。何だ? と耳を凝らした。


『気安く名前を呼ぶな。お兄、誰と話してるの?』

『悠だけど……』

『えっ!? 出たの!? かわっ……かわって!』

『後で自分でかければいいだろ!? やだよ!』

『やだ! だって……でんわかけるの、緊張して……やだ!』

『ああもう、鬱陶しいなあ! おのれ……寄るなぁ!』

『ふぐぅ―――――っ!』


 何か顔を押さえつけているような音が聞こえる。「か、快晴? あの、喧嘩は……」


『がぶ』

『いッたぁあああ――――ッ!? おまえぇえ、また噛んだなっ! せっかく治ったのに!』

『替わってぇぇ――――――!』

『嫌だああああ――――っ! この野郎……くたばれぇ!』


 ぶちっと電話が切られる。

 最後なぜ矛先が自分に向いたのか、至極納得がいかなかった。


「あの兄妹はなんで毎回喧嘩するんだろう……」

「電話だれー? 乾さん?」

「いや、乾くんの方。……ありがとう、もういいよ」


 名残惜しがる瞳から離れて、服を新しいものに着替える。

 話せなかった吹雪の顔が脳裏に浮かぶと、桐桜学院の顧問に向かって今一度頭を下げた。


「瞳、ありがとう。でもうつったら悪いから、今日はもう帰っていいよ」

「えー? ……でもぉ」

「桐桜の人に迷惑かけたくないんだ。これで吹雪が負けちゃったりしたら、俺どうやって責任取ったらいいのか分からん」

「……むー。責任。それは困るねー」


 露骨に嫌そう。こんなちゃらんぽらんでも、やっぱり顧問ということなのだろうか。

 せめて心置きなく帰れるように、扉の向こうを指差して言った。


「ちょっとひとりで戦わせてほしい。せっかく初めて喧嘩したんだしな」

「……そうだね。悠坊も、姉離れのお年頃かあ」


 そう言うと藍原は苦笑して、持ってきた道具を鞄に入れて立ち上がる。

 それをベッドに腰掛けて穏やかに見守っていると、出て行く前に近づいてきた。


「ちゃんと熱、下がった?」

「うん。触ってみ?」


 右手で前髪を上げて、すっと目を閉じる。

 ちゅっとおでこにされてしまった。


「はあぁあっ!?」

「んー。ごちそうさまー♪」

「おま……ねねね熱上がったらどうしてくれるんだッ!」

「あはっ、のぼせてのぼせてー? 姉離れなんて、百年早いよ」


 けらけら笑って、魔女のような駄目女が足早に部屋から逃げていく。

 すると入れ違いで、悲鳴を聞きつけた母が慌てて駆けつけてきた。


「ど、どうした!? 大丈夫か!?」

「かーさん、あいつ出禁にしよう! 塩撒いてくれ塩!」

「……ああ。また瞳が何かやったのか……」

「てかなんで合鍵持たせてんの!? おかしいって絶対!」

「いやいつの間にか持ってたんだ……。ところで悠、いつも晩ごはんを食べさせているけど、ちゃんとお金は貰っているんだろうな?」

「はっ。も、貰ったことない!」

「……桐桜学院のコンプラ窓口、電話番号を控えておくか」


 ふたりで大きな大きなため息をつく。

 そして少しの静寂を挟んで、互いに顔を合わせてくすぐったそうに笑った。


「晩ご飯にしようか。食べられそうか?」

「……食べられるようなものを作ってくれればなあ」

「う。い、いや、頑張ってはいるんだ!」


 同じことを部下が言ったら、この人は「馬鹿め結果が全てだ」と斬り捨てるだろう。

 自分だって、剣道だったらきっと同じことを言う。


「ちゃんと、愛情入れた?」

「……うん。それだけは、仕事より」

「じゃあ、食べる」


 けれど、この人は家族だから。

 全部棚に上げて、不器用同士、互いに許し合って生きていこうと思う。


「いただきます」


 口に入れると、顔が歪む。おかゆなのに苦かった。


「まっ、ずいなあ」


 だからこの良薬は、きっと病に効くだろう。

 思わず泣いてしまって、またおろおろとする母が微笑ましかった。




 × × ×




 流し台に立つ母を見ると、かつては違和感がした。

 取り憑かれたようにパソコンに向かうか、死体のように布団で寝ているか。そのどちらかしか見たことがなく、話しかけることも許してくれるような雰囲気ではなくて。

 だから日常に生きる今の母を見ると、この人ってこんな生き物だったっけとむずむずして仕方がなかったものだ。


「ふう……。こんなものでどうかな」

「置いといて。後で俺がもう一回洗うから」

「……ちょっとぐらい、母を信用してくれてもいいじゃないか……」

「そういう言葉はヌメりがゼロになってから言おうな。詰めが甘いんだ詰めが」


 でも今は、ただ愛しく思う。

 きっと家事が好きじゃないのは見ていれば分かる。それでも無理を押してやろうとする姿が自分のためにあるものだと分かれば、嬉しくて仕方なかった。

 うなだれた母が、食卓の対面に座る。

 反省していますと言うように、両肘を机に立てて頭を抱えた。


「はあ、駄目な母親だよなあ。……母さん、仕事変えようかなあ?」

「えっ!?」

「なんだかもうアホみたいに稼いでしまったし。悠が大人になるまでは、必ず定時で帰れたり、休みが多かったりするような……。そんな、ラクな仕事に変えようと思うんだが」


 どうだろう? と母は顔を上げて弱々しくお伺いを立ててくる。

 だから笑顔で言ってやった。


「うーん。それは絶対やめてほしい」

「……え?」

「そういうのされても、多分本当には喜べないよ。……嬉しいけど。めちゃくちゃ嬉しいけど、でも俺、俺のためだけに生きてるかーさんは見たくないな」


 好きなことをして生きてほしい。

 たとえ自分だけを見ていなくても、毎日温かい食卓を囲まなくたって十分だ。

 近いだけが家族じゃない。背中を合わせて色々なものと戦っていくような、そんな形の家族があってもいいはずだ。


「もしかーさんが仕事辞めたら、俺は瞳と結託して絶対またやらせるよ」

「……悠」

「パソコン捨てても拾ってくるし、経済誌も段ボールに入れて持ってくるし、どんだけ嫌われたって構わないから、やって欲しいってお願いすると思うな」


 両手を突いて、頭を下げた。

 ずっとこの人に言いたかったことを、今こそ言うのだ。


「剣道、またやらせてくれてありがとう。こっちに連れてきてくれてありがとう。……俺は、かーさんの子どもで良かった」


 喧嘩したらどうするか。そんなの考えるまでもない。


「馬鹿なことしてごめんなさい。もう、こんなことしないよ」

「……あんまり、泣かせるな。……よわいんだ。……知ってる、だろ」

「うん」


 笑顔で涙を流す母が、同じように両手を突いて頭を下げた。


「私の方こそ、叩いてごめんなさい。……手を出したのは、本当に良くなかったな」

「……初めてだったな。叩かれたの」

「そう、だな。……どうして避けなかった? 悠は、そこそこ強いんだろう?」

「そこそこって言うな、かーさんの息子だぞ。世界一強いよ」


 むっとして言い返す。すると余計分からないというように母が首を傾げていたから、恥ずかしいながらも言ってやることにする。


「避けたくなかったんだよ。分かんないかなあ、かーさんには」

「………………父さんの遺伝かなあ。この変態め」

「この流れでそうなるか普通!? えっ、てか何その情報!?」

「そういえば、あんまり父さんの話をしたことがなかったなあ。似てたぞ、お前に」


 頬杖を突いて、母は穏やかに笑う。

 そうしていると本当に若く見えて、未だに恋をしている女の子のようだった。


「未だに色恋沙汰はないのか? もう二ヶ月経っただろう?」

「えー、ないよそんなの。めっちゃ仲いい女の子って言えば……まあ、ちっひくらい?」

「ん、それはこの前家に連れ込んでた子か?」

「連れ込んでないッ! あれは俊介! 男だ! 俺を何だと思ってるんだ!?」

「父さんの息子」

「親父ぃいい……!」


 写真でしか見たことのない父親に憤慨していると、ポケットの中でまたしても電話が震えた。

 悠が今世紀最大級に驚く。快晴が電話をかけてくるとのは訳が違うのだ。


「か、かーさん。電話出ていい?」

「うん。友達か?」


 即答できない。そう言うと、うぜぇって嫌がりそうな奴なのだ。

 椅子に座ったまま、受話器のボタンをタッチする。


「……もしもし?」

『よう。なんだ、出るじゃねぇか。二宮が繋がらねぇっつってたからよ』

「ああ、ごめんな。ちょっと電池切れで放置してたんだ」

『まぁ、そんなことだろうと思ったよ』


 電話口で、黒瀬がいつものようにニヒルに笑う。元気そうで何よりだが、分からないままだった。


「で、クロが一体俺に何の用事?」

『用がなきゃ電話しちゃいけねぇのか?』


 五秒静止。また体温が下がった。


「気持ち悪いなあ。何? 俊介とかと罰ゲームでもしてんの? じゃんけんで負けたら水上に電話みたいな」

『……お前の自己評価の低さ、マジで病気な。その感じだと、まだ着いてねぇのか』

「ん? 何が?」

『よく効く薬だよ。根が深いみてぇだからな』


 何を言っているのか分からずに、首を傾げる。そういえば黒瀬の声を聞いて思いだした。


「あのさークロ、今日暇だったからずっとあの入れてくれたゲームやってたんだけどさ」

『おお、殊勝じゃねぇか。それがどうした?』

「なんかくっそつまんなかった……。あれ、本当に楽しいの?」


 黒瀬が声を出して電話口で笑い出す。珍しいこともあるものだと思った。


『ありゃソロ向きじゃねぇんだよ。部室で言ってなかったか?』

「え、そうだったっけ……?」

『そうだよ。……仕方ねぇな』


 鼻を鳴らす音がする。

 それはいつも彼が呆れて漏らす、冷たいものとは違っているような気がした。


『友達申請、送っとくから。ちゃんと受理しとけ』

「……いいの?」

『あ? 友達にいいも悪いもねぇだろ』


 この言葉だけ録音しておく機能がないかな、と頬が緩んだ。

 たまにはからかい返したい。後で母に相談してみよう――そう思ったときだった。

 インターホンの、ベルが鳴る。

 その音が、電話口の黒瀬にも聞こえたみたいだった。


『届いたみてぇだな』


 リビングに設置された受話器の横のカメラに、どアップでふたりの顔が映る。

 あたたかい気持ちで一杯になりながら、出ようとする母を手で止めた。


『まぁちょっと暑苦しい薬だが、適当にモノだけ受け取れよ』

「……いいよ。ちょうど、寒かったんだ」

『そうか』


 近くに、彼が寄ってくることはない。けれど十分、届くものがここにある。


『治りそうか?』

「……おかげさまで」

『そりゃ良かった』


 お大事に、と最後に丁寧にそう言われて、友達からの交信は終わった。

 そのまま今開けるよとインターホンに出て、悠は解錠のボタンを押して母に振り返る。


「友達か?」

「……うん」


 夢の中ではなく、これからずっと一緒に現実を生きていく、たったひとりの家族へ。

 感謝の言葉の代わりに、新しくできただいじなものを、笑顔で誇った。




「俺、友達がたくさんできたよ」




 光差す扉を開いて。

 こなたとかなたは、今出会う。

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