十一本目:聖職者と七つの大罪
十一本目:聖職者と七つの大罪
『面あり!』
藍原瞳は両手を胸の前で組み、俯いて神へと裁定を祈った。
篤く、強く。まるで聖職者が、救いの光を求めるように。
『っ……』
海が割れるような歓声と拍手が耳朶を打つと、ついに心を決めて頭を上げた。
『悠っ……!』
赤か、白か。神様が勝者の側に手を挙げる。
『勝負あり!』
そのとき自分は、どちらの結末を願っていたのだろう。
勝ってほしかったのだろうか。
それとも、負けてほしかったのだろうか。
分からない。
けれど愛する弟の「まいった」を示す、白旗が上がっているのを見たときに。
この目からは、血を流すような涙が止まらなかった。
『……瞳』
『綾、華、さん。……ぁたし、……ぁた、し……っ』
泣く資格なんてないと分かっている。
それでも嗚咽を止められないでいると、彼を生んだ母は、この身を抱き寄せ笑ってくれた。
血の繋がった我が子にそうするように頭を撫でて、聖母は微笑む。
『うん。……ありがとう、瞳』
彼女の胸へと顔を埋める前に、二階席を、天を見上げる悠の表情を見届ける。
そこで愛する弟は、ようやく得ることができた宝物を誇るように。
すっきりと晴れ渡る笑顔で、笑っていた。
――姉ちゃん。
『……っ、……ぅ、う、ぁ、あ、ぁあ――』
今、己が背負った十字架を下ろすことを赦されて。
聖職者の瞳から、透明な慈愛の涙が流れた。
「では、今日はこれで解散にします。個人戦だから出ていない人がほとんどだと思うけど、今日は早くに休んでしっかりと身体を休めること。それで明日、寝坊せずに授業に来てください。……緩まないように。日々是修行と言うからね。分かった?」
はい! と桐桜学院女子剣道部の教え子たちが、目の前で声を揃えて返事をする。
女子であっても体育会系の声はやかましくて、体育館の外に広がる夕焼け空を裂かんばかりだ。自分で促しておいて、藍原は少しだけいやーな顔をする。
こういうかっちりとした挨拶は嫌いだ。でも、締めるとこは締めておかないといけない。
不本意ながら、大人になってしまったのだから。
「それじゃあ、解散」
がやがやと緩み始めた生徒たちに背を向け、藍原はほっと一息ついた。
審判仕事の都合で巻いていた真紅のネクタイをしゅるりと外すと、
「瞳」
近くの柱でもたれてこちらを見ていた、悠の母に声をかけられた。
「お疲れ様。案外、ちゃんと聖職者しているんだな」
「あ、綾華さん。もー、見てたんですか……」
なんだか授業参観に来られたみたいで、もの凄く恥ずかしい。
顔を真っ赤にして、ごまかすようにきょろきょろと辺りを見回した。
「あれー? 悠坊、どこですか?」
「お友達と話しているんじゃないかな。ほら、あの……快晴くんと」
「……そうですかあ」
決勝で殺し合ったあとだというのに。何だか少し笑ってしまった。
どんな境地に至ったらそんな気持ちになるのか、二十四年も生きているのに見当もつかない。
最近、十七歳になったあの子が、たまに知らない男の子みたいに思える瞬間がある。
「私たちの出番は、今日はないかもしれないな」
「そうですねー。……姉離れ、かあ」
かつて悠が風邪を引いた日、冗談で言った言葉を繰り返す。
御剣から離れたあの日から、もう何年経つだろう。
自分がいないうちに、悠にはもう、本当に自分が要らなくなってしまったのかもしれない。
愛する弟分の自立も、成長も、喜ばしいことだ。……喜ばしいことなのだけれど。
「寂しい、な」
「……お? 瞳、帰ってきたぞ」
「えっ」
びくりと綾華の言葉に反応して、俯いていた顔を急いで上げる。
すると確かに、夕陽を背負って悠がこちらに向かって歩いてきていた。
「はぁぁ……! ほんとだー!」
防具袋を肩にかけて、悠は左手に持った竹刀袋を頭上に掲げてゆっくりと振っている。
その姿が、どんどん近づいて大きくなってくる。
――よーし。こっち来たら抱きついちゃえ!
寂しさをごまかすように、藍原は両腕を広げて笑顔で叫ぶ。「おかえりー! 悠――」
その声を、途中で止めてしまった。
広げた両手を、ゆっくりと自分の心臓に重ねる。
――あれ。この子、こんなに背、高かったっけ……。
「ただいま、瞳」
というか、というか、というか。昔から好み百二十パーセントの顔だけど。
「ぉ、ぉかぇり……」
この子、こんなにカッコ良かったっけ――!?
とくんと高鳴る心臓に、つい開いた口からよだれが出てくる。
藍原の中で、禁断の妖しい感情が鎌首をもたげ始めた。
――たべちゃいたい。
「瞳? どうした?」
「ハッ!?」
――いやいやいや食べちゃダメでしょ!
愛しい弟分の声で何とか正気に戻り、よだれをすすった。
危ない。自分はこの子の姉ちゃん、高校教師。無償の愛を与える聖職者。
今ここでお縄になると、桐桜の子たちも困ってしまうし。仕方ない。
「ちっ、社会め……。命拾いしたねー、悠坊」
「はあ、何が……?」
怪訝な顔をして、悠は地面に防具袋を置く。そしてその顔を今度は綾華に向けた。
「かーさんも。ただいま」
「うん。……おかえり、悠」
しばし、無言の間が生まれる。
かあかあと鳴くカラスの声が聞こえると、悠は一度空を見つめる。
そしてうんと頷いたあと、突き刺すように竹刀袋の先を地に着けて、にかっと笑った。
「悪い。負けちゃった!」
――ああ。この子はもう本当に、大丈夫なんだ。
安堵と寂寥が複雑に入り交じった感情を閉じ込めるように胸を押さえていると、綾華が一歩前に出た。悠の防具袋を拾ってその小さな肩にかけると、両腰に手を当ててにかっと微笑む。
「よし、負けてしまったものは仕方がない。原因究明と、再発防止に努めよう」
ふたりの笑顔は、鏡に映したみたいにそっくりだった。
それはやっぱり、血が繋がっているからなのだろうか。顔を真似してみるがうまくない。
切なくなって、なぜか黙り込んでしまった。
「さあ、帰ろうか。ところで悠、今日は何が食べたい? 好きなものを言っていいぞ」
「……ほんとに何でもいいの?」
「ああ、遠慮するな。高い寿司でも焼き肉でも、なんでもいいぞ?」
「……じゃあ、かーさんの手料理がいい」
照れくさそうにそう言って悠が笑うと、綾華は目を丸くした後、やっぱり苦笑した。
「しょうがないな。あんまり期待するなよ?」
「大丈夫。最初からそこまでしてないから」
「……なんだと? あんまり母を舐めるんじゃない!」
「いやー、実績があれば俺もなー」
じゃれ合うふたりの姿を見て、藍原は静かに一歩下がった。
邪魔をしてはいけない。
これが、本当の家族の団らんなのだ。
「じゃあ、あたしはこれで……」
今日は行きつけで、ひとりで浴びるほど飲もう。くだを巻いて。
もう貯金残高とか明日の仕事とか知らない。用済み姉ちゃんはひとりで泣きます。
「あっ、待て瞳。どこ行くんだ?」
そんな風に既にうるうるしていると、悠にブラウスの腰の辺りを掴まれた。
これ超好き。どきっとする。誰から習ったの?
いや確かに色々、御剣の女衆で仕込みすぎってくらい仕込んだのは事実だけれど。
こんなに仕上がってくるなんて、聞いてない……!
「か、帰るんだよー?」
「駅、そっちじゃないぞ。ほぼ毎日来てるんだからいい加減覚えろよ」
「全くだ。というか、瞳は晩飯代を入れろと言うのに……」
まるで、呼吸をするように自然に。ふたりは、優しい声で言う。
「うちに帰ろう、瞳」
「……うん」
心の奥のやわらかいところが、くすぐったくなって笑った。
血が繋がってるとかそうじゃないとか、細かいことはもういいや。
「姉ちゃん、またカレーがいいなー」
本日の仕事は、もうおしまい。
× × ×
悠の家に着くと、すぐお風呂に入って入念に身体を洗った。審判仕事で汗臭くなった身体で悠の前にいたくないというのは、ちょっとした乙女心だ。
綺麗なお姉ちゃんでいたい。やっぱり。
適当適当と言われるけれど、そこにはいつも気を遣っている。
「気持ち良かったぁ……」
悠の残り湯だからかなと前回言ったときは「気持ち悪い」とドン引きされてしまった。
冗談にしては、あれはさすがにやり過ぎたので反省している。
でもあの嫌そうな顔、ちょっと好き。
藍原は脱衣所にある『ひとみ』と書かれたカラーボックスの中から、おニューの黒い下着を上下セットでおろした。いつでも泊まれるようにと、ひとつだけ置いていたやつ。
ちょっとだけ高くて、気合いの入ったやつ。
「よ……よし」
他意はないけど。いや全然他意はないけど。
オトナと子どもで、それから教師と生徒の間で、何か起こるはずなんてないんだけれど。
今日は、ちょっと特別な日だから。
鏡の前で神妙な顔をして頷き、ジャージを全部着てからリビングへと出た。
まだカレーの匂いはしない。キッチンで綾華は難しい顔をして野菜を切っている。
そして悠は、リビングのソファの上で、携帯を横向きにして何かを見ていた。
どっちに行くかは言うまでもない。悠に這い寄ってソファの隣に座り、髪をたくましくなった腕にぐりぐり押しつけた。
「ひ、瞳。近い。ウザい!」
「あは。聞こえなーい」
赤くなってる。超かわいい。
そんなこと言いながらちゃんと目線はおっぱい見てるし。ウザくて重たいだけだけど、この瞬間だけはあってよかったと思える。昔からこういうところはちゃんと男の子だ。
興奮するよねと御剣の女衆に言ったら、半分くらいに「痴女だ」「業が深い」と言われる。
ちなみにもう半分は「分かる」である。ライバルは多い。
にしても悠はいつもいい匂いがする。同じシャンプーなのに。
「ねーねー、何見てるの? えっちな動画?」
「……幼馴染みものだよ。見るか?」
「む。女教師じゃないんだ。ザンネン」
苦笑して、悠は隣にひっつくことを許してくれる。
画面をこっちにも見えるようにしてくれると、悠はミュートを解除した。
激しい声と竹刀の音が、一気にリビングを満たす。
決勝戦の、悠と快晴の試合だった。
なるほど確かに幼馴染みもの。あと、激しすぎ。これには流石の自分も太刀打ちできない。
この試合は、十年に一度とかそういうレベルの試合だろうから。
悠の腕に頭を乗せて、しばし夢中になって動画を見ていた。
『面あり!』
「……うぐ。必要だから見るけど、やっぱあんま見返したくないよな……」
「あれ、そうなのー? てっきり悠坊は興奮してヘビリピするのかなーって」
「いや、自分が負けた試合繰り返し見るとかド変態だろ……。性癖終わってない?」
脳裏に超捻れたブラコンかつ性癖が終わっている教え子の姿が浮かんで、ほくそ笑む。
「あの子より、まだ姉ちゃんのほうがまともだね」
「ん? 何が……って、おっ」
動画を再生していると、画面の上部にLINEのバナー表示が現れた。
そのまま読めば良いものを、悠は携帯を隠して身体も逃がした。
「むー。誰からなの」
「誰からでもいいだろ。めんどくさいな」
「良くないよー! 姉ちゃんに隠し事なんて許さないかんね!」
再びにじり寄ると、ゴミを見るような冷たい目で見られてしまった。
昔はもっと、姉ちゃん姉ちゃんって優しかったのに。
「藍原先生。いい加減二十四ちゃいでその言動はどうなんですか?」
「あ、藍原先生って呼ばないでよー!? それ悠坊に言われるのすっごいヤダ! 怒るよ!」
「じゃあもうちょっとしっかりしてくれよ。俺より七つも年上なんだろ……」
悠はそう言うと、一気に老け込んだような呆れ顔で深いため息をついた。
そこまで嫌そうな顔しないでほしい。さすがに傷つく。
「史織だよ。覚えてる? 桐桜との練習試合のとき、見学してたと思うんだけど」
「……ああー。あの生意気な一年ちゃんかー」
連休最終日に藤宮に稽古行った日にも、ちょっと噛みついてきた。
それで確信した。あの子も絶対敵である。
「確かに生意気だけど、歳は関係ないよ。あいつは絶対強くなるから」
嬉しそうに、悠はそう言う。
その声音になんだか特別な響きがあって、藍原はむむむと唇を尖らせる。
「もしかしてその子のこと、好きなのー?」
「は? 何言ってんの? 剣道に恋愛挟み込むなよ。史織にも失礼だぞ」
「……あは。悠坊はやっぱり、相変わらずだねー! よしよし」
「だーもうっ、頭を触るな! 本当に出禁にするぞ!?」
安心した。
やっぱりこの子は、教育通り年上派のまま変わってないはずだし。
「それに悠坊は、史織ちゃんとの約束より姉ちゃんを優先したもんねー♪」
やっぱり姉ちゃんがナンバーワン。
にやにやと笑いかけると、しかし悠はぼーっと口を開いて頷いていた。
「ああ、あったな。そんなこと。……まあその分、ちゃんと埋め合わせはしたけど」
「えっ、どういうこと? もしかして、姉ちゃんに内緒でデートしたの!?」
「うん。つい昨日」
「聞いてないー!」
「言ってないし……。あっ、纏さんからだ。おお、幸村先輩からも……!」
きらきらと、携帯を抱きしめて悠の目が光り出す。
この喜びよう。絶対に男じゃない。幸村先輩。……先輩。……年上!?
「ううー……! なーんーでー! 悠坊は、姉ちゃんが一番じゃないとやだー!」
「あー、はいはい。痛いぞ、二十四歳」
塩対応すぎる。本当にかなしい。
「おーい、悠、瞳。すまない、ちょっといいかな」
「ん。どしたのかーさん?」
「いやな、ルーが残っているかと思っていたんだが、三人分だとどうも足りなさそうなんだ。すまないができるまでもう少し時間をもらっていいか?」
「あれ、ほんと? じゃあ俺ひとっ走り、隣町のスーパーまで行ってこようか?」
「いや、駄目だ。私が歩く。……今日ぐらい、ちゃんと母親をやらせてくれ」
「……分かった」
財布を持って、綾華は鞄を肩にかける。
なので拗ねている途中の藍原は、ソファに寝転がりながら不満げに手を振った。
「行ってらっしゃいでーす。あー、姉ちゃんおなか空いたなー。だるーい」
「……お前は姉の前に」「ちゃんと人間をやれっ!」
綾華と悠のダブルキックが、胸に刺さる。痛い。ひどい。
でも仕方ないじゃん。だっておなか空いたんだもん。
× × ×
冷蔵庫を勝手にあさって、藍原は二本目のお酒を探す。
カレーの前にビールを飲むのは嫌なので、次はほろ酔いをチョイスすることにした。
ぶどう味があったのでそれを選ぶと、背中から声がかかる。
「瞳ー、俺も何か飲みたい。炭酸ない?」
「えっとねー、ファンタならあるよー。ぶどう味」
「じゃあそれで」
「はーい。……珍しいね?」
「まあ、今日ぐらいはいいかなって。それに、俺もちょっとお腹空いちゃった」
普段、身体に悪くて好きじゃないからと言い、悠は炭酸を飲まない。
それだけに、今日という日はやっぱり特別なのだろう。
藍原は片手に一本ずつ缶を持ち、それぞれ人差し指一本で簡単にプルトップを開ける。
力があるところを見られるのは嫌だから、横着をするのは見られていないときだけ。
リビングの低いテーブルの前にあぐらで座る悠の肩を叩いて、缶を握らせてやると自動で飲んだ。悠はこちらを一度も見ない。ずっとテレビに映し出された映像に集中している。
撮っていたのは携帯だけではないし、快晴との試合だけでもない。
ビデオカメラに収めた自分の全ての試合を、悠は張り詰めた顔で観察していた。
「……ほんとにもう、大丈夫なんだね」
悠との間に人ひとり分のスペースを空けて座り、聞こえないようにぼそりと呟く。
やけに感傷的になってしまうのは、酔いが回っているからか。
ちびちびと飲みながら、藍原はぼーっとして深いため息をつく。
「はー。仕事だるーい。もっともっとお休みほしーい……」
明日は月曜日。普通に仕事。
せめて活力を吸収するために悠にぎゅーしたりちゅーしたりできれば良かったのだが、こんな雰囲気でそれができるはずもない。
悲しみを飲み下すように、さらにお酒を嚥下する。
なんだかいつもより甘く感じる。不幸の味だからだろうか。
「……あ」
ぼーっとしていると、テレビに映る映像が準決勝のものになった。
戦っているのは悠と江坂。大きな背をした彼は、悠に挑むべくその構えを取る。
火の位――上段構えを。
「……なあ、瞳。ちょっと、聞いてもいい?」
「あは。なにー? おっぱいのこと? 悠坊なら直接触って確かめていいよー?」
「上段、使わなくなったんだよな。……何で?」
こちらを振り向いて、悠は真剣な声音でそう言った。やっぱり、切り込んでくるときは絶対に切り込んでくる。下手な冗談で、捌ける相手ではないか。
大人になったというのに、やっぱり悠に攻められると逃げられない。
「……乾さんから、聞いたの?」
「それもあるし。練成会の地稽古のときも、藤宮に来たときも、ずっと中段だったじゃん」
「そっか。まあ、たまたまだよーって言い張るには多すぎたかなー?」
「……うぬぼれてたんだけどなー、俺」
恥ずかしそうに、少しだけ悠は頬を赤らめる。
こてんと首を傾げていて、何だかその仕草に蠱惑的なものを感じてしまう。
「俺とならまだ、本気でやってくれるかなって思ってた」
「……それは、だって、悠坊だから……」
「せめて剣道ぐらいならさあ。……俺のこと、飽きないで、忘れずに――」
「忘れてなんかないっ!」
思わず叫んで、缶をテーブルに叩き付けてしまう。中身がなかったのでこぼれることはなかったが、目を丸くしている悠の顔を見ることができない。
ずっと胸の奥底に封じ込めていた気持ちが、とうとう蓋を破って出てきてしまう。
「だって。……赦せない、から。……もう、使えない」
それをこの子にだけは聞かせてはいけないのに、迸る激情を止めることができなかった。
「ずっ……と、剣道ばっかり、してたの。足りない足りない強くならなきゃって、いつの間にか『殺人姫』とか呼ばれてて、それでも、やらなきゃって。……ずっと……」
強くなりすぎた左手の力が、缶を簡単に握りつぶす。
「帰れなかったんだもん。……会いに、いけなかった」
「……別に、強くなくたって、いつでも……」
「……んーん」
今なら、傍にいてあげることこそが一番必要なことだったのだと分かる。
けれど、当時は分からなかった。
自分で勝手に十字架を背負って、そこから動けなくなってしまった。
そのために斬り捨てたものが、あまりに大きすぎたから。
「弱くて、いいわけないじゃん……。じゃあ、あたし何のために御剣を出たの? ……何のために、悠坊から離れたの?」
「……瞳」
「……あたしが、救ってあげたかったんだもん……。悠坊より、強くなって、あたしが……」
泣く資格なんてないと分かっているのに、また涙が止まらなかった。
意地になって、自分しか見えなくなって。
そんな風に身につけた強さが役に立つことは結局なくて、待っていた結末は知っての通り。
こんなの、悠を見捨てたのと変わらない。……だから。
「一緒に捨てようって、……決めたの」
自己満足に過ぎないけれど、眠る彼の墓前に備えるように、その構えを捨てると決めた。
けどそれでも、まだ己を赦せなかった。
だから、ひとりでも多く、代わりに迷える子を救う道を選ぶために。
似つかわしくなくても、苦しい道だと知っていても、聖職者となることを選んだ。
「あたしは、もう、自分のことは……」
「瞳」
俯いていると、優しい手のひらが頭を撫でた。
それからぎこちなく、背中側からそっと抱きしめられる。
遠慮しているからなのか、そういう方針だからなのか。
あんまりにも優しすぎて、またぐずぐずになってしまった。
「……ゃめてよぉ……。大人なんだよう……。頑張ってるのに、だめになっちゃう……」
「いや、そんなに大人頑張った痕跡は見られないけどな。……まあ、いいや」
苦笑して、悠はとろんと笑う。それから耳元で囁くようにして、言った。
「がんばったな」
溶ける。無理。
背中から全部の体重を預けて甘えるが、けれど男の子の力でしっかり支えてくれた。
心臓がどきどきする。というか悠の声が色っぽい。一体、何が起きているんだろう。
「や、やめ………。あ、あたし、大人、お姉ちゃんっ……」
「いいから」
――よくないから!? このままだと踏み外しちゃうから!?
やり過ぎた。育てすぎた。こんなことになるなんて何年越しのブーメラン!
瞳は何度も手でぺちぺち顔を叩きながら、よく効く自制の呪文を唱える。
事案。淫行。逮捕。……それは、だめ!
深呼吸して、藍原は頑張ってきりっとした大人の顔を作った。
「ありがとう、瞳。……俺に、もう一回剣道やらせてくれて」
二秒で崩壊した。またたじたじになる。
「……あ、あたしは、何も」
「んーん。瞳がいなかったら、今日はなかった。……って言っても、勝手にずぶずぶハマってくんだろうなあ。普段、見せないくせに」
同じ血が流れていなくても、やっぱり似るのかなと言って悠は笑う。
そうして両肩をぐいっと持たれて、悠のほうを向けられる。
真っ正面に、彼の顔が。
「瞳」
「は、はいっ……!?」
近い。近い。近い――おでこがぶつかる。顔と顔がもう少しで、あああ!
睫毛が長い。ちょっと顔が赤い。目がとろんとしている。腕はしなやかだけどちゃんと筋肉があって、というかえろすぎる血管が綺麗に浮いてて。
藍原の心臓が、どくんどくんと高鳴る。身体があつい。よだれが垂れそうになる。
自制の呪文、自制の呪文、事案――いやでも、ばれなきゃ犯罪じゃないのでは。
ということは、たべていい? いいかな。
いいか、もう――。
「いや待って待って待ってぇ―――! おちついて! 何か、おかしいよ悠坊っ……!」
聖職者、土俵際の粘り。
悠とおでこをぶつけあって真っ赤になりながら、きょろきょろと藍原は辺りを見回す。
こんな悠はあまりにもヘンだ。一体、何が――「ああっ!?」
気付いてしまった。
今しがた自分が潰して手に持っている缶が、ファンタであることに。
「ゆ、悠坊、お酒飲んじゃったのっ……!?」
事案だ。懲戒免職の四文字が、藍原の背筋を凍らせる。
「んー? ……ちょっと、黙れ」
でもソファに両肩を掴んで押し倒された時点で、そんな単語は消し飛んでしまった。
もう昔とは違って、男の悠との力の差は歴然で。
抵抗できない。したくない。……したくない? 姉ちゃん、なのに?
「ゆ、悠、ぁ、だめっ……」
「ごちゃごちゃうるさいなー。塞ぐぞ?」
なにで。なにで塞ぐの!?
脳みそがもはや熔解寸前になっていると、顔の上で、覆い被さった悠の笑顔がとどめを刺す。
「言わないと分かんないなら、言ってやる」
「ぇ……」
「全部、赦すから。……また上段取ってよ」
とくんと、心臓が高鳴る。
それは今、この火照る身体の熱とは別で。
「また、本気になってよ」
「……ぅん。……うん」
身体がうずく。
言ったのは、悠からだ。
仕方ない。それは仕方ない。だからもう、男の子の方から、建前はもらっていて。
「どう、しよっかなあ……」
少し長めの舌で、乾いた自分の唇をぺろりと一周舐めてしまう。ぬるい吐息を吐くために開いた上唇と下唇の間から、薄い銀色の糸が引いた。
肩を掴む悠の両手を外して、恋人繋ぎにする。
最後のブレーキを、悠に委ねることにした。
「……悠が、言ってくれたら。……いい、よ……」
歳の差。教師。聖職者。それから条例。
そんな形だけの、オトナの建前よりも。
「何を?」
「お願い、姉ちゃん、って……」
そう言えば、昔から変わった今の悠は、嫌がってくれるはずだから。
それが女教師の藍原瞳、最後の最後のマジノ戦。
たべちゃだめ、たべちゃだめ、たべちゃだめ――
「そんなのでいいの? ……じゃあ、お願い」
――姉ちゃん。
あ、もういいや。たべちゃお。
絡めた指を外して、今度は藍原が悠の両肩を持つ。そして鍛えた力でぐいっと半回転してソファに押し倒し、今度は逆に、藍原が馬乗りになった。
「こんなの、しょうがないじゃん……」
姉弟なのに? 聖職者なのに?
もう知らない。どーでもいい。理性。何それ、それもおいしいの?
だって血が繋がってないんだし、バレなきゃ犯罪じゃないんだし、何より。
――愉しかったら、なんでもいいじゃん。
「いただきまぁーす……♪」
「貴様の命をか?」
時が止まる。背筋凍結、アゲイン。
ぎぎぎ、と馬乗りのまま声の方向を振り向くと、綾華が笑顔で仁王立ちしていた。
「生殖者くん。警察かコンプラ窓口、連絡するのはどちらがいい?」
「ちっ、違うんです綾華さん!? こっ、これは合意の上で! 悠坊っ!?」
「すぴー……」
「寝てるぅ―――!?」
「それじゃあ、藍原先生。まずは保護者にご説明願おうか」
ごおっと、綾華の周りに黒い闘気が迸る。
髪も跳ね上がっていて、道場にいるときの悠そっくりで――、
「ま、待っ――」
「死ね」
火あぶりのような尋問が、残酷に執行された。
× × ×
「全く、何を考えているんだお前は……」
「だ、だってー。しょうがないじゃないですかー?」
「何もしょうがなくない! この性欲の権化が! 聖職者なんだろ!」
「そ、そんなこと言ったら親鸞さんだってしっぽり妻帯してますしー!」
晩ご飯も食べ終わって、大人ふたりでゆっくりと食卓で呑む。
あれから悠は、ずっと起きない。試合で全てを使い果たしてしまったのだろう。
昔のように背負って運んで、自室のベッドで寝かせておいた。カレーは明日の朝ゆっくりと味わってもらうとして、今はゆっくりと眠ってほしい。
色々食べ損ねたのは、口惜しくはあるけれど。
「ところで瞳、何でもう一回風呂に入ったんだ?」
「……あ、あは。冷や汗かいちゃったんでー」
本当のところは言えない。本格的に出禁になっちゃう。
ごまかすと、まあいいけどなと綾華は目を細めて、おちょこに入れた日本酒を煽る。
そして苦みを嗜むように、片目を瞑って笑った。
「おいたはせめて、あの子が卒業してからにしてくれよ。私も犯罪は庇えない」
「……え。怒らない、んですか?」
「いや、怒っただろ。まだ足りないか?」
「そ、そーいうことじゃなくて。……あたし、働いてるし、七つ差だし、姉ちゃんだし……」
「別にそんなラベルは後でどうとでもなる。……悠もお前も、まあ知らないか」
何だか彼女の顔が赤い。無類の酒豪だったはずだけど。
「どうしました?」
「……七つ差だったんだよな」
「え」
「私は、上にだけど」
ちろりと唇を出し、綾華はペコちゃんみたいに悪戯っぽく目をそらして笑う。
知らなかった。悠の年上好きは、ひょっとしたら彼女の遺伝なのかもしれない。
「……あれ。ちょーっとおかしくないですか? 確か、高校生の頃に」
「時効だ。そして犯人は死んでいる」
「……わるい人たち」
失笑してしまう。
自分はこんなに格好良くはなれないけれど、少し似ている部分があるのかもしれない。
血は繋がっていないけれど、それが家族だからなのだとしたら、じんわり嬉しい。
「実際のところ、お前は本当にそういう目で見てるのか?」
「……うーん。どうでしょう」
昔は、若干行きすぎていたきらいがあったけど、完全に弟としてだった。
けれど、今は。
悠が『男の子』に成長した、今は……どうだろう。
少なくとも、綾華が帰ってこなかったら、今頃――。
「……あは、分かんないです。けど好きなら、何でもいいかなーって」
どっちみち、頭がおかしくなるくらい好きなことには変わりない。
曖昧で、適当で良い気がする。それが何かと便利だし。
「おいしい位置にいるよ、瞳は」
「あは。おいしいの、だーいすき」
人生、欲張ってなんぼだ。
あれもほしい。これもほしい。もっともっとほしい。
これからのことだって、それから、一度は捨てたものだって。
「綾華さん」
「うん」
「あたしもまた、本気になりますね」
「……うん」
色々と頑張るつもりだけれど、とりあえずは剣道から。
明日は休んでほしいからやめといて、明後日あたりに桐桜に悠を誘って。
すっごく下手になっていることは間違いないけど、本気の自分を見てもらう。
「あは。まだまだ小娘たちには、負けませんよー」
日本酒をくいっとあおって立ち上がり、ふらふらと悠の部屋に向かう。
そおっと扉を開けると、ベッドの中で穏やかに、すやすやと宝物は眠っていた。
「……ふっふっふ。あと、いちねんちょっと……かなー?」
両膝を折って、枕の横に頬杖を立てて、もっと格好良くなれとにやりと笑う。
まだだ。まだ、食べ頃の時期じゃない。
この子はもっと美味しくなるはず。藍原瞳をぐずぐずにしてくれるはず。
そのとき自分は、果たして『姉ちゃん』でいられるのかどうか。
熟れるそのときをじっと待ちつつ、今はこの曖昧を楽しんでやろう。
「今だけ、手加減してあげる」
けれどいつか、収穫の時期がやって来たら、そのときは。
あの小娘たちが育てた分もぺろりと横から平らげて、きっと高笑いしてやろう。
「あはっ」
赦された聖職者は、魔女のような笑みを覗かせて。
「おーきくなーれ」
七つ分の大罪を犯す日を、指折り数えて待っている。
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