十本目:突きに負け犬

 ――死ね。

 即死の呪文を唱えるように、魔王の唇がそう紡ぐ。

 八代の身体は痺れて動かなかった。


「っきィい―――――――ヤアアァッ!」


 一撃必殺、乾快晴の片手突きが喉元に迸る。余りの破壊力に身体は宙に浮き、無残に後方へと吹き飛ばされた。呼吸が濁って、意識が飛びかける。そんなところを、がしりと、座していた悠の腕に受け止められた。

 惨めだった。尻餅を突いて、嫌いな男に支えられて。

 手を、離せ。

 いつものようにそう吠えようとした。

 だが、串刺されたからなのか。喉がかすれて声が出ない。

 そして遅れてやってきた痛みと共に、身体は震え出した。

 遥か高みから見下ろし嗤う魔王の貌に、喘息のように息がこぼれる。

 怖い。怖い。怖い。怖いこわいこわいこわい――――――!

 動物としての本能が、立ち上がるなと言っているみたいで。


「……くくくっ」


 そして背中から聞こえる、狂気を孕んだ悠の嗤い声にまた震える。

 その腕の中から逃げ出して、ようやく仮面を取った男の顔を見た。


「いた。……やっと、見つけた。お前も、こっち側の人間か!」


 奴もまた、己とは次元の違う化物だった。

 ――勝てねえ。

 もはや、壊れた喉では吠えることすらできやしない。

 突きに、負け犬は牙を折られた。













 錬成会が終わり、体育館の前で佐々木先生が解散の号令をかける。

 正直、何を話していたのか八代は全く覚えていなかった。

 頭の中では、まだ化物が暴れている。

 一分もかからず、自分や他の敵を叩き潰しては屠っていく乾快晴。

 面小手胴突きを順番に繰り出し、紙屑を破るかのように人を斬っていく水上悠。

 それらが何度もフラッシュバックするくせに、しかしなぜか心は動かなかった。

 畜生、ふざけるな、今に見てやがれ――。

 いつものそんな言葉が、口を突いて出てこない。


「く……」


 喉を押さえて、首を左右に振った。このままではいけない。

 意識を現実に戻し、傾いた夕陽とカラスの声の中、部員のみんなの行動を目で追っていく。

 悠と史織はふたりで学校に防具を置きに行った。城崎と黒瀬もそのふたりを避けるように別の道で帰っていった。あとは……どうだったか。ぼうっとしているうちに、どこかへ行ったのだろう。

 気付けば八代は、体育館の前でひとりだった。


「……喉、乾いたな」


 ポケットに入れっぱなしになったコインを取って、近くの自販機でペットボトルの水を買う。

 左手で持つと、その手がまた、情けなく震えだした。


「……ッ」


 肩に背負った防具袋が重い。

 水を掴むべく自販機に立てかけた竹刀袋を、もう握りたくない。

 初めて抱く感情から、もう、目を逸らすことができない。

 あんなに、あんなに。……その気持ちを抱く者を、馬鹿にしていたというのに。


「……剣道、したくねえ」


 乾快晴に突かれたとき、水上悠の鬼の貌を見たとき、思ってしまった。

 ――勝てねえ。

 自分には一生、あの次元に辿り着くことはできないのだと。

 刺突以上に、そんな残酷な引導を突きつけられたようだった。


「……帰る、か」


 次の練習に備えて、学校へ防具を置きに寄る気が起きない。藤宮への最短ルートである電車ではなく、家に直接帰れるバスを選ぶことにした。

 とぼとぼと、バス停へと歩く。きっと誰とも帰り道が被ることはない――


「あれっ? 八代くん?」

「なに? ……おお、八代。奇遇だな?」

「……ッス」


 はずなのに、出会ってしまった。ふたりきりの円香と江坂に。

 なんだか浮気現場を目撃してしまったような気まずさがある。

 夕陽を見上げて深呼吸、三秒。精一杯の愛想笑いを作って。


「お疲れ様ッした」


 背を向ける。しかし。

 がっ、と円香に肩にかけた防具袋を掴まれた。

 振り返ると、まるで先程対峙した化物と遜色ない圧力を感じさせる円香の笑顔が待っていた。

 怖すぎ。なんだこの人、部内で一番弱いはずじゃ――!?


「どこに、行くのかな?」

「こ、ここではないどこかへ……」

「見られたからには、生かしておけないよねえ?」


 帰巣本能が言っている。


「一緒に、帰ろ。八代くん♪」


 多分もう、家には帰れない。




 × × ×




「でねえ、吹雪ちゃんは絶対水上くんに恋してるんだと思うのっ! 見た!? お昼休み!」

「ああ、確かに昼食を誘いに来ていたが……。考えすぎじゃないのか?」

「そんなことないよー。じゃあ江坂くん逆の立場で考えてみてよっ。もしね? 桐桜学院に気になる女の子がいてね? 一緒にお昼ご飯食べようよって普通言いに行ける?」

「……おお。そう言われると確かに説得力があるな」

「でしょ!? でしょっ!? これはもうねえ……愛なの! ラブなんですよっ!」

「わ、分からんが……ラブなのか?」


 愛の伝道師と化した円香が江坂の隣席でいきいきうきうき話す間、八代は空気と化し、通路を挟んだひとり席で窓の外を見ていた。死んだ目が窓ガラスに映る。

 ――これ、俺、必要か?

 円香の打ち込み台となる元立ちは、江坂ひとりいれば良かったのでは。彼もぎくしゃく苦笑しているけれど、長い付き合いがあればそこは何とかなるんだろうし。


「帰りてえ……」


 八代は苦虫を噛み潰したような顔で喉元を押さえる。


「そうだよ! でねでねっ、うちの史織ちゃんも絶対水上くんのこと気になってると思うの!」

「ああ、流石にそれは俺でも分かるぞ。ずっと目で追っているよな、あいつ」

「えっ、江坂くんでも気付いたの? じゃあもう全人類分かっちゃうねー」

「おい。馬鹿にしすぎだぞ」

「実際おばかさんなんだもん。異論があれば、わたしいくらでも反論できるけど戦う?」

「……い、いや、ない。すまん」


 それにしても、あんなに剣道の強い江坂が、どうしてこんな弱い円香に良いようにされているのだろうか。いや、確かに先程の謎の圧力は怖かったが。


「……手ぇ、抜いてやってんのかな」


 この人が弱い女だから。

 そういうことなのだろうか。


「うーん、これからの展開が楽しみぃ……! 水上くんをかけた恋の鞘当てっ!」


 円香は纏とは正反対で殺気の欠片もなくて、恋愛沙汰が大好きな普通の女の子という感じの人だ。どうしてこんな人が、剣道部なのか分からない。

 多分知らないまま料理部のかわいい先輩と言われたら、自分は普通に信じてしまうだろう。

 そんな風に思いながら円香の横顔を眺めていると、やっぱり捕捉された。


「ねえ、八代くんもそう思うでしょう?」

「……別に。何も思わねえっスよ」

「えー、それは嘘だよ。何かあるでしょう? こう、モテやがってー。羨ましいぞー的なね?」


 にこにこと、明るい笑顔でそう言ってくる。

ぎりっと歯を食いしばり、当たりつけたくなるのを必死で堪えた。

 何が、そんなに面白いんだ。顔を再び、窓ガラスに向ける。


「羨ましい、スか……」


 もしも自分が、あんな風に自在に剣を扱えたら。敵の攻撃を躱せたら。……それから。

 あんな風に、敵を串刺しにして吹き飛ばせたら――。


「別に。当然なんじゃないすか。……あいつは死ぬほど剣道強えんだから。女がついてきて当たり前でしょ」


 みっともない本音を隠して、せめて奴を下げるようなことは言うまいと思った。

 ただでさえ、惨めなのだ。このうえ負け犬の遠吠えなんて、格好悪いことだけは――。




「そうかなあ?」




 また突きをもらったような気がして、びくりと身体が震える。

 思わず彼女の方を振り返った。

 しかし、気のせいだったのだろうか。彼女はまた、穏やかに笑っているだけだった。


「まあわたしは、可もなく不可もなくって感じだけどねー」

「うぅん。確かに歴代幸村が懸想してきた男を並べてみると、あいつは毛色が……」

「あっ、こら! それ一年生には内緒だよ! ていうか懸想て。いつの時代の人なの江坂くん」

「えっ、使わんか? 使うよな、八代?」

「つーかケソウってなんスか?」

「なん……だと……」

「ほーらね! そ、ん、な、ことよりぃー」


 にやあ、と円香が悪魔のように笑む。黒い影が車内を覆った。


「八代くんの、恋の話をしよっかあ……♪」


 心の中で『逃げる』コマンドを押して、藁にも縋る思いで江坂の方を見る。

 死んだ目でふるふると首を振っていた。


「ぶ、部長ッ!」

「通過儀礼だと思って諦めろ。大魔王からは逃げられん……」

「尋問を、はじめまーす」


 有り金が半分になってもいいから、見逃してほしいと本気で思った。




 × × ×




「ひでえ目に遭った……」

「はは、まあそう言うな。……楽しそうで何よりだ。助かったよ」


 ぐったりと、八代はシートに身体を倒す。お陰様で最寄りのバス停に降りそびれてしまった。

 こうなったらもう二つ先のバス停で降りて、そこから一駅だけ電車に乗って帰ろう。

 藤宮には、もう防具を置かない。

 江坂の顔を直視できずに目を逸らすと、彼の隣では円香が寝こけていた。


「無茶苦茶スね。楽しむだけ楽しんで寝やがった……」

「疲れているんだろう。朝も早かったしな。……着くまで、ゆっくりさせてやれ」


 疲れて。突かれて。着くまで。

 ――突く、まで。

 心臓がまたどくんと鳴った。

 改めて、今の自分は壊れてしまったのだと思い知らされる。

 ただ、音が同じだけなのに。

 脳裏に、乾快晴に突かれたときの光景がフラッシュバックしてしまう。

 そんな自分に気付かれたくなくて、また窓の外に目を見やる。

 夕暮れの中に、夜が忍び寄り始めていた。


「八代」

「……はい」

「さっきからずっと、首を押さえているな。……痛むか?」


 はっとして、自分の右手を見る。確かに無意識のうちに押さえていた。


「中々、強烈だったからな。乾のあれは。まだ痛むようなら、医者に」

「いや、大丈夫ス。……身体は、別に」

「……ああ、そうか」


 得心がいったと言うように、江坂が静かに笑う。


「突かれたのは、初めてか。……まだ、練習したこともなかったよな」


 剣道の有効打突は四種類。

 面、胴、小手、突き。

 そのうち突きは、部活剣道では高校まで禁止されている。

 それほど、危険な技なのだ。喉への刺突は。


「怖いだろう。突きは」


 答えられなかった。

 あんなにいつも生意気言っているのに、たった一度突かれただけで、もう吠えることができない。

 そんな自分が情けなくて、唇を噛んでいたら。


「あれは嫌だよな。俺も、今でも怖い」


 江坂がそんなことを言ったから、つい振り返って間抜けな声を漏らしてしまった。


「は?」

「ん? なんだその顔は。……怖いさ。俺は上段なんだからな」


 窓にもたれて寝こけている円香の隣で、江坂は腕を組んで苦笑している。

 頭上に諸手を掲げる上段構えは、喉元ががら空きになる。

 だからみんな、そこを突いてくるものだが。


「……部長でも、スか?」


 江坂ほどの達人が、怖がるとは思えない。情けをかけられているのだろうと思った。


「でも、とは何だ? 俺は何か特別な生き物か?」

「……でも、強えじゃないスか」

「俺より強い奴などいくらでもいるさ。……それにお前は、アレを見ていただろう?」

「アレって?」

「四月の、俺と水上との手合わせだ。お前は主審を引き受けてくれたよな」


 覚えている。あれほど衝撃的な光景はなかった。

 自分が全く歯が立たない江坂が赤子のように扱われて、それから。


『突ッきぃぃ―――――――――――っしゃああァアぁッ、たあぁッ!!』


 あの激烈な突きに、江坂は無惨に吹き飛ばされて破れ去ってしまったのだから。


「凄かったな。あんな突きは、初めて喰らった。……最初は理解が追いつかず、興奮していただけだったが。時間が経つにつれ、怖くなってきてな。あの日は飯が喉を通らなかった」

「……部長、も」

「ああ。お陰であの日は困ったよ。……食べてやりたかったが、吐くわけにもいかんしな」

「ん……?」

「ああ、悪い。こっちの話だ。……まあ、そういうことだ。俺は何も、特別じゃない」


 だったら、どうして。同じく天才に屠られたもの同士だというのに。

 どうしてこの男は簡単に立ち上がれて、今自分は、震えて立ち上がることができない。

 その差を分かつものは、一体何だというのか。

唇を噛んで俯いた。


「なあ、八代。乾とやって、どう思った。俺はそれが聞きたい」

「……俺は、死ぬほど下手なんだって。初めて、思いました」


 才能。

 その二文字を、信じたくはなかった。

 だってそれが、自分にはあると思っていたのだから。

 顔を上げて、江坂の顔を見る。「……くく。はっはっは!」


 すると彼は、手を叩いて笑い出した。

 まさかの反応過ぎて、一瞬脳がついていかない。


「ちょっ……、な、何がおかしいんスか!?」

「い、いや……。こ、これで、笑うなと言う方が……くくくっ」


 少し涙さえ浮かべて、江坂は笑う。

 そして呼吸を整えたのち、しっかりとこちらの目を見て、にやりと笑った。


「ようやく気付いたか?」

「……ッ」

「なるほどな。塞ぎ込んでいたのは、そのせいか」


 江坂が、目を細めて前を見る。それは、遠い何かを見つめているようでもあった。


「だが、お前はまだ早い方だな。……俺は気付くまで、もう少しかかった」


 その横顔と言葉に、ふと当たり前のことに気付く。

 この人にも、自分のように一年生だった頃があったのだと。

 こちらを見ないまま、江坂は言葉を続ける。


「なあ、八代。……剣道を、辞めたくなったことはあるか」


 沈黙が、何よりの答えとなる。

 今がそのときだと、この人はきっと気付いている。

 江坂は少しだけ円香の寝顔を見ると、苦笑して頷いた。


「今から言うことを、誰にも言わず墓まで持っていくと約束できるか?」

「…………はい」

「俺もな。一度だけ、退部届を書いたことがあるんだ」


 言葉に、バスががたんと一時停車する。

 それ以上の衝撃が身体を貫き、反応することができなかった。

 自分の中で色々なものが揺らぐ。

 けれども江坂は一切揺らがず、まるで昔話をする老兵のように穏やかに笑うだけだった。


「結果、破いたんだがな。……なあ八代。酷なことを言う。流すか受け止めるかはお前が決めろ」


 降りる予定の駅まであとひとつ。

 八代は運転手に停止を促すため、ベルへと手を伸ばす。


「お前の悩みも、才能も。何一つ特別じゃない。それはみんなが持っていて、みんなが通る道なんだ」

「………………」

「それを分かった上でどうするか。一度、しっかりと考えるといい」


 返事は決まっている。もう、考えるまでもないんだ。

 敵わない。思い知った。これまでです。

 そう言えばいい。


「……はい」


 なのに伸びた手は、ついに途中下車のためのベルを鳴らすことはなかった。




 × × ×




「ごめんねえ、八代くん。送ってもらっちゃって」

「いや。……まあ、暗いんで。流石に心配スよ」


 バスでゆったりしていたからか、やっぱり道場に着いたのは遅く、片付け終わって外に出る頃にはもう真っ暗だった。先に電車で行ったはずの城崎と黒瀬の防具が置いていなかったのは不思議だったが、持って帰ったのだろう。

 かくいう自分も、竹刀袋だけは持って帰ることにしたのだが。

 自宅がショッピングモールの近くだという円香の先導に従って、街灯が照らす夜道を歩く。


「つーか俺で良かったんスか? 別に立花先輩に義理立てする必要もねーんだし、部長のが」

「あはは、いいのいいの。火遊びは纏がいる前でやらないとつまんないしね」


 性格が悪すぎる。八代は目を細めて、竹刀袋を肩に当てた。


「……あれ? でも今日、元々部長とふたりで帰る予定だったんスよね」

「あはは、そうだよ。……江坂くんがね。纏を、先に帰らせたの。わたしと帰るために」

「な……に……」


 まさかガチの浮気だったのか。衝撃を受けて、隣の円香の方を向く。

 しかしやっぱり戦乙女の気風などなく、彼女は穏やかに笑っていた。


「優しいから。江坂くんは。……ねえ、水上くんがアレやったでしょう? 技ぐるぐる」

「……はい」

「江坂くんだけ、気付くの遅かったんだってね。……でも、おかしいよね。江坂くん鈍いけど、そういうのだけは一番早く気付きそうじゃない?」

「そう、すね」

「あれはね。ずっと、別のスコアを見てたからなの」


 そう言うと、円香は自分が持っているトートバッグから一冊のスコアブックを取り出す。

 表紙には、『藤宮高校女子剣道部』とあった。


「えへへ、読む? 乙女の秘密」

「……もしかして立花先輩とかも、何かやってたんスか?」

「ううん。……ただ、わたしが全部負けてるだけ」


 呼吸が止まって、八代の足が止まった。

 街灯に照らされて、円香は相変わらず笑っている。

 だが、こんなに馬鹿でも流石に分かる。

 この人はずっと、頑張って笑っていたのだ。


「優しいでしょう? ……気を遣ってくれたんだろうね。纏の前では、弱音吐けないだろうからって。……ふふ。たまにはバスでゆっくり帰ろうって言われてさ」


 彼女が、たくさん話せるように。そんな優しさが、彼にはあった。

 そして、円香もまた笑う。


「ありがとね、八代くん。わたしお陰で元気出ちゃったなー」

「……俺は、何もしてねえ」

「んーん、そんなことない。だって元気の出るお話、たくさん聞かせてもらったもん!」


 どうして。

 どうしてこの人たちは、こんなに辛い中でも、他人に優しくできるんだろう。

 自分なんて。

 自分がどうするかさえ、宙ぶらりんのままなのに――。


「明日は休んで、また頑張るかあ。ふふふ、またまたクレープおばさんになっちゃおうかな!」

「……強え、スね。……勝てねえな」


 馬鹿だ。

 剣道が強いとか弱いとか、そんなところばかり見て。

 本当に見なければいけないものが、何ひとつ見えていなかったのだと、ようやく気付いた。

 自己嫌悪に歯を食いしばる。すると彼女は、またふるふると首を振って否定した。


「わたし、全然強くないよ。大丈夫。このあと、ちゃーんとお母さんの前で泣くから」

「……そういうところが」

「でも、わたしがちょっとでも強く見えたんだとしたら。……それはね。ほんの少しだけ、人より多く転んできたから」


 家の光が見えてくる。彼女が指し示す自宅の花屋さんまで、あと少し。

 そこで彼女は、自分の前に回り込んで、にこっと笑い立ち止まった。


「たくさん転んだから。立ち上がるのが、人より少しだけ上手いだけ。……明日、たっくさん寝て。溜めたドラマ見て! お気に入りの少女漫画読んで! 友達と三時間ぐらい長電話して泣いてー、クレープ食べて。それからお母さんのご飯食べて……またどんどこ寝る!」


 それでね、と彼女は首を傾ける。


「明後日また、練習に行く。にっこり笑顔でね」


 痺れて、言葉が出なかった。

 ずっと彼女のことを、ただの優しいだけの三年生だと思っていた。そうじゃない。

 この人は、三年戦い続けた『生き残り』なのだ。


「だいじょーぶ。江坂くんだって一回退部届書いたんだよ。八代くんがちょっとヘコむくらいなんてことないない!」

「そう、スね…………って、待て」

「あっ」

「幸村先輩、寝てたんじゃ……」

「……えへへ、ぽんぽこぽーん」


 なるほど。そういうことだったのか。


「『元気の出るお話』は、ちゃんと聞いてたって言ったもーん」


 本当に、腹黒な人だ。狸寝入りだったのか。

 あまりにも強かすぎて、なんだかもう声を出して笑ってしまった。


「いい性格してますよマジで」

「えへへ、三年間もやってるとねえ。……大丈夫。君もいつか、こうなることができるから」


 それは、楽しみだ。

 八代は再び歩き出し、無事円香を家の前まで送り届けた。


「じゃあ、俺はこれで」

「あっ、待って八代くん」


 呼び止められて振り返ると、手から竹刀袋を引っこ抜かれた。


「これはぼっしゅーとです。……明日は一日、剣道から離れること。分かった?」


 一度、しっかり考えろ。それは江坂にも言われたこと。


「……了解っス」


 ならば今だけは、従順な犬のように従ってやろう。




 × × ×




 というわけで、一日口を開けて休日を過ごしてみた。

 何でもやった。久しぶりにゲームもやったし、中学の友達を誘って飯を食いにも行ったし、あと忌々しき水上悠が乾吹雪とデートしているとかで燃えたラインにも反応してやった。

 それにしても流石に深瀬は気の毒すぎる。奴はもうちょっと気付いてやれよ。


「……幸村先輩の見立て、大当たりだな」


 あっという間に夜になって、自室のベッドの上で携帯を見て苦笑する。


「モテんなあ、あいつ……」


 ずっと悠のことが気に入らなかった。あんなに強い癖に、いつも嫌そうに剣道して。

 自分がその才を持っていたら、今すぐ燃え上がるのに。そう焦れて。

 だが、今は思う。


「……あいつにも、何かあったんだろな」


 傷ついた分、他人の傷が見えるようになる。

 江坂と円香の強さは、きっとそれなのだろうと思った。

 優しくなることが強くなることだというのなら、今、自分は少しだけ強くなれたのかもしれない。

 その少しで奴ら人外に届く日が来るのかどうか、甚だ疑問だが。

 八代は肺腑の息を全て吐き出すようなため息をつく。


「……しっかし、暇すぎんだろ。休みの夜っていつも何してたんだ」


 本なんか頭痛くなるし、ゲームは飽きたし、もうやることがない。

 仕方ない。


「竹刀振るか」


 ベッドから身体を起こし、竹刀袋どこやったっけと考える。

 ふと思い至って、笑ってしまった。


「……そうだった」


 円香に預けていたんだった。

 全く、馬鹿なんじゃないだろうか。あれだけ剣から離れてよく考えろと言われたのに。

 もういい。


「組めば振れる」


 玄関に駆け降り、長方形の大きなゴミ箱をそのまま流用した竹刀置き場から、竹刀をバラして得られた竹を四本手に取る。

 弦や剣先、柄も拾って準備は完了だ。自室へと、また走って戻る。


「久々だな、竹刀組むの。最近、新しいのしか買ってなかったし」


 壊れた古い部品を集めると、竹刀は新しく強い刀として蘇るのだ。

 獣の不屈の牙が、生え替わるように。


「やるか。……あんま上手くねえけど」


 ふうと息を吐いて、ばらばらになったものをひとつひとつ拾い集める。

 折れても、壊れても、また新しく強くなって立ち上がるために。


「辞めねえぞ」


 辞めたくなった。嘘じゃない。それでも続けるし、それでいい。


「……また一から、出直しだ」


 たかが辞めたい程度で辞められるものに、人生を捧げる価値なんてないのだから。




 × × ×




 朝早くに起きて、練習に向かう。今日は部内戦の日だった。

 着替えて道場の扉を開くと、ひりついた空気が自分を迎える。

 やっぱり、ここがいい。

 ここが一番血がざわめいて、落ち着くのだ。

 ぺこりと礼をして道場の中に入ると、もうみんないる。

 その中から円香が歩いてきて、竹刀袋を持ってきてくれた。


「預かってたもの、返すね」

「はい。……世話かけました」


 しかと受け取り、頭を下げて礼を言う。自分はこの人よりも下だから、そうしたい。


「続けます。ずっと」

「よし、がんばれ! わたしもがんばるからね!」


 宣言した通り、にっこりと彼女は笑う。やっぱり、強い人だった。

 自分も彼女の後を追うのだ。凡人であることを、辛くとも受け止めて。


「水上先輩」


 強く竹刀袋を握りしめ、その男を初めて敬称を付けて呼ぶ。

 そうすると、張り詰めて竹刀を振っていた奴が、目を丸くしてから振り返った。


「どうした?」


 息を吸って、覚悟。苦渋を呑み込んだ。


「俺に突き技、教えてください」


 頭を垂れて、自分より強い男にお願いする。

 まずは自分の弱さを認めるところから始めて、突き進む。それしかない。


「負け犬で、終わりたくねえ」


 才能があろうとなかろうと、自分が特別じゃなかろうと。

 結局やるしかないということに、何も変わりはないのだから。

 ぐっと、前進のために歯を強く噛み締める。


「分かった」


 すると、奴はいつもと違って茶化すことなく頷く。

 顔を上げて、その顔をじっくりと見た。


「全部、持ってけ」


 水上悠は、戦う男の顔になっていた。


「……何か、吹っ切れたみたいスね」


 じっくりと顔を見てそう言うと、奴が急にぽかんとし始めた。

 理由が分からず、竹刀袋を解きながら奴に問う。


「何スか? 何か顔に付いてます?」

「……いや」


 竹刀に鍔と鍔止めを着けて、竹刀を構える。

 そうすると悠が正面に回って、一足一刀の距離で構えてきた。


「お前、一昨日よりちょっとだけ強くなったな」

「……うるせえな。何もしてねえスよ」

「俺だって何もしてないさ。……で、も!」

「うわっ!?」


 くるくると、まるで蛇のような巻き技で、彼方へと自分の竹刀が吹き飛ばされていく。


「俺のほうがまだ万倍、お前より強いな」

「うっ……っっぜえなあ! なんなんだよあんた!?」

「うるさい。ほら、早く取ってこい犬。もう吠えらんないのか?」


 にやりと獰猛に、奴は笑う。離した片手で、とんとんと喉元を叩いて挑発して。


「大人しくなんかなってんじゃねえぞ、お前が。もっと噛みついてこいよ!」

「……へ。言われるまでもねえんだよ!」


 背を向けて、刀の元へと走り出す。

 今だけは頭を垂れて、飼われてやった振りをしてやる。

 だが、奴の神髄を全てしゃぶりつくして、もはや用済みになったそのときは。

 その喉食い破って、どこかの雑魚みたいに捨ててやる!


「行くぞ!」


 新しく生え替わった牙を剥き。

 悠か標的に向かって、突きを吠えた。

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