「灰色に鳴る」終:灰になる

 最寄り駅でのスーパーでの買い物を終え、店の外に出る。

 二人暮らしをしているアパートまでは、あと歩いて十分ほどだ。

 防具袋を肩にかけ直し、竹刀袋を左手で持ち、右手を空けて姉に差し出す。


「ん」

「……何? 繋ぎたいの? お前、いかにほぼ男子校だからとはいえそれは……」

「どう曲解したらそうなんだよボケ! 袋渡せって言ってんだッ!」


 がるっと噛みつく勢いで、買い物袋を奪い取る。

 やりにくい。こんな風に弟に絡む人ではないはずだ。


「やけにハイになってんじゃねーか。藍原さん来てたからか?」

「……お前ね。人を瞳のストーカーみたいに言わないで頂戴」

「違えのかよ?」

「合ってるけれどね」


 くすくす笑って、姉は上機嫌に着いてくる。

 相変わらず背が高い癖に、歩くのが遅い。こちとら早く帰りたいのにと歩幅を合わせて車道側を歩いていると、また突然姉は笑った。


「んだよ」

「瞳も瞳だけれど、私も私だと思ってね」

「……何言ってんだ?」

「調教が好きなのよ。『じゃじゃ馬ならし』って知っている?」

「シェイクスピアか? 姉貴の本棚にあったかな」

「……ほらね。しっかりと、お利口さんになったじゃない」


 頭に手を伸ばしてきたので、気持ち悪いと竹刀袋で払った。

 身体がぞわりと総毛立つ。


「きょ、今日は何なんだよマジで! きめーぞ!」

「今日ぐらい良いでしょう、別に。……ふふふ」


 身体を離して、夜道を歩いて行く。

 ようやくアパートの前に着いた。公園の中を通り抜けると、姉が突然ぴたりと立ち止まる。


「ねえ、崇仁。一本吸うから、付き合ってくれない?」

「は? 家のベランダで吸えばいいだろ。俺っち帰りてーんだけど」

「そう言わないで。……この一本で禁煙よ。見納めなくていい?」


 灰の目が、丸くなる。大事件だった。


「……彼氏に止めろっつわれても、止めなかったのにか?」

「ああ、あれ。最近別れたわよ。言っていなかったかしら?」

「……聞いてねえ。まあ、好きにすりゃいーんじゃねーの」


 どうせ姉のことだから、次の内定先も決まっているのだろう。

 その辺は如才ない。

 この人が人生を踏み外すところなんて、全く想像もできないのだ。

 姉は公園のベンチに腰掛けると、細い煙草を咥えて火を点ける。

 身体に害があるから、煙は吸いたくない。

 だがこうやって煙草を吸う姉の姿は、世から隔絶した何かがあって嫌いではなかった。

 世という群れから、はぐれてしまった。

 橋倉崇仁は復讐のために、そして償いのために、ずっと戦い続けてきた。

たったひとりで、誰にも過去を語らずに。

 だがそんな孤独な生涯を、この燻った灰の炎を携えて、姉だけは常に見守ってくれていた。

 姉の唇から、紫煙が漏れる。

 藍原のように甘くはない。

 だが、苦みを噛み締めたようなその香りが、どこか好きだった。


「次の男ね。決めていないのよ」

「……今日のテンションはヤケか?」

「まさか。こんなに幸せなのに? 冗談言わないで頂戴」


 灰を落とさず、姉は灯った炎をこの身に突きつけてくる。


「もう、腐肉を食まなくていいの」


 煙草を右指に挟んだまま、姉は片手で顔の右半分を押さえる。目を瞑っていた。


「今日ね。……藍原が、左足前の摺り足を練習していたの」

「……上段、か」

「そう。……ずっと、あの子は封じてた。御剣くんのことがあったから」


 その名を聞くと、どくんと心臓が低く鳴る。

 因果なものだ。

 奴の名前は、どこに行っても自分の全てに繋がっている。


「でも、もう、終わるの。……あの子が教師になりたいと言うから、全部手伝ってあげた。救いたいと言っていた吹雪ちゃんも救われた。そして御剣くんは戻ってきた。……それで、ようやくよ。ようやく、あの子が、上段を……」

「……姉貴?」

「二年、かかった。……これで、全部元通り。……よかった。……ほんとう、に」


 煙草を持つ手が震えている。

 感極まって、姉は呼吸さえ出来ていないように見えた。


「……やっとよ。……これで……」


 落とせなかった煙草の灰が、ぼろりと落ちた。




「やっと、喰える……ッ」




 顔から、押さえつけていた右手が外れた。

 涙を流す、狼がいる。

 瞳に、幾年分の垂涎を垂らした。

 灰の瞳に灯る炎は、常に消えてなどいないのだ。

 昏い世の中に目を瞑っても。

 光に当たり、蒼く澄んでいるように見えたとしても。

 一度点いた炎は、何年経とうと、何があっても消えはしない。


「……くく。ひでえ血だ」


 橋倉は喉を鳴らして、その嗤い声に共鳴する。


「……そうだよな」


 この血は黒く執念深く、獲物を喰うためならば何でもする。

 灰と燃え尽きるそのためなら、どんな雌伏だって苦ではない。

 衣食足り礼節を知ったところで、狼が飢えを、恨みを忘れることは決して無いのだ。

 橋倉崇仁は、天を見上げる。

 そこには今、曇天を突き破った満月が蒼く光っていた。


「……ククッ。今更、戻って来やがってよ」


 動画で見たときの自分の反応は笑える。あれが本当に俺かと今でも疑う。

 そして、練成会でのことは、決して忘れられない。

 生きていた。本当に奴がいた。何年も執念深く追った奴だ。

 なのに自分はあのとき、会いたくないとさえ思ったのだ。

 まるで昔の恋人に焦がれるような、そんな気持ちの悪さがある。快晴のことを笑えない。


『お願いします』


 地稽古をした。全てを尽くした。集中しすぎて記憶がなかった。

 だがその後のことは、全部覚えている。


『変わったな、橋倉くん。強くなった』


 奴は覚えていた。自分のことを、覚えていたのだ。

 しかもあのときの笑顔の意味を知った。奴は、親近感を抱いていたのだという。

 だが、そんな答え合わせに意味など無い。


『どうも俺っち、もうおめーなんてどうでもいいみたいだわ』


 今更、お前の居場所などどこにもない。ざまあみろと笑ってやった。


『逃げた奴には興味ねえ。俺が斬りてーのは、一番強え奴だけさ』


 新しい獲物を、自分は追っている。お前なんかと比較にならない。

 だから今更横取りするんじゃないと、啖呵を切った。

 ……だが。


『そうだな。俺は弱い。逃げたんだ。……でも』


 こいつは快晴とは違う化物だと、そんな簡単なことを失念していた。


『そんな嘘に騙されるほど、まだまだ弱くはなってない』


 奴は、見抜いて嗤う。人の心を見透かし読み切る。

 快晴のように純粋じゃない。話してみてすぐにそれが分かった。

 巣くう悪性は黒々として、根暗で。

 真実奴は、己に似ていたのだ。


『根拠のねーこと言うんじゃねーよ』

『あるよ。鏡見てきたらどうだ? 凄い顔して笑ってるぞ』

『……うるせえ』

『はは、怒った。分かりやすいな。……俺と同じだ』


 初めて会ったとき、仲良くなれるかもしれないと直感した。


『戦場(ここ)でしか笑えない奴は、嘘がつけない。……俺は無理だった。あんたも無理なはずだ』


 そんなことを、奴と話していると思い出す。天性の人たらしだ。

 だが下らないと、鼻で笑ってやった。


『そんなたかが勘みてーなことを、信じろってのか?』

『うるさいな。お前らはたかが勘に毎回斬られてただろ』


 そうすると、奴もじゃれるように笑う。


『どうでもいいなんて言うなよ。格が下がるぞ』

『あ?』

『さっきお願いしますって言って、橋倉くんは俺に頭を下げた』


 にやりと笑って、奴は竹刀の柄を首に向かって突きつけてくる。


『あんたどうでもいい奴に頭下げんのか? 俺はそんなの、絶対嫌だけどな』

『……ククッ』


 ああ、本当にどこまでも自分に似ている。

 もしも生まれる場所が同じだったら。生まれる年が同じだったら。

 戦場以外のどこかで、先に言葉を交わしていたなら。

 こんな風に憎むことはなく、手を取り笑い合う未来もあったのかもしれない。


『うるせえ』


 だが、そんなもしもは要らない。

 戦うべきは、常に今。

 ここは戦場。

 奴は己の生涯を灰色で彩る、唯一無二の最凶の宿敵。

 それが全てだ。

 だから――今ここに舞い戻った祝い代わりに。

 最初に覚えた呪いの言葉を、笑顔と共にここに贈ろう。




『死ねッ!』




「……くく」


 狼は、満月を睨む。

 曇天は終わった。時は満ちた。飢えを満たせる時がきた。

 奴は二年の眠りから目覚めて、さあ走れよ愚鈍な亀がと嗤ってみせて。

 ついでに情けを捨てろと言うように、灰色の同胞を、晴れ渡る笑顔の獲物に変えてくれた。

 よくやった。これで、もはや用済み。




 ――ようやく後腐れなく、綺麗に殺れる。




 守株に甘んじぬ狼は、爪牙を磨いて二兎を追う。


「……あァ」


 獲物を睨んで、爛々と。

 異邦の瞳の奥で、ちりちりと。




「腹ぁ、減ったなァ……」




 狼の渇望が、灰色に鳴る。

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