「灰色に鳴る」七合目:それから
秋水大付属三年生で副主将、橋倉崇仁は夜の屋外であくびをする。
ようやっと警察道場での稽古が終わった。体力はゼロだ。
「あちい……。夜ぐらい快適にしてくれよ」
六月の夜はじめっとしていて気持ち悪い。だが、夜なだけまだいい方だろう。
近頃は六月でも夏のように日差しが厳しい。
肌が弱い人間としては勘弁してほしかった。
「結局、外でスポーツとか無理なんだよな……」
また、あくびが出る。
中途半端に居眠りしてしまったせいだ。そのせいで懐かしい夢も見た。
「あれがもう、二年前か……。歳は取りたくねーもんだな」
こんな台詞、姉の前で言ったら殺されてしまうが。
橋倉は警察署の外周を回り込み、誰も居ない喫煙所のベンチに防具を置いて座り込んだ。
どうせもうすぐ来るだろう。犬のように待つ。残念ながらヒエラルキーは完全に向こうの方が上なのだ。
「なんで女ってやつはこう、支度に時間がかかんのかね……」
やることがない。暇だ。
夜となっては、本も読めないし。
ぼうっと曇った空に向かって、夢の続きを思い浮かべることしかできない。
あれから、色々やった。
墓の下まで持って行かなければならないようなことは流石にないが、それなりに力技も使った。綺麗な身の上と言い張ることは、決してできないだろう。
苦労した。地獄とは他人のことだと、どこかの哲学者の言葉を思い出す。
組織とは、家とは、面倒事の連続だった。
会長の苦労を、自分も味わう。償いとしてはこれ以上のものもない。
けれど、その甲斐はあったはずだ。
『よう。……生きてたか、快晴』
『ああ、橋倉さん。約束通り、来ましたよ』
『あー? 約束? してねーだろ。行こうかなって言っただけじゃねーかよ、おめーは』
『なんだ、ちゃんと覚えてるじゃないですか。それのことですよ?』
『……馬鹿正直が』
居るところには居るらしい。「行けたら行く」で本当に来る奴。
しかし、そのときのために本気で掃除をかけたのだ。
来ないとまた、誰かに対してのように恨み散らかしていただろう。
それもそれで、一興かもしれないが。
『常勝、秋水大付属剣道部へようこそ。乾快晴』
『はい。よろしくお願いします。橋倉先輩』
『……先、輩? 俺っちが?』
『え、そうでしょう? 違うんですか?』
こう呼ばれるのは、想定外。
『……へ。まあ、好きに呼びな』
自分の下に、誰かが着く。
他人というものを切り捨てがちの人生の中で、その重みは邪魔っけだったが、慣れると少しだけ心地よさがあった。
共に、剣に人生を捧げる。
壮絶な男だった。そして今もそうだ。
自分だってやれることを尽くしてきた。だが、自分以上のことを隣でやっている奴がいると、剣士としていつも身が引き締まり。
『おい、快晴。……流石に、もう、やめとけ』
『……嫌だ。……まだ。……まだなんです』
そして先輩としては、いつも眼が離せなくなってしまっていた。
『一番上に、居続けるんだ……。僕には、それしか、残ってないんだ……』
快晴はどんな稽古でも、泣かない。笑わない。死地に飛び込むことを躊躇わない。
己を罰したがるように、自分をいじめていた。
後輩は強くなっていく。強くなりすぎていく。
蒼天旗では取れた一本も、もはや滅多なことでは入りやしない。
悔しさはある。だがそれ以上に、自分がふがいなかった。
獲物に、情が湧く。
他人を憎んできた人生で、初めて誰かを救ってやりたいと思った。
近くに居ると気付くのだ。快晴が、強くとも人間であるのだということに。
己だって一度は折れかけた。しかしこの男に救われた。
だが、強くなりすぎた後輩は、一体誰が救ってやれる?
無限に頑張り続けられる人間などいない。どんな強固な奴でも、いつかは折れる。
そして警鐘は、やがて鳴った。
――こいつ、全部逆胴で決めようとしてやがる。
それに手を着けるとき、終わるのだと快晴は言った。
『んなもん、喰らっちまうほうがわりーだろ。実際俺っちに当たったか?』
だから、終わらせない。辞めさせない。
『じゃあ今度、橋倉先輩に打ちますよ。逆胴』
『はーん? やれるもんならやってみな』
追う側だった人生だ。狙われ追われることには慣れていない。
『……逃がさねえ』
だが、たとえ己を餌としてでも。
『おめーだけは、絶対、辞めさせねぇぞ』
この獲物だけは、自分の前で生き続けて欲しかった。
この誓いは、今も続いている。そしてこれからも、最後まで守り通す。
いつか、辞めんのやめろよと、自分の口で言い渡す。
それが一年先にここで生きた、先輩としての責務だからだ。
『……どうすりゃいいんだ』
獲物が、死に衰えていくのが見える。
手ぐすね引いて頭を捻る。しかし答えは見つからない。……そうしたら。
――何だ。喰わないのか?
過去から、声が聞こえる。
さんざ憎んだあの声と、稲妻が如き一刀を引き連れて。
――だったら、俺が喰うぞ。
『どオォォッしゃああああ―――――――――――――――ッ!』
いつになっても変わらぬ、垂涎の強さを見せつけて。
奴は、蘇る――。
× × ×
「センパイ。……橋倉センパーイ!」
「……あぁ? うるせーぞクソガキ」
ぼうっとしていると、目の前で影下が安否確認みたいに手を振っていたので蹴り返す。
「はごぁっ!?」
土手っ腹に上手く決まった。悶えているのを見ながら、腕時計で時間を確認する。
十分ほどぼうっとしていたらしい。そろそろ姉も来るだろう。
「寝起キックはひどいっす……」
「おめーが傍に近寄るからだろうが」
「……橋倉センパイっていっつも、ゴルゴっていうか一匹狼っすよねー」
「ほっとけ。つーかおめーはなんで毎回毎回、俺っちんとこ寄ってくんだよ。蹴ってんのに」
ため息をつき、橋倉はベンチから立ち上がる。
すぐ傍の自販機からミネラルウォーターを買い、喉を潤した。
人と距離が近い奴は、面倒くさい。
誰とでも仲良くできるのだから、わざわざこっちに寄ってくる必要はないだろう。
縄張り意識の強い根暗としては生態が分からず、どう接すべきか分からない。
自販機にもたれて距離を取り、瞳の茶色い少年が腕を組んでいるところを観察した。
「ええーなんでしょう。強い人が好きだからっすかねえ?」
「……だったら快晴んとこ行けよ。あいつなら構ってくれんだろ」
「まーまーまーそうなんすけど! やっぱ橋倉センパイともですね! 話したいんすよ!」
分かる。こいつは陽キャだ。
クラスの中心に居る、部活がなければ一生関わりたくない人種。
「おめーみてーな奴が、なんで剣道やってんだ? 別に剣道じゃなくたってよくねーか?」
「……あー、そっすねー。確かに運動全般得意っすよ? 剣道より絶対才能ありますもん」
あっけらかんと、影下はそう言い切ってにこりと笑う。
ダブルピースもしていた。
「よく中学んときとか助っ人で部活の試合出てましたし! 引っ張りだこでしたよ!」
「……サッカーとかか?」
「ですです! あとバスケもね!」
「……おめーモテそうだな」
「でしょう! 分かりますか! 合コンのセッティングとかならお任せですよ!」
「いらねーよ」
どんどんどんどん、声は明るく大きく、そして表情も輝いていく。
「まあねー、オレもお姉ちゃんいますし。あと妹もいるんですよ! 家族に異性いる奴って先天的に勝ち組だと思いません? 女の子慣れってヤツはけっこー重要ですよ!」
「……ああ、そう」
「ねえー! どっちもオレのこと大好きだし、お父さんもお母さんもすっげー優しいし! まあ頭はビミョーすけど、運動神経バツグンですし。友達もたっくさんいたし! 自分で言うのもなんだけど、オレって結構何でも持ってまして――」
影下が、笑う。
「でもそれ、ぜーんぶ捨ててきたんすよ。ここに来たいなら、持てなかったんで」
だが茶色い瞳は、一度だって揺らいでいなかった。
悲しそうに、奴は笑う。
「オレ別に、遊びに来たわけじゃないんす。実はね」
影下彰は、一学年に二人しかいない剣道部の特待生だ。
県外から家を捨て、剣道のためにここへやって来た。
そうかと答え、自販機からもう一本水を買う。屈んですぐに手に取った。
「影下」
「あー、ハイ? どうしました?」
強めに水を投げつけると、即座に反応して影下は鮮やかに受け止める。
なるほど確かに、運動神経がいい。
期待の、一年生だ。
「ぎゃ、逆胴チャレンジは失敗したっすよ?」
何事かとこっちを見てくる影下に、首を振る。
そしてそのまま、頭を下げた。
「くだらねーこと言って悪かった。それは取っとけ」
「…………はい」
歳は、関係ない。強い者には敬意を払う。
失したら、謝る。それは当然のことだ。
「姉貴たちに話は通しとく。ここに来たかったら、今後はひとりで勝手に来な」
「……いいんすか?」
「遠慮できるほどおめーは強くねえ。たかが、秋水のレギュラーってだけだ」
「……はは。秋水が、たかが、っすか」
「名前は名前だ。おめー自身じゃねえ」
それがまだ、分からない奴もいる。
だが上を目指すなら、それが分からねば始まらない。
果たして、モノになるかどうか。……知らない。そこまで面倒は見切れない。
「環境はやったんだ。あとは自分でなんとかしな」
「……はい。あの、橋倉センパイ」
「んだよペラペラと……。おしゃべりが好きだなあ、おめーは」
「へへ。いけませんか?」
「俺っちは好きじゃねえ。……ここに来た理由なら、黙っとけ」
誰にだって、地獄はある。
ならば敬意を持って、それを問うことはすまい。
「あんまり喋っと薄くなんぞ。また紙屑みてーに斬られていいのか?」
「ういーそれは勘弁……」
こいつも、剣鬼を見た。実際に屠られた。
ならば絶対、味わったはずだ。絶望を。
それでも影下彰は、ここに立ち続けている。
「黙って稽古してな。見込みねーわけじゃねーよ、おめーは」
「……はい」
影下が頷くと、足音がする。
振り向くと、ようやく着替え終わった姉が歩いてきていた。
「待たせたわね、崇仁。……あら、影下くんも。遅いのにごめんなさいね。寮まで車で送りましょうか?」
「えっ、いいんすか!?」
「パトカーだぞ影下。冗談抜きで」
「……遠慮しとくっす」
「あら残念」
姉がにやりと笑うと、影下が一歩引く。こいつにも苦手な人種があるんだと、少し面白い。
「じゃあオレ、帰ります」
影下が防具袋を肩にかけ直して、こっちに向かって礼をしてくる。
そして顔を上げた後、またにこりと笑った。
「また来ます!」
「……好きにしろ」
「気をつけてね」
門限門限ー! と叫んで、影下が騒がしく走り去っていく。
やがて奴が角を曲がり、完全に見えなくなると、姉がふうと大きく息を吐いた。
「あの子、良い子なんだけれど疲れるわね……」
「人種が違えんだよな、そもそも……」
「世の中には二種類の人間がいるわ。誰にでも好かれる人間。誰かには熱烈に好かれるけれど、基本的に他者には嫌われる人間」
「姉貴は後者だな」
「お前もそうよ」
心得ている。
鼻で笑って、開き直った。
「毒にも薬にもなんねーより、いくらかマシだろ」
「……そうね。帰りましょうか」
「メシ、食ってくか?」
「いえ。……今日は私が作りたい」
珍しいこともあるものだ。
明日は雨だろうかと、六月の曇った夜空を見上げて笑った。
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