「灰色に鳴る」六合目:灰色に鳴る



「始めっ!」



 喰って良い、と神が言う。

 だがその言葉には、従わない。湿った飢餓は己の脊髄に確かに御される。

 橋倉は正面の快晴と合わせてゆらりと立ち上がり、しかし声は発さなかった。

 己の型は、返し。

 知らぬ相手にいきなり飛びかかるなど、愚を犯すことはありえない。

 灰の瞳が、獲物を睨む。舌を舐めずる。

 左の腓腹と母趾球にいつでも跳べる力を込めて、挨拶代わりに剣先を下げて挑発した。

 ――さあ、見せてみろ。下らなければ即殺す。

 見敵必殺の一足一刀、しかし。

 快晴は全く恐れず、さらに前へと足先をすっと進めてくる。


「ッ!」


 足の爪先に、痺れが走った。臓腑が蠕動を始める。近間に――圧力が迫る。

 山が、蠢き始めた。

 危険な隙が生じ易い、竹刀が絡まった近間。

 しかし、殺せるものなら殺してみろと言うように。




「殺ャぁアああああぁアあぁア――――――――――――ッ!!」




 同じく剣先を下げて、奴はその場で高く鳴った。

 窓ガラスが揺れる。視線が集まる。ひりつく闘気が身体を包む。

 蒼く氷のように凍てついた奴の眼が、しかし熱く真っ直ぐに言い渡してきた。

 ――そこを、どけ。


「……っ、クク」


 ああ――いいぞ。本物だ!

 己の竹刀を快晴のそれと巧妙に絡み合わせて、打ち筋を消す。息を殺して静かに下がった。

 近間、一足、二足一刀――完全に切れた、今この場で。




「鬼ィぁアあああッしゃァあ――――――――――――――ッ!!」




 満を持して、狼が吠える。

 牙を剥き灰の眼を血走らせ、歓喜を示すように右の前足で大きく一つ床を鳴らした。

 呼応して地から罠が湧く。糸を張ったのは一つ――前に虚の相小手面をちらつかせ。

 奴が跨いで面に跳んだら、仕掛けた出小手を起爆して殺る。


「はあああ――――しャあッ!」


 さあ踏めと、声を掛けて下から低く忍び寄る。すると奴は、跳んできた。


「めェンッ、しゃあ――――――――ッたアっ!」


 かかったな、馬鹿正直に――!


「ッ手ぇえエエ―――ッっしゃあラあッ!」


 もはや意識と切り離されて、橋倉の罠がかちりと自動で起爆する。跳んでくる快晴の竹刀を下からくぐり、左に身体を逃がして出小手を鋭く射出。小手を押さえきった。

 はずだったのに、なぜか脳天に竹刀を貰っていた。

 がん。


「……は?」


 脳の上に軽い衝撃が走り、橋倉は出小手の声を、残心を途中で止める。

 呆然と目を丸くして、橋倉は無意識に構えながら主審の方を見た。

 奴の白旗が、上がっている。

 一本だけ。

 副審のふたりがすぐに足の前で紅白の審判旗を二回交差させる。取り消しだ。

 無効――だが一体、何が起こった?

 橋倉はすぐに、面の残心から悠然と振り返った快晴を睨む。

 奴は顔をしかめて首を捻っている。その際、離していた右手を改めて持ち直していた。

 自分の出小手は当たったか。当たっていない。欠片も感触がなかった。

 つまり――抜かれた。

 出小手に跳ぶと眼で見た瞬間、奴は片手突きのように右手を抜き、左片手面に切り替えた。

 逃げる自分を追尾して、左手一本を横へと無理矢理ねじ曲げ竹刀を当てた。だから打突が軽い。中段の片手技は、基本的に有効にならない。しかし奴は今、首を捻った。

 これを入れられないようでは話にならないと、己への忸怩たる思いを噛み締めて。


「……く、クククッ、はッははっ、ああッはははアアははははあああ――――ッ!」


 面金の中で嗤い声が止まらない。同時に摺り足で奴の元へと駆けだしていた。

 もっとだ、もっとだ、もっと見せろ――!


「鬼ィあああッしゃ―――――――――らあぁアアッ!」

「殺ャあああっタぁ―――――――――あああだぁッ!」


 再び相面、出小手の糸を張って本命の相小手面を隠して攻める。危険を冒して快晴の間合いまで入り、曲線軌道のフェイントの打突を幾重も重ねて攻めに転じる。

 引っ掛けるにはまず――攻めから!


「はァッ、しゃっ! らああっ――! キああ――――ああァァア、ヤぁああああッ!!」


 罠を張るがゆえ十全な速度は出ないが、しかし常人の早さと質を優にしのぐ橋倉の打突。躍る爪先が如く連続でそれを繰り出す。布石――奴を揺らがせ、罠にはめるための。

 しかし、無駄だった。打ちながら橋倉は忸怩と歯を食いしばる。

 ――冗談かよこいつ。何も効いてねーな。

 敵の中段構えは揺らがない。ぎょろぎょろと凶悪に蠢くのは奴の氷の瞳孔のみだ。

 右に左に生き物のように、蒼く邪悪な固まりが動いて動きを見切る。黒々とした穴に打突を吸い込むように無力化していく。

 動かない。避ける。躱す。押さえる、弾く。打ちかかる――動かなくていいとまた見切る。

 もはや凶悪な踏舞だ。最適化されすぎているがゆえに、人間味を全く感じない。

 なのに同時に、合理など無視したこの動き――。


「はァッ、タあああ―――らあッ!」


 ぱつん。ぱつん。かちり!


「手ぇメェええ―――――――んっしゃああッ、タあっ!!」


 糸を引っ掛け、ついに橋倉の相小手面が起爆する。

 快晴が仕掛けてきた出小手に乗って、その勢いで満を持して面へと乗った。「っ、と――!」


 交錯の際、そんな声が聞こえてきた。ぶつかり、鍔迫り合いへ。

 当然、旗は一本も上がらなかった。

 当たっていないのだ。上がるはずがない。

 ――どうやったら、人間が相小手面の面だけ途中で避けれんだ?

 張っていた糸を、地雷の中を、この男は避けるどころか突き進んで来る。


「……く」


 まるで、逆だ。

 地雷のある場所を全て見透かし返して嗤う、剣鬼(あいつ)と真逆。


「……くくっ」


 罠の有無など関係ない。ただ真っ直ぐに突き進み。

 地雷を踏んだら、飛び跳ねて避ければ良いとでも言うような――。


「……クククッ」


 拳を合わせて密着距離。面金と面金が今にもぶつかり合わんばかりの鍔迫り合いで、橋倉の口からはしかし噛み殺せずにそれが漏れる。

 瞳の奥でちりちりと、灰の炎が暗く煌めき情熱を鳴らす。

 血で滲む口内で、絶望を噛み締めれば噛み締めるほど溢れてくるのだ。

 これを味わう為に生きているのだと、愉悦の嗤いが。


「鬼ィィイああああああァァァあああ―――――――――殺ャああああッ!」


 ――ああ。俺っちを殺してみせろ化物共ッ!

 どうすればこいつを刺せる。どうすればこいつを噛める。どうすればこいつをはめられる?

 考えろ。想像しろ。描いた終着点に敵を追い込め。その果てに必ずこいつを仕留める――!

 回避から体勢を整え終わった快晴を睨み、橋倉が頭を回す。

 鍔迫り合いは眼と眼が近い。打ち合いがない。よって相手の考えを読みやすく、自分の考えも練りやすい。体力も回復させることができる。

 安全地帯。誰もが化物から、そこに逃げ込みたがる。

 だから。


「ッ――」


 ――ああ。死んだな。

 その場所にこそ、奴は絶対の刀を隠した。




「メぇェぇえええンったあぁあああ―――――――――アアァアヤアッ、さあッ!」




 星が散り、音が消える。

 視界が歪んで、鼻の奥でつんとした匂いがする。頭蓋が軋んだような気さえした。

 竹刀で重力を叩き付けられて、ぐらぐらと揺れる床に立っていることができない。

 王者に頭を垂れるように膝をついた。痺れた耳から、ようやく音が戻ってきて。

 灰の瞳を閉ざしかける前、天を目指すように頭上へと掲げた奴の竹刀を見る。

 まるで、太陽が輝いているよう。



 ――眩しい奴だ。



「面あり!」


 身体の中心にある、乾の名前がはためく。

 会心の引き面。

 しかし面金の中にある奴の表情は、それが当然だと曇ったままだった。




 × × ×




 ――凄腕だ。こんな人が一回戦から出てくるのか。

 引き面の残心を取り終わり、快晴は主審の後ろを回って息を吐き、開始線に戻っていく。

 自分のほうが強い。それは間違いない。

 自惚れるでも何でもなく、抜いた瞬間にそれが分かった。

 ――速攻で仕留めなきゃ駄目だ。

 しかし本能がそう言った。ならば従う。

 見せつけるために、未完成の片手抜きを使って心を折りに行った。

 やはりまだ一本に出来るには程遠い。何より、この男は狼のようにしなやかで疾い。

 忸怩たる事実だが、この技を奴に決めるなど夢のまた夢だろう。

 だが、パフォーマンスとしては十分だったはず。……なのに。


『……く、クククッ、はッははっ、ああッはははアアははははあああ――――ッ!』


 折れるどころか、敵は嗤った。すぐさま駆けて噛みついて来た。

 ――嫌だな、こいつ。

 返しの型。絶妙なフェイント。狡猾に嵌めてくる罠の数々。

 そんな上辺の剣風よりも、本能的に心の奥底が黒くざらつく。

 自分を爛々と見つめているからじゃない。あの灰の瞳の奥に燻る、昏い炎が嫌なのだ。

 まるで誰かを、憎んでいるような。


「……その顔を、止めろ」


 他人を憎むなんて、自分にはこれまでもこれからもありえない。

 憎むのはただ、約束の場所に間に合わず、彼を孤独で潰した己のみ。

 灰色で当たり前。曇天で当たり前だ。この場は彼の葬儀なのだから。


「笑うな」


 初めて、他人が許せなかった。

 だから、こんな低いところでは抜くまいと決めていた、あの技を使ってしまった。

 膝を折り、敵は唇を噛み締めている。ようやくその顔が同じく曇った。

 先に開始線で構えて待っていると、奴もふらふらと歩いて這うように戻ってきた。

 ――やっと、折れたか。

 こうやって何人も、この技で叩き斬ってきた。

 あとは自滅を待ち、隙ができたら簡単に払って終わらせればいい。

 命は一つなのに、剣道は二本取らなければ終わらない。それが最近気に入らない。

 だが、ルールだ。守る必要がある。

 そしてルールの範囲内なら、何をしていいのも剣道だ。

 ――すぐに終わらせてやる。本気で。

 あの場所で会って、車で送ってくれたことに礼をして、最低限の仁義は通した。


「……頂点(あそこ)は、僕たちの場所だ」


 だから後は、殺していい。




 ――お前如きが、入ってくるな!




「二本目!」



「殺ャあアアぁあああ――――――――――――羅ぁあアあぁッ!!」


 敵の声を待たずに右足を瞬時に前へと進める。寄せた左足が着いてきた刹那、二度床を揺らして前へと跳んでいた。竹刀を中心から離し、自由自在に曲線を描いて幻惑をかけた。

 中心を取り続けるか、それとも受けてくるか――どちらだ。どんな微細な挙動も見逃さぬと快晴の目が光り出方を覗う。


「はぁッ!」


 短い声と共に橋倉が繰り出したのは、同じく曲線の幻惑。フェイントの掛け合い――攻めだ。良い勘をしている。止まって守っていたらそのまま殺せた。

 だが、前に来ても同じだ。押さえきって潰す。

 ばぁん! と一度踏み込みが重なり、竹刀と竹刀が近間で交差した。

 斥力を利用して右足を蹴り、共に後方に跳ね合う。地に足を着けたのは快晴が先。鋭く低く体軸をぶらさず後方へ跳ばした肉体を、強固な左足が受け止める。腓腹が刹那に隆起して、五本の指先が床を抉った。

 常人離れした跳躍力が、橋倉が着地した頃には既に一足一刀に詰め切っている。


「ッ!」


 息を呑んだな――この程度で。

 再び快晴の竹刀が面に小手に突きに、怯んだ橋倉に容赦の無い圧迫をかける。綻びがあれば身体が自動で跳ぶだろう。だがそれがない。橋倉は一瞬ぐらついたが、再びフェイントに呼応して竹刀を曲線的に舞わせた。

 ばん! だだん――ばぁんっ! 機銃で床を撃ち続けるような連続音が床で跳ねた。一歩踏み間違えば死ぬ地雷原で、しかし互いに足を踏みならす。快晴は涼しげに、橋倉は苦しげに。地では激しい熱戦が続く。

 その一方で空中では、冷たく優美な技の掛け合いが続いた。二匹の鳥が縦横無尽に空を遊弋するように、竹刀同士が描く幾重の曲線が空気を裂いた。二本の竹刀は一度も触れ合わない。基本型から離れた試合において、練達同士のやり取りは逆に演舞へと回帰していく。

 技術と技術の掛け合い――しかし、冷酷な事実。

 快晴の方が、遥かに橋倉の上にいる。

 どん、と重く。鉄槌のようなとどめの踏み込みの音が場内に下った。

 獣の前足を組み伏せるように、快晴の竹刀が橋倉の竹刀を上から絡めて押さえつけていた。


「っ――!」

「はあッ――」


 確実に、ここで仕留める。

 左斜め下に下がっていた竹刀を、無理矢理諸手で押し上げて、下から。

 最速で引導を突きつける――!


「突ッきぃ――――――――――ヤァああッ!」


 捻じ込むような風の螺旋を纏った諸手突きが、下から橋倉の喉元へ迫る。

 届く。もうすぐ、喉元まで。

 あと数ミリ――紙一重の隙間、刺さる、感覚が、



 

 ――ぎろり。




 しない。

 灰の視線が、剣を舐めた。

 快晴の眼が異変を察知し、剣先から相手の面金の中へと標的を変える。

 相手の両眼は閉じていない。今まさに死のうとする危機一髪。

 しかし奴はしつこく歯を食いしばり、灰の瞳に血を走らせて。

 まだまだ死ねぬと最速の一刀を見切って、首を紙一重で捻ってみせた。

 奇跡的な回避。奴の力量以上のものが、この生死の土壇場で覗いた。……だから。

 ――避けると思ったよ。さよなら。

 全て手のひらの内。

 突きは本来打ったあと引くが、快晴は回避を読み切り面打ちのように前へと抜ける。

 頸動脈を撫でるように橋倉の首の横を通り過ぎた竹刀を引き抜いて、密着距離。

 鍔迫り合い――。


「うわぁああああァアア―――――――――――――――ッ!!」


 死にたくないともがく獣の断末魔のような叫びが、橋倉の喉から醜く漏れる。

 嫌だ。引き面は嫌だ、死にたくない――獲物が暴れるこの状況を作り出すのが定石。

 情けなど持たず、鍔迫り合いの支配を首を絞めるようにかけていく。

 たった一点、呼吸が出来る抜け穴を作って。


「あぁあッ、だァアぁああ――――――――――らあッ!!」


 沈められた水の中から懸命に顔を出すような必死さで、橋倉がふらふらになりながら引き胴を打ってきた。まるで竹刀が藁束――無情にぺしんと払って追い立てる。

 ぴたりと調整して一足一刀、とどめの間合いへ。

 橋倉が死期を悟るかのように、最期、引き胴の残心から中段へと構えを整える。

 一秒もなかった。

 それが彼の最期の、人として、剣士としての誇りを示す姿だったのだろう。

 構えがぐらりと揺らぎ、灰の眼が閉じる。彼の剣先と頭が下がった。

 ――強かった。

 その潔さを認め、快晴は一直線に全力で飛んだ。己の性分のように真っ直ぐと。

 左足で地を蹴り、叫んで。


「メぇえぇえええ―――――――――――」




 かちり。




 そして着いた快晴の右足が、確信を踏みしめた。

 ――最悪だ、この人。

 死んでない。

 ゆらりと、橋倉の顔が上がった。

 快晴の剣の軌道から、斜めに逸れた顔が。

 潜り込まれる。

 暗い面金の中で、灰色の瞳が光る。

 人の皮を脱ぎ捨てる時を告げるように、三日月が如く彼の唇が愉悦で輝き。




「どォぉおッ、タァああァ――――――――――――っはははハハあァああッ!!」




 悪辣な嗤い声と共に、狼のような男が胴体を食い破っていった。


「胴あり!」


 狙い通りに首級を上げたと、片手一本の残心から奴が振り返るとき、垂れネームが揺れた。

 己を見事に騙し切った、橋倉という名前が。

 ――生き汚すぎる。名前覚えとこ。

 快晴の口から、小さくため息が漏れる。ある意味、感嘆だったのだろう。

 鮮やかな抜き胴。

 まるで今までのしつこさを、全部帳消しにするみたいな。

 面金の中で奴は牙も舌も隠そうともせず、ざまあみろとこちらに嗤いかけてきた。




 × × ×




「胴あり!」




 死力を尽くしてようやく一本。気持ち良すぎてイくかと思った。

 笑ってはいけないなんてルールは、存在しない。高笑いと共に橋倉は振り返る。

 抜き胴で外した左手を、柄へ戻した。

 脳内麻薬が、その瞬間に切れる。鉛のように身体が重くなった。

 さぞや真に迫る死んだふりだっただろう。

 実際、なぜまだ立てているのか、自分でも分からないくらいなのだから。


「……は。……ははっ」


 精神と肉体はとうに限界寸前だ。まだ時間も、延長戦の可能性も残っているのに。

 だが最後の最後の本命を隠しつつ、この化物と打ち合い続けるとはそういうことだ。

 ずっとこのときだけを待っていた。

 面も小手も、いくら裏をかこうとも途中で奴は避けてくる。

 突き技なんて飛び道具、世界がひっくり返ってもこいつに当たるはずがない。

 ならば残された選択肢は、たったひとつ。

 どんな人間でも跳んだら最後、絶対に動かせない場所。

 ――胴ぶち抜くしか、方法はねえ。 

 この瞬間が訪れるという確証もなかった。全てを費やしても徒労に終わり、途中で惨めに死ぬ可能性も十二分にあった。だが迷わず、ここに賭けた。


「……へ、……へ。……この程度が、なんだ……」


 あらゆる屈辱に耐えてきた。どんな稽古からも逃げなかった。

 ずっと、たったひとりを憎み続けるそのために。そんな自分の全人生が言ったのだ。

 ――こいつは剣鬼(あいつ)じゃない。いつか絶対、馬鹿正直に引っかかる。


「……くくっ」


 審判の後ろを通らずに、あえて奴とすれ違う経路を選ぶ。開始線まで悠然と戻る。

 邪悪に歪んだ己の表情を見せつけて、限界などまだまだ遠いと嘘をつく。


「つまんねー奴だな。おめー」


 己の悪性すらも餌にして、煽って判断を鈍らせろ。

 全ては戦うため。戦い続けるため。

 自分より強い奴を、必ず喰って捨てるため。


「ちったぁ笑えねーのかよ?」


 ――さあ、言っちまったぞ。どうすんだ?

 面も小手も突きも通じぬ。残った可能性は胴のみ。だがそれも使い切った。

 あんな風に全てを見切る眼を持つ男に、同じ技など二度通じる訳もない。

 絶体絶命。今度こそ、万策は尽きたはず。


「……くくっ」 


 にもかかわらず、己の死に体からは嗤い声が止まらない。

 開始線に戻る一歩手前で、橋倉は構える前にようやく見たのだ。

 笑わない男の、真なる表情を。






「……うるさいなあ」


 囁かれて快晴は、一度頭を下げる。

 それは審判に捧げるためでも、相手への敬意を示すためでもない。

 消えてしまった親友に、非礼を詫びるためだった。


「弱い癖に」


 彼を弔うために、罪を噛み締めるために、すぐに一番上まで登らなければいけないのに。

 こんなに低い場所で。


「冗談言わないでよ」


 楽しむべきではない。そんな資格もない。

 だが葬式(ここ)では、そう意識してしまえばしまうほど、堪えきれなくなってしまう。


「笑っちゃうじゃないか」


 己の最奥に眠らせておいた、暗い笑顔が。

 快晴と橋倉が、共に一歩。ついに開始線に乗る。

 互いに何を見ているのか。何のために剣を握るのか。

 それらは問わず竹刀を交わすと、互いに一つだけ悟られた。

 ――ああ、どうやらお互いに。

 戦場(ここ)でしか、笑えないらしい。




「勝負!」




 孤独の咆哮が二つ、誰かを呼ぶように強く響いた。




 × × ×




「勝負!」




「殺ャぁアああああぁアあア―――――――――――――ッ!!」

「鬼ィぁアあああッしゃァあ―――――――――――――っ!!」




 二つの声が震えて場を鳴らすと、残響が消え去るのを待たず快晴が前へと躍り出た。踏み込みはなく鋭く摺り足で進み、左斜め上に拳を掲げた。上から捻じ込むように竹刀を喉元へ。

 崩せ――敵の終わりは近い!


「はァッ!」


 変則の構えで釣ってきた快晴に橋倉は挑み返す。間合いを侵してきた瞬間に踏み込みを一つ。線対称に左斜め上に拳を掲げた。互いに牽制。本命は読めない。出方はどうだ――来ないか。ならこちらから仕掛けろ。体力が切れる前に仕留めるしかない!


「手ェめ―――ェんっしゃあ、たあぁらぁッ!」「はァ―――さあッ!」


 小手面を橋倉がしかけると、快晴が小手を払って接近。面が元打ちになって効力が消える。

 息が切れる。接近して鍔迫り合い。息が吸える――が、そっちに行くなここから逃げろ!


「どォッ、タぁぁああア――――――――らああッ!」


 拳が合わさる前に、橋倉が踏み込んだ右足を素早く蹴って即座に引き胴へ繋げた。左斜め後方へ逃げながら剣閃は左斜めの袈裟斬り――しかし落とされる。構わない。

 目的は二つ。鍔迫り合いから逃げること、胴打ちを見せること。

 橋倉が最後に張る罠は、再び逃げ得ぬ場での交差法。

 未だこの試合で一回もない状況――相面。狂ったように速い奴の面だが、タイミング次第で勝ち目があるのはそれしかない――!

 灰の瞳の奥に狙いを隠して、橋倉は下がり逃れ続ける。しかし快晴は逃さない。休む暇を与えない。蒼く氷のように全てを見切る眼で、引き胴を叩き落として橋倉を追い詰める。


「おぉッ、たぁあ―――しゃああッ、らああッ!」

「鬼ィああああ―――――らあああッ!」


 橋倉の三合を、落とす、躱す、押さえる。繋げて小手面――裏避けのまま近寄られる。

 ――出小手はない。相面狙いだ!

 看破した快晴は、己の得意の鍔迫り合いを捨て去り、すぐさまその技を選んだ。


「メぇええんっしゃァ――――――らああッ!」


 溜めなく、その場で必殺の引き面――橋倉が歯を食いしばり、ついに見切って竹刀で受けた。

 ――受けきった。下がりやがったな!

 頭上に諸手を掲げた快晴の残心に、橋倉は今こそ罠を携え全速力で追いすがる。

 喉元をめがけて構えた竹刀と上に掲げた快晴の竹刀は交差しないが、身体が知ってる。

 一足一刀――打つなら、今!

 燃え尽きるときを見極めるように、隆起する脚の筋肉に呼応し、灰の瞳孔が大きく開く。

 ――止めろッ!

 稽古を重ねた肉体が警鐘を鳴らした。奴が振り下ろしてくる方が速い。間に合え――!

 橋倉の竹刀が、面、右胴右小手を同時に隠す裏避けを自動で作り出す。


「おォオッ―――!」


 どん! と引き面の残心を取った快晴が、右足で強烈な踏み込みを繰り出す。床が鳴る。

 防御に繰り出した、橋倉の竹刀は鳴らない。

 ――クソが。死んだ。

 フェイント――快晴の頭上に掲げた竹刀は、頂点から右へと弧を描く。


「どォォッ、たあァア――――――――やああああッ!」


 逆胴。

 がん、と衝撃が橋倉の左腰を揺らした。

 快晴が刀身を引き切って下がる特徴的な逆胴の残心を取って、後方へと引いていった。

 橋倉が、ほんの一瞬呆然とする。

 旗を見るまでもなかった。


「鬼ィぁああああああ――――――――殺ャああァアぁああああァアアッ!!」

「くっ――!」


 全く入っていない。審判は微動だにしない。

 隙を晒した快晴の残心に向かって、全てを賭けて橋倉は面に跳んだ。

 超反応で快晴も即座に立て直し、ありったけの力で刹那遅れて跳ぶ。




「「メぇええ―――――――――――んッしゃァらあああッ!」」




 狙い通りの相面が、ぶつかる。「ちッ!」


 舌を鳴らしたのは橋倉。審判が誰も旗を上げてない――相打ちで両方軌道が逸れた!

 まだだ――もう一本!

 動きが鈍った快晴に、左斜め下から抉るように体当たりを仕掛ける。反動で橋倉は跳ぶ。


「小手ェッ、だァあああアァッ!」


 引き小手。しかし快晴が体当たりに対処しながら、何とかそれを諸手で払う。

 防御の態勢を整えるため、奴はかろうじて中段を作りにいく――だが。

 ぐらり、と。ほんの一瞬、奴がよろけた。

 最後の勝機が煌めいた。

 酸欠、乳酸漬け、とうに橋倉の身体は限界を越えていて竹刀が上がらない。

 ……しかし。

 それでも。ここで燃え尽きることも厭わぬと、引き小手の残心を無理矢理構えへと戻す。

 ――勝つ。絶対勝つ! ここで死んでも絶対、勝つッ!

 燃やし続けた執念が、橋倉の身体に残った体力の残滓を絞り出し。

 燃え尽きるような最後の乾坤一擲を、快晴へと繰り出した。

 ――討てぇッ!




「メぇえぇえええ―――――――――――」




 かちり。




 踏みしめた右足が、己の最期を悟らせる。

 声を止めた。止まってしまった。

 閉じた口が、小さな鼻息と共に僅かに緩む。

 ――通りで三本目から、やけに打たれてくれると思った。

 一枚どころか何枚も、この男は自分の上手だった。

 必死すぎて気付かなかった。

 最後の最後になって、手を抜かれていたということに。

 ――因果応報、か。

 自嘲に呼応して、ゆらりと、快晴の顔が上がった。

 橋倉の全精力を乗せた一刀の軌道から、斜めに逸れた顔が。

 潜り込まれる。

 暗い面金の中で、蒼く凍った瞳が光る。


「……けっ」


 お前の言うことなんて聞いてやらないと、格の違いを見せつけるように。

 意趣返しを決めきるそのときも、奴は決して晴れ渡る笑みなど見せなかった。




「どォぉおッ、タァああァ――――――――――――やああァああッ!!」




 鮮やかに決まった抜き胴に、奴の剣風のように真っ白な旗が三本上がる。


「胴あり!」


 お前の負けだと、神が言う。


「うるせえ」


 だが狼の心を、真に従わせることは誰にもできない。

 橋倉は、己の隣を駆け抜けていく新たな獲物の背中を爛々と睨み。


「負けず嫌いが。……初めて見たわ、俺っちより性格悪いやつ」


 にやりと歯を見せ、瞑目して笑った。




「勝負あり!」




 竹刀を納める。

 礼に則って、深々と頭を下げた。


「ありがとうございました」


 声を出せという決まりは、特にはない。だがそうしてやる。

 負けは、惨めであればあるほど良いのだ。

 己を斬った奴のことを、決して忘れられないようになる。


「へ。……次は、必ずぶっ殺してやるよ。乾」


 これでいい。

 これが、自分の人生だ。

 灰の瞳で爛々と、曇った男を澄んで睨む。

 太陽を見たときのように、瞳の奥でちりちりと何かが鳴る。

 竹刀の弾ける音と並んで、自分の大好きな音だった。




 × × ×




 ところで橋倉は、忘れていた。

 正座を突いて面を外し、手拭いを取って汗を拭い、深呼吸する。


「……ん?」


 拭ったはずの汗が、また背中に流れた。

 ――やべえ。あんだけ言っといて、一回戦で負けたんだが?

 冷静になった瞬間、試合前の己の言動が全て思い出されてくる。死にたい。

 ややあって、二つの影が正座をする橋倉のもとへ落ちてきた。

 ゆっくりと顔を上げる。

 そこには恩師である会長と、信じられないくらい良い笑顔の姉がいた。


「おう。見てたぞ、崇仁」

「だ、誰が見ろって言いやがったんだッ!」

「はっは。相変わらず言葉遣いがクソだな、おめえは」


 半分ぐらい師の影響もあると思う。橋倉は苦虫を噛み潰したような顔をして立ち上がる。

 そして連れてきたであろう犯人は、依然と満面の笑みでこちらを見つめ続けていた。


「私が連れてきたのよ。お前へ餞を送ろうと思ってね」

「……餞だぁ?」


 まさかこの姉が、頑張ったで賞か何かをくれると言うのか。

 そんなことが生きてて一度でもあったか?


「会長。私を見てください」

「おう、どうした」


 ……嫌な予感がする。




「試合前の崇仁の物真似をします♪」




「ばっ……やめろ!!!」

「今日で剣道……やめるわ……」

「くはは! なんだ、また言ってんのかおめえはよ!」


 敗者に容赦なく鞭を打つ。

 そういう女だった。


「俺っちは石動の剣士だ……あの人の顔に泥は塗らねえ……ここで死ぬ……」

「おぉいッ!!! 止めろっつってんだろーが!!!」

「まあ一回戦で負けやがったがな」

「棄権したほうが傷は浅かったわね」


 うるせえ、と真っ赤になって叫ぶ。

 そうしたら姉は、意外にもすぐに鞭打つことを止めて、静かに笑った。

 決してこちらに触れてこず、腕を組んで見守るように。


「ここらで罰は許してあげるわ。受けた屈辱は忘れぬことね」

「……なんで姉貴が俺っちに死体蹴りしてくんだよ」

「当たり前じゃない。罰とは身内が与えてこそ」


 肉親だからこそ、容赦しない。

 敗者に鞭を打つ役目は、自分が背負うと買って出る。


「お前は、私の血。たとえ不始末でもね」


 それが我が姉、橋倉麗奈という女。

 姉弟とは、一番近い他人なのだという。

 まさしくその通りに弁えた情を持つこの人を、姉に持てたことを誇りに思った。


「けっ。めんどくせー血ばっか寄越しやがる」


 それを決して、口に出しはしないけれど。

 片目を瞑って髪を掻いていると、皺が増えた手で会長が己の肩に手を置いた。


「崇仁」


 仁こそ、最も崇きもの。

 そんな誇りある我が名を、この人はいつも家族だと認めて呼んでくれた。


「今日で、剣道辞めるか?」


 血の通った、温かい手が心に沁みる。

 もう自分は、それを振り払わない。


「ここで、潔く死ぬか?」


 振るのは、自分の首だけでいい。


「いえ。……辞めんの、やめます」


 姉の言った言葉を、昔のようにまた噛みしめる。

 男が一度出した言葉を引っ込めるほど、格好の悪いことはない。

 だから潔く言葉通りに殉じれば、きっと格好の良いことだろう。


「続けます。才能ねーんで」

「おう。……それでいい」


 けれどそれでも楽をせず、苦しく汚く生き続ける方を選んでいく。


「格好悪く、生きろや。崇仁」

「……はい」


 それが生まれ変わると誓ったときに、この人に授けてもらった強さなのだから。




 × × ×




「あ。いた」

「……いた、じゃねーよ。話しかけんなっつっただろーが」


 どこまで惨めに敗走させれば気が済むんだ、神は。

 面と竹刀袋を両手で持って、競技場の外へと出る扉を蹴り開けると、敵はそこに立っていた。

 手が塞がっていては殴りかかることもできない。

 それに、負けた。今日これ以上噛みつくのは、いくらなんでも惨めが過ぎる。

 うんざりしてため息をつくと、きょとんと奴は首を傾げた。


「試合前に、でしょう? 今は試合後ですけど」

「……なんなんだ、おめーは」


 調子が狂う。

 曇った顔をして、純朴な大型犬みたいに嗅ぎつけて寄ってきて。

 普通お前なんか眼中にないと煽るか、そもそも関わらないかどっちかだろう。自分ならそうする。負けた奴を見て悪魔みたいに嗤う奴が、強い奴ではないのか。剣鬼みたいに。


「お礼を言いたくて」

「……はぁ? 礼?」

「一本入れられたの、久しぶりだったんです」


 やっぱり煽りに来たのか。まあいい。より殺したさが増して。

 舌打ちしようと思ったが、しかしできなかった。


「……まだ、未熟だって分かった」


 奴はどうやら敵意などなく、本心からそう思っているらしい。


「だからまだ、独りで登れる」


 打たれた胴を押さえて、仄暗く。その瞬間だけ、奴は口元を僅かに緩ませた。

 何を背負っているのか知らないが、相変わらず戦う葬式みたいな奴だと呆れてしまった。

 気に入らない。


「おい。おめー、名前なんて言うんだよ」

「……はあ。名前?」


 書いてるけど? と言わんばかりに、首を傾げて『乾』の垂れネームを奴が指差す。

 さすがにイラッとしたので空いた脚でキックすると、上手いこと太ももに刺さった。

 蹴りなら当たるのか。覚えておこう。


「ちょっ……何で蹴るんですか!?」

「うるせえ。太陽が眩しかったからだよ。……下の名前を聞いてんだ」


 髪を掻き、分かんねえ奴だなと舌を打つ。そうしたら奴は、また首を傾げて言った。


「何だ。知ってるんじゃないですか」

「あぁ? おめーの名前? 知らねーから聞いてんだろうが」

「えっ。今のはそういう話じゃなくて?」


 異邦人に向かって、顔を曇らせた男が名を名乗る。

 まるで、身体を張った冗談のように。


「僕、快晴って言うんですけど。よく晴れてる、って字の」

「……く。……くくっ、おめーマジかよ!」


 胴を着けていて、腹を押さえることができないのがもどかしい。

 久しぶりに、下らない冗談で声を出して笑ってしまった。


「そんな曇ったツラしてか? 笑える名前だな、快晴!」

「…………全然、違うし。仲良くなれなさそうですね。橋倉さんとは」


 馬鹿にしてやると、奴はますます顔を曇らせてこっちを睨んできた。

 それでいい。笑顔を交わす誰かなど、今の自分には必要ないのだ。


「おめー、なんで敬語なんか使ってんだ。敵だろうが?」

「もう試合は終わりましたよ。敵だなんて。……それに、年上なんでしょう?」

「あ? ……ああ、組み合わせ表に乗ってんのか。おめーいくつだよ」

「この前十五になりました。中三です」


 一個下か。そこまで剣鬼と同じだ。

 ありがたい。歳なんて強さに関係ないことを、奴らは証明してくれる。


「一つ、聞いてもいいですか。僕にとって、とても大事なことなんです」

「……負けたんだ。好きにしな」


 あの山でのことか。

 過去を語るのは女々しくて嫌いだが、晒せと言われれば仕方がない。


「高校は、どこですか。剣道部に入っていますか?」


 だが奴が問うてきたのは、あくまで現在のことだった。


「……入ってる。秋水大付属だ」

「えっ? 秋水? ……僕の県じゃないですか。石動なんでしょう?」

「石動は籍だけ置いてんのさ。おめーらんとこでもそういうのあんだろ」

「ああ、はい。……そうか。嬉しいことを、聞けた気がします」


 嬉しいと言う割に全く笑わない。

 奴はただ、真っ直ぐとこの灰の眼を見据えて言ってくる。


「この前、部活を引退したんです。だから、次の居場所を探しています」

「……それがどうしたよ。好きな場所に行けばいいじゃねーか」


 この男なら引く手数多だろう。何を迷うことがある。

 訝しんでいると、奴はあまりに俗っぽい答えを返してきた。


「家から通える学校じゃないと、駄目なんです」

「……くだんねー家の事情か?」

「いえ。自分の事情です。……ここが一番、効率がいいんです」


 奴の声音には迷いがない。

 己に似た、冷徹な熱さがあった。


「終わったあと、錬心館に行けるところじゃないと駄目だから。今は六大道場で、うちが一番環境として良いんです。後は質の良い高校を選んで、家のことは全部親に甘えます」

「……甘ちゃんだな」

「……たまに言われます。でも、減らせる苦労は減らさないと、強くなれない」


 痺れた。

 同じ想いで剣を握ってくれる男は、この世のどこかに必ずいるのだと、救われた気がして。


「一番上まで、登らなきゃ。……格好なんて、つけてる場合じゃないんです」


 奴は決して笑わず、その瞳が自分を離れて上を見た。

 非情だ。情熱を冷たく制御して、奴もまた、何かを、どこかを目指している。


「俺っちも、一個聞かせろ」

「……はい」


 ゆえに、問いたかった。

 こんなに何もかも峻烈な奴が、弱点を放置している訳を。


「おめーなんで、逆胴だけあんなにクソほど下手なんだ。稽古してねーだろ?」

「……バレてくれましたか」

「あたりめーだろ。舐めすぎだ」


 終わった、とあのとき確かに思った。

 だがあまりにも下手で、審判の旗は一本も上がらなかったのだ。


「おめーは、弱え。……少なくともあと三倍は上手い奴を知ってんぞ」


 どの口が言うと思うが、それでも道を同じくする者として言ってやりたい。

 登らない者には、決して分からないのだ。

 登る者にとっては、まだ上に誰かがいるということが、救いでもあるのだということを。


「僕も、知ってます」


 ほらみろ。やっぱり同じだ。

 奴もまた、唇を噛んで悔しがり、そして同時に歪ませる。足るを知らない者として。


「……それに手を着けたら、本当に無かったことになっちゃう気がして」

「あ? どういう意味だ」

「……美味しいところは、最期に食べたいってことです」


 懐かしむように。悲しむように。

 そして、触れてはいけないのだとしまい込むように、遠い声音で奴は言う。 

 優しい声だ。どんな状況にあっても、他人を信じているような。


「橋倉さん」

「……何だよ」

「秋水は、強くなれるところですか?」


 答える前の一瞬、脳裏に見捨てようとした我が家の惨状がすぐさま浮かぶ。

 居るのは顧問。自分。それから瀧本。あとは全部、ゴミだ。


「ああ。最高だ。足引っ張られるようなことはねーよ」


 しかし全て隠して、嘘をついた。

 ただお前を喰いたいと、己の執念の為だけに。


「そうですか。じゃあ来年、そこに行きます」

「……おめーなあ」

「何ですか?」

「俺っちが、嘘言ってるとは思わねーのか?」

「……思いませんけど?」

「んでだよ。言いたかねーけどガラ悪いんだぞ、俺っちは」

「でも強いじゃないですか」


 どこまでも汚れなく、純粋に。人を疑うことを知らない。

 ただ、信じ続ける。奴の強さは、きっとそこから来ているのだろう。


「くだらない人が、あそこまで強くなれるはずないですよ」

「……勝っといて言ってんじゃねーよ。嫌味な奴だ」


 世の中、そんなに綺麗じゃない。

 他人は基本的にゴミで、奴はきっとその中でも恵まれて生きてきた。

 しかしそのことを恨むことは、決してすまい。

 違う強さを持つ奴を喰うのだって、きっと愉しい。

 乾快晴。

 その名前、確かに覚えた。


「では。僕は、次の試合があるので」

「ああ。……しかしおめー、俺っちが言えた義理じゃねーが、ほんっと愛想ねーな」


 しばらく別れる奴の姿を、灰の瞳に焼き付ける。


「ちっとは笑えよ、快晴」


 決して忘れず、最後に食い殺すために。


「せっかく下らねー名前してんだからよ」


 恨みを燃やすため、最後に悪辣な笑顔を見せてみろ。


「……そんなこと言われてもなあ」


 しかし、新たな獲物はあの全てを見切る眼で、己の意図を見透かしたのか。

 首を傾げて悪気なく言った。




「こんな低いところで、どうやって笑えって言うんですか?」




 快晴は、いつも曇っている。


「……くくっ」


 だから狼は、同じ灰色のその男を、無二の同胞としてここに認めた。




 × × ×




 着替えぬまま、荷物から携帯だけとって橋倉は外に出た。

 夏が終わる。夏休みが終わる。

 普段道場に入り浸っているのだから、気持ち良い夏空が迎えてくれても良いはずだ。

 だが、御剣の地の空は、重く低い暗雲が立ちこめていた。

 未だ、曇天だ。

 時はまだ、満ちていないとでも言うように。


「……くくっ」


 それでいい。晴れた気分はまだ不要だ。

 仕事が残っているのだ。このまま遊ぶのは、気持ち良くない。

 姉との連絡以外に殆ど使わない携帯から、瀧本の名前をタッチする。

 ついでに色気もないが、仕方ない。


「嘘ついちまったからな。勢いで」


 思えば、初めてか。家に人を招くのは。


『……おう、どうした橋倉。蒼天旗に出とるんじゃなかったんか?』

「ああ。負けちまったわ。一回戦で」

『……お前が、か?』

「そう言ってんだろ」

『……この世は、地獄じゃのう』

「ああ。飽きねーよな」


 そう言うと、電話口の向こうで小さな笑い声が聞こえた。

 何がおかしいのかはよく分からん。


『それで、どうした。用があるんじゃろう』

「ああ。……こればっかりは、俺っちだけじゃどうしようもねーからな」


 次の獲物を狙う。

 そのためにまた、屈辱を背負っていく。


「仕事を手伝ってくれ」


 電話越しの会話だ。

 瀧本には、自分がどんな格好をしているかを知る手立てはない。

 しかし、己が見ている。


「頼むわ」


 だからしっかりと、仁義に従い頭を下げた。


『……分かった。何をしたいんじゃ?』


 恩に着る。

 だからいつも通り、行動と結果で返すのみ。


「家の掃除だ」

『……掃除?』

「客を呼ぶことになった。汚え場所に上げていい奴じゃねえ」


 負けた奴が、勝った奴のために片付ける。それが通すべき筋というものだ。


「二年上のカス共は消えた。だがまだゴミは残ってやがる」

『……そういうことか』

「上に立って変えるなんざ趣味じゃねえ。前に出るような仕事は今後、おめーが引き受けな」


 牙を剥く。


「臭えゴミは、俺っちが裏で片付けといてやる」


 それぞれ、自分に合った役割というものがある。

 外道には外道。人に好かれる役割は、それができる奴が持てば良いのだ。


『条件がひとつじゃ』

「んだよ?」

『俺が決めた、ルールは守れ』

「……分かってら」


 見下されたくなくて、死ぬほど学んだ。言葉は得意だ。


「ルールさえ守りゃいいんだろ?」

『はっは、ええじゃろ。……橋倉』

「あん? なんだよ」

『……すまん』


 電話の向こうで、風を切るような音がする。

 まるで何かを、下ろすような。


『汚れてくれ』

「……へ。うるせえ。勝手に背負ってんじゃねーよ」


 息が抜けるように、笑ってしまった。

 こいつもきっと、方向は違えど生きづらい奴なのだろう。

 その重みを分かち合うことなど、決してしないが。


「明日帰る。働けよ」


 各々違うものを背負う者として、並び立つことぐらいは認めていい。


『おう。サボらんのだけが、取り柄じゃ』


 愚直な奴。快晴はこいつをどう思うだろうか。

 慕うか。慕うだろうな。奴らは揃って、向こう側の生き物だから。

 ならば心置きなく、同じ場に居ても敵となれるはずだ。

 電話を切り、橋倉は再び鈍色の空を見た。

 獲物は必ず、綺麗な場所に誘い出す。

 それは友となりたいからじゃない。

 愉しんで愉しんで愉しみ尽くしたその後に、後腐れなく喰ってやるためだ。


「……あと一年、か」


 また、お預け。

 喰えるのは、飢えを満たすには程遠いゴミばかり。


「……クククッ」


 これでいい。こうでなければ落ち着かない。

 これが背負った業で、我が人生。




「あぁ。……腹ァ、減ったなぁ」 




 狼は、暗闇の中で雌伏する。

 人の皮を再び脱げるそのときを夢見て、灰の瞳が爛々と、未来の獲物を捉え始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る