「灰色に鳴る」五合目:雲の意図
橋倉崇仁は、日章旗を見上げる。悠か蒼天を示す旗を。
胴着に着替え、胴と垂れを着け、試合に備えて竹刀を握る。
今日は山に登った翌日。蒼天旗十八歳以下男子の部、個人戦当日だ。
開会式が終わり、審判たちが試合の準備を整えるまで時間が空く。
自分の一回戦はまだまだ先だった。こういうとき、やれることはいくつかある。
体育館の二階席で休んでいるか、競技場とは別に開放された小さな武道場で身体を動かしているか、それともこの競技場に留まって敵の試合を見ているか。
「………………」
だというのに、身体が動かない。
アップを済ませて、燃えるように熱くほぐれているのに。
まるで超常の何かに、そこに居ろと命令されたようだった。
瞬きもせずに、灰の瞳はその旗を見続ける。
太陽を直視したときのように、ちりちりと灼けるような音が、瞳に鳴って欲しかった。
「……俺っちも、もう終わりかな」
初めての感覚に、ついに瞑目する。死期を悟った。
試合だ。しかも、あれだけ飢えて出たくて仕方がなかった蒼天旗だ。
なのに、心が凪いでいる。
自分の中の獣は驚くほど静かに、まるで死んでしまったように息を潜めていた。
「崇仁。私はもう戻るけれど、いいかしら?」
固まった自分に向かって、同じく胴着に防具姿の姉が声を掛けてくる。
アップの相手になってくれたのは、姉だ。石動の皆の中に入れてもらうことはしなかった。
「姉貴」
「どうかした? タスキならもう着いているわよ」
「……ありがとよ」
振り返って、姉に頭を下げる。また当たり前のことをひとつ、噛み締めた。
剣道は、受け止めてくれる相手が居なければできないのだ。
「それから、悪い」
どれだけ強がっても、強くなっても、それは変わらない。
だから。
「今日で剣道、辞めるわ」
最後の最後に、せめてそのことに気付けて良かった。
経緯はどうあれ、自分に剣を握らせてくれたのは姉だった。
ならば仁義を学んだ今の自分は、最初にこの人に頭を下げるべきなのだ。
「……そう。お前ももう、一人前の男よ。許可など得ず、好きにするといい」
「ああ」
相変わらずの冷たい温もりに、安堵する。
姉なら必ずそう言ってくれると思っていた。
「けれど、覚えておくことね」
「……あー?」
「男が一度出した言葉を引っ込めるほど、格好の悪いことはないのよ」
腕を組み、姉は唇を歪ませてそんなことを言う。
まるで獣が獲物を弄ぶようなその性悪な笑みに、こちらも僅かだけだが唇が歪んだ。
「もう、身に沁みてるっつーんだよ」
自ら落ちた地獄に、なぜ暗雲が立ちこめているか。
答え合わせをするまでもない。それはこの業が、未だ拭い去れていないせいだろう。
「棄権は、しないのね?」
「ああ。……誓ったからな」
視線を一階競技場の奥、来賓席に向ける。
長い髭を蓄えた恩師と、目が合う。
「俺っちは石動の剣士だ。あの人の顔に、泥は塗らねえ」
互いに一度だけ頷き、そして橋倉は、彼に授かった竹刀を強く握った。
「ここで死ぬ」
最初にあの人に与えられた。ならば最後はせめて、あの人の前がいい。
斬りたかった男はもういない。立ちこめた暗雲が晴れることはない。
だが、ここが一番高い山であることに違いはない。
今の自分に、どこまで登れるか。どれほど華々しく散れるか。
分からないが、最期に挑んでやるとしよう。
瞑想をするべく、床に置いていた面と竹刀袋を手に持ち、姉と共に競技場を去ろうとする。
そのとき、だった。
「あの」
ふたりの背中を、声が叩く。
「……おめーは、昨日の……」
振り返ると、胴着姿の奴がいた。
あの場所で、違った名前で自分を呼んだ男。
背丈は自分と同じくらい。烏の濡れ羽色の髪をして、整った顔立ちをしている。
風格がある。それなりにやるだろう。
胴着の左肩に『錬心館』の刺繍を乗せたその男が、口を開く。
「乾、です。……昨日は、すみませんでした。改めて、お礼を言わせてください」
そう言って奴が折り目正しく頭を下げると、姉が一歩前に出る。
「そう。君が、乾くんだったのね。巡り合わせとは不思議なものね」
「……僕を、どこかで?」
「ええ。色々なところから話は聞いているわ。……昨日のことなら気にしないで」
あのあと。
奴が名を名乗る前、強く一陣の風が吹き、遅れて雷雨が降り出した。
互いに、頂上まで登った経緯は分からない。知りたいとも思わない。
だが、胸に抱いた思いは同じだっただろう。
――どうしてこんなところに、自分以外の奴がいる?
沈黙が流れ、ややあって奴は言う。
『……どうして、泣いて……』
『ッ!』
すぐに、激してしまった。
『じろじろ見てんじゃねえ! 殺すぞッ!』
弱みを見せるなと、獣の本能が煮立つようだった。
あれほど強く叫んだことはついぞない。脳が、身体が警鐘を鳴らしたとでもいうのか。
『崇仁! それから、君も! 濡れるから早く乗りなさい!』
藍原の車を借り、麓からやって来た姉が丁度クラクションを鳴らしてくれなければ、殴りかかっていても不思議ではなかっただろう。
降りる途中の車内でさえ、一度も口を利かなかった。
馴れ合いを嫌うのはいつものことだが、それはこの男も同じなのだろう。
なぜこんなところに登ったのだと問いかける姉に、すみませんと返すだけで、最後まで理由については口を閉ざしたままだった。
今も、奴は理由を語らない。
左肩に乗る漆黒の『石動』の刺繍と垂れネームを見て、口を開く。
「石動の方々だったんですね。てっきり、御剣館の人とばかり」
「ええ。何か、御剣に用事があるの? もし良ければ、知り合いを紹介するけれど」
「………………い、え。そんな資格は、ありません」
奴はしばしの逡巡の後、そう言って目を閉じ、唇を噛んで俯いた。
出会ってからずっと、常に曇っている面構え。まるで葬式にでも出ているようで。
――気に入らねえ。
橋倉は顔を逸らし、不機嫌を示すように右足の先でぱたぱたと床を鳴らす。
理由の分からない苛立ちだった。
感覚としか言いようがないもの。しかし、どこか覚えがあって。
昔にも一度だけ、こんなことがあったような気がする。
……ああ、そうだ。これは確か、あのときだ。
抱く感情は真逆だが。奴を一目見たときも、確か――。
「橋、倉?」
俯いた奴が、垂れネームを見て自分の名を呼ぶ。今度は間違えることなく。
「おい」
その瞬間、脊髄を針で刺されたように髪が逆立ち、ぎろりと奴を睨んでいた。
「試合前に話しかけてんじゃねえ。殺すぞ」
手加減なしの殺気を、奴へ。
己をよく知る練達の姉でさえ、口を挟めず一歩下がる。
だが。
「失礼しました。では、一回戦で。楽しみにしています」
奴は引くどころか、涼しげにその場で殺気を受け止めて。
「殺せるものなら」
僅かに口の端をつり上げ、初めて笑った。
× × ×
「……く」
面を着け、会場に広がる咆哮と竹の剣戟音を浴びて、橋倉崇仁は白線上でその時を待つ。
あと数十秒で前の試合が終わる。そうしたら、笛が鳴る。
人の皮を脱いで良いという、狼の呼び笛が。
「……くくっ」
己の爪を隠す籠手が、灼熱のように熱い。握りしめた竹刀がみりみりと軋む。
まるで早く斬らせろと、哮るように。
「…………クククッ」
理性を終わらせる笛が鳴る前に、橋倉は最後にもう一度天を見上げる。
蒼天にたったひとつ輝く、明るい太陽の旗。
相も変わらず昂ぶらない。瞳の中の炎は、これではないとちりちり鳴らない。
だが彼方。白線の向こうに立つ、同じく戦衣を纏った男を見た瞬間。
髪は逆立ち涎は湧き立ち、鋭く牙が尖り始めた。
「……殺せるものなら、か。……くくくっ」
ようやく先程、己に巣くう獣が静かであった訳を知る。
死んでなどいなかった。ただ、眠っていただけだった。
極上の獲物を狩るときが近いのだと、身体に棲む獣は知っていたのだ。
――ああ。
高く、高く、笛が鳴る。
白線に沿って颯爽と、白くしなやかな脚で駆けていき。
一線を越えろと促す神の声に、瞑目して尖った耳を傾けた。
「前へ」
剣を握ると、手が武者震いを始める。確信を手にした。
――分かるぞ。こいつも化物だ。
背筋からは汗が引き、唇が半月のように歪んでいく。
牙を隠すように、人として最後の礼をした。
「お願いします」
顔を上げる。奴を捉える。一生その面忘れぬようにと、閉ざした眼を今開く。
獲物の面に広がるものは、曇天。
己の瞳と同じ色をした、孤独な情熱――。
――神様。
業を償った畜生が今、垂れてきた雲の意図を知る。
――こいつが、次の
「始めっ!」
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