九本目:だんまりクイーンの微笑
いつも、あまりものだった。
頭はくるくる回っているのに、口はちっとも動かない。仮面のように表情も固くて。
『葉月ちゃんって、いっつもむすっとしてるよね』
『藤野って喋んねーよな。なんで?』
違う。ちょっと苦手なだけ。
みんなのこと嫌いじゃないから、お願い少しだけ待ってほしい。
そんなに早くは、喋れないから。
『はは。何考えてるかよく分からんなー』
『行こっか。またねー!』
伸ばした小さな手が、空虚を掴む。もう遊びには入れない。当然だ。
投げたボールを返してくれない人間と、誰がペアを組んでくれるだろう。
もういい。だんまりのお姫様を気取るみたいに、教室の隅でつんとしていよう。
そんなことを考えていたら、神様は少しだけ優しかったのか。
『藤野、はづき? ……じゃあ、はーちゃんやな!』
なんとしてでも笑わせてやるぞと、道化師を連れてくるように。
『うち、二宮千紘! かわええやろ!』
最強のワイルドカードを、ペアにくれた――
五時間目は、英語コミュニケーション。
コミュニケーション。英語ではどうかは知らないが、葉月語では敵を意味する言葉だ。
知らない人とはできるだけ喋りたくないし、喋れない。
教室の左隅の最後列席で、当社比五倍の不機嫌顔を作りながら黒板の上の掛け時計を見上げてみる。
終わりまで、あと五分。上々だ。このまま何事もなく終わってほしい。
「じゃあ最後、隣同士ペア作ってー。52ページのテーマに沿って英会話しといてくれ」
それで今日は終わりにすっか、と若い先生がにこっと言い放つ。
お前の人生も終わりにしてやろうか? とつい思う。思うだけなら自由。
ずぅんと沈んだ気持ちを携えて、能のような緩慢な動きで右隣の席を見る。
まるで自分の気持ちを代弁してくれるように、ため息をついて目をドブ川のごとく濁らせている黒瀬がいた。嫌そうにこっちを見て、目が合うなり「あぁ」と無感動に声を出してくる。
「そういや、席替えしたんだったな。元気かよ」
「No」
「早速やる気満々なんだよなぁ……。じゃあ、やるか?」
「致し方not」
「中途半端に使ってんじゃねぇよ……。悪ぃ、教科書ねぇから見せてくんね?」
構わない、と言う代わりに小さく首肯する。でも教科書がないんならその間黒瀬は何をしていたのだろうと彼の机の上を見る。紙辞書やノートなどで巧妙にカモフラージュされているが、今日出た数学の課題プリントが隠れていた。
「内職」
「うるせぇ。仕事は家に持ち帰らねぇ主義なんだよ。真面目ちゃんじゃねぇからな」
愚痴を言いながら、黒瀬は椅子だけで寄ってくる。必要最低限の距離で。
かつて日本史の時間、悠に資料集を見せてと頼んだときはがっつり机をくっつけて来たので、その差がなんだか面白いと思う。まあ人に近い黒瀬なんて黒瀬じゃない。ちょっと見てみたくもあるが。そういえば昨日悠が風邪で休んだときは傑作だったなあ。かわいかった。
「……んだよ。何か顔に付いてるか?」
「べつに」
危ない。ちょっと自重。悠とか城崎ならこのままでもいいが、黒瀬はちょっとだけ鋭いから考えていることを当てられるかも。視線をすぐに黒板の方に逃がすと、いいものを見た。
先生が荷物をまとめて、教室から出て行ったのだ。
歓喜と共に、黒瀬の方に向き直る。今まさに閉じた教室の扉を指差した。
「やっぱ、なし」
「ん? ……あぁ、帰ったのか。じゃあやる意味はねぇな」
自席に戻ろうとする黒瀬の袖を、くいっと引っ張る。
すごく嫌そうな顔をしてぱしんとはたいてくるのが好きだった。悠といい奴らは面白い。
「んだよ」
「遊ぼ。暇」
「……お前ちょっとテンション高ぇな。何でだ……って、ああ」
自分でも分かっていないことを、黒瀬はすぐに推察してみせる。ちょっと腹立つ。
「次、体育だからか。二宮いんのか」
「……ん」
腹が立つけど、本当のことだから否定はしない。早く会いたい。
会いたいがそれまで、退屈をしのがせろと女王みたいに黒瀬にねだってみる。
「何か、遊ぶもの、ない?」
「……まぁ、トランプなら持ってるが」
「ぼっちなのに」
「うるせぇ、お前が言うな」
きっと昼休みに城崎とかと使ったのであろうトランプを、黒瀬は高速でシャッフルする。綺麗な手つきだ。流石ゲーマー。目は手元を見ることなく、掛け時計を見つめている。
「もう時間五分もねぇぞ。一瞬で終わるやつしかねぇな」
「……ん。じゃあ、ポーカー」
「分かんのか……ってまぁ、二宮じゃあるまいし、分かるか」
「ん。普通の、ポーカー? ホールデム?」
「むしろホールデムはおれが分かんねぇ。普通のやつでいいんじゃねぇの?」
「了解。……カード交換、一回。
「ありにしようぜ。そこの駆け引きなかったらじゃんけんと変わんねぇだろ。……そうだな。じゃあ何か賭けっか。負けたら勝った方に何か奢るが、降りたら奢りはナシになる、でどうだ?」
こくりと頷く。まあ余興ならこれぐらいのルールで十分だ。
黒瀬がスムーズに配った五枚の札を、同時に手に取る。
ばっと扇の形にして手の中で開いて、こくりと一度頷いた。
「藤野、このままでいい」
言葉にすると、黒瀬が怪訝な顔をしてこっちを見つめて探ってくる。
「いい役か?」
「そうかも」
「ブラフか?」
「かも」
「…………お前、マジでポーカーフェイスな」
眼鏡を中指で上げて、黒瀬は困ったように目を細める。そして、言った。
「三枚チェンジ」
「勝負?」
「まぁ、どうせならな。ゲームは面白い方がいいだろ」
こくりと頷くと、黒瀬がにやりと口の端をつり上げながらカードを交換した。
三枚だから、おそらくワンペア以上なんだろう。それぐらいは分かる。千紘じゃないから。
「じゃあショーダウンといくか。……よし。Aのスリーカード」
「Qのファイブカード」
「はぁ!? ……ってああそうか、抜いてねぇんだった」
五枚広げた手札の中に、実はクイーンのカードは四枚。
もう一枚はワイルドカードのジョーカーだった。これ以上ないほど、手札に恵まれていた。
「藤野、勝ち」
威張るように、少し纏をイメージして両腰に手を当ててみる。露骨に黒瀬の顔が歪み初めて大変良かった。
「……もっかいやろうぜ。今のはカードが固まりすぎだ」
「自分で切ってた」
「うるせぇ。そもそもジョーカーありって定義してなかっただろうが」
「男らしくない」
「………………」
自称クールさんがぎろりと睨んでくる。
一年のときからゲームが絡むとすぐこうだ。やっぱりうちの馬鹿どもという感じで、とてもからかい甲斐がある。
右手で口元を覆って笑うのを堪えていると、チャイムが鳴った。
「ん。もう行く。黒瀬、負債イチ」
「……分ぁったよ。帰りまでに何食いてぇとか考えとけ。ちょうど練習ねぇしな」
「ん!」
「……ふ。そんな分かりやすくテンション上がるかね。二宮ごときで」
休み時間。次は体育。千紘タイム。
体操着の袋を取って、気持ち早足で隣の教室に向かう。
きっといつものにぱっとした笑顔で抱きついてくるから、絶対うざいって言ってやろう。今日は何のお話が聞けるかな。どうせ悠と城崎のことかな。せっかくだからたまにはこっちからも何か話してみようか。さっきの黒瀬のこととか――。
「……?」
そんなことを考えながら教室に入ったが、違和感があった。千紘が走ってこない。
それだけではない。明らかに様子がおかしかった。
後ろ向きに自席にぼうっと座って、虚ろな目でうなだれて手に持ったカードを見ている。
「千紘。……千紘?」
「……え。……あ、はーちゃん」
制服の肩を摘まんでやると、ようやく目に光が戻ったような。
「大丈夫? 調子、悪い?」
「……ん、いや。ちょっと、ねむかっただけ」
百パーセント、嘘だ。絶対何かあった。
「……そう。体育、行こ」
促すと千紘は立ち上がり、手に持っていたトランプの札をぽんと後ろの席のカード束に置いた。
「また、遊んでくれるやんな……?」
ぼそりと呟かれた言葉を、聞き逃さない。千紘が体操着を取っているうちに、ジョーカーが置かれた机の中をあらためる。きっと犯人の名前を示すものが残っているはずだ。
……ほら見ろ。見覚えのある日本史の資料集。
『水上悠』
「……呪う」
次の時間、男子も外だったよなと目を光らせた。
× × ×
体操を終えて、今は試合開始前のキャッチボールの時間だ。当然のように千紘がペアを組んでくれて嬉しいのだが、今回はミッションがある。
何回かボールの往復を繰り返し、立ち位置を変える。どんどん離れていくように調整しつつ、狙いの男子どもが後方に来るようにセット。まあこのあたりで良いだろう。
全然届かないけれど、遠投を促すように遠くからボールを投げた。ほとんどゴロになってしまうけれど、そうすると拾った千紘はちょっとにやっと笑う。
「よいっしょっ!」
きーんと矢のように、ボールがワンバウンドでぴったり胸元に来るように投げてくる。
それを、ひょいっと避けた。
「あっ、ごめん! 強すぎた!?」
「いい」
追ってくるな、のジェスチャー代わりに千紘にグラブを向けてから、鋭く転がっていくボールを追いかける。やっぱり千紘のコントロールは抜群で、後ろを向いている奴の踵にぼこんと当たった。
「いって!?」
「尊皇派。天誅」
「……あ、はーちゃんか。なんだ女子もソフトなのか」
悠が振り向いてボールを拾ってくれたから、ペアの城崎がボールを投げるのを止めた。にしても悠の隣に立っているのに一切「危ない」とか警告しない黒瀬はナイス。
それはさておき、本題だ。
「水上。千紘に、何かした?」
「え? 何かって……何?」
「さっき。着替える前。千紘に何か、した?」
ボールを受け取りながら、悠に詰め寄る。そうしたら、意外なことに奴は引いた。
「し、してない! はーちゃん、な、何でそんなに怒ってんの……?」
「……怒ってるように見える?」
「見えるよ! 大激怒じゃん!」
「……おれには分かんねぇけどな」
黒瀬と一緒に目を丸くする。最近ちょっと、本当にちょっとだけだけど、悠は地球に帰化してきているらしい。まあ本当に微々たる進歩だけど。そこ大事。
自分のことを散々棚に上げてディスっていると、城崎が向こうからたたっと駆けてきた。
「よっ。早くボール返しなって。……はーちゃんと何やってんの?」
「い、いや、ちっひに何かやっただろって怒られてて……」
「あとおれは水上に人間の機微が伝わってて衝撃を受けてる」
「ん。クララが立った」
「そこまで言わなくていいだろ!?」
悠が叫ぶとなぜか城崎が誇らしげに笑って、手に持ったボールを自分のグラブに投げつける。ぱしんと鳴った。
「ちっひー? 別に何もやってねーけどな。ここ来る前にババ抜きしたくらいだぜ?」
「聞いてくれクロ! 俺がうまいことちっひをハメて勝ったんだぞ!」
「……さっきからテンションうぜぇな水上。おい、先生が呼んでんぞ。ベース運ぶの手伝えってよ」
「お? 分かった、行ってくる!」
絶対呼んでない。ていうか黒瀬も行くのが筋では。
そう思ったが、ナイスなので不問にする。真犯人を問い詰める味方は多い方がいい。
「水上、何で勝った? ババ抜き、へちょそう」
「まぁ二宮も大概なんだろうけどな。すぐ顔に出やがる」
「ははっ、確かに低レベルな争いだったなー。まあ下駄履かせたぶん悠の方がマシっつーか」
「下駄?」
「……ん。いや、ちょっとこの前、宇宙人と交流したっつーか」
「あぁ。なんか泊まって講義したって言ってたやつか? 表情とかコミュ力とか諸々の」
「ちょっ!? それ女子にはナイショだって!」
「あぁ? 何でだよ。別にいいだろ……そもそも何で人間関係に小細工がいんだよ……」
「こういうのは白鳥のバタ足なんだって! つーかクロはもうちょい人間に歩み寄れよな!?」
喧噪の中で、すぐに答えに辿り着く。
そこまで頭が回らないわけじゃないし、何より千紘のことだ。すぐ分かる。
あの子が、一番傷つきそうなこと。
「それ、千紘にも内緒にした?」
「当たり前じゃん。つーかちっひーに知られるのが一番ハズいだろ悠は」
「……男は馬鹿。城崎はハゲろ」
「もう侵食してんだもんなぁ……」
「ちげえよこれはカチューシャ! 上げてんの! ハゲてねぇから!?」
このチャラハゲ野郎め、と心の中で呪詛を吐きつつグラブで頭を抱える。
原因は分かったけれど、どうしたら良いのかは分からないままだ。
あいつら馬鹿だから、とその場しのぎで慰めることはできる。
だがそれで、千紘が抱えている何かを本質的に解決してやれるとは思えない。
「何か、あったのか」
悩んでいると、悠を追った城崎とは違って黒瀬は残り、こっちに声をかけてくる。
「ん。……千紘が、さみしがってる」
「あん? 何でだ? 普通にあいつらと遊んでんだろ?」
「……そういうのと、違う」
つい、俯いて唇を噛む。
誰かの中に入っていきたくて。でも、自分ではどうにもできない壁が立ち塞がっていて。
のけ者にされて、ぽつんと取り残されるあの気持ち。
ひとりが平気で大好きなこいつには、そんな寂しさはきっと分からないだろう。
「……ごめん。邪魔した」
ボールを持って、背を向ける。「おい」
すると腕を組んでいる黒瀬が、邪魔くさそうに目を細めて呼び止めてきた。
「何かよく分かんねぇけど、あいつらが二宮に構うように仕向けりゃいいのか?」
「……というより、水上?」
「まぁ、分かった。じゃあ今日中になんとかしたら、賭けの奢りはナシでいいな?」
そんなことが出来るものだろうか。
少なくとも、自分には思いつかないが。
「ん」
できるものならなんでもやってほしいと、こくりと首肯した。
× × ×
そして、試合の時間になる。
千紘は八面六臂というか、もはや五臓六腑に染み渡るくらいの活躍をしていた。
塁に出たら絶対盗塁を決めるし、守れば千紘ゾーンかくやといわんばかりに飛んだ場所にいつもいる。
特筆すべきはバッティング。アウトローに決まったボールを、右手を抜いて鮮やかにライト側に流し打ちしたときは流石にみんな湧いた。何人か目をハートにしていたし、ソフト部なんて勧誘に行っていたくらいだし。
「……かっこい」
そして自分が、一番惚れ惚れしていた。
それでも千紘はどこか、もやっとした顔をしたままだ。
「ホームラン、一本も打たれへんなぁ……」
最終回の守りに入る前、残塁した千紘がベンチに戻ってくる。
グラブを差し出すと、ちょっとだけ陰った顔で「ありがとう」と言った。
また何かためこんでいるな。新しく。
一緒に外野の守備位置へと歩きながら、話してみる。
「何、遠慮してる?」
「え、遠慮って……別に手ぇ抜いてへんよ! 調子悪いねん!」
「じゃなくて。全然、喋らない」
お前は私か、と言うようにじとっと睨んでみる。
そうしたら千紘は、顔を真っ赤にして逸らした。
「き、……嫌いに、ならへん?」
「……は?」
「だ、だって! うちいっつも一方的に喋るから! ……言葉のキャッチボール、なれへんのやろ?」
しゅん、と散歩をすっぽかされた犬みたいに千紘はうなだれる。
ほっとけない。今日はなんだか、いつもよりセンシティブみたい。
いつもの数倍激しく首を横に振って、千紘のことを嫌がるわけがないと強く意志を示した。
「別に、キャッチボール、しなくていい」
「……ん」
「ちゃんと捕ってる。届いてる。藤野、投げてないだけ」
「……嫌がれへん?」
「若干面倒」
「ちょぉ!?」
「冗談」
「もおぉおお―――!? すぐいじるやんかっ! うちやったら何言うてもいいと思て! ……うちかってなあ」
色々気にするんやで、って言うんだろうなって、言わなくても伝わったから。
「知ってる。大丈夫」
千紘の言葉の途中で、そう言ってやる。
向こうがどう思っているかは分からないけれど、自分はこの子の相棒だと思っているから。
ちゃんと理解しているんだよということを、たくさん伝えてあげたい。
「千紘のこと、ちゃんと、分かってる」
けれど、こんなときでもこの口は上手く回らなくてそれが恨めしい。
どうしたって千紘みたいにはできない。
けれど、あの不器用な水上ですら頑張っているらしいから、自分だって。
苦手でも、せめて笑顔ぐらいは頑張ってみよう。
「え、遠慮しないで。ちゃんと全部。……全部、聞いてるから」
「……うん。……うん! よっしゃ! じゃあ喋りまくるでっ! 千本ノックや!」
「こい」
「さっきな――」
かぁん、とバットの音がする。そのときにはもう千紘が走り出していた。
やっぱり格好良い。帰ってきたらそこも褒めてみよう。どうせランナーは刺すだろうし。
「アウトぉ!」
ほらやっぱり。
走って帰ってきた千紘に拍手を送るが、それでも不満げだ。
まだ、バッティングに不満があるらしい。
「身体に近い球やったらホームランできんのに……」
うんと頷きながら、とりあえず当初の予定通り、誘導して愚痴を吐き出させてやる。
せめて、この場だけでもすっきりさせてあげたい。……そう思っていたら。
「タぁイム!」
「切り札投入! 代打……ちっひー!」
「よっしゃ! 打つ打つ! うち打つでー!」
神様が、チャンスを千紘にあげた。
千紘が敵チームへ駆けだして行く中、ソフト部キャプテンの子がマウンドへ全員集合をかける。作戦会議だった。当然、自分もその中に混じる。
「よっし、ちっひー仕留めるぞ!」
「なんか弱点ないわけ? 弱点」
「苦手なコース的な?」
「……あ」
思わず、声が漏れる。閃いたからだ。
そして同時に、身体も震える。
それは思いつきの良さに当てられたからではなくて。
「どしたの藤野さん?」
「何か知ってんの?」
「教えてよ」
知らない人たちの目線が、寒くて痛かったから。
こんなとき、千紘がいたらと思う。……けれど、今はいないから。
ここは、ひとりでも頑張らないといけない。
グラブの中にぎゅっと握った拳を入れて、下を見ながら両手でぐいぐい心臓を押す。
「か、身体に、ち、近い球……。に、苦手って、さっき、……言ってた、よ」
「おお! インコースか! よっしゃ分かった!」
「ナイス藤野さん!」
「やるぅー!」
「よっ! 小早川!」
――良かった。言えた。千紘、見てる?
「おらー! はよせえー! どうせあがいても変わらんでぇ!」
……人の気も知らないで。葉月はむっとした顔をグラブで隠して、外野へと駆けた。
あとは、簡単。高い金属音を響かせて、白球が青空を裂くのを待つだけでいい。
「もーらいッ!」
おみごと。今度こそご機嫌になってくれるかな。
綺麗に打たれすぎて誰も追わないボールを、ひとり走って追いかける。
すると、外野を守っていた悠の踵に当たった。さすが、持ってる。
「いって!? また!?」
「お。……なんだ、ホームランか。女子なのにすげぇな」
近くで座ってサボっていた黒瀬が、悠の隣でボールを拾って立ち上がった。丁度いい。
「ん。打ったのは、千紘。今日五打数五安打、いちホームラン」
ドヤる。うちの相棒はやるでしょう。
するとなぜか、黒瀬もグラブじゃない方の手で眼鏡を上げてにやっと笑った。
「やっぱ二宮は万能だよなぁ。剣道『だけ』しかできねぇ奴とは違うなぁ?」
「……クロ。何が言いたいんだ? 喧嘩売ってんのか? ん?」
「いやいや、事実言ったまでだろ。お前今日全くいいとこねぇし。ほら、見ろよ二宮を。悠々歩いてホーム回ってんなぁ。やっぱかっけぇよなぁ、ノーヒットさんとは違って――」
「ボール、貸せッ!」
闘気的な何かで髪を逆立たせ、悠は黒瀬の手からボールをもぎ取る。
ひゅうっと呼吸をひとつ置き去りにして、左手を前にした半身のステップを三つ、いち、に、さん――!
「おらあぁあ―――――――――ッ!」
巨大弓で射出した運動神経という感じの白い光線が、悠の右手から迸る。捻った空気を巻き込んで、すさまじい返球がこちらにも聞こえるぐらいの破裂音でキャッチャーミットに突き刺さっていった。アウト。
「よし。これでまだちっひはホームラン打ってないだろ。次の打席で俺がホームランを打つだろ。完璧だな?」
「水上、あほ?」
「いや俺は天才」
この自信の源、世界は血眼になって探した方が良い。人類のエネルギー問題は多分それで全部解決する。
「……水上。じゃあ予告してやれよ。じゃないとお前が打ったってあいつにゃ分かんねぇぞ」
「おっ、クロ! お前も天才!」
そそのかされるなり、悠は「はーい」と千紘に見えるように左手にはめたグラブを上げる。
そして右手を拡声器みたいに口の横に当て、叫んだ。
「おい、ちっひぃ――――! 今からそっちまで飛ばしてやるから待ってろぉ―――ッ!」
視力は2.0だ。だから分かる。
向こうにいる千紘は、お腹を抱えて笑っている。
やがて悠は打席に備えて早々にベンチへと上がっていくが、黒瀬は相変わらず動かない。
呆れるみたいに、眼鏡を中指で上げて笑っていた。
「流石に上手くハマりすぎておれもびびってんだが……。まぁ、こんなもんでどうだよ。あいつどうせ打てねぇから、帰って二宮にいじれって言っとけ。それで解決だ」
「……なんで打てない?」
「敵にアウトコースしか投げんなって言ってあんだよ。打たれると癪だから」
その言い草に、堪えきれずに頬が緩んでしまった。同じ穴の狢に言う。
「裏切り者」
「別に誰の味方でもねぇよ。おれが良けりゃいいんだ」
奢りたくねぇから助かった、と言って彼は背中を向ける。
守銭奴。自己中。
そういうことに、しておくね。
「ありがと」
髪を掻いて、振り返らず奴は走ってベンチに戻っていく。だから自分も背を向けた。
とことこと千紘のところへ戻っていきながら、ちょっとだけ、微笑む練習をしてみる。
水上より先に上手くなろう。千紘が自分よりあのポンコツを気に入る未来だけは、凄く嫌。
「精進」
杞憂と微笑を、青空へ。
「ストライク、バッターアウト!」
「ぬぁああ――――!?」
「……ふふ、あははっ」
けれど練習するまでもなく、馬鹿が気持ちよく空振る音に、お腹を抱えて笑ってしまった。
× × ×
そして、帰りのホームルームが終わって。黒瀬はまた椅子を近づけてきている。
「今回も前と同じルールでいいか?」
「ん」
体育のあとはアイス食いたくなるよなぁなんて、別にそんな理由をつけなくてもいいのに。
黒瀬がカードを切る音をBGMに、携帯を片手に暗躍を続けていく。
[葉月] 放課後、出かけよ。ついでに甘い物食べたい
[千紘] おー、ええで! でもうちでええの? クロちゃんとか、意外と甘いもん好きやで?
そうらしいね。すぐアイスアイスって言うし。
もらった五枚のカードで口元を隠しながら、ちらりと考え込む黒瀬の顔を覗き込む。
今日はお世話になったからちょっとお礼をしたいけど、あくまで千紘優先だ。
だから、ちょっとした希望を込めて、こう返してみる。
[葉月] いい。
[葉月] できればみんなで出かけたいけど
[葉月] こういうお願い、女子の千紘以外には、恥ずかしい
さてさて、どうなるか。
手のすぐ下にラインを開いたまま携帯を置いて、配られたカードを扇形に手の中で広げてじっくり見る。
こくりと頷いた。
「藤野、このままでいい」
「あぁ? またかよ」
前回と同じ。きっとブラフだと思うはず。
あなたの番だよと空いた手を差し出して、顔をしかめて考える黒瀬に勝負を促す。
うぅんと奴が唸っているなか、手の下でぴろんと一通、ラインが来た。
「二枚――…………いや、やっぱやめとく。降りるわ」
なぬ。
顔を上げると、片目を瞑って黒瀬が苦笑していた。
「よっぽどいいカード来てんだろ?」
「……分かった?」
素早い手つきで出した黒瀬の携帯から、インカメを突きつけられる。
そこに映っている自分の表情を見て、ますます。
「笑いすぎだっつの。何の役が来たんだ?」
[千紘] じゃあせっかくやからみんなで遊ぼ! うちが誘いにいくから待ってて!
楽しい遊びの端っこに、藤野葉月はちゃっかりいる。
この先どんなことがあっても、自分が千紘みたいに目立つことはないけれど。
みんなと一緒に五枚揃えば、こうやって役柄が光ることもある。
「じゃん。ストレートフラッシュ」
「……はぁ。手札に恵まれる奴だな、お前は」
「うん」
クイーンの隣に、ジョーカーを並べて。さっき練習した表情で。
「それが誰にも負けない、藤野の自慢」
強く頷いた瞬間に、がらがらと扉が開く音がする。
「はーちゃん! クロちゃん! みんなで遊ぼ!」
「……嫌なんだが」
「駄目。負けたから、付き合って」
「あぁ? おれは降りたじゃねぇか」
ふるふると、首を振って困らせる。女王様みたいにわがままを言ってやろう。
――だってそれが、あなたの弱点だもんね?
「遊ぼ。……みんなで」
絵柄の通り、上品に。
だんまりクイーンは、静かに微笑む。
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