十三本目:Fat Are Big Girls Made of ?

 幸村円香はお風呂上がり、バスタオルで巻いた身体を揺らしてうきうき鼻歌を唄う。


「ふっふー♪」


 今日も厳しい練習が終わり、お風呂で命のお洗濯。


「おつかれさま、わたし!」


 ここからは、お楽しみの時間だ。にこにこ顔も緩もうというもの。

 課題はもう教室で終わらせてきてあるし、お気に入りのドラマの放送だってあるし。

 そして何より、お母さんが買ってきてくれたケーキがまっている!

 なんて幸せ。そう、女の子はお菓子とスパイスと、素敵ななにかでできているのだ。


「えへへ。自分への、ごほうびー」


 円香はショーツを穿き、そして棚に置いてあったブラを手に取った。

 しゅるりと肩紐を通して、後ろで留めにいく。が……しかし。


「……ぬ、……ぬう?」


 留まらない。きつい。筋トレの道具みたいな負荷がある。

 しかしそこは剣道部。入学のときよりちょっぴりついた力で、なんとか胸を閉じ込めた。


「ふー」


 一仕事やってやったぜ、と両腰に手を当てる。

 ぷにった。


「……き、きさま。……いつから、そこに……?」


 動揺し、言葉遣いが乱れる。いたか? こんなやつ。我が肉体ぼでぃに。


「し、しらない……。わたし、何も見てないよっ!」


 すっとぼけて寝間着のTシャツを着ようとする。

 しかし、人間は犯した罪を忘れられないものだ。パフェ、クレープ、それからケーキ。

 奴らがホラー映画のように鏡に現れ、背後で断頭台(体重計)を指差し言った。

『乗れ』

 ごくりと、円香は唾を呑み。

 そして――。


「いやぁあああぁあああ――――――――――――っ!?」


 ここに今、罪の重さを知る。

 









「さあ……今日も頑張るよっ! 練習頑張るよっ! 動きまくるよおおお!」


 放課後、ばーんと円香が女子剣道部室の扉を開く。

 気合い十分にずんずん真ん中を進んでいくと、先に来ていた史織と纏が着替えながらこちらを見た。


「おお……。円香先輩、気合い十分ですね」


 最近部活にも慣れてきたのか、史織は胴着に着替えるスピードが早くなった。

 最近悠にも打ち込み稽古を教えてもらっていたし、この子もどんどん上達してきている。


「うん! 負けてられないよっ! もう部内戦のことでへこんでる場合じゃないよっ!」


 というか膨らんでいるの。身体が。

 鼻息荒く、円香は部室奥の自分のロッカーに強く荷物を捻じ込んでいく。

 すると、隣でTシャツを脱ぎ終わった纏が、スカートを脱ぐ手を止めてこっちをじとっと見てくる。なんだその眼は。というかその細い腰はなんだ! ゆるせない!


「じ、じろじろ見ないでよ纏! わたしの剣のさびにするよッ!」


 ちなみにお肉が身から出た錆だという小言は聞こえません。


「……あんたそんなキャラだったっけ?」

「う。な、なによう! そりゃあわたしだって、剣道したくてたまらないときくらいあるよ!」

「三年間一緒にいて、そんなことあったかしら……?」


 下着姿のまま、纏は顎に手を当てて考え始める。

 まずい。奴は聡い。このままでは恥部を悟られてしまう。


「ま、纏。早く着替えたら? わたしより早く来たのに遅くなっちゃうよ?」

「……まあそれもそうね」


 よし。乗り切った。

 ほっと胸をなで下ろしたその瞬間、纏は自分のブラを乱暴に取って、ばしーんとロッカーに投げつけていた。武士みたいに胴着を肩だけ羽織って、乱雑に扉を閉める。

 粗暴すぎ。史織とふたりで眉をひそめた。


「原始人……。ていうか纏っていっつもブラ外すよね……」

「だって邪魔じゃない」

「……纏先輩、恥ずかしくないんですか? 男子だっているんですよ? 私正直、女子だけでも外すの嫌なんですけど」


 全く同感。お肌晒すの恥ずかしい。

 高校剣道部女子は外さないのが多数派らしい。強い人は汗掻くからと外す人が多いのだが、嫌だ。乙女捨てたくない。こんな胸丸出しのまま話し続ける纏みたいにはなりたくない。


「べっつに胴着けんだから関係ないでしょ。それに吹雪だって外してたわよ?」

「乾を基準にしないでください。信じられます? あいつ普段ハンカチ持ってないんですよ!」

「えー、いいじゃないそれぐらい。最悪自然に乾くでしょ?」

「……信じられない。部長にチクってやろ」

「は、はぁ!? 何わけ分かんないこと言ってんのよ! あんた余計なことしたら、この前の打ち込みで発情してたこと水上にバラしてやるからね!」

「し、してませんよっ! そんなこと! ……ただ、ちょっと、あぁ……って」

「えっっっろ」

「胸丸出しのド痴女が何か言ってますねぇー!」

「やかましいこの生意気眼鏡がッ!」


 またふたりは喧嘩している。こういうことが最近多い。

 たまには手と手を取り合って仲良くしてほしいのだけど、無理かなあ。

 胴着に着替えながらふたりの喧嘩を眺めていると、がちゃりと部室の扉が開いた。


「ででーん! みんなー! ちゅうもーく!」


 千紘だ。今日も元気。

 今日は葉月は一緒じゃないから、きっと委員会なのだろう。


「おつかれー、千紘。どうしたの?」

「ふっふっふ、ユキさんは絶対喜ぶで。ほら、ふたりも喧嘩しいなや!」


 纏と史織をどうどう諫めて視線を集め、千紘は鞄の中をごそごそとする。

 そして、黄緑のフタが着いたタッパーをばばんと印籠のように突き出した。


「じゃーん! 調理じっしゅーでクッキー焼いてん!」

「きゃ―――――っ! 千紘、ないすだよっ!」

「あら、あたしたちにもくれるの?」

「うん! 食べ食べ! うちはもう授業でいっぱい食べてん!」

「ま、待ってください千紘先輩。千紘先輩のクラスということは……これは……!」

「あっ、ゆーくんのクッキーはもうあれへんで」


 尻尾をぎゅっと掴まれた猫みたいな悲鳴が史織から漏れた。かわいい。

 これで本人は誰にも恋心がバレてないと思っているんだから恐れ入る。


「ゆーくんのやつな、めっちゃ美味いみたいやで。きのっちとか記憶飛んどったもん」

「へえ、あいつ料理できるの?」

「うん。なんかもう、おかんやったで! 何人か目ぇハートになって求婚しとった」

「ちょ、ちょっとそれは聞き捨てなりませんよ!? 一体誰が!?」

「全員男やけど」

「知ってたわ」

「やっぱり水上くんって水上くんだよねえ……」

「良かったぁああー!」


 同じため息でも、三年と史織で意味が違う。

 みんなが仲直りしたのを見届けて、千紘が満を持してタッパーのふたをぱかっと開けた。

 きっとまだ焼いたばかりなのだろう。

 鼻腔をふんわりとくすぐる甘い匂いが、きゃーきゃー喜ぶ内なる動物を呼びさます。


「ほらっ、ユキさん! 遠慮せんと!」

「えへへ、やった! いただきま――」


 クッキーを指で摘まんだ瞬間。

 どくん、と心臓が重く低く鳴る。

 けたけたけたと嗤う幻聴が聞こえ、砂糖に血塗られたお菓子の亡霊たちを振り返る。



『また、食うのか? 俺たちみたいに……』



「せんっ……! わ、わたし、お腹いっぱいだから! いらない!」


 ぐっと戒めるように強く、両腰に付いた脂肪を強く掴んで歯を食いしばる。

 食べない。食べちゃいけない! 

 己の本性を隠すように、円香は精一杯の笑顔を作ってみんなに言った。


「好きじゃないの、お菓子。わたしを止めるやつ、もういないから――」

「しおりん、ユキさんはなに言うてんの?」

「分かんないんですけど、この笑顔誰かに似てますね……」


 勢いでごまかせるのは、このふたりまでだった。


「……おかしい。あんたいっつも『自分へのご褒美♪』とか丸の内のクソOLみたいなこと言って、むしゃむしゃ何でも食べてるじゃない」

「う……!」

「……分かった。あんたさては」


 三年連れ添った宿敵、藤宮の女狐が化けの皮を残酷に剥いでくる。


「デブったわね?」




「デブってないもん!!!」




 叫び、ばしんと手拭いを床に向かって叩き付ける。

 大きく鳴った音にみんなが一瞬びくりと震えて、それでなんとか正気に戻った。


「ご、ごめん! 取り乱し――」

「ほんまや。ユキさん、胸またでかなってない?」




「でかなってへんわ!!!」




 関西弁でがなり立て、ごつんとコブシでロッカーを殴るとまた三人が引いた。

 けたけたとお菓子たちの嗤い声が聞こえる。違う。違う。違う!


「や、やめて! 違うの! わたしはもう、お菓子は――」

「そう言われてみれば円香先輩、ちょっと身体大きくなったような……」




「わたしは大きくなってない!!! 日本が狭くなったんだもん!!!」




 鍛えた足でどぉんと踏み込み、みんなに向かって叫んでいた。

 ひいっと三人が悲鳴を上げ、部室の隅に固まっていく。それでまた正気に戻る。


「ああ……あああ……!」


 嫌だ。肉体をじろりと見つめてくる、この冷たい視線。

 違うモノを見てくるこの視線。

 人をまるで、化物みたいに――。


「な……なによう! みんなが痩せてるのが、悪いんじゃないっ!」


 手拭いを拾って、じりじりと部室の扉に後ずさる。

 味方は。味方はいないの!? この孤独を救ってくれる、味方――。

 円香は震え、藁にも縋る思いできょろきょろ首を動かす。

 いた。


『ほら、食えよ』


 手を差し伸べてくる、悪魔が。


「い、いや……」


 どくん。


『本当は、分かってるんだろう?』


「いやっ……!」


『お前は、カロリーを欲してるんだ――』


「いやぁああああ―――――――――ッ!」


 ばたんと扉を開いて、青空の元に駆けだしていく。

 もう、お菓子が見たくない。衝動を抑えきれない。

 誰よりスリムでいたいのに、もう抑えきれない。

 だって美味しそうなんだもん。甘いの好きなんだもん。これが生きる意味なんだもん。

 止めろと言っても止められない。治せと言われても治せない。

 ならば、どうするか。


「や、やらなきゃ……!」


 治らない病気とは、付き合い方を考えるしかない。

 ――人より食べたいのなら、人より動くしかない!

 天啓を得たそのとき、同じく道場に向かう紺の胴着の背中が見えた。

 それは、神様が剣道部に遣わした救世主。


「水上くんっ!」

「あっ、幸村先輩。こんにちは」

「お、お願いがあるのっ! 聞いて!」


 がしっと両肩を持って、うるうる涙目でお願いする。


「なっ、ななな何ですか? この水上悠にできることなら、なんでも!」


 なぜかみるみる悠の顔が真っ赤になっていくが、そんなの知ったこっちゃない。


「わたしを……」


 こっちは、生きるか死ぬかの瀬戸際なのだ。


「わたしを、燃やしてぇ――――っ!」




 × × ×




 思わず時間が飛んだような感覚がしてしまうほど、練習に全てを捧げた。

 一心不乱だった。

 気が付けば練習は終わっていた。それでも再び面を着け、また練習を始める。

 円香は叫び、剣を振り、修羅となった。

 防具が重い。息がはあはあと上がる。

 しかし憎しみが、円香を何度でも立ち上がらせた。


「……しさって、やる。……消し去ってやるうっ!」


 出ていけ! この身体から出ていけ!

 脂肪への怨嗟を通し、面を着けて受けてくれている悠を睨む。彼がたじろいでいた。


「ゆ、幸村先輩。もう十分です! 終わりにしましょう!」

「そ、そうだぞ幸村。無理をするな。また明日頑張ればいいじゃないか」


 同じく面を着けて受けてくれている江坂も寄ってくる。

 いつになく剣道星人たちが日和っていた。


「……なんか私たちのときと扱い違いませんか」

「つーか水上だけでいいじゃないのよ。何ホイホイ釣られてんのよ……っ」


 そして愛人(本妻は男)と奥さん(未婚)は剣呑な顔でこちらを睨んでくる。

 だが無視。他人の感情など鑑みている場合ではない。

 こんなところで止まる訳にはいかないのだ。

 ぐいっと、籠手を着けたまま悠の胸ぐらを掴む。


「まだ……まだだようっ!」

「ひいっ!?」

「お、おい幸村やめろ!」


 江坂の静止も聞かず、面金がなかったら顔がくっついてしまうほどの至近距離で悠に叫ぶ。


「まだ! こんなんじゃ! 全然! (脂肪が)燃えないのッ!」


 熱い想いを叫ぶ。甘い自分は今ここに斬り捨ててやるのだ。


「わたしの……本当の望みは……!」


 今まで散々失敗してきたけれど、今度こそ上手くやってみせる。

 さあ言ってやれ。誓ってやれ。幸村円香は、ダイエットに――!




「本気になりたい!」




「あたしこのセリフ五万回は聞いたわ……」

「俺は禁煙に何度も成功しているぜ的なアレですよねー」

「そこぉ! うるさいよっ!」


 纏と史織には何も刺さらなかった。むかつく。

 しかし、アツい想いは確かに異星人にも伝わったようだ。

 彼らの表情がきりっと引き締まる。


「応えましょう。部長」

「……ああ。手加減なしだ」

「次はかかり稽古だよっ! 両サイド受けでお願いっ!」


 黙ってふたりは頷き、両サイドにそれぞれ待機してくれる。無論タテだ。

 ふたり居ると元立ちの負荷が減る。単純に片側でもうひとりが待機しているから、打つ側を追いかける必要がなくなるのだ。

 元立ちは二分の一しか疲れない。よって二倍練習できる。二倍脂肪が燃える。完璧だ。

 痩せたい。痩せたい。誰よりもスリムに――やるぞッ!


「いくよ剣道星人! 一番軽いのは、このわたし!」

「来い先輩!」

「受け止めてやる!」

「やあぁあああ――――――――――――ッ!」


 しばし、忘我の境地。

 ご婦人方がこっちを見て何か話しているが、内容は全然聞こえなかった。




「纏先輩、かかり稽古って何ですか? あの、ばばばーってやるやつですか?」

「そうよ。ばばばーってやってるでしょ今。基本的には打ち込みと一緒。空いたところを連続で打って抜けてくの。違うのは、打ち込みは大きい打突でやるけど、かかり稽古は小さい打突で打ってくってことね。より実戦に近くて、これをやらないところはないわ」

「はっ! てめぇん、しゃあああ!」「先輩、もっと! 遅い!」

「……スピード速い分、打ち込みよりキツそうですね」

「うーん。意外とそうでもないのよね。別種のキツさなのよ。打ち込みって大きな打突だから、どんどん肩上がらなくなるでしょ。かかり稽古はそうでもないのよ。小さく打つから手首の返しだけでなんとかなるの。この稽古の嫌なとこって、そういうとこじゃなくて……」

「ほら、どうした幸村! それでは入らんぞ!」


 面に飛ぼうとしたところを、江坂の竹刀で軌道を逸らされる。

 跳んでいく方向がズレていき、しかもその背を押された。

 自分の意志とは関係なく、身体が走って行く。息が出来ず、コケる。


「くっ……ぬううう―――――ッ!」


 でも立ち上がる。


「よぉし先輩! 次はこっちだ! 一息のかかり稽古!」

「分かったァあああああああああああああああああああああああああああ―――――――――――――――ッ!」


 言われるまでもない。続きだ!




「今転かしたやつ、めちゃくちゃエグくないですか纏先輩」

「エグいわよ。かかり稽古の最悪なところってね、嫌がらせがしやすいところにあるのよ。ああやって軌道ズラすでしょ。背中押されて酸欠、過呼吸になって死ぬでしょ。あとはポピュラーなものとして、元立ちなのに打つ、打突を避けるとかがあるわ。当然当たるまでエンドレス」

「陰湿すぎませんか剣道」

「こんなのは序の口よ。かかり稽古って色々あるからね。種類に合わせて嫌がらせするのよ」

「あああああああああああああああああああああああああああ―――――――――――ッ!」

「今やってるやつは一体……?」

「一息のかかり稽古。一息とよく略するわ。声の出し方で分かるけど、息を吸わずに打てるとこまで無限に打つの。水泳で言うと潜水を永久に続ける的な辛さがあるわ。これはn本打つまでに息吸った奴はやり直し、っていう嫌がらせが最高にハマって良いわね」

「駄目です先輩! 吸ったからやり直し!」

「ごほっ……かはっ……。よぉおおし!」

「ほらね」

「明日使えない陰湿知識が増えていく……」

「他にも先生が太鼓を鳴らすまでかかり稽古、ストップウォッチで測って時間切れまでかかり稽古というのがあったりするわ。それぞれ、太鼓を鳴らさない、途中で時計を先生が意図的に止め、明らかに実際の秒数と計測の秒数が違う、そもそも測り忘れてたわー♪ などのやり口が学会で報告されています。……って、あんたなんで面着けてんのよ?」

「……それだけキツかったら、最後、ぎゅって……」

「剣道よりあんたの方が救えないわ……」

「ま、纏先輩だって良いんですか!? 今日の部長、確変ですよ! あるかもですよ! ぎゅっって!」

「……………………ちょっと汗流すわ」

「救えないですね……」

「聞こえない! 聞こえないわ!」




 × × ×




 記憶がない。どれだけの時間が経っていたのか。

 ふらふらになって立ち上がった最後、大きな両手を広げて、江坂が笑顔で言った。


「頑張れ! ラストだ!」

「はぁ、はっ、……んっ……。め、ぇええエエ――――――――――んっ!」


 もうこれ以上飛べない。正真正銘、最後の飛び込み面。

 それを江坂は、ぎゅっと。

 ぎゅっと、抱きしめてくれた。


「あああああ―――――――――ッ!?」


 ああ、最高にキモチいい。

 成し遂げたという爽快感。それから何より纏の悲鳴が。


「よし……大した物だ! よく頑張ったな!」

「……ぇ、へへ。……ぇさか、くん……」

「ん、ん? どうした?」

「……わたし、っ、はぁ……っ、んっ、きれ、いに、……っ、なっ、た……?」


 息も絶え絶え。言葉が途切れる。

 しかしこれだけ動いたのだ。もう一瞬で痩せているに決まっている。

 すぐに効能の程を聞きたい。


「そ、それは、……いや、お前は、も、元々」


 だというのに、なんでそんなに目が泳いで顔が紅いのか。

 むっと怒って、抱かれたまま迫る。


「ねえ、はっきりしてよっ! わたし、綺麗――」

「ちょっと、部長! ず……ズルいッ! 俺の方でラストにする予定だったのに!」

「ず、ずるくない! あれ以上は無理だっただろう!?」

「無理じゃない! 幸村先輩ならあと一本打てて、俺がっ……!」


 何やら剣道星人が言い争いをしている間、殺気をふたつ感じる。

 いそいで身をよじって逃げると、やっぱり武装したガールズだったらしい。

 右斜め上から斬りかかる纏の剣閃を江坂は竹刀で受け、悠は史織が斬りかかる前に竹刀で押さえきって軌道を逸らした。ひょいと上手く避ける。

 そのまま身体を逃がし、悠は円香の前に背を向けて立ち塞がってくれる形になった。


「おい立花、危ないだろう!?」「防具着けてんでしょうが死ねッ!」

「史織もなんで打ってくるんだ!?」「うるさいです! 貴様の罪を数えろ!」


 ぎゃいぎゃいその場で二人一組で言い合いしてくれている間に、ようやく我に返る。


「……わたし今日、頭ぱんぱかぱーだったな」


 いかんいかん。円香は深呼吸してから、面をその場で外す。

 空気が美味しい。それにたくさん運動した。きっと痩せていることだろう。


「よーし。あとは、帰ってゆっくりしよー♪」


 しかし、そんなことを考えていたら。


「だって!」「しかしだな!」


 あの男どもが声を揃えて、余計なことを言った。


「幸村先輩が頼んで来たんだから」「しょうがないだろう!」


 道場に、一瞬の静寂が訪れる。


「あ。やっ、ばーい……」


 悋気で熱い二つの眼が、こちらをじりじりと睨んできた。


「ねえ史織。……先に、あの女を消した方が良くないかしら」

「奇遇ですね纏先輩……。敵の敵は、味方って言いますもんね……」


 これはまずい。ただでさえ弱い自分である。絶対勝てない。

 こういうときは、どうするか。


「た、助けてー。水上くーん……」


 強い人にお願いする。勝てばよろしいのだ。

 背中に隠れる形で、足にちょっと抱きついてやる。

 これでオチないだろうか。どうだ?


「守ります! 死ぬまで!」

「ちょろ……」

「えっ?」

「なんでもなーい♪ おねがいしまーす!」


 すすっと面と竹刀を持って下がって、悠が戦いやすいようにする。

 しかしこう後ろ姿を見ると、ごく普通の剣道部の男の子だ。身長も百七十とかそこらだし、そんなに大きくもない。今は殺気も全然ない。

 最初に見学に来たときなんて、ぺこりと礼をしなければ自分には経験者だなんて絶対に分からなかっただろう。笑顔は下手くそだが、穏やかな子なのだし。あとちょろいし。

 まじまじと背中を見て観察していると、ついに状況が動き始めた。

 竹刀をだらりと下げ、無形の位を取っている悠に向かって纏が容赦なく竹刀を構える。


「そこをどきなさい水上。叩き潰すわよ!」


 そして纏に付き従って、史織も腰から竹刀を抜いて悠に構える。


「そうですよ! どいてください! 邪魔です!」


 ふたりの殺気は中々にすごい。

 暗い女の情念というか、闇落ちした乙女たちの轟々とした闇のオーラがある。

 しかし悠は、のれんに腕押しというか、依然構えずきょとんと首を傾げるのみだった。


「たたきつぶす……ですか? 纏さんたちが、俺を?」

「そうに決まってんでしょうが! あんた以外に他のどいつが――」


 彼の背中の向こうに、構える纏と史織。その更に奥には鏡がある。

 そこに、面を着けた彼の表情が映った。




「どうやって?」




 にたりと鬼のように唇を歪ませる、悠の表情が。

 地を低く舐めるような嗤い声が、道場の温度をひやりと下げる。

 そして残像を従えながら、左手一本で身体の前に軽く構えた。

 彼の剣先が、まずはかわいい後輩に向く。びくりと震えて史織が叫んだ。


「に……二対一ですよ!? いかに先輩とはいえ、ハンデがありすぎます!」

「そうだな。確かに分が悪い」


 籠手を着けたまま、悠は右片手で後頭部を掻き。


「部長にも助太刀してもらえばどうだ?」


 そしてまた、けたけたと嗤った。


「うわぁああああ――――――――――――ッ!」


 弾かれたように飛び出したのは纏。強いから本能がやばさを察知したのだろう。

 片手を離し剣先が他を向いているうちに殺し切れと、乾坤一擲の面が飛ぶ。

 跳んだのは明らかに纏が先。「っ――!?」


「はァッたぁあああ―――――っ殺ャああッ!」


 しかし鋭い突風が敵を真っ二つにするように、いつの間にか右手を戻した悠の相面がずばんと纏を一刀両断。遅れて踏み込みの揺れが道場を揺らす。

 その頃には、既に悠の残心が史織の隣を通り過ぎている。「ま、待てーっ!」


 それを浅はかに史織が追いかけていく。冗談みたいに速い悠の摺り足に追いすがるため、もはや駆け足だ。基本が全然なってない。「ええいっ!」


 しかしボコれば良かろうと、左回りに回転して振り向いた悠の籠手に向かってそのまま竹刀を振り下ろした。

 なのに史織の竹刀は、床を叩いた。悠の手が無い。「なん――」


「小ぉッ手ぇえええ―――――しゃァッはあああ、あああああハハハはハァああァ!!」


 悪辣な高笑いと共に、下がった史織の右手に落石のような諸手小手が炸裂していた。

 振り向きざまに史織の打突を読み切り、右足で左斜め後方にバックステップ。打たれるであろう右手を竹刀から外して避けて、それから手を戻して下がりながら打った。

 円香は見ていて笑ってしまう。こういう身体の使い方を見たことがある。某高校剣道界最強の男さんがよくこういうことをやる。悠は真似してる。……試してるのだ。この状況で。


「一対一は駄目ッ! あたしに打った後の隙を狙いなさい!」「はっ、はい!」

「そんなもんがあればだけどなァ―――――っははははははァ!」


 じりじりと自分を取り囲む包囲網を、悠はすぐさま崩しにかかる。強い纏から一目散に殺しに行っているのだ。「おのれ後輩の分際でぇ――――っ!」


 しかし纏にも意地がある。悠のプレッシャーに負けず打ち合いを始めた。

 だん、だだん、だんっ! 反時計回りに動きながら間合いを取り合い、打ち合いの中で纏が踏んだのは四回、実際に跳んだのは二本。本命は、最後に選んだ飛び込み面!


「胴ぉッたぁああ―――――――――らああッ!」


 だがそれすらも悠の手のひらの上で、鮮やかな抜き胴が決まる。

 しかも隙を伺っていた史織がすぐに打っていけない。「う、ううーっ!?」纏が邪魔なのだ。

 立ち位置を変えていたのはその調整のため。全て計算。片手一本で抜ける抜き胴の残心、その一直線上に史織が待ち受けている。


「堪えなさい史織! 五秒持たせろ!」「はいっ!」


 これは女子軍のいい形。悠が史織にかかりきりになっていれば、纏が隙を狙って打てるはず。

 だが悠もそれが分かっているのだ。


「ほっ、おら打つぞ史織、ほらッ!」「あわわわ!?」


 踏み込みのフェイントを交えて近づき、史織との距離をゼロにしていく。鍔迫り合いだ。


「よっと!」


 史織にぶつけた右拳を軸にしてくるりと回転、悠は位置を入れ替える。身体を絶妙に運んで彼女を盾代わりに操作、纏から巧みに身を隠す。

 上手すぎる。常に一対一が作られているっぽい。


「ちょっ……どきなさいよ史織っ!」「そっ、そんなこと言ったっ――」




「死ね」




 操作した史織と纏が、一直線に並ぶ。悠はその瞬間を待っていた。

 どんと体当たりで史織を押して微妙に下がって、打つ。


「突ッきぃい――――たあッ!」

「うぎゅ――――ッ!?」「ちょっ、ちょっと、危ないっ!?」


 体当たりで突き飛ばされて、しかも突きで押し飛ばされてこのままでは史織がコケる。

 だから倒れそうになる史織を、立っている纏が後ろから抱きしめる形でなんとか止める。


「はああァッ―――」


 その形を、悠は狙っていたのだった。

 抱き留められている史織の面にぼこんと竹刀を振り下ろして、そして――。


「小ォッ手ぇええええ―――――――しゃあああぁあぁやあッ、たアっ!!」


 史織を抱えている、無防備な纏の右手に圧倒的な引き小手が炸裂。

 崩れ落ちる二人を嘲笑いながら、悠がこっちに向かって落ちてくるようにバックの摺り足で下がりの残心を取ってくる。

 ちょっと、強すぎ。だから円香はにんまりと笑い、竹刀を持って立ち上がった。


「えへへ。おもしろくなーい♪」


 ここらで一本ぼこんと入れてやりたい。イッツ漁夫の利。

 思えばかかり稽古でいじめられたし、復讐するは我にありだ。


『食べちまいな!』

「えへへ。……いただきぃー!」


 背中を向けて下がってくる悠の頭に向かって、えいやと竹刀を振り下ろしてみる。



 かっ。



「かっ……?」


 知ってる。これは竹刀を叩いた音である。

 円香の世界が、スローモーションになる。

 そこで今度こそ、円香は鏡越しではなく、本物のそれと対峙した。

 竹刀を裏避けで防御しながら、超反応で振り返った悠の顔と。


「はァッ――」


 ――ああ。いいなあ。

 もう何も遠慮していない。

 本気になって生きている、心底楽しそうな、かわいい後輩の笑顔をそこに見た。




「どォォッっしゃあアァア―――――――――やああッ!!」




 身体をびりびりと痺れさせる雷光の如き一閃が、左腰を通り抜けていく。

 面返し逆胴。

 そんなの初めて見たと、斬られたのに円香は立ち尽くして笑ってしまった。


「あァッはははァ―――ッ! おらおらどうした紙屑どもがぁ! あと百枚は呼んでこいッ!」


 そして誰だよこいつと、今度は呆れて笑ってしまった。


「このぉ! 調子乗んじゃないわよ!」「くたばれ先輩ぃ―――っ!」


 依然ヒートアップしている三人を置いて、剣道具を持って引っ込む。

 長椅子で座って見ている江坂の隣にお邪魔した。

 ふいーと息をつくと、彼がくつくつと喉を鳴らして笑った。


「もう何が何だか分からんな、あいつは」

「あはは、それだね。あの子、一対多人数とか慣れてるのかな?」

「御剣の道場で色んなことをしていたんじゃないか? 初見では流石に無理だろう」

「だよねー。ていうか最後のあれなに? 背中に目が付いてるのかな?」

「鏡に映っていたから不可能ではないぞ。まあだからといって反応できる理由が分からんが」


 本当に。すごいなあ。


「えっへっへ。うちの化物ちゃんはすごいでしょう?」

「ああ。……かわいい奴だよな、本当に」


 ふたり、顔を合わせて笑い合う。

 三年生になって、最後にこんなプレゼントをくれるだなんて、神様は分かっている。

 にこにこ笑って見ていると、しかし江坂は自分の手拭いで汗を拭っていた。


「しかし……。二度目となると、本当に偶然じゃないんだな」

「えっ?」

「あいつ、また回していたからな。面小手胴突き、それから面小手、最後に幸村に逆胴だ」

「…………うわぁ。すごー」


 ちょっと神様、やり過ぎ。

 でもでも、江坂にとってはその冷や汗さえも、嬉しさが吹き出ただけらしかった。


「凄いよなあ」


 まるで新しいおもちゃを買ってもらった子どものような笑顔で、彼は言う。


「俺は最後に、こんな奴と団体を組めるんだな」

「……そうだね」


 くすりと笑って、じゃれている三人を見る。




「ああっ!? ちょっと纏さん、抱きつくのはズルいって!?」

「問答無用! 今よ史織ッ! あたしごと貫きなさいッ!」

「よっしゃああああ! 纏めて死ねぇ―――っ!」

「あっ、纏さん。部長が妬いてる」

「えっ……? うそっ」

「嘘に決まってんだろ馬鹿がァメぇえんっしゃ――――――ああッ!」

「ああっ!? もう、纏先輩の役立たずっ!」

「あんたに言われたかねーのよ! ていうかもうちょい躊躇いなさいよあんたは!」




「……あは。あはははっ」


 なんだかツボにはまって、円香は声を上げて笑ってしまう。江坂も隣で同じく笑っていた。


「楽しそうだよな」

「うん。……本当に、良かった」


 全部終わったら、また悠に聞いてみようかな。

 そしたら今度こそ、にかっと自然な笑顔で答えてくれるはずだ。




 ――ねえ、水上くん。部活、楽しいでしょう?




 × × ×




「ふー……。疲れたけど、楽しかったなあ。今日」


 家に帰って、今は夜。

 円香は先にご飯を食べ終わり、お風呂に入る前に一旦リビングのソファに腰掛ける。

 そしてテーブルの上に置かれたタッパーを見て、くすりと微笑んだ。

 練習が終わって着替えるなり、平謝りに来た悠の真っ青な表情がかわいらしかった。


『本ッ当にごめんなさい! あの、俺、つい血が上って……!』

『えへへ、いいよいいよ。謝らないで? わたし、楽しかったんだよ?』

『そ、それじゃ俺の気が収まりません! ……あの、これ! お詫びに! もらってください!』

『……え。クッ、キー?』

『ゆ、幸村先輩のために作ったんです!』

『うっそだねー。千紘が調理実習で作ったって言ってたもーん』

『…………ごめんなさいぃ……。いい格好しようとしました……っ』

『えへへ。正直でよろしい!』


「もらっちゃった。史織ちゃんにはないしょだなー」


 本当に、かわいらしい子。捨てられた子犬の顔だった。

 つい数十分前までは、あんなに恐ろしい剣鬼の貌をしていたのに。

 まあでも、そのギャップがいいと思う。ずっといじくり回したい。


「うーん。年下も……もしかして、ありっちゃありなのかなあ?」


 実際全然趣味じゃないけど。どうかな。

 円香はくすくす笑い、タッパーを手に取る。

 後輩くんの手作りクッキーを。


「…………じ、自分に正直に生きなきゃ、だめだよねえ?」


 誰に言い訳するでもなく、ひとりそう言う。

 お菓子の亡霊たちが後ろで肩をすくめている気がして、少し赦された気になる。

 噂によると、すっごく美味しいらしいし。

 それにそれに、あれだけ動いたわけだから?


「に、匂いを嗅ぐくらいは、だいじょうぶ……」


 かくして、円香はタッパーを開ける。




 × × ×




「……はっ?」


 時計を見ると、十分の時が経過していた。


「えっ……えええ!?」


 記憶がない。

 気が付けば、タッパーの中は空っぽになっている。粉一つ残っていなかった。


「ぜ……全部、食べちゃったの!? わたし!?」


 やばすぎ。もしかして危険なコナとか入ってたんじゃなかろうか。


「ま、まずい……。おいしかったけど、まずいよっ!」


 クッキーをくれたときの悠より蒼白な顔で、円香は洗面所に駆けていく。

 服を全部高速でパージして、下着姿になった。

 鏡に肉体と、お菓子の亡霊の姿が浮かぶ。パフェ、クレープ、ケーキ。


『やあ……』


 それから、新入りのクッキーくん。

 彼らはそれ以上何も言わず、無言で断頭台(体重計)を指差した。


「ぜ、善行を……善行を積んだんだもんっ! 勝負っ!」


 目を瞑り、深呼吸をひとつ。

 そしてかっと目を見開き、そこに飛び乗った。


「やあっ!」


 いざ、審判の時――。


「……あ。……あああっ!?」



 鏡に映る己の顔が、変わる。



「1kg減ってるう!」



 笑顔へと。

 やったぞ。罪は簡単に償えた! 奴らからついに一本取ってやった!

 円香は思わず、ガッツポーズをする。

 それがいけなかった。がちゃりと、洗面所の扉が開く。


「あれ、円香。体重量ってるの?」

「あっ、うん……」

「それねー、お母さんが昨日の夜に踏んでから量りがおかしいの。だから――」


 剣道は、ガッツポーズをしたら一本取り消し。




「2kg、足してね♪」




 お菓子の亡霊たちが、鏡の中でぽんと自分の肩を叩く。

 そして、笑顔で言った。


『俺たちも、本気になるよ』



「……い」


 円香のブラのホックが、ぷちんと外れる。

 というかちぎれる。

 罪の重さに、堪えきれずに。



「いやぁあああぁあああ――――――――――――っ!?」



 ここに再び、幸村円香は罪の重さを知る。

 女の子はお菓子とスパイスと、素敵な脂肪なにかでできていた。



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