第19話 決戦前夜③

 その日の朝は、とてもよく晴れていた。

 雲一つない青天に、引き締まるような冷たい空気はとても澄んでいる。

 しかし、そんな心地良い天気の中で、慎也の顔色はどこか暗い。


「ふあぁ……」


 と、思わず出てしまう欠伸を噛み殺し、慎也は眉間をグッと指で押さえた。

 どうも絶好調には程遠い様子である。


「し、慎也さま。昨晩は、その、や、やはりあまり眠れなかったんですか……?」


 すると、向かい側の席に座る優月がそう尋ねた。

 昨晩の事を思いだしているのか、彼女の顔はかなり赤くなっている。


「い、いや、その、体力や霊力は間違いなく回復してるから大丈夫だよ」


 と、片手をパタパタと振り、焦りながら慎也は答える。

 慎也達は今、朝食のため、駅前近くのファミレスに来ていた。

 時刻は七時半。客もそれほど多くない。

 すでに二人は食事を終え、コーヒーを飲んで一休みしている。

 慎也は少し温めになったコーヒーに口をつけた。


(まあ、体力とかは回復したけど、なんか精神力がごっそり削られたんだよなぁ)


 と、ちらりと優月の顔を気付かれないように見やり、慎也は内心で嘆息する。

 彼の脳裏に、昨日の出来事が蘇ってきた……。



「……申し訳ありませんが、身分証をご確認させて頂けないでしょうか?」


 それが、ようやく見つけたビジネスホテルの男性店員の台詞だった。


「え、えっと、それは……」慎也が口籠る。

 この日、牛鬼の討伐を成し遂げた慎也達は早めに休むため、宿泊先を探した。

 当初の予定では宿泊には漫画喫茶でも利用するつもりだったのだが、予想以上に体力と霊力を消耗したため、きちんとベッドで休むべきだと考えたのだ。

 みすみす佐々木達に逃げられたことも、大きな疲労に繋がっていた。

 しかし、運悪く風霧市の駅周辺にはカプセルホテルなどなかった。仕方がなく慎也達はビジネスホテルの類を探したのだが、そこでの第一声がこれだった。


(し、しまった。そりゃあツッコまれるか……)


 内心で冷や汗を流す慎也。


「当ホテルでは未成年者だけの宿泊は禁じられていまして、お客さまのご年齢を確認させて頂いているのです」


 と、店員は言葉を続ける。


「え、えっと、どうしてもですか?」


 すると、優月がそう質問した。店員は営業スマイルのまま優月を見つめて。


「申し訳ありません。これは警察からの指導でもありますので」


 と、国家権力の名を口にした。


「それでは身分証を――」


「い、いえ、いいです! それじゃあ!」


 このままでは最悪、警察を呼ばれかねない。

 慎也は優月の手を引き、慌ててホテルを後にした。


「し、慎也さま……どうしましょう」


「そ、そうだな。出来れば個室で横になりたいんだけど……」


 明日のためにも、体力と霊力はしっかりと回復させておきたい。

 慎也は自分のスマートフォンに目をやった。

 この近くには、もう一つだけホテルがあったはずだ。


「よし。もう一つの所に行ってみよう。もしかしたら部屋がとれるかもしれない」


 言って、慎也達はもう一つのホテルに向かった。

 そしてその結果――。


「…………」


 アンティーク感が漂う、やけに寂れたホテルにて。

 少しガラの悪そうな、その男性店員は無言で慎也達を見つめていた。

「あ、あの……」沈黙に耐えかね、慎也が声をかけると、店員はおもむろに口を開いた。


「……見事なまでの初々しさだな」


 そう言って、店員は部屋のキーをロビーの上に投げた。


「二〇五号室が空いている。使いな」


 反射的にキーを受け取りつつ、慎也は困惑した口調で尋ねる。


「あ、あの、何も聞かないで部屋を貸してくれるんですか?」


「噂を聞いて来たんだろ。目をつぶってやるから早く行きな。ああ、それと坊主」


 と、そこで無愛想だった男性店員は、少しだけ表情を崩して、


「……頑張りな」


 何故かそんなことを告げて来た。

 意味が分からず慎也は「へ?」とポカンとしたが、店員の気が変わっても困る。


「……? まあ、いいか。優月行こう」


「あ、はい」


 ともあれ、慎也達はホテルの奥へと進んだ。

 とにかく今日は疲れた。ゆっくりと休みたかったのだ。

 部屋は二階。わざわざエレベーターを使うような階層でもない。

 古びた階段を使い、二人は二階に着いた。

 それから二人は借りた部屋を探し――あっさりと見つかる。

 慎也はドアの鍵を開ける。と、


「……え? あ、あの、慎也さま……?」


 不意に優月が小首を傾げた。


「ん? どうかしたのか? 優月」


 慎也は取っ手に手をかけたまま、隣に立つ優月を見やる。

 彼女は困惑した様子で告げた。


「え、えっと、どうして部屋が一つなのですか?」


「……え?」


 言われ、慎也はキョトンとした。

 確かにそうだ。二人いるのにどうして部屋が一つなのだろうか。

 思わず沈黙する二人。すると、そんな時だった。

 たった今、慎也達が上ってきた階段から二つの人影が現れたのだ。

 年齢は慎也達とさほど変わらない。何やら緊張した様子の少年少女である。

 二人は仲睦まじく手を繋いでおり、慎也達に気付くと一瞬だけ硬直し、ぎこちない様子で会釈してきた。そして唖然とする慎也達の横を通り抜けると、隣の部屋の鍵を開け、手を繋いだまま部屋の中へと消えていった。


「「…………………」」


 慎也と優月は、ただ黙ってその光景を見つめていた。

 そうして一分ほど立ち尽くしてから、ようやく優月の方が口を開いた。


「……し、慎也さま。あ、あの、も、もしかしてここって……」


「い、いや、え? ま、まさか、そういうことなのか!?」


 遅れて真相に辿り着いた慎也は、愕然とする。

 まさか、このホテルは――。


(ふ、普通のホテルに見せかけた『愛』の名を冠するホテルなのか!?)


 それも、察するに初々しい若者達の隠れ家的な……。


(う、うわあああ!? 俺達ってそんな風に思われたのか!?)


 少し嬉しくもあるが、それ以上に恥ずかしい。

 カアアァと慎也の顔が赤くなった。

 隣に立つ優月も状況を理解したのか、真っ赤になっていた。


「し、慎也さま、あの、ど、どうしましょう……?」


 そう優月に問われるが、慎也にもすぐには答えられない。

 考えられる対処法としては、ロビーに戻って二部屋借りること。

 しかし、それをあの店員は認めてくれるのだろうか?


(多分、あの人、そういった事情だから目をつぶってくれたんだよな)


 慎也はダラダラと冷や汗を流しながら考える。

 だとすれば、素直に二部屋貸してくれるのか怪しいものだ。

 最悪の場合、追い出される可能性だってある。


「う、う~ん……まずいよな」


 慎也は唸り、眉間に深いしわを刻んだ。

 折角ゆっくり休める場所を確保できたのに、みすみす失いたくはない。

 そもそもここ以外には近場にホテルはもうないのだ。


「し、慎也さま……どうしましょう……もう一度交渉するのはまずいような……」


 と、優月が不安そうな声を上げる。

 慎也の推測は、優月も大体察していた。

 正直、下手に交渉して失敗するのが一番困る。


「そ、そうだよな。じゃ、じゃあ、まずは一度部屋の中を見てみようか」


 慎也はとりあえずそう提案し、優月もコクコク頷く。

 そして二人は部屋の中に入ることにした。キイィと古めかしい音を立てドアが開く。

 慎也達はカチッと電気をつけると、恐る恐る部屋の中を見渡した。


「こ、こいつは……」


 思わず慎也は眉をしかめて呻く。

 部屋の中は意外とシンプルだった……と言うより、驚くほど物が少ない。

 テレビなどの娯楽道具はなく、硬そうな一人用のソファーが二つ。

 他に目立つ物といったらダブルベッドぐらいだった。ドア付近の個室はシャワールームがあるようだが、明らかに必要最低限の物しか置いていない部屋である。


「し、慎也さま……。やっぱりベッドが一つしかありません……」


 ギュッと慎也のコートの裾を掴み、優月が愕然と呟く。


「ぐ、ぐう……せめて二人用のソファーでもあれば……」


 慎也は青ざめた表情で再び呻いた。

 ベッドが一つしかないのは致命的だ。流石にここには泊まれない。

 慎也が床で寝るという選択肢もあるが、それなら漫画喫茶の方がまだマシだ。

 ここはダメ元で交渉し、無理ならば漫画喫茶に行くしかない。

 多少の疲労が残るのはこの際、仕方がないだろう。


「仕方がねえな。優月。ロビーの兄ちゃんに交渉して――」


 と、慎也が言いかけた時、


「い、いいえ。それはダメです。慎也さま」


 優月がふるふると首を横に振った。


「明日に疲労を残すのは問題です。今日はここに泊まりましょう」


 次いでそんな事を告げてくる。慎也は大きく目を見開いた。


「な、何言ってんだよ優月! この部屋にはベッドは一つしかねえんだぞ!」


「わ、分かっています! けど、あれはダブルベッドやし、ふ、二人で使っても充分な幅はあると思います! 問題ないです!」


「い、いや、そういう話じゃなくて、その、若い男女がな……」


 と、やけにおっさんくさい台詞を吐こうとする慎也だったが、


「だ、大丈夫です!」 


 その声は、優月の切羽詰まったような声にかき消されてしまった。


「だ、だって、私は慎也さまを信じています! だから大丈夫やもん!」


 そこまで言われて、慎也は愕然と後ずさった。

 想いを寄せる少女に「信じている」と断言されては言葉もない。

 すると、優月は少しだけ哀しげに眉根を寄せて――。


「その、慎也さまは、私なんかと一緒に寝るのは嫌やの……?」


 独白するように、そんな台詞まで言ってくる。


「い、いやそれは……」


 答えはもちろん決まっている。しかし、そんなこと口には出来ない。

 とにかく慎也は早鐘を打つ胸を押さえつつ、何度か深呼吸を繰り返した。

 そして、最後に大きく息を吐き――。


「わ、分かったよ。今は体力回復が最優先だよな。今日はここに泊まろう」


 結局、慎也は優月の提案を受け入れたのだった。

 ……しかし。


(ぬ、ぬおおおおお!?)


 その後はもう、慎也の精神力はどんどん削られていった。

 優月がシャワールームを使っている間はずっと石化していたし、彼女の上気した白いうなじを見た時など心臓が止まりそうになった。

 そしていざ寝る段階になった時には、般若心経を心の中で唱え続けたものだ。

 ――同じベッドの上で好きな女の子が寝ている。

 そんな状況で、平然としていられる少年はまずいないだろう。

 正直、このまま朝まで眠れないのではないかと慎也は心配していた――が、新幹線での移動や牛鬼との戦闘の疲労は思いのほか大きく、あっさりと夢の世界へと旅立った。

 だが、慎也は忘れていた。

 こんなチャンスに、シシュン神さまがご降臨されないはずもないことを。

 そうして二人の夜は更けていって……。

 翌朝。


(……ん?)


 うっすらと瞼を上げる慎也。

 胸の上に何かの重さを感じた慎也はふと目を覚まし、絶句した。


(――はあ!? ゆ、優月!?)


 昨夜の最後の記憶では、隣で寝ていたはずの優月。

 だというのに、何故か彼女は今、身体を重ねるようにして慎也の腕の中にいた。

 豊かな双丘を慎也の胸板に押しつけ、静かに寝息を立てている。


(え!? な、なんだこれ!?)


 昨日の朝の出来事をさらに過激にしたような状況に、慎也は一気に青ざめた。

 どうやら寝相を繰り返すことで、最終的にこんな体勢になったらしい。

 しかもどんな奇跡なのか、優月は慎也の首に両手まで回している。

 ――これぞまさしく、シシュン神さまの真骨頂であった。


(い、いやいや、こ、これってまずいだろ!?)


 慎也は青ざめながらも、優月を起こさないようにベッドから脱出を試みる。

 しかし、慎也の首をしっかりとロックした優月は中々離してくれない。

 その上、少し動くたびに彼女の柔らかな胸がむにゅんと形を変えて……。

 慎也は息を呑み、ただただ戦慄した。


(ぬ、ぬおお!? シ、シシュン神さま、頑張り過ぎだろ!? 少し抑えてくれ!?)


 こんな状態でもし優月が起きてしまったら、洒落にもならない。

 信頼関係は崩れるし、何よりも優月に嫌われてしまう。

 ラッキースケベ実施中でありながら、表情がどんどん険しくなる慎也。

 本気でこういった状況に慣れていないのだ。


(く、くそッ!)


 そして少年は死力を尽くし、どうにか脱出に成功した。


「よ、よし! や、やったぞ……」


 ハアハア、と床の上で両手をつく慎也。

 と、その時、優月が「……ん」と小さな息をもらした。

 そして瞳をゆっくりと開けると、上半身をむくりと起こして、


「……あっ、慎也さま。おはようございます」


 少し寝ぼけた表情で笑みを浮かべ、そう告げた。

 慎也はぎこちない動きで顔だけを優月の方に向け、


「あ、ああ、おはよう。優月」


 際どかったが今回の危機は脱したようだ。

 こうして、二人は今日の朝を迎えたのである。


(……あれは本当に笑えねえよ。シシュン神さま、俺にラッキースケベは荷が重すぎます。本気でもう勘弁して下さい)


 ファミレスでコーヒーを最後まで飲み干し、慎也は嘆息する。

 ともあれ、休息だけは充分取れた。

 おかげで体力、霊力ともに万全の状態である。

 昨日の一悶着も無意味ではなかったということだ。


(……よし)


 慎也は真剣な眼差しで向かい側に座る優月を見つめた。

 彼女も慎也の視線に気付き、見つめ返してくる。


「優月」


 慎也がぼそりと彼女の名を呼ぶ。


「予定通り今日決行しよう」


 その言葉を予想していた優月は、こくんと頷いた。

 しかし、少しだけ間を開け、神妙な声で呟く。


「……いよいよなんですね」


 彼女の表情はとても複雑なものだった。やはり身内と争うのは躊躇いがあるのだろう。

 だが、もう迷ってもいられない。


「ああ、いよいよだ。これから向かおうぜ」


 慎也は静かに頷き、はっきりとこう告げる。


「雪塚家が管理する――《大妖》の《繭》の所へ」

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