幕間一 揺るぎない心
第10話 揺るぎない心
冷たい雨が激しく降り注ぐ。
そこは、雪塚邸にある広い和室。現在、数人の人間がその場にいるのだが、全員がずっと沈黙していた。誰ひとり口を開こうとしない。
室内は今、張り詰めた静寂に包まれていた。
「……これが、彰人なんか?」
その時、ぽつりと一人の男が初めて口を開いた。
年齢は恐らく五十代だろうか。少しばかり白髪が目立つ髪を持ち、筋肉隆々な体躯と、熊のような髭が印象的な威厳漂う男だ。
落ち着いた雰囲気を持つ煉瓦色の和装が、彼の存在感により深みを与えていた。
雪塚蔵人。雪塚組の組長である人物だ。
彼の視線の先には、和室の中央に置かれた寝袋があった。
「…………」
蔵人は静かに双眸を眼前の黒い寝袋を見やる。これは、雪塚家が使用する戦死者の遺体を回収するための袋だった。
そして今、この袋の中には蔵人の義弟であり、学生時代からの親友である華村彰人の遺体が入っている――はずなのだが、
「……なんでこんなに小さいねん……」
袋は明らかにヘコんでいる。とても人一人が入っているとは思えない大きさだ。
蔵人は、静かに歯を軋ませる。
同時にその場にいる組員の何人かが、堪え切れず嗚咽を上げ始めた。
「……華村の叔父貴は、子供を庇って……」
と、その場に居合わせた組員の一人が告げるが、蔵人の耳には届かない。
蔵人は静かに袋の前まで進むと膝をつき、ジッパーを開けた。
そして、あまりにも欠けてしまったその姿に愕然と目を見開き、
「………彰人」
親友の名を呼ぶ。
力ない組長の声に、組員達は思わず目を伏せた。
「……
すると、若頭である篠崎が、おもむろに進み出て来た。
彼もまた苦悶の表情を浮かべていたが、それでも右腕として組長に問う。
「叔父貴のことを、優月お嬢さんには……」
「……優月には彰人は死んだとだけ伝えとけ。優月は彰人にようなついとった。彰人のこんな姿はとても見せられへんわ」
と、蔵人は力なくそう告げた。
それから、ドスンとその場に腰を降ろし、
「……篠崎。皆もすまんが、しばらく儂と彰人だけにしてくれへんか」
「………分かりました」
そう言って、篠崎は蔵人と彰人の遺体に一礼して退室していった。
他の組員達も篠崎に倣って後に続く。
広い和室には、蔵人と彰人だけが残された。
そして――。
「……のう。彰人よ」
グッと拳を握りしめ、蔵人は親友に語りかける。
「何しとんねん。なんでお前まであっさり逝っとんねん」
ポツポツ、と。
蔵人の拳の上に滴が零れ落ちる。
「……彰人よ。なんでお前まで死ななあかんねん」
外の雨は、さらにきつくなる。
蔵人の声は、雨音の前にかき消された。
そして時は流れて――……。
時刻は午後十一時。
蔵人は、静かに胡坐をかいていた。
「…………」
カコーン、と猪脅しの音が聞こえてくる。
そこは雪塚邸の一室。質素かつ、どこか清廉な雰囲気を持つ和室だ。
目の前には、位牌が置かれた仏壇がある。
蔵人はその仏壇の前で何も語らず座っていた。
手を合わせるのでもなく、線香を上げる訳でもない。
あえて言うなら、友人と酒を酌み交わすために座っているといった趣だった。
事実、畳の上には盆に乗せた日本酒の瓶。手には酒の注がれたグラスを持っている。
そして蔵人がそれをグイ、と一口含んだ時、
「……失礼しやす。
不意に襖の向こうから声をかけられた。
「……なんじゃい」
重苦しい声で、蔵人は襖の向こうに尋ねる。
すると、襖の向こう側で誰が緊張する雰囲気が伝わってきた。
「そ、その、先程若頭から連絡がありました」
衾を開けずに相手は言う。蔵人はすうっと目を細めた。
手に持ったグラスを盆の上にコツンと置く。
「ほう。なら、優月は無事保護できたっちゅうことか?」
「い、いえ、その、若頭にはどうも考えがあるらしく、報告のため、今から一旦戻って来るという話でした」
と、怯えた様子で襖の向こうの人間が告げてくる。
一向に衾を開けないのは、蔵人があまりにも怖ろしいからだろう。
「……なんやと?」
蔵人は眉をしかめるとおもむろに立ち上がり、バシンッと勢いよく衾を開けた。
衾の向こうにいた青年は思わず目を見開き、尻もちをつく。
「どういうことじゃい。優月はどうなったんじゃ」
蔵人は腕を組み、鬼の形相で青年を睨みつける。当然、青年は青ざめた。
「そ、それが、保護はまだらしく、何でも玖珂山の顔を立てたとか……」
「なに? 玖珂山やと?」
蔵人は表情を少し軟化させて呟く。
「玖珂山っちゅうと、智則の奴か。そうか……。わざわざ優月が藤真市まで行ったんはやっぱそういうことやったんかい」
そして蔵人はおもむろにあごに手をやった。
「智則が邪魔したっちゅうことか。そんならいくら篠崎でも荷が重いな。で、智則の奴は何か言うとったんか?」
と、未だ尻もちをつく青年に尋ねると、
「え……あっ、その、若頭の話では、その玖珂山って奴は今回不干渉を約束したそうっす。若頭はそれもあって今回は退いたそうで……」
「……ほう。智則の奴め。どうやら『西』のメンツを立てたようやの」
一度限りといえど、かつて死力を尽くした相手だ。その性格はよく理解している。
「ならしゃあない。詳細は篠崎から聞くことにする。もう下がってええぞ」
「へ、へい……」
そう返答し、青年はそそくさと長い渡り廊下を逃げるように去って行った。
蔵人は衾を閉めると、再び座布団の上に座り、胡坐をかいた。
「智則が不干渉を決めたか。それは僥倖やな」
と、呟く。
玖珂山智則。出来ればもう一度仕合たいとは思うが、今はその時ではない。
「まあ、これも想定の範囲内か。あいつは火付きが悪いからのう。あの時のように自分の女でも賭かっとらん限り相手を配慮するのは当然やな」
ともあれ玖珂山智則の方は、今は忘れてもいいだろう。
問題は優月の方だ。
普段は聞きわけのいい娘なのだが、やはり今回ばかりは……。
「優月よ。はよ戻って来い。儂の計画にはお前が必要なんやぞ」
そう呟き、蔵人は眼前の仏壇をじいっと見つめた。
仏壇も位牌も何も答えない。
しばしの沈黙。猪脅しの音だけが時折響いた。
そして数秒後、ようやく蔵人はそこに眠る義弟に笑みを見せた。
「……安心せえ、彰人。何があろうと儂は挫けん。必ず成し遂げて見せるわ」
決して揺るがない、断固たる決意。
その声には、そんな強い意志が込められていた。
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