幕間二 守りたかったもの

第23話 守りたかったもの

 それは、まるで月が優しく微笑むように輝いていた夜のことだった。


「う、うおおお……」


 とある大きな病院の一室にて。

 紺色の甚平を着た若き日の蔵人は、大きな身体を震わせて息を呑んだ。


「め、めっさ小っさいのう。あかん、手が震えてきたわ」


 蔵人の両手には今、生まれたばかりの赤ん坊がいた。


「あらあら、蔵人ったら……」


 そんな不器用すぎる蔵人の様子に、リクライニング式のベッドの上にて座る女性が、口元を押さえてクスクスと笑う。

 歳の頃は二十代後半。艶やかな黒髪が印象的な、温和な顔立ちの美しい女性だ。

 雪塚奏。赤ん坊の母であり、蔵人の愛する妻だった。


「ははっ、おい蔵人。そんなにビビんなよ。情けねえな」


 と、呆れた口調で告げてくるのは、蔵人の隣に並んで立つ義弟の華村彰人だ。

 歳は奏の一つ下。精悍な顔立ちの青年である。スーツ姿の彰人はボリボリと頭をかき、義兄の醜態に苦笑を零していた。


「なんやと?」蔵人はギロリと親友でもある義弟を睨みつけた。


「ならお前も抱いてみんかい。ほれ」


 言って、腕の中の赤ん坊――優月を差し出した。

 すると彰人はみるみると顔色を青ざめさせて両手を振った。


「ま、待て! 無理だ! 首もすわってねえんだろ! おっかねえよ!」


「おいおい、なんや。お前こそビビっとるやんけ」


 蔵人はがははっと笑った。

 夫につられるように、奏も口元を綻ばせて笑う。


「ふふふっ、彰人は昔からここぞという時にだらしないのよ。そんなんじゃあ、いつまでたっても結婚できないわよ」


「うっせえよ。姉貴だって俺が蔵人を紹介しなかったら今だって独身だったさ」


 そう言って彰人は肩をすくめた。


「なにしろ華村家の長女といったら通称『鬼姫』――」


 が、そこで言葉を止める。

 こちらを睨みつける姉の顔を見てしまったからだ。


「ふふ、蔵人の前で私の黒歴史をそれ以上言ったらぶち殺すわよ。彰人」


「お、おう……」姉の迫力の前に、思わず押し黙る彰人だった。

 蔵人は優月をあやしながら苦笑する。


「相変わらず奏には頭が上がらんのやな。彰人は」


 親友にそんなことを言われ、彰人はポリポリと頬をかいた。


「言うなよ蔵人。それより頼むぜ。優月は姉貴みたいなエセ清楚じゃなくて、ちゃんとした本物に育ててくれよな」


「……誰がエセ清楚よ。本当に殺されたいのかしら」


 ベッドに座ったままの奏の額に青筋が浮かぶ。彰人は盛大に視線を逸らした。

 そんな姉弟の姿に、蔵人は再び苦笑を浮かべた。


「まあ、奏がエセかどうかはともかくのう。言われんでも優月は大切に育てるで。嫁になんぞ絶対に出さんわ。なぁ優月」


 言って、娘の額に軽く口づけする蔵人。

 髭が当たって痛かったのか、優月は少し顔をしかめた。


「ははっ、まさに娘を持つ父親の定番の台詞だな」


 そんな親バカ全開の蔵人に、彰人は呆れ果てた様子でかぶりを振った。

 それから、ふとあごに手をやり、


「けどよ、だったら雪塚家の跡継ぎはどうすんだよ?」


 何となくそう尋ねる彰人。すると、蔵人は「ふん」と鼻を鳴らして答えた。


「大丈夫や。なにしろ次は男の子やからな。のう奏。一緒に頑張ろうや」


「く、蔵人っ! 彰人や優月の前で、も、もう……」


 言って、わずかに頬を染める奏。

 それを見て、彰人は何とも気恥ずかしそうな笑みを浮かべた。


「やれやれ。姉貴と蔵人ってホント仲が良いよな。……ああ、俺も嫁さんが欲しい」


 と、最後には本音も漏れた。


「がははっ! まあ、お前も頑張れや彰人」


 蔵人はそう言うと、優月を抱え上げた。

 大人しい愛娘は泣き声も上げず、すやすやと眠っている。

 蔵人は目を優しげに細めて呟いた。


「優月。お前は儂の宝物や。誰にもお前を傷つけさせんぞ」


 それは、蔵人の誓いだった。

 優月が生まれた夜に掲げた誓い。

 十五年近く経った、今でも変わらない大切な誓いだった。


「のう優月よ」


 そう語りかけ、蔵人は目尻をさらに下げる。


「お前には幸せが待っとるんやで。儂は何があってもお前を絶対に守り通すからな」


 そして、優しげに見つめる奏と彰人の傍らで――。

 蔵人は生まれたばかりの娘を愛しそうに抱いて笑うのだった。

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