逃亡
自立のできない足と鉄枷を引きずり、残された両腕で地を這って、エゴは窓に張り付き景色を展望していた。全方向において絶景の望めるはずの幽閉塔の窓外は、西方の地平線が緋色に猛り、薄雲の散る鮮やかな濃紺の夜空とまじわって、残酷であるはずのそれは美麗なものに映っている。
遠方の惨状に、エゴは自身のしでかした過ちの重大さを痛感する。
ビザールレディ、女神セシアの媒体。唯一神と謳われるそれは既にエゴの手によって完成され、最前線へと投下された。中古品や粗悪品の合成からなるとして、もとより人並外れた存在であり、膂力に優れた殺戮兵器のビザールレディ。素材から厳選され、内臓や眼球の一つに至るまでが逸品からなり、量産型の技量を遥かに上回るセシア。
まず、人間が太刀打ちできるとは思われない。蹂躙し尽くして誰もが死んだ後ならば、奴は止まるだろう。それまで立ち塞がることの人間が居るものかという、その絶望感がエゴの全身を支配していた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
天窓から差す月光の下、自戒のように謝罪の言葉を連ねる。戦火に劣らぬ紅の瞳が、あふれる程の涙で揺らいでいた。
ドロテアは、滅亡することだろう。
そうなればきっと、逃げ込んだステラも、明るい未来を迎えることはできない。
見ず知らずの誰かが無残に死に絶えることより、エゴは薄情にも知人を憂いていた。
一瞬、幽閉塔が鳴動する。衝撃音と共に天窓が割れ、細かな欠片がエゴに降り注いでその服を裂く。月明かりを遮り、人影が内部に侵入する。咄嗟に付近の破片をひったくり、平手に血を滲ませてエゴは身構えた。
「誰だ」
「ども〜、そんなに殺気立たないで欲しいス。助けに来たんスよ?お嬢ちゃん」
「救援要請!幽閉塔にて侵入者確認。至急応援を!」
戦場へ赴くべく、ヘレンは高層の建築物の屋根上にて西方に目を向けていた。窓外、青眼へ遠目に映る戦場は、放たれた業火によって真紅に染め上げられている。
その様に満足気な笑みを浮かべるヘレンの通信機が、耳元で音を鳴らす。歳若い男の声が、電波越しに焦ったような声で言った。
「可及的速やかに向かう。持ちこたえろ」
舌打ちと共に屋舎の上から飛び降りる。二本足で接地しようとも、何の苦も痛みもないような顔をして、ヘレンは塔へと駆けた。増援を呼ぶこと無く単一で昇降機に乗り、開いた扉から部屋に駆け込む。
すると其処はもぬけの殻。全面の窓が割れ、吹き抜けとなった室内を風が荒らす。しかし争ったような形跡は無い。訝しげに思ったヘレンは通信機の電源を付け、外部の観測所へ連絡をはかった。
「魔女、敵影ともに幽閉塔から消失。周辺の観測を急務として──」
「敵影?ヘレン様、一体何の話をなさってるのでしょうか」
早口に指令を出すヘレンの急く声を遮って、接続された観測者は困惑したような声音で言った。
ふと、ヘレンは考える。魔女の世話や警護は、本人の要望で女性聖職者に限られているはず。それならば何故、あの通信越しに聞こえた声は男の者だったのだろうか。
「あの醜女、謀ったな!」
瞬間、意図を理解する。幽閉塔の管理に男は関わらない。であればあの男声は、外部の人間による虚偽の要請。一時的とはいえ、ヘレンの意識を魔女に向け、幽閉塔へ括るための陽動であり時間稼ぎと考えるのが妥当。
「魔女が逃亡しした!見つけて足の骨を砕いてやれ、二度と地に足をつけさせるな!」
謀られたことを悟り、ヘレンは通信口に怒号を投げて機器を地面に叩きつけた。衝撃で破損するそれを、怒り任せに踏みつける。何もかも上手く立ち行かない憤りに青筋を立てて、荒い息を吐き出した。
ふとヘレンは、風を孕んでたなびくカーテンの外に目をやる。外窓すら無くなった空白の向こう側、西方の彼方。マダスティアの壁を越えた先の、数十キロからなる最前線の平原を走り抜ければ、ドロテアの国境兼防壁に辿り着く。
既にセシアは、ヘレンの手によって戦場へと放たれている。ビザールレディとしての走狗を持ってすれば、既に最前線へ到達しているとみてもおかしくは無いはず。
それに対するヘレンの助力への妨害が行われた。幽閉塔へ誘導すれば、彼女が此度の戦線へ参戦することは無いと考えられたのだろうか。
「節操の無い尻軽女が」
知らずのうちにどこぞの男と様々な意味で繋がっていたと思われる魔女への憤怒、聖職者であるヘレンの覚悟と技量に対する甘い見積もりへの憤慨。
苛立ちで罵倒を吐きながら、ヘレンは割れ窓に手をかけて、幽閉塔の最上階から飛び降りた。
防壁部の光景は、目も当てられない惨状だった。
国防を担う拠点の、数棟からなるプレハブ平屋の屋舎は焼け焦げ、骨組みが剥き出しのままチリチリと未だ火花を散らしている。隣接する医療専用の母屋は、原型も無いほどに潰れて轟々と音を立てて燃え上がっていた。
それらの火元は火を見るより明らか。堂舎が連なる隅の建付けの悪い木造の倉庫。老化した蔵が爆ぜて周囲に焔を散らしている。
内部に仕舞いこまれて埃を被っていた火薬の数々に、ついに引火したのである。
火の海と化した一帯に、人影は見つからなかった。否、誰かの姿は目視される。瓦礫の下に埋まった焼死体、爆風に煽られて骨組みの上に放られた上半身。そこら中に散らばった何十何百人もの遺骸は、足の踏み場すら失われるほどに壌土を埋め尽くす。
地下牢にて作戦行動を練ったグレイは、それから数刻もしないうちに防壁付近に到着していた。ステラが企てた、オーガストの全能性を信用した上での最短ルート──軒並みの建築物上を人外の速度で走るという、端的だが最適解の行動からなる現状。
防衛施設は既に壊滅状態にあり、生存者の確認も見込めない。各地を跋扈するビザールレディはグレイを視認後、死肉上を走ってグレイへと飛びかかる。
「うぅゥゥエェぇぇェイぃぃィィ」
ふと、奴らの居た足元を見た。
死に絶えたピッチの頭蓋を踏みつけにして、傀儡は何故か、その肉塊を喰らっていた。
「クソ野郎が!」
懐に忍ばせてあったダガーナイフを握って、グレイは腰を落として迎撃体制を取る。迫りくる仇敵は愚直にもグレイへと一心に、死骸の道を踏み荒らして駆けてきた。
脳髄を狙って伸ばされる両腕を切り落とすべく、刃物の柄を握って構える。素早い走力で、傀儡はグレイの眼前に接近した。
その肉体の顔面は。
「……マグ?」
死した旧友の、穏やかな笑みを浮かべた顔。生前はあまり見せることのなかった柔和な表情。しかし何処か強張ったようなそれは、かつてのマグそのもので。
思わずグレイは警戒を緩めた。
その頭部に、平手が差し迫る。
硝煙の中。ぐちゃりという音が、やけに目立ったように鳴った。
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