ビザールレディ

こましろますく

第一部 青と赤の国

一章 夢は覚めるから儚く

悪態

 幾ら壮絶な死に方をしても、死肉が欠片も残らなくても、人は死んだら全てから解放されると思っている。

 俺はそういう人間だ。


 酷く醜悪な悪夢を見た。詳細な内容までは記憶から既に薄れ、泡沫に潰えてしまったものだけれども。厭悪し殺意を抱いている相手が大層ご立派な態度で高笑いをしながら薄闇へ遠のいていくのが、その夢の終幕であり意識の覚醒の合図だった。

 男の睡眠を妨害したのは目覚まし時計の雑音。古ぼけて壊れる寸前のそれがけたたましく粗雑な音を鳴らす中、男は寝ぼけ眼を擦り寝台から身を起こした。もう二度とこんな夢は御免だと、既に儚く亡失したそれに思う。

 欠伸を一つ溢して体躯にまとわりつく布団を乱雑に剥ぐと、思わず大きく身震いをした。昨日はやけに蒸す夜であったため、眠りかけて朦朧とした意識のまま下着を脱ぎ捨て、上裸になったことを失念していた。周囲の何処にも衣服が見当たらないために冷えに鳥肌を立たせながら、二段式寝台の上段から飛び降りて、着の身着のまま──半分着ていないが、男は千鳥足で洗面所へと向かった。

 顔が映る程度の陳腐な鏡の前。蛇口を捻れば冷たく透明な流水が洗面台で弾けて男の肌を濡らした。男はその液体を乱雑に両手で掬うと荒々しく自身の顔にかける。髪から雫が滴って顔にまとわりつくのが鬱陶しい。厄介な睡魔もまだ僅かに残存しており、再度顔を濡らそうと目を閉じると後方から声がかかった。

「おいグレイ、洗面所を独占するのはやめてくれ。俺も眠気を飛ばしたいんだよ、このまま立ったまま寝てやろうか?」

「すまねぇ、寝ぼけてた。そのまま寝んのは勘弁してくれ」

 気怠そうな欠伸混じりな声をかけられて、男は──グレイは降参するように両手をあげながら、寝台のもとへと戻った。先程まで閉じられていた遮光カーテンが開け放たれ、むさ苦しく汗臭い部屋に薄明かりが入り込む。

 固い木材質な床に散乱した塵紙、隅には埃を被った箒が放置されている雑然とした部屋。男三人の汗と涙が染み込んだむさ苦しい室内のカビの臭いは、グレイの鼻に馴染んで最早あたりまえの代物になっている。

 僅かに黄ばんだ内壁面に打ちっぱなしの陳腐な鉄製突起にかけられた、老竹や萌葱の混ざった迷彩の野戦服を引っ手繰るようにとると、グレイは熟れた手付きでそれに袖を通しながら、同室の仲間達と共に部屋から飛び出した。狭い屋舎の廊下を抜けて屋外へと出れば、堂舎の合間に集った雑踏が各々の得物を抱えて乱雑に並んでいるのが見えて、グレイを含めた三人はその最後列で横並びになる。

「そういえば今日、朝起きたら俺の顔の上に桃色のパンツあったんだけど。どっちのだよあれ」

 兵士の習い性か、話しかけている相手を一瞥しようともせずに背筋を伸ばし、前方に視線を注ぎながら同室の仲間であるピッチが右方から言った。

「グレイ、お前か?」

「は?俺じゃねぇよ、どうせお前だろマグ」

「……そんなものは知らない」

 左隣に陣取る巨体の大男を見上げる。こちらも普段からの癖か、右見左見して会話をつなげるグレイにひと目もくれることなく、やけに小さな声で返答した。

「おいピッチ、犯人直ぐそこにいんぞ」

「マグ、今日こそ帰ったら部屋の掃除しろよ。折角の三人部屋がお前の占領地だ」

 通常は四人一組の寝室だが、隊に所属している人数の関係から、グレイ達はその差異で三人一部屋となっている。二組ある二段式寝台のうち、片方にはグレイとピッチ。そしてもう片方は巨漢であることを言い訳にしたマグが上段を使用し、下段には畳んでいない衣服や読みかけでページをあけたままの教本や論文が散乱している現状。

「大体おまえは──」

 お小言を垂れ流し始めたピッチの声を遮ったのは。

 ィィィイイインヴィィィィィイイイン

 職務の開始を示すものであり、敵の接近を告げる危険勧告であるサイレンが、空気と鼓膜と老化したプレハブ家屋を震わせて轟き渡る。毎日聞くはずの代物だが、何かを急くような爆音のそれに兵士達は総毛立たせて身構えた。

 並び立つ軍前に聳える見上げるほどの防壁に備え付けられた関門が、戸を押し開かれるに連れてその合間から朝日を漏らし始める。先程まで団欒を交わしていた銘々も、その緩んだ顔つきを精悍に改め、開きゆく扉を一心に見つめた。

 向かう先は、戦場。理不尽と怨恨が跋扈し射千玉の弾丸飛び交う硝煙の中、一方的な蹂躙に無駄な藻掻きと抗いを繰り広げて殺されるだけの、屍山血河の地獄の景色。


 広大な土地を二本足で踏みしめて、グレイは急くように疼いていた高揚感を嘆息で抑え込んだ。照らす光明をグレイの髪が吸い、濡鴉色がなお一層艶やかに、穏やかな水面のように風に揺らぐ。彩度の高い青の虹彩に囲われた瞳孔が僅かに開きながら見つめる先には、幾多の影がうごめいていた。

 国境を越えた先、明け行く空の向こうから、人型の軍勢が轟音鳴らして押し迫る。丘陵地帯の上部。緩やかに横へ広がるその小さな山地の奥から、数百数千はくだらない、人間の形をした影が歩み寄る。逆光に照らされ、さらに遠目からであるために容貌こそ判別がつかないが、そのどれもが着の身着のまま──いわばその身一つで戦場に勇んで訪れていた。

 遠方から見るに人間と遜色の無い歩行速度、歩幅でそぞろ歩いていた奴らは、兵士の何十何百かが防壁から流水のように溢れ出たところで、ぴたりとその動きを制止させた。

 訪れる静寂。草本が風に凪ぐ葉音や小石を踏みつけた音、誰かが生唾を呑むそれですらやけに明瞭に聞こえる。戦場に立ち、敵国の側に居る人型の軍隊と対峙する兵士。その誰もが今、過去最大と思わしき程に自身の肉体、生きる糧である心臓と血液の流れを強く感じ、脈打つ心臓の鼓動で周囲の音も掻き消えるほどに緊迫感を覚えている。

 ふぅ。誰かが一つ、嘆息を溢した。それに反応して、前方で蠢く人型共が、ぴくりと肩を震わせたように見えた。

「総員、構え!」

「あァ、エェぇンイィぃん、オおえぇェェ!」

 人間の声ならざる声が耳を劈く悲鳴のように響き渡り、直後、大震が起こる。否。それは大地の鳴動と聞き違う程の、大群の足音である。高丘を跋扈していた人型は、街路を征く走行車にも勝るほどのその走力を持ってして、壌土の表面を抉り蹴って加速。共鳴や号哭や慟哭まがいの金切り声をあげて、およそ人間と呼ぶに相応しくない様相で軍へと向かってくるのだった。

「放て!!」

 怒号のような指揮の声が何処かから叫ぶように聞こえた。轟音に掻き消えてしまいそうな程の僅かなそれを頼りに、兵等は一斉に手榴弾のピンを抜く。そして投擲。特殊改造の施されたそれは、長い飛距離で放物線を描いて落下。戦場の各地で爆風が巻き起こり、グレイは一瞬自身の体が浮かぶような感覚さえも覚えた。

 『マダスティアから来た』人間軍隊──否、それはもはや人間と呼ぶことすら、人間に対する侮辱に等しいだろう。奴らは、人型である。人間の形を模しただけの、人間の体躯をした、およそ人間と呼ぶに値しない存在である。

『マダスティア国が有し、操縦する生物兵器』

 誰かがそれを【ビザールレディ】と呼んだ。

 奴らには確かに頭髪顔面、首に胴体四肢が付属している。しかしそれは全て、『糸で縫い付けられた別々の誰かの肉体』のように思われた。間近で誰かがそれを確認した事があるわけでは無い故に、最大でも数メートル離れた位置から奴らの攻撃を躱しつつ、ようやっと視認できた情報から導き出された答えがそれ。

 ある者は落ち窪んだ眼窩に焦点の定まらない目を入れ、またある者は華奢な体躯から筋肉質な両腕を生やし。衣服も履物もまとわずに素肌──よもや素肌と呼ぶかも不明だが──を晒して戦場を這い、駆け、転がり、殺戮を行う傀儡の兵士達。

 過去、昇給と功績と国のためにという名目の下、ビザールレディの肉体構造を確かめに突撃した人間が一人居た。皆の前で両足を根本から引きちぎられ、鮮血と腸を撒き散らしながら出血死した。

「ぎ、ぃぃぃぃだいいだいいだい!!」

 雑音混じりな戦場の中で誰かの悲鳴が聞こえた気がして、グレイはその方角を見た。硝煙で霞む視界の中、顔見知りの片足が吹き飛ぶのが見えて、思わず苦虫を噛み潰したような顔をする。

 ビザールレディに接近されてはいけない。万が一接触しようものなら確実に死んでしまうという所以からの、ドロテア兵士の掟である。奴らは膂力に優れており、人間の腕は小枝と同義であるとみても過言ではないだろう。

 何度殺して撃退しても、日が昇れば再び襲来する傀儡の敵。それに比べてドロテアの防壁にあたる兵士は、殺害されたり四肢をもがれると、ビザールレディに引きずられて何処かに連れ去られてしまう。その行き先は不明。死んだ兵士の死体が見つからないまま、墓標だけ残した墓が乱立するのが現状である。

 故にこの戦争は、奴らによる蹂躙。

 一応対抗策はある。基本的に遠距離及び中距離戦を心がけ奴らの弱点を狙うこと。ビザールレディの弱点とは、その脳味噌。どういう原理でかは不明だが、脳味噌が大破した個体は活動を止めることが目撃されている。

 ドロテアは、その脳漿を拝むことのみを目的として戦闘を行ってきた。脳を弾けさせることのみに特化した戦術を練ってきた究極が現在の戦法。即座に投擲し次弾を用意できる手榴弾が、他の何よりも抗える策なのだった。捨て身特攻と呼ぶに相応しい、人間を銃弾と同じく数える戦闘方法である。

 ぐぢゅり。

 何かを踏みつけ足をとられたグレイに、成人男性のような様相をしたビザールレディが嬉々として腕を振り下ろす。頭部を狙って広げられたその両腕の先で苦悶の表情を浮かべながら、グレイは地を離れた片足を咄嗟に蹴り上げた。

「アァぁァ、ぃあいぃイィィ」

 接触の衝撃で尻餅をついた後、足払い。人間と似て非なる悲鳴をあげながら転倒するビザールレディを見つつ、咄嗟に後方へ跳躍して数メートルの距離をとった。先程放った蹴りが直撃した奴の左肘が、鈍い音とともに曲折しないはずの方向へと歪に変形する。

 脆い。縫合されて形骸を成す傀儡共にとって、その接合部位が格段に弱い急所なのだろう。勿論奴らの片腕がひしゃげようと、両足が千切れて零れ落ちようと、皮膚が焼け爛れ剥がれようと、残った下肢で駆け回り健在な腕で地を這いずって、抉れた肌で走狗となるわけではあるが、時間と距離を稼ぐ効果は抜群。

 しかし矢張り、狙うは頭蓋の破壊ただ一つ。野戦服の懐に備えておいた細身のナイフを取り出すと、グレイは未だ悶え転がる傀儡の逆腕部に狙いを定めようと腰を低く落とす。深く足を踏み込み、距離を詰めようとした──その動作を妨害したのは、他ならぬ味方だった。

「おい、さっさとあそこ投げろ!穴場だぞ!」

「まだ仲間が居るだろうが!」

「関係無えだろ、そんなことより奴らの数を減らすのが先だ!」

「減らねぇだろ!どうせ明日にはまた増えんだから、今居る仲間守ったほうがいいに決まってる!」

 逃げ腰になって鬱々とした背、泣き叫び怖気づく姿すら、死した兵と比べてしまえば雄々しく見える。仲間割れによる喧騒や狂乱に落ちた者の自暴自棄の単身特攻は、この戦場ではいわば当たり前の光景だった。

 簡単な話、作戦行動も何も無いからである。兵士達に力が無いのは当たり前だ。近接戦を行うことが無いため訓練の必要性は無いとされた。統率も何もあった話ではない。ただ手榴弾を投げて敵軍を壊滅させ、ビザールレディの膂力から半日逃げ延びる。その日暮しと呼んでも過言では無いだろう。

──昔は、違った。選りすぐりの優れた人材が集ってビザールレディと相対していた。

 その誰もが死んだ。その腐った屍の上に、腐った今がある。


 やがて、西日が傾いた。炎天と熱意に霞みはじめていた視界が、踵を返し東方のマダスティアへと駆け出した傀儡を映した時、兵達はようやく本日の任務が終了することを察知した。

 グレイは、額の脂汗を拭って皆の様子を伺うかのように周囲を見渡した。深く嘆息をする者、同室の仲間を探索して右見左見する者、死した同士を嘆いて握り拳を打ち付け号哭する者。しかしその誰もが、自身が今日を生き延びたことに等しく安堵をしているようだった。

 真紅に染まる戦場に、死者の遺体は一つ足りとも転がっては居なかった。目視できたのは、千切れた腕部や誰かの捩れた四肢のみで。ひと目で重症状態とわかり、緊急の治療が必要となるような様相をした兵士も居なかった。

『戦績報告 死者、並びに重傷者ゼロ名』

『行方不明者 二十四名』

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