上官
風そよぐ夜も暮れ、田舎である防壁付近の拠点を包む射千玉の大空は、天満月と溢れんばかりの星屑に覆われた。それは、兵士達にとって束の間の平穏となる。
ビザールレディがドロテアへ侵攻を行うのは、太陽が昇っている間のみであるからだ。マダスティアとの大戦が行われたこの数年で夜間の特攻が行われた試しは無い。空気も凍てつく冬場の夕刻、とうの昔に西日も降った戦場にて退避行動をとっていなかった傀儡が、行動停止をしたとの情報もあがっている。
確証を得るために、ビザールレディを厳重に拘束した上で特別な機関へ輸送し、肉体の解剖をすればよいという意見も勿論ありはした。しかし明朝が訪れた時点で拘束具が破壊され、周辺区域で殺戮を行われる可能性が高いとみて断念された。故に兵士達にとっては星月夜の下が何よりも安心して過ごせる時間なのだった。翌日への不安感による不眠は除くとして、必要な睡眠を摂取することに弊害は無いと言えるだろう。
夜間に死者──戦績上では行方不明者として扱われている──を悼むのは、当人と親しかった者のみ。
会話を交えたことが無くとも顔は見知った誰かが死ぬのは、非日常の項目からは外れ至極当然のことに成り代わっている。人の死を悔やみ悲嘆に暮れ慟哭する暇があるならば、明日の我が身の心配をするというのが現状の実体。惜しむらくは、戦場において行方知れずとなった者の遺体を弔うことはできても埋葬することはできないという点だろう。ドロテア郊外の広大な敷地を有する半人工的な花園には、石材質な墓標のみの簡易な墓が乱立している。
いつか朽ち果てて判別も不可能になった遺骸が見つかろうと、死者が混在した骸の山が積み上がろうと、数多の英霊達を迎えるために。死した者の名を、忘れないために。
小鳥の囀る声と共に訪れた清々しい起床は何故かグレイの胸に相対して暗澹とした思いを抱かせた。心地の良い朝の陽気が、開け放しの窓から頬を撫でる。遮光カーテンが踊る様を横目に寝台から飛び降りる朝の定例。平常と何一つ変化無いはず。しかしグレイの心には何か鉤爪のような鋭利で粗悪で邪魔な物が引っかかっているようだ。死者に対する弔いの念に追われているわけではない。寧ろそのような安易な同情心は捨てきったつもりですら居る。
平穏無事な、陽光照らす柔和な朝の景色。故に今日日何か新たな障壁が頭をもたげるのでは、隔壁が道を妨げるのではと悪い予感が募る。嵐の前の静けさとはよく言ったものだ。
それでも任務放棄を行うわけにはいかず、普段通り乱雑に野戦服の袖へ手を通す。思えばあの苛烈な戦場の中で野戦服一枚というのも、着の身着のままと変わらないような気がした。
「二人とも、今夜は少し呑まないか。あくまでも明日の任務に差し支えのない範囲でだが。いい酒を貰ったんだ」
不貞腐れたような表情を浮かべながら更衣を行っていたグレイと、未だ寝ぼけ眼を擦りながら寝台に腰を掛けたままのピッチに、既に着替え終わり仁王立ちで二人を見下ろしていたマグが平坦な声をかける。
「お前が俺達を誘うなんて珍しいなマグ。ちなみに何の酒だ?」
「葡萄酒だ。年代物のな」
心底驚愕したような顔をして目を見開いたピッチが問えば、マグは変わらず起伏の無い声を出す。抑揚がないかわりに深みのある低音は彼の特徴であり、決して会話が楽しくないというわけではない。それにグレイは、着替えながら一瞥した彼の仏頂面の口角が僅かにあがっているのを目視していた。表情にも声にも微塵も変化は生じていないが、彼は彼なりに今夜を楽しみにしているようで。
「最高、呑むの大賛成。お前はどうすんだよグレイ」
「当然俺も貰うに決まってんだろ、抜け駆けすんなよピッチ」
普段なら外窓を眺めてぼうっと晩酌をしている彼らしくは無いが、親睦を深めようとしてくれているようでグレイも幾らか歩み寄りの姿勢を見せようと思い即座に賛同する。
「してねぇよ、こうやって聞いてやってるだろうが」
「目が泳いでるじゃねぇか」
「泳いでねぇよ!」
和気藹々としたやり取りに花を咲かせて、馬鹿にしたように笑いながら二人は着替えを終了させる。それと同時のこと。
ィィィイイインヴィィィィィイイイン
轟音の警鐘に共鳴するように簡易プレハブの寮が揺動する。絶えず耳にして当然のように厭悪の念しか抱かないその警笛に対して苛立ちで顔を歪めながら、グレイは二人を率いて足早に室外へ出た。穏やかな空気も愉快な会話も嬉々とした表情も、勧告の音が戒めとなり全てを遮断してしまう。
流れるように屋舎から出ると、隊列も組まれないまま集う兵士達の最後尾につく。最前列にあがった者達から順番に壁の向こうへ進むその足取りは重い。一歩ずつ一人ずつ、今日この時を境に二度と踏みしめることが無いかもしれない内地の壌土を味わうように歩むその様に、グレイは顔をしかめた。
心地の良い朝は、毎朝行われるこの死を覚悟した儀式のようなものがなお一層深刻になるから嫌なのだ。防壁の向こうへいち早く出ていった者達の全貌が眩い陽光のおかげで望めなくなるのも、死地に赴くという事実をさらに強く印象づけてくる。致し方なくグレイもそれに倣って歩みを進めようとした。その時。
「グレイ」
壁外ももう間もなくという境までたどり着いた時、聞き慣れた声がグレイの名前を呼んだ。驚いて目を向ければ内壁沿いの建築物の影から見知った上官が歩み寄って来る。橙の瞳を瞬かせて黄褐色の髪を丁寧な七三にわけたその容貌は、何処か垢抜けていないような印象を受ける。
しかし彼が召している背広型の常装戎衣の濃紺は、幼さを残す様相と相対して高官の重責を背負っていることを指し示していた。一昔前のような極彩色の正装は、地位が高い者がまとえば遠距離から射殺される可能性をあげてしまう故に、昨今は影に融和できるような、主に紺や枯草色を用いた明度と彩度の低い物が普及している。より暗く認識しづらい色合いを身に着けている者ほど地位が高い証明だ。
「「上官殿に敬礼!」」
彼が目の前へ来て仁王立ちすると同時に、グレイ達三人は横並びになって上官へ敬礼した。先まで伸ばした右の手指を左胸にあてる体制。『貴方の意志は我が胸に、我が命は貴方の手に』という忠誠や決心を表す、ドロテア国の礼節である。皆で高らかに声を上げると、上官は上官は頷いてグレイの横の二人を一瞥した。
「任務ご苦労。お前達は持ち場に向かってもらって構わない」
「はっ!失礼します」
声を揃えて返した二人は、会釈の後に駆け足で防壁外へと姿を消した。戸口から出る間際にマグが何処か心配そうな視線を投げてきたのを見て、グレイは思わず口の中で笑いを噛み殺す。別に、罰則を課せられるというわけでも無いというのに。
「久々だね。元気にやってる?」
同室の二人が先立って任務へと向かったのを見届けた上官が敬礼を崩せと指示を出すので、グレイは言われたとおりに多少型を無くした姿勢に変える。すると高位であるはずの彼は、先程より堅苦しさの抜けた柔和な面持ちで微笑を浮かべ、フランクな口調でグレイに話しかけるのだった。
「幸いなことに。ソルト上官殿もお変わり無いようで何よりです」
ディル・ソルト。それが彼の上役の名前である。グレイは彼と縁があり、役職の大きな差はあるが互いに認知をしている。
「毎日の任務、大変だろう。あまり無理はしないようにね」
「勿体無いお言葉です」
空気感を変えようとしているのか話題の転換を試みようとするディルに、あくまでも上級である人間に対しての姿勢を固定したままのグレイに、ディルは何処か悲しそうな顔をして眉根を寄せた。しかしそれを見ようともグレイは別段変わった様相を見せることなく、何処吹く風という精悍な佇まいを維持し続ける。
「……もう行け。気を抜かないように」
「はっ!」
「この壁の向こうは地獄だ。絶望して死にたくなったのなら都市部へ来い、殺してやる」
「ありがとうございます」
親しげに会話を投げかけてきていた先ほどまでとは打って変わって平坦な、辛辣ともとれるような声音を聞くが早いか、再敬礼をしたグレイは足早にその場を立ち去った。背面を見つめてきているであろう彼を振り返ることはなかった。
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