死臭
死屍累々、屍山血河。その言葉が似合う光景を鮮烈なまでに脳裏に焼き付けることになったのは、グレイにとって久方ぶりのことだった。
普段と変わらぬ防壁任務。丘陵地帯の奥から日差しと共に這い出るように現れたビザールレディは、砂礫が舞う中で怖じける事無く前進。それに対し手榴弾を投擲。放物線を描き着弾した火薬の破裂と爆風の煽りにより、肉塊の頭部を破壊または胴体に損壊を生じさせる。
人間を真似たように痛苦に叫喚する生きた死骸達の合間をぬって、ドロテア国境へ接近してきた殺し漏らしの傀儡兵には、苦肉の策と諸刃の剣である身を挺した打撃を食らわせ一撃離脱で距離をとる。
火薬爆発の攻撃、緊急時には決死の反撃。それがこの戦場において異質なグレイの立ち回り。本日も普段と遜色なく軽傷を負いつつ致命傷になりうる打撃は避け、味方の五体が路傍の石のように転がるのを尻目に生き延びていた。
しかし大事が加速度的に進行したのは、もう間もなく日も落ちるという頃。
散った人血と西方へ傾き始めた夕日によって緋色に染色された戦場では、朝方と比較して過半数が削られたビザールレディと、こちらも通常通り物量が減ったドロテア軍がなおも対峙していた。あと少し。落陽が西部の山脈間に取り込まれて黄昏時が過ぎ去れば、ビザールレディは帰還せざるを得なくなる。
その刻限まで、何秒か何分か。砂粒と誰かの血潮がこびりついた服の袖で額の脂汗を拭いながら、終わりが来るのを待っていた。
刹那。グレイが小さく嘆息をした瞬間の事。
西日を急かすように見つめていた視界の四方八方で、日輪よりも濃緋な鮮血が舞う。グレイは、自身の左頬に生温い液体のような何かが付着したのを感じた。
一瞬、何の反射行動もできずに停止する。頬を何かが伝うこそばゆい感覚に身の毛がよだち、思わずそちらの方向を向く。左方には、見上げるほどのマグの巨体が、グレイ同様立ち竦んでいた。
──否。その肉体は徐々に、体感が崩れたかのように地面へと傾向していく。
グレイは何故か、彼の足元の様子を伺った。無意識による行動であり、何か意図をもってしての動作では無い。目線が引き寄せられるように、下方へ下方へと動いていた。
目視。
マグの筋骨隆々な右脚部が根本から弾け飛び、折れた骨を露出させながら生血を撒き散らす様。彼の足元の壌土でへばりつくように居座る、嗄れた老骨のような風貌をしたビザールレディが、片手にマグの足を抱えながら、
──彼の残存する脚部の足首を、鷲掴む様。
「───」
グレイ。
そう、名前を呼ばれた気がした。低速化していた世界が、瞬く間もなく動き出す。
「ッッッマグッッ!!!」
グレイは咄嗟に彼の腕を掴もうと手を伸ばした。しかしその間に何処からか別個体のビザールレディが介入。グレイの手首を千切れそうな程握る。
「あぁァぁアウゥうゥ!!」
腕を掴んだその肉塊が、グレイには笑ったように見えた。
「たすげっっっ」
マグの体躯が死骸の奥から消失。砂塵が擦れる音が嫌なほど耳に入るのと同時に、視界の端に片足を失った彼の姿が映る。しかし直後にはもう、その肉体はマダスティアの方角へと引きずられて遠い場所に居た。
「おい、マグッッッ!!」
慟哭と共に前方のビザールレディを蹴り上げる。そのまま姿勢を落とし、駆け出す体制をとり一気に足を踏みだし──その足を、蹴倒した筈の傀儡が掴んだ。
攻撃は確かにあたったはず。証拠として、奴の脆い腹には風穴が空いている。しかし痛苦に怯える仕草はない。
脳裏を過る思考──過去数年で殺してきた全ての肉塊が、痛みを演じていた可能性。
最悪のそれに全身が総毛立つ感覚。マグの肉体は遥か彼方に遠のいて、日が暮れて暗澹としはじめた戦場で影を追うことが困難になってきている。彼が引きずられた道には跡が残っていた。ビザールレディの走力をもってしても未だ追いつける範疇に居るかもしれない。
追いかけることができればの話だが。
「ッッ離れろッ!離れろ木偶ッ!くそが、退け!死ね、死ねッ!」
必死の形相で髪を振り乱し、足を握ったままのビザールレディの頭部を踏みつける。過去の例と比較してもみても、この傀儡と長時間接触した人間はグレイが初だろう。
人類史初、奴らの急所である頭蓋を踏みつけにして気がつく。体躯の脆弱な構造と違ってこの部位は重厚に作られているのか、硬い。明らかな意図をもって、容易に破壊できない組成をしている。とても踏みこわせた物ではない。爆薬ないし鈍器が必須なほどだろう。
「邪魔だって、退けって言ってんだろ!おい、なぁ!はやくしねぇと、はやく、はやくしねぇと!」
こいつらは、頭部を破壊しない限りは死亡しない──マグの姿はとうの昔に消え、その他のビザールレディもいつの間にか退散していた。量産された仲間の死体が、右見左見するたび目に映る。
もう、マグを追いかけることはできない。時間も人員も体力も足りない。それなのに足元でケタケタと笑うビザールレディは、グレイの足を離そうとはしなかった。
「あぁァイおォウ、うゥウゥぅオいッおイィぃィィイえぇェあエウアあぁァぁァ!!」
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