普段より多大な人的被害を被った。だがしかしこの国の体制では、減った人員は明朝になれば別の人間で補填される。替えはいくらでも居る、代用はいくらでも効く。自分の死後を悲しむ人間は都市部に残した家族と、同室の仲間程度。

 この軍ではそれはあくまでも当たり前のこと。防衛任務の仕事は金払いがいい上に、兵役により故郷へ残した家族及び死して取り残された遺族は、国からの補填で貧困無く暮らせるようにしてもらえるから。

 例え防壁を行っていた兵士当人が死亡した場合でも、その生活の支えは続く。そう考えると──家族のことを考えると皆、辞めるに辞められないのだった。

 自室に帰還すると、頬に湿布を貼ったピッチが部屋の中心で蹲って震えていた。体調が悪いのかとはお巫山戯にしても聞けない雰囲気。何故なら、彼が時折漏らす嗚咽を聞いてしまったのと──彼の傍らに落ちていた白紙の上に、小さな何かが置かれているのを見てしまったから。

 それは、一枚の爪だった。固まった血液と乾いた肉が付着した、丸みを帯びた生爪。

「俺、マグのやつ探したんだよ……必死になって、口ん中砂利だらけになって。ようやくな、見つかったんだよ、これ」

 涙混じりの声だった。なおもピッチは、戸口方面に居るグレイを振り返ることは無かった。グレイは拳を強く握り、痛いほどに歯を食いしばった。いつも馬鹿らしく巫山戯て戯けて見せるピッチが、声を堪えて泣いているから、それが悔しくて。

 マグを咄嗟に救うことのできなかった自分がのうのうと生きていて、遺体を見つけてやることもできないのが腹立たしくて。

「これな、花の下に……戦場の隅の小せぇ花の下に、落ちてたんだよ。あいつ、図体ばっかり、でかかったのに、最後は花よりもちっちゃいって、笑えるよな」

──この戦場においての死者が行方不明者と変換されてしまう所以。それは、死骸が残らないからである。

 ビザールレディが捕食行動を摂るだとか、原形も残らないほど無残に叩きつぶされるだとか、そういうわけではない。寧ろそうであったほうが、どれほど心が安らぐだろうか。

 連れ去られる兵士達が必死の抵抗で爪をたてながら引きずられるので、地面に残った線は【生爪の轍】と呼ばれる。剥がれた爪が道中に散乱しているというのも残忍だがよくある話で、しかしそれでも幸運な例だ。それすら残らなかった人間──両腕部すら断裂され、肉片の一つ残さず持って行かれてしまった人間も少なくは無い。マダスティア国内に連れて行かれたとみて間違いはないだろう。

 死骸を直視していない故に安否が確認できないとして、生還する望みがある状況がどれほど残酷なことか。僅かな夢だけを永遠に残しておいていつかは必ずその期待を裏切られることの、なんと儚く辛いことか。

「グレイ、怪我は大丈夫なのか?」

 いつもの馬鹿げた調子を失って震えた、それでも心配そうなピッチの声に、グレイはさらに顔を歪める。

「嗚呼、掴まれただけだ。大したことねぇよ」

 包帯で隠した右手首は人の手の形に大きな青あざができ、グレイの指先はうっ血の名残か未だに血色が悪い。足首に跡は残っていなかった。握り方の問題か位置の問題かは不明だが、グレイには自身の傷など最早どうでもよかった。

 今はただ、後悔と憂いと憤怒で感情が煮沸して、自身でも何がなんだかよくわからないのである。

「そうか、はは、よかった……本当に、よかった」

 お前だけでも、生きていてくれて。

 聞こえないように呟いたつもりであろう彼の消え入りそうな声を、グレイは聞き逃しはしなかった。

「酒、飲みたかったなぁ」

 マグに占領された二段式寝台の下段の、陰った隅に置かれたボトルの中で赤い紅い葡萄酒が揺れるのが、如何しても彼の鮮血を思い浮かべる要因になってしまって。グレイはその場と自責から逃げるように、血のついた服を着替えもせずに部屋を後にした。

 この戦場において死者を悼むのは、その人と親しかった者だけだ。

 グレイはマグと親しくなれたのだろうか。彼を弔うに相応しい人間なのだろうか。

 解答のない疑念と苛立ちと喪失感を覚えながら、下唇を痛いほどに噛んだ。

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