邂逅
カンテラの陳腐で心許ない灯りが壁沿いの随所で朧気に揺れるのを、グレイはただぼうっと眺めて当て所なく歩いている。都会のように電光掲示板の広告や歓楽街のネオンライトが踊る光景もない防壁拠点は、人気と人肌と都心部特有の汚れた空気を代償に、遍く流麗な夜空と澄んだ涼風を手に入れた。
国防の最前線を担う拠点の全貌。ニ、三棟に分けられたプレハブの平屋の屋舎には総勢数百名にもなる兵士が寝泊まりし、凝り固まった疲労を毎夜蓄積させる。隣接する家屋は医療専用の、いわば医務室と呼ばれる類の母屋。医官が常在している故に、いくら戦場で大小様々な負傷をしようとも、それを口実に都市部へ逃げ帰ることは不可能といえよう。医官の手に負えない程の打撃を被れば、或いは。
堂舎が連なる隅には建付けの悪い木造の倉庫。長期的に人の手が及んでいない木材質の外壁は腐って穴をあけ、トタンの屋根は度重なる降雨のおかげで錆塗れ。戦場で用いられ大した功績を残せず、お役御免で放置された火薬や雑多な武器類が、蔵の肥やしになっている。
数年間開かれていない納屋を覗けばきっと、蜘蛛と蝙蝠の巣が大量に天井裏を埋め浮くし、空気中を微細な埃が舞い、むせ返るようなカビの臭いを充満させていることだろう。万が一引火でもしようものなら、周辺一帯が火の海と化すのは避けられない。これまで放火が起こらなかったのは、皆の不満がそこまで溜まりきっていなかったからか、貯まる間もなく皆死んだからか。
主要施設に大した用向きも無く、誰か知り合いと顔を合わせるには大層なお笑い者めいた陰鬱とした表情をしているグレイは、ただ防壁を右の手でなぞって歩き物思いに耽っていた。
その手首の包帯は不必要なほど幾重にそして乱雑に巻かれており、その痣を直視したくないという感情が痛いほど滲み出ていた。グレイは昔から、人並外れて頑丈な肉体をしていた。産まれてこの方骨折をしたことも、内臓に大病を負ったことも無い。
ビザールレディと長年──十年にも満たないが、戦死者続出のこの戦場においてはそれでも古株に含まれる──対峙しあってきたグレイだが、五体満足で地に両足をつけて生活できているのは稀有な例と称しても間違いではないだろう。皆直ぐに怪我を負い、心を病んでは都市部に帰還する願望を抱く。その定型から外れているという点においてもグレイは特異と言えるはずだ。
兵士は怪我をして、やがて死ぬ。そうして明朝が訪れた頃には、補充分の新規兵士が国のためにと輝いた目をして、郵送紛いに運ばれてくる。そしてまた、死んで。それなのにグレイは。グレイのせいでこの戦争は──
廃屋の物置付近に辿りついた時にふと、グレイの耳は何かを過敏に聞いた。
「ゴホッ、ッフ」
それは人が咳き込む音のように知覚される。思わず周囲を右見左見するが、目立った人影はおろか通行人が通り過ぎる影すら見つけられない。
「カフッ、ぅ、ゴホッ」
なおも続く咽る声。それが何処かグレイの耳には、歳若い女性特有の掠れた声質のように感じられて訝しげに眉間にシワを寄せた。そのような物がこの場所で聞こえるはずが無いから。
都市部から拠点に至るまでには関所が幾重にも敷かれており、監視の目を掻い潜って抜けて来られるような場所ではない。グレイは不信感と嫌疑を募らせながら、声の元手を探した。近くも遠くもない位置から発されているらしいそれ。人の気配と僅かな音を頼りに探るように周囲を伺いつつ散策すれば、やがて導かれるようにたどり着いたのは倉庫の裏手。
すると室外機の側に人影を見た。長期に渡る未使用期間があったために埃が積もったそれの、真横で震える人間。腰丈ほども無いために見下ろす形で発見され、暗闇に慣れた目はその人物がしゃがみこんでいることを判別した。
夜間であるのに街頭の一つも照っていないことと、俯き気味に伏せった体制のせいでその詳細な容貌までは伺えない。適当に布を縫合したかのような白色の衣服とそこから覗く華奢だが柔らかな肉付きの肢体から見るに、二十歳には達していないと思われる。
「おい、大丈夫か?」
不意をついてグレイの口から出た言葉は心配だった。
「…………」
少女が顔をあげる。夜闇に紛れる黒髪に陰って紫紺に見える瞳を瞬かせて困惑の顔色を浮かべている。しかし返答は無く、何処か血色の悪い様相を覗かせながらじっとグレイを見つめ返してきた。
ふとグレイは、口元を抑える彼女の細い手指に目を留めた。薄明かりでも判別できる範囲では、何か液体が付着しているように見える。幼い子供と会話をする感覚で、グレイも少女と目線を合わせるように足を曲げてしゃがみ、グレイは彼女の手のひらを注視する。そこに付着し垂れている何かをよくよく伺って見ると、赤みを帯びた色をしていた。
血液、ということである。
「おまえ、大丈夫なのかそれ」
反射でグレイは彼女の腕を掴んで状態を見る。指や手から出血しているわけではなく、何処か外部の血液がついたようだった。そして少女の口筋部に、べったりとこびりついた人血。多量では無いが明らかに喀血または吐血をした証拠である。
彼のまとう衣服の一部も血染めになっていた。襤褸のように粗悪で安物めいた白い衣服の右腹部が僅かに破れ、その下に拳ほどの大きさをした傷跡。直近ではないがここ数時間でできたものなのだろう。服に付着した血液は乾ききっていないらしい。
「怪我してんじゃねぇか!血もこんなに……事情は後で聞くから医務室行くぞ」
掴んだままの少女の手を無理やり引くと彼女は驚愕に目を見開いてしぶしぶ頷いてみせる。選択を強引に誘導したようで多少は気がひけながらも、グレイは掴んだままの彼女の手をそのまま引いて、蔵の埃臭さに顔をゆがめながらその場を後にした。
医者の所見を待機してる間に二人は触り程度であるが意思疎通を図っていた。けれど頷くか首を振るかのみでは理解不能な範囲が広い。グレイが彼女に特異な持病でもあるのかと聞けば否定。家族は何処に居るのかと言えば首を傾げ、患部に痛みはあるかと問えば肯定。しかしその痛みの箇所がどこなのか、刺すような痛みなのか鈍痛なのか、詳細な情報を得る手段は見つからなかった。
「腹部の負傷は、大きさや出血量に関して言えば問題無いだろう。それとな、喉のほうはどうもわからない」
鄙びた木椅子を軋ませながら、常在する医官は大したことでも無さそうに言ってのけた。少女の保護者代わりという扱いで、彼女と横並びになって長椅子に腰を掛けながら、グレイは医官の言葉を聴いている。
医官に対して、全幅の信頼を寄せて良いのか不鮮明だった。医者の不養生を思わせる程に痩せぎすで猫背の、濃い隈を眼窩に携えた中年男性。疲労がありありと浮かんで見える表情は、医官にしては大分頼りない。
防壁任務においての最重要施設であり、戦場にて受けた負傷を癒やすための安息所である母屋。いつ床を踏み抜くかと不安感が募るような木材質の構造は一見心許ないが、診察所の奥に位置する寝台では今もなお負傷兵が横たわっており、対傀儡戦争において縁の下の力持ちとして支柱になっているのは事実である。
ヤブ医者を思わせる風貌をしたこの男にも、防衛任務での負傷を治療するだけの技術はあるらしく、少女に対しての所見や診察を経て腹部の傷の処置をしたようだ。見知らぬ少女を連れて来た巨漢をみだりに追い払うような真似は、素振りすらも見せなかった。
「そうか、なら大丈夫ってことだな?」
「いや、そうでも無い。大きさじゃなくて、負傷の仕方が問題だ。刺し傷か擦り傷か、みたいなのがな」
医者の男は少しばかり眉を寄せて、厳しい表情を浮かべる。
「つまり、刺し傷だったって事か?」
「いや、噛み傷だよ噛み傷。それも、あの傀儡のな」
グレイは目を見開いて、思わず自身の横に座る少女の顔色を伺った。しかし彼女は何処吹く風というか、そもそも何も理解していないかのようにグレイを見返して小首を傾げている。
ビザールレディはパンデミックのような代物では無く、生身の人間がビザールレディの粘液などによって特異な感染症を発症したという事例は無い。問題は、正体不明であれども相手が死骸に相当する存在であるということ。死体現象などによって体内に細菌を保持していたりするのならば、それに罹る危険性がある。
別段その病は特異なものではないが、通常の人間が葬儀の際などに罹患する可能性がある感染症ということは、安全なものというわけでもない。そもそも、彼女のように若い少女がビザールレディに襲われたという点から問題である。
「とりあえず今は包帯を巻いて、鎮痛剤を打っておいた。正直、この怪我に対してこの施設でできるのは、これが精一杯だ」
そう言いながら医官は、陳腐な診察机の上に数枚の写真を並べた。それは少女の腹部の負傷の画像を様々な角度から撮影した物らしい。グレイは年端もいなく彼女の体躯をまじまじと見つめることに抵抗を感じて一瞬目を逸したが、その写真に映った物を見て絶句し、思わずそれを凝視した。
白い柔肌と比較してみても色濃い患部。人間の歯型がくっきりとした痕となり、最深部は肉が僅かに抉れているようで、ぐじゅぐじゅとした粘り気の強い何かが露見している。
そういえば、グレイが少女を連れて診察所を訪れた際、気がかりな物を見た。暗がりで相対した彼女の容貌を、蛍光灯の下で初めて正面から見た時のこと。髪を撫で付けた彼女のその長袖の下の手首に、顕在的に主張をする赤い痣が一つ。それは人の手形のようで、今日グレイが負った傷と同じような色形をしていた。
もしも彼女がビザールレディに襲われたとしたら、彼女が発声できないと思われる理由が一つ増えることになる。未知の存在との遭遇によるショック。彼女の素振りが物知らぬ幼少の子供のようであるのも、それによるものだと考えれば納得がいく。世間知らずや状況の不察知に関しては、彼女が箱入り娘でなければの話だが。
グレイは彼女の手首をちらりと一瞥した。今現在は包帯が巻かれ、傷の状態は伺えない。しかしそこにその白い布をがあるといことは、負傷をしている証拠である。
「刃物や銃による深手では無いが、なにせあの怪物共の噛み傷だ。それになにやら喉の異常もあるようだからな……提案なんだが、明日にでも都市部の病院に連れて行ってやったらどうだ?」
「は、俺がか?」
医官の提案に思わず目を見開いた。確かに彼女を保護したのはグレイ自身だが保護者となったわけではない。確かに彼女と意思疎通を図る点においては大分手間をとることにはなるが、時間をかけさえすれば身元ぐらいは判明するだろうと思っていた。
「嗚呼。その様子じゃ親御さんを探すのに手間もかかるし、なにより大事があるかもしれないと考えれはそんな時間も無いだろう」
言われてグレイは納得する。なよなよした容貌をした医官だが、存外深く物事を考えているのだなと感嘆した。
「そうか、まぁ、そうだな……じゃあとりあえず、一晩寝台を貸してやってくれねぇか?」
「そうしてやりたいのは山々なんだが……すまない。今日は奴らの猛攻がかなりの痛手でな、怪我人──しかも重傷者が多くて、寝床が埋まってるんだ」
確かに今日は壁内へと帰還する際、仲間に担がれている兵士の数がやたらと多いように感じられた。普段の倍、死者及び行方不明者を含めればそれ以上だろう。明日補充される兵士の数は大層多くなることが予想される。
「申し訳無いんだが、預かってやってくれないか。そちらの部屋の寝台には空きができただろう」
「は?」
反射で殴りかかりそうになった手を、グレイは理性で堪えた。
この医官を殴って負傷させれば謹慎処分が下る。この男が怪我を負って代理の医官が必要になれば、代わりの人間がくるまでに重傷者の状態が悪化した場合対処ができなくなる。グレイは人一倍肉体が丈夫にできていて膂力に優れている故に、人に対して軽率に手を出してはいけない。
しかしこいつは、マグの死を軽んじた。ついでとばかりに言葉尻に繋げて、死したことを当たり前のように扱った。確かにこの戦場において誰かが死ぬのは当たり前だ。毎日誰かが死んで誰かがいなくなる。しかしグレイとって何故か今回は、どうしようもなく許せないでいた。
下唇を、本日何度目かわからないほど強く痛く噛み締めた。いつもなら厭悪するはずの口腔内を満たす血の味が、今は正気を保つための安定剤になっている。
「そうだな、嗚呼、そうさせてもらう。一晩こっちで預かろう。幸いなことに、部屋の寝台には空きができたしな」
グレイ自身も驚くほど、平常な声が発された。怒りの濁りを隠した上澄みだけの言葉が自分の口から吐瀉されるのに嫌悪感を覚えた。同時に、手を上げなかった自身に賞賛を送った。
「いや、そういう意味で言ったんじゃないんだ。申し訳無い、配慮が足りなかった」
取り繕ったように訂正する医官は、グレイと目を合わせようとはしなかった。
「気にすんな、誰にだって失敗はある。それに今のは俺の性格が悪かったな……ありがとう、こいつは明日都市部の病院に俺が連れて行く」
「そうか。大事無いことを祈る」
医官の言葉を聞き流しながら、グレイは少女の手を強く引いて医務室を後にする。乱雑に閉めた戸の音が月すら隠れた夜闇に木霊するのが、やけに耳に入った。
同室の人間を救えず、彼のために溢れるほどの涙を流せず、ただ動揺して放浪するだけだったのに、グレイは自分自身が怒りを発露したことに驚きの念を隠せないでいた。死んだ共を侮辱されたことに対して憤怒を顕にしたグレイは、マグを友人と思っていたのだろうか。
マグは自分を、友人と思っていたのだろうか。今ではもうわからない。
二人が退室した医務室の中。緊張感から開放された医官は、脱力したように背もれへと体重を預けた。ふと、先程まで二人の人間が居た長椅子に目を向ける。グレイが腰を下ろしていた側の椅子の縁──彼が手を置いていた位置。そこの木材は、ひしゃげて変形していた。陳腐で安価な物とはいえ、腐っても椅子であり木である。患者が座るものだから、壊れやすい設計が成された物は使用していないはずなのに。
「失敗はある、か。問題ないと言わないあたり、末恐ろしい」
──約八年間に渡って続けられ、未だに終局の目処がたっていない、対傀儡戦争。
その最前線に最長七年間配属され、目立った負傷をせず、現在も主戦力を担っている存在。
名を、グレイ。齢は、二十二。
誰よりも多く傀儡を殺し、誰よりも多く味方の死を目撃した男。
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