鉛筆

「ぐ、グレイが女の子拐かしてきた!見損なったぞ人でなし!!」

 自室に戻ったグレイを迎えたのは、唇を震わせて大袈裟なまでに張り上げられたピッチの声だった。

 涼風吹く夕闇も過ぎ去り、暗澹とした夜の帳が周囲を包んだ光景は、人間の支配領域を超えた野生生物が跋扈する暗がりの時頃。防壁施設近辺の森林で群狼が遠吠えをあげ、戦場の隅に取り残された誰かの残骸に蝿が集って烏がそれを啄む。

 認識下に無い景色。しかし施設の四方八方から聞こえる微かな鳴き声と拭いきれぬ粘着質な不気味さは、それを容易に想像させる代物だった。半ば逃亡するように医務室を後にしたグレイは、周囲を取り巻く夜間特有の鬱々怏々とした気配に総毛立たせながら寮の自室へと歩みを進めた。

 少女は未だ健気にも自身の背後を追ってきている。というよりもグレイが彼女の片腕を無理やり引きずって連行したようなものだけれども。グレイは矢張り、彼女を見放すような真似はできなかった。元よりそんな所業を成すつもりは毛頭ないが。

 グレイよりも若い身空でありそれを保護した事実に変化は生じていないのだから、彼がすべきは一つしか無かった。グレイは生憎と育ちが良い故に、人を切り捨てることのできない貧弱な甘さが心根に巣食っている。グレイは明朝の任務にて不在となり、事務にて外出許可書を発行してもらい都市部へ赴くことを決めた。確かにドロテア兵は容易に負傷し死亡するし、継ぎ足しと替えの効く便利な用具のように扱われはするが、休息の数日も甘受できない程の窮地では無い。

 文字通り、誰が抜けようと幾らでも代わりがいる。亡霊が増えた穴に烏合の衆から数人取り込めば、また元の軍の形態に戻る。軍の中に誰がいようと構わない。見目麗しい形をしていれば──防壁任務を執り行う国軍として成り立っていれば、中身はなんであろうと良いのだから。

「とりあえずここが俺の部屋だ。汗臭いとこだけどまぁ、我慢してくれねぇか」

 立て付けの悪い部屋の戸を前にして、グレイは今更ながら申し訳なさそうな顔をして言う。少女は顔を歪めることも表情筋一つ動かすことも無く頷いた。年端もいかない少女を成人済みの男が部屋へ連れ込むという点から考えてみれば、状況の不味さぐらい双方ともに理解できそうなものだったのだが。


「落ち着けピッチ、何か勘違いしてるだろお前」

「お前、非道にも程があるだろ!女連れ込むなんて、マグが、死んだばかりなのに」

 言われて思わずグレイは目を見開いた。何よりも懸念及び留意すべき点が頭から離れ、ピッチに対して配慮に欠けた言動をしてしまったことだろう。たとえ少女がどのような理由のもでとこの場に居るとしても、それはピッチには関係のない事。赤の他人なのだから。

 ピッチにとって今夜は、喪に服すための貴重な時間。明日の朝日が昇ればマグの死を思い出す暇すら無くなるどころか、自分自身がころされる可能性を内包しはじめてしまう。

 いつかは亡失するマグの残留。手始めに忘れるのは彼の、平坦で威厳がありそれでい気の抜けたような声音だ。次は表情。マグは普段から仏頂面で表情筋を動かすことがあまりないが、珍しく笑うときは口角を少し痙攣させるのだ。

 最後に思い出──否、そもそも回想になる記憶すら皆で経験していない。鮮血と硝煙の合間を駆け抜けて、汗臭い体で同じ風呂に入り同じ飯をかっ食らう。男衆の戦場での出来事なんて辺鄙なものだ。

「すまねぇ。さすがに冗談にできないことやっちまった。悪い。でも、馬鹿にしたりしてるわけじゃねぇんだよ」

 グレイだってマグに対して追悼の念を抱き、愛慕──哀愁と憂いに暮れながら彼との過去を遡っている。涙こそ流れていないこの瞳だが、その代わりにビザールレディへの執念とも言えるほどの殺意で湧いていた。

「じゃあなんなんだよ」

「こいつ……名前も知らねぇんだけどな、怪我してんだよ」

「怪我?」

「嗚呼。あの傀儡に腹を噛まれた」

「傀儡って、ビザールレディにか?!大丈夫なのかよ立ってて!肉が抉れたりとか、血が出たりしてんじゃ……」

 端的に告げたグレイに、ピッチは先程まで訝しげにそして怒りで歪ませていた顔を正し、充血した目を見開いて少女の姿をまじまじと見つめる。その顔には隠すことのできない彼の善性が顕になっていた。少女はグレイの巨体の影に隠れ、戸口の外からピッチの様子を伺うように覗き込んでいた。

「さっき医官のとこに行ってきた。傷口の状態的には問題無いらしいが、死体現象の感染症の疑いもあるからな。明日俺が中央部の大病院に連れてく──それにこいつ、喋れねぇんだよ」

「喋れない?なんでだよ」

「わからねぇよ。喋れねぇんだから、聞けた話じゃねぇだろ」

 生憎だが現在、グレイと少女の間で意思疎通を行う手段を持ち得てはいない。教養に関しては一般より上等なものをうけているつもりのグレイだが、手話の知識はからっきし。

「……ちょっと待ってろ」

 口出しできずに困惑したような顔色をした少女を哀れに思ってか、ピッチは憤慨した様子を消沈させ、ごそごそと部屋を漁り始めた。かつてはマグが独占していた二段式寝台の、物置と化した下段に積まれた雑多な紙束を掻き分け、結局消化されることの無かった部屋の隅の積読本を崩す。

「嗚呼あった。はい、これやるよ」

 真っ赤に晴らした双眸を手の甲で擦りながら、ピッチは少女に雑貨を手渡した。それは両手に収まるほどの大きさをしたクロッキー帳と、2Bの鉛筆三本だった。ノートの序盤数ページには、ピッチが書いたと思われる手腕のデッサンや寮外の風景が鉛筆画で描かれている。しかし途中からは何かを書いた跡も書こうとした痕跡すら無く、白紙のページが数十枚に渡って続く。

「俺の使わなくなったお下がりだけどな。部屋の肥やしにするよりは、使い捨てでもしてもらったほうがそいつらだって嬉しいだろ」

 少女は手渡されたそれをまじまじと見つめた。何処かその瞳は嬉しさで輝いているようにも見え、ピッチは満足げに鼻をこする。早速少女は鉛筆を握ると流れるように文字を記述した。

〈誰か、死んでしまったの?〉

 決して達筆とは言えないが、歳相応の丸文字の薄い筆圧で書かれた言葉。遠慮がちにページの隅の方を位置取って記されたそれを読んで、ピッチは大きく一度だけ肯定の意を込めて頷いた。

「嗚呼。マグって名前のな、可愛げのないおっさんだよ。っていっても二十代中盤だけどな……見ず知らずの奴かもしれないけど、どうかあいつのこと悼んでやってくれ」

 少女は神妙な顔をして首を縦に振ると、ようやく部屋に入室する。そして丁寧に指を組むと、固く目を瞑って俯いた。それは、彼女なりの追悼の証なのだろう。

「なぁ。お前、名前なんていうの?」

 ふとピッチが、思い至ったように少女に問いかけた。一瞬彼女は表情を曇らせたかのように見えたが、それか杞憂であったかのように呆気無くすらすらと、またノートに文字を記入する。

〈テラ。ただのテラ〉

 かざされた紙には端的にそう書かれていた。

「そうか。俺はピッチ、そっちの目つき悪い殺し屋みてぇな顔した無頼漢がグレイだ」

「誰が殺し屋だ。俺が殺し屋なら今頃お前は死んでるだろうが。勝手に他者紹介すんな余計なお世話だ」

「じゃあお前が自分で言ってみろよ」

「……グレイだ、ただのグレイだ」

「ほら、自己紹介一つまともにできやしねぇ」

 グレイは不貞腐れたようにピッチの布団の上で胡座をかいた。テラはグレイのその風防に呆れからか苦笑いをこぼし、普段ならば巫山戯た返答を瞬時に返しているはずのピッチは、何処か悲哀にくれた顔をしてテラをみつめていた。

「テラ……元気でな。多分会うのはこれが最後になるだろうし……いや、変な意味じゃなくて単純なやつだ。普通なら女子供は前戦に立ち入れねぇから、一度出たらもう戻ってこれねぇんだよお前は」

 それが当たり前なのである。この場で地に足をつけて直立できていること自体が稀有な例と言っても過言ではなく、四肢が満足に生え揃っていることは幸福に値する。爪の一枚も手腕の一本も弾けとんでいない彼女は、ビザールレディに襲われたにしては平穏無事を体現したような容貌をしていて。ならばなおのこと、この施設に近づかないほうがよいのだろう。蓄えてある運を無駄うちする意味は無い。

〈そうなんだ。じゃあ、お元気で〉

 対して親しい間柄では無い故にか簡易な挨拶──出会いであり別れであるそれを交して、三人は共に食卓を囲んだ。いざこざを繰り返しているうちに既に食堂は鎧戸をおろしてしまったために、簡素で手軽な栄養ゼリーだけだけれども。

 水分やらで腹を膨れさせたテラは、二人に〈おやすみなさい〉と書いた紙片を見せると、二段式寝台の上段にあがる梯子をよじ登る。その布団は男性特有の汗の臭いも勿論あったが、何処か安心するような柔軟剤の香りもして、テラは優しく微睡むように眠りに着くことができた。

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