明朝

  夢を見る間もない心地良い眠りは、宙に浮遊する感覚で終幕を迎えた。意識が覚醒した後に視界に映る室内は、やけに暗く陰っているように思える。外は降雨なのかと思って耳を澄ますが、雨音も聞こない上に鼻をつく特有のペトリコールもない。

 軍人の習い性か、染み込んだ長年の癖か、パブロフの犬か。グレイは意味もなく普段と同じ時間に目を覚ました。布団に臥しながら横目で伺った陳腐な壁掛け時計の針が六時過ぎを示しているのだから、未だ夜が明けていない朝だとは到底思えない。

 それなのに暗がりの室内は──ふと、グレイは理解した。そういえば、毎朝窓を開き春の外気を室内に取り込んでくれていたマグは、昨日死んだのだったなと。

 下段ではピッチもいつも通り起床したのか、寝台が軋む音と床を歩行する足音がする。数秒後、カーテンレール独特の音が鳴った気がしたグレイは寝たフリをしながらにそちらの様子を伺ったが、ピッチは躊躇ったような素振りをして結局窓は開けなかった。

 睡眠中と思われるグレイとテラを気遣った故の行動だろうか。日射の差さない薄闇の中、彼が衣服を脱ぐ摩擦音だけが明確に聞こえるようになった。お喋りな彼が一言も発さずに更衣を行う音を、グレイは静かに寝台に横たわりながら聞いていた。普段なら彼と会話をする人間が全員、意味合いは違えども寝ている故の状況だろう。

 生活音のみが鮮明に聞こえる屋舎が嫌な気まずさと物悲しさをまとっていて、その様が通常との明確な乖離を証明してしまっているから、昨晩は流れなかった涙が何故か目元へ悲哀と共に湧き出てきてしまい、グレイは嗚咽も呼吸も必死になって堪えた。

 如何して今頃になってと思う彼だが、目を逸らしていた現実を無理やり直視させられてしまったのだから、当然と言えば当然のことである。誰も何も発さず、誰かの呼吸とピッチの支度の音だけが無機質に流され続けて数分。

「……いってきます。いってらっしゃい、気をつけて帰ってこいよ」

 震える涙声で発された言葉が空気中に飽和するのが辛くて、グレイは行ってらっしゃいも言えずに、寝返りをうつ振りをして頭から布団を被った。部屋の戸が閉じられ、室内を静謐が満たす。

 ィィィイイインヴィィィィィイイイン

 お決まりのサイレンの轟音が、地鳴りと共にプレハブの屋舎を揺らす。防壁の開門、そして防衛兵達の職務開始の合図。鬨の声があがり、大人数の三者三様の足音が遠ざかっていく。隣接二段寝台で爆音に混乱したテラが飛び起きる様が、被った布団の合間から見える。

 グレイは一人、涙を堪えた。数年戦場に居て、このような形で任務に不参加になることは一度も経験したことが無かった。

 故に知らなかった、待つ者の心痛。途方もない不安感。

 今日または明日この屋舎に帰還したときに、全く知らない人間が部屋でグレイを待っているかもしれない。ピッチが知らない場所で、自分が居たら助けられるかもしれない状況で死んでしまうかもしれない。そう考えてグレイは、身が潰えてしまいそうなほど痛烈な感覚に身悶えした。

 数々の人間の死を幾つも見届けて、はじめて会得した感情だった。



「つーわけで、都心の方行ってくる」

 数少ない私服のシワのよったパーカーを身にまとって、グレイはテラと共に施設の事務室を訪れていた。元々テラが着ていた衣服は、襤褸のような様をしていたのと血染めの赤になってしまったために、彼女は今代用としてマグのものを身に着けている。

 死者の物をまとうことが正しいかは不明だが、不在のピッチの物は勝手に持ち出すわけにはいかず、元より数の少ないグレイの数着は、数年前に適当に人から譲り受けた上に箪笥の肥やしになっており、随所に虫食いが見つかった。仕方無しに着用し、この場に至る。

 少女連れで事務所を訪れた当時、中肉中背で中年の役員は訝しげな顔をしていたが、少女と共に居るのがグレイであると知ってからは、何を勘違いしたのか楽しげな様子で呆気無く外出許諾書を発行してしまったが。

 慌ててことの経緯──主に彼女が怪我をしており、施設の医務室で可能な治療だけでは不足していることを説明すると、中年役員は少し残念そうな面持ちをしながらも納得したような顔で頷く。

「なるほどな、それは大事だが……お前が居ないのなら、今日はだいぶ辛い任務になりそうだな」

「いや、俺が居なくても別に大丈夫だろ。誰が居ようと居まいと対して変わりはねぇよ」

「確かにそうだが、お前は古株だからな。緊急時にも冷静に対処できる──昨日のことは、残念だったな」

「昨日のこと?」

「同室の仲間が死んじまったんだろう?」

 グレイは僅かばかりだが中年職員の発言に苛立ちを覚えた。否、憤慨したのはグレイ自身に対してかもしれない。昨日は、適切な判断も何も無かった。焦って慟哭し、対処を見誤って取り返しのつかない状況を築き上げた。そんな自分自身が古株であると賞賛されていることに、納得がいかないでいる。

「嗚呼、あいつのことか。確かに無念だけどな……仕方が無ぇんだよ。傀儡の奴らと戦っていれば、いつか必ず誰かは死んじまうもんだからな」

 仕方なくなどなかった。グレイが達観した処置をできれば。

「そうだ、都市部に行くなら遣いを頼まれてくれないか?」

「遣い?いいけど、なにをだ?」

「いや、昨日は奴らのおかげでこっちは大打撃だからな。それに脈絡もなくこんな猛攻が来るわけもない。だから上に報告したいんだが、電波越しじゃあ現場の壮絶さも伝わらないもんだろ?」

「嗚呼、たしかに」

 上層のお偉方が楽観視している訳ではないが、どんなに優秀な集団でも一部には馬鹿が混じっているものである。ドロテアもその例に漏れていないというだけのこと。

「午後辺りにちょっくら直接出向いてやろうと思ってたんだがな、お前が行くってんならちょうど良い。お前は上官にも気に入られてるだろ?直接事態を伝えてきてくれないか」

「その程度なら任せろ、プラスで五千人近く増援が来るぐらいには説得してきてやるさ」

「はは、そりゃ頼もしい話だ」

 手渡された許可書を受け取って中年職員に手を振り返しながら、二人はその場を後にした。

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