車内

 晴天の空の下、グレイとテラは窮屈な車内の後部座席で横並びになって座っていた。左方にグレイが、右方にはテラが。互いが車外の景色を虚ろげに眺めていて、運転手含め会話が交わされることは無い。そもそも言葉を発することのできないままの人間が居るから、賑わいも何も元より存在しないようなものだけれども。

 空が明け渡った朝の時頃、両名は様々な都合を持ちつつ都心への移動を開始した。利用手段はタクシー。街道の混み具合にも左右されるが、昼間を過ぎた頃には大病院に到着している見込みで行動をしているつもりだ。ドロテア国の末端部に位置する防壁施設からの車による移動は、グレイですら心躍る程の美麗な情景が多様な色合いに変貌してみせている。

 森林の林冠から差す木漏れ日が視界を柔く明滅させる中、動物の三者三様な鳴き声を耳にする。視界の開けた花園へ出てみれば、丁度吹いた一陣の風によって、咲き乱れる虹彩の花々の花弁が風を孕んで踊り舞う。

 現在展望する窓外では白味を帯びた雲が流れ、一定の速度で高木から低木へ低木から草本へと木々の景趣が変化している。彩雲の切れ間からの光芒が、建築物の一切無いなだらかで平穏な土地に神々しく漏れていて眩しい。

 久方ぶりの外出に胸を躍らせるグレイの横ではテラも同じく──否、それと比較ならないほどに歓喜した様子で車窓に張り付き、舐めるような目で景色を眺めていた。彼女の口から何かが発言されることは無いが、その嬉々とした表情からは言わずともわかる言葉が漏れ出している。

 二人が施設を出て数時間──もしかしたらほんの数分程度のことだったかもしれない──が経過した頃、静謐な沈黙が貫かれる車内空間に気まずさと嫌気を覚えたらしいグレイが、堪えていた声をようやく発した。

「嗚呼、そうだな……傷口の様子はどうだ?」

 たどたどしく頬を書きながら漏れ出た搾りかすのような言葉が、テラに対しての発言であることを悟ってか、車外へと釘付けになっていた彼女は徐に振り返ると、二人の間の空席へ放置されていたクロッキー帳に手を出して言葉を綴った。

〈大丈夫、痛くない。薬が効いてるからだと思う〉

 揺れる車体に合わせて歪んだ文字はかかろうじて読むことができた。

「そうか。痛みだしたら言えよ、まだ移動にも時間はかかるし……一応、予備で痛み止めも貰ってきてるからな」

〈ありがとう。痛くなったら遠慮せずに言うようにする〉

「嗚呼。体調が変だとか気持ち悪いとかあったときも言えよ、酔って吐きそうとか……男には言いづらいかもしれねぇけど」

〈大丈夫。背に腹はかえられない〉

「そうか、ならいいんだけどよ……もしかして、俺が話しかけないほうがいいか?」

〈どうして?〉

「いや、車の中で文字書き続けたら確実に酔うだろ。手元ばっかり見ることになるんだし」

〈それも気にしないでいい。根拠は無いけど三半規管に自信はあるから〉

「はは、ならいい」

 速筆で言葉を連ねた彼女が何故か誇らしげに胸を張って見せるのがあまりにも面白くて、グレイは苦笑を零しつつ目線を上げた。バックミラー越しに運転手の男と目が合う。鏡を介したその視線は何処か訝しげに思えて、一瞬グレイは彼の真意を読み取ることができなかった。

 会話の内容は別段おかしくもない。軍の施設から年端もいかない少女を連れて軍人の男が出て来て同じ車両に乗り込むというのは、倫理的に見て危うい話かもしれないけれど。そこでようやくグレイは理解した。

 テラの発言は文面上のみであり口頭で何も伝えていないのだから、運転中の彼からしてみればグレイがただ独り言を吐き続けてるとしか思えないものだろう。鏡の反射で伺うだけでは、テラがノートを所持していることはまだしもそれに記された文字列までは直視できないはず。

 ふと、グレイは思った。テラはあのような襤褸切れの服を着て、着の身着のまま手帳や鉛筆の一つも持たずに何故あんな場所に居たのかと。

 後天性──ビザールレディに襲われたことによる言語能力の欠如であれば合点はいく。しかし彼女自身がその事実を気にかけている様子はない。

  先天性──産まれながら、もしくは襲われる以前に何らかの理由のもとで会話の機能を物理的または精神的に失ったのであれば、自身の感情や意見を伝える道具である紙片の一枚でも懐に忍ばせていそうなものだが。

「そういえば、家族か誰かに連絡でもしたほうがいいか?電話番号でもわかるなら、俺が代わりにかけるぞ。伝言を預かって伝えたっていい」

 言うがはやいかテラは大袈裟なまでに肩を震わせ、走らせていた筆を止めた。続きを書き渋りつつ何処か表情を曇らせる。聞いてはいけないことを問うてしまったなと、その様を見てグレイは後悔した。

 当たり前だ。二人は未だ出会って一日も経ってはいない。顔を合わせて間もない人間に踏み込まれたく無い領域など、あって有りえないことではない。現に、グレイにだってその境界線は存在している。長い付き合いの人間にだって、話せていないこともある。

「いや、すまん。そんな会って一日もしねぇ汗臭い男にやすやすと身辺環境なんて言いたくねぇよな、配慮が足りなかったわ」

〈大丈夫。空気を悪くしてごめん〉

「気にすんな、俺が悪かった」

〈じゃあお互い様で〉

「嗚呼」

 テラと微笑み合う視界の端。鏡越しの運転手が、はっと目を見開いたように見えた。二人の状況、主にテラが口伝で言語を用いない事を察知したのだろう。先程まで痛いほど逐次に注がれていた視線がそれ以降、全く向けられないようになった。それがグレイにとっては少し、居心地の良さを思わせた。矢張り様子を伺われるばかりでは、くつろぐものもくつろげない。

 そうして数時間、二人は流れゆく景色を眺望しては会話を挟み、アンニュイな空気を車両内に漂わせ、やがて目的地へと辿り着くのだった。

 柔和な陽光を遮りそうなほどに聳える高層の建築物が乱立し、市街地は活気に溢れ賑わっていた。街頭の喫茶の戸が開閉する度に流れ出る、小刻みなテンポが耳に残る音楽。路上を行き交う人々は皆三者三様な顔色を浮かべ、東西南北の雑踏へ散っていく。防壁施設付近の緑黄色に溢れた自然の展望とは対極の、人の手が携わった者特有の様々な色味を帯びた人影や建築物が彩りを加える情景。

 数十種の走行車にまぎれて大通りを進みながら、テラは車窓に両手を張り付けて嬉々とした表情で外を眺めている。硝子に反射して薄く映るテラの爛々と輝いた瞳があまりにも面白くて、グレイは苦笑いを零しながら車外に目を向けた。

「ここに来んのははじめてか?」

 テラは壊れたからくり人形のように幾度も首を縦に振る。文字を書く時間すら惜しく、それほどまでに街の華やかな景趣を脳裏に焼き付けたいのだろう。

「ここは、ドロテアの首都アリエル。一番栄えてる、いわば中央区みてぇなもんだな。お前が今から行くのは、国内で一番目か二番目に良い設備の病院だ」

 教鞭をとるかのように誇らしげに言ったグレイに、テラは大きく肩を震わせて、久方ぶりにグレイの目を見返した。驚愕したような表情を浮かべている彼女は、慣れたように素早い手付きでノートの隅に文字を書く。

〈アリエル?歌姫?〉

「嗚呼。昔戦争があったらしくてな、そのときに歌で士気を高めた女が居たとかなんとか」

〈そうなんだ〉

「詳しくは俺も知らねぇよ、歴史とかで習う程度の知識だ。つか寧ろお前が知らないことのほうが驚きだぞ」

 ドロテアの識字率は高い。教学に関しても幅広く普及しており、末端の田舎町の子供達でも文字の読み書きはできる。知能や記憶力の差異は出るであろうけれども、勉学の内容に大きな欠損は生じていないはずだ。

〈歴史は苦手。昔何処で何があったのかとか、私にはわからない〉

「そうか。俺も道徳とか国語とか苦手だし、そういうもんか?」

〈そういうもん〉

 他愛もない会話を交わしながら二人は、地方と比べ整備された滑らかな公道の上にさらに車両を走らせた。やがて辿り着いたのは、国内有数の高次で大規模な医療を誇る病院。それはグレイの話に遜色が無いと思わせるほど、精白で優良な外見をした施設。

 グレイがテラをここに連れてきたのは勿論その施設を信頼してのことだが、その他にもう一つ理由があった。都市部の病院は放浪者の受付なども行っており、身分証がなくても受け入れてくれるところが多いという点だ。

「んじゃ、ここからは一人で大丈夫か?」

 簡易的な受付を済ませた二人は、待合室で向かい合った。一時的なお別れである。テラは未成年のため、必須項目の保護者の欄にはグレイの名前を記述したので、翌日に検査結果を聞きに来ることになるのだが。

「何かあったら、看護師とかそこらへんの人に遠慮なく話せよ」

〈わかった、お父さん〉

「俺はお前の父親じゃねぇ。言うて数歳しか離れてねぇだろ歳。つかお前何歳だよ」

〈十八〉

「俺は二十二。百歩譲って兄さんだな……って、まだ俺とお前は初対面みてぇなもんなんだから、もっと警戒しろよ」

〈わかった〉

「じゃ、明日また来るわ」

〈じゃあね〉

「テラさん。先生がお待ちですので、こちらへどうぞ」

 別れの言葉を切り出したタイミングで看護師がテラの名を呼ぶ。テラは小さく手を振ると、看護師の背を追って早足でグレイから離れていった。グレイもまた雑に手を振り返しテラが診察室に入っていくのを見届けると、踵を返して目的の場所へ向かうべく足を進めるのだった。

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