平穏

 冷気の漏れ出る部屋から足早に出ると、ヘレンはその重厚な鉄扉を背で押して閉めた。吐き出す息が僅かに白むので暖をとるように両手を擦るが、大して温まりはしない。

 その割に頬は、熱か何かではないかと疑念を抱く程に紅潮している。彼女自身それを自覚してはいて、理由として列挙される可能性も網羅済みだった。数刻前の大教会での珍事。自殺志願とも呼べるであろう不審人物もとい相談者であるニックとの関わり合い。

 彼と言葉を交える中で、ヘレンは無意識や使命感から様々な世迷い事をほざいていた。今思えば羞恥心に苛まれるような発言ばかりである。そもそも会話をしたということ自体が既に忘れてしまいたい過去になりつつあるという、気持ちの悪さを帯びた感情だ。

「しっかりしろ、ヘレン・ガーナ。聖職者としての大義を全うし、正義を果たせ。過ぎたことを一々抱えるな」

 ヘレンは教会本部の一室の扉に体躯をもたれかからせながら、溜まりきった疲労を吐き出す嘆息と脱力を繰り返し、窓外の景色を眺めていた。刻限はすっかり昼の頃をまわろうとしており、揺れる青々とした木々を照らす白色の恒星に目が眩む。

 今朝起きた予定外の仕事に追われて事後処理に手間どっていたため、ようやっと一息つけたのが今この時間。神聖国であり単一国家であるマダスティアにおいて、聖職者は債務や政に関してもことを担っている。故にヘレンがいくらか仕事をこなし損ねてしまえば、国に直接影響が出ると言っても理論上は過言ではないのかもしれない。

 しかしマダスティアが現在瓦解の危機に陥っていないのは、その悪状況を打開する方法を有し、それを利用して国を管理しているため。実質、マダスティアは国政により崩壊することは無い。

「ヘレンさん、お疲れ様です」

 戸口にもたれかかったまま深く嘆息を繰り返していると、中性的で柔らかな声音がヘレンの名を呼び労いをむけた。俯いていた頭をもたげると、長い一路の奥から小柄な人影が駆け寄ってくるのが見える。

「アリス、そんなに急ぐ必要は無い。転んで負傷したら傷を治す面倒があるだろう」

 瑠璃色をした癖毛を揺らしながら、アリスは照れ笑い混じりに速度を落とす。尚も小走りな様にヘレンは呆れて苦笑をこぼしながら、近づいてくるその容貌をじっと見つめた。

 前髪で隠れて見えない双眸が、動く度に垣間見える。それは、空洞かと勘違いするほどに暗く奥深い右側の黒色と、対して壮麗で可憐な左の青。ヘレンはこの両目──特に右目の漆黒が、大好きだった。見果てることの無い大柄の両眼を携えたその顔が、ヘレンの目の前まで歩いてきて立ち止まる。

「ヘレンさん、どうかしたんですか?」

「嗚呼すまない、少々考え事をな」

「そうですか」

 不審そうに眉を一瞬寄せたアリスだが、すぐさまぱっと表情に光を灯すと、彼は楽しそうに口角をあげた。

「そういえば、お客さんが来てるって聞きました!手応えの方はどうでしたか?」

「すこし熱烈に誘引しすぎてしまったようでな、矢張り私は異性と会話するのに向いていないようだ」

 人の心は体躯とは違うから、その中身や心中を直接探ることはできない。せめて彼の心身に安寧を与えられたのならばと思うばかりである。状況を改悪してしまった可能性を考えるだけで、例えヘレンといえども不安感を覚えるのだった。

「わかりますその気持ち。自分もお喋りするのはあんまり得意じゃないです」

「いや、お前はそのままが一番良い。私のような仕事はしないだろう。しかし私は……こう、異性と対面する機会は多分にあるのでな、どうにかしなくては」

「がんばってください!」

「嗚呼……気晴らしに外の空気を吸ってくる。体も冷えたことだし太陽を浴びたい」

「はい、いってらっしゃい」

 両手を大袈裟なまでに振って見送るアリスの歓声を背に受けながら、ヘレンは疲労が顕著に現れた表情を晒して、外への道を歩いた。


 首都の景色は、相も変わらず平穏そのものと言っても過言では無かった。軟風を孕んだ髪を手で抑えながら、ヘレンは街頭の喧騒に目をやる。木漏れ日が差す石畳の合間で小さな花が揺れ、頬を撫でる風にあわせて草木が踊った。季節の黎明期特有の生暖かな日差しの中で、走行車と人々が行き交っている。

 他愛のない世間話、会社への業務連絡、ビラ配りの発声に勧誘の黄色い声。賑やかな特色に相応しい多種多様な人種や顔ぶれが、様々な表情で足を進めていた。この何気ない平和な日常を静観するのが、多忙な日々の中での一種の休憩だ。

 中央街の人混みを抜けて隣接する建物の合間を通り、十数本離れた場所へ道を逸れた。すると再び景趣は変わる。広がるのは、住宅街特有の生活音と談笑が隅で咲く情景。同じ中央都市ではあるものの、教会の精緻で神聖な趣きと先程までの快活で陽気な見晴らしを含め、幾重にも風変わりするこの街がヘレンは大好きなのだった。

「あ、キンパツのおばさん!」

 当て所なく人を探して放浪していると、ふと何処からともなく声をかけられる。不意をつかれて驚きながらも周囲を見渡すと、細身の人間が一人通れるか否かな横幅をした塀の隙間から、ヘレンの腰丈ほどの上背の少女が現れた。

「ばっ、馬鹿か。そんなところを通用口がわりに扱って、怪我でもしたらどうするつもりだ。それに私はおばさんではない」

「つーようぐち?よくわかんないけど、わたし体ちっちゃいから大丈夫!」

 胸を張って高らかに言う少女に呆れて苦笑しつつ、彼女の髪についた葉を摘んで頬の泥を手の甲で拭ってやった。頭を撫でれば喜んだような声を出すその少女に、ヘレンの浮かべていた苦笑は優しげな笑みに変わる。

「わかったが……国壁には近づくんじゃないぞ、万が一でも外に出てはいけない」

「なんで?」

 柔和な声音で諭すように伝えれば、年端も行かない彼女は理解できないと全身で表すように首を傾げた。

「──化物に食われても、私は助けてやれないからな」

 中央街、住宅街からさらに遠く。田舎に分類される地域の最奥部に設置され、マダスティア国の境の形を型取りながら自国を囲う巨大な防壁。奴らがいつ、憤怒憤慨のままに慟哭し雄叫びをあげて攻め入って来るかわからない。万が一ことが起きた場合でも対処できるよう綿密な策は用意してあるが、瓦解しないとも限らないのだから。

「なんで?」

「壁の向こうにはな、奇怪で悪寒の走るような化物が蠢いているんだ。一歩間違えれば、お前も頭から食われるかも知れない」

 文字通りの生物兵器。人間の影でありながら、人ならざる者であるおぞましい奴ら。主に前戦にてその猛威を振るっている、人間の技術と残虐無知な思考が結集した化物。戦場へ先駆しても尚有り余るその膂力を持ってすれば、このような幼気で小さな少女など、ひとにぎりで内蔵まで転び出る事だろう。

「きかい?オカンって、おかあさんのこと?」

 なおも不可思議そうに困り顔を浮かべる少女にヘレンは頭を悩ませた。

「嗚呼、えっと……怖くておっかないお化けが、いっぱいいるんだといえばわかるか?」

「わかった!」

 伝わりそうな語彙をかき集めてゆっくりと伝えてやれば、少女は嬉しそうに大きく頷く。そうしてヘレンは話を逸らすように彼女と会話を紡いだ。やがて少女が帰宅の途についたのを見送ると、ぼそりと呟く。

「醜悪な暴徒共が。安寧を脅かす貴様らは、私が必ず殺す」

 ひとりごちた苛烈な言葉は、自国から隣国の方向である壁の果てへむけて、壮絶な殺意と鋭い目と共に、雲が覆う薄暗闇がかった空に溶けて消えた。

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