二章 異教徒に嘲笑を、革命に制裁を
聖職者
その男は、憂鬱から逃避する日を夢見て生きてきた。
単一国家神聖国マダスティア首都、中央区オペラ・リ・セシア。その中心部に位置する大教会への道を男はすり足で進む。彼の背面には荷降ろしも苦労するような重々しい荷物が背負われていた。それは実際に目視できるものではない。あくまでも、重責や心労の類に対する比喩である。
早朝、東方の山脈間から眩い陽光が差し始めたばかりの、それでもなお絢爛な街道を征く。中央街は名の通り華やかな、国一番と看板を掲げるに遜色ない大通り。累々な歴史を糧にした文明の進化と、多様な人種の共存と平等を誇るマダスティア国。郊外すらも中央街とはさほど変わらぬ景色をしていることだろう。
栄耀栄華の朝焼けの中、ヒビ割れの無い精緻な石畳の合間の線を舐めるように見つめる男は相も変わらず俯いていた。まるで栄えた街並みから目をそらすかのように。
やがて彼の死人のような顔色に影を落としたのは、見上げるほどに高い大教会──高層の建築物は正しくいえばその裏に在する塔なのだが──だった。暁光すら霞んで見える精白な外壁を飾る彫刻。門扉の縁の突起にぶら下がったカンテラが、ぼやけた灯火で男の影を揺らす。
男は一つ大きな嘆息を漏らし、聳えるような扉を押し開いた。ギィと木材質な音と共に天井高な教会内に僅かな光が差し込む。外貌からはわからなかったが、室内照明らしきものはどれも点灯していないようで。どうやら朝も明けないような時間では、どんな敬虔な聖職者であろうとも教会に噛りついてはいないようだと、男が心の片隅で落胆混じりに思った、その直後。
「一体誰だ?こんな肌寒い早朝に。大層熱心な教徒も居たものだ」
静謐な大教会の何処からともなく女の声がした。相変わらず俯いたままだった頭をふともたげると、視界にとらえた最奥に短髪の女性が立っていた。白い祭服に身を包んだ、暮れかけの夕空のような金の髪の麗人。男はそれがどんな人間なのか一瞥で理解できた。彼女こそ聖職者その人であると。
「あ、朝早くから失礼します。私は南の地区に住むニックという者なのですが、その、聖職者の方に相談事がありまして、こちらへ伺わせていただいた次第です」
ニックは被っていたハンチングを脱ぐと胸元に抱えて頭を深く下げた。質に出しても売れないような古びた帽子にシワのよった外套。とてもではないが教会に足を運ぶ格好とはいえぬそれに、今更ながら僅かな羞恥を覚える。
「その表情ではどうやら、日を拝む余裕すら無いようだ。安心してくれ、我々聖職者は来るもの拒まずだ。さ、門戸の前に立ち竦んでないでこちらへ」
遠目からでは表情が読めないが、聖職者の女性は早口に告げるとニックを教会内へと呼んだ。天井高な内装を支える重厚な柱。壁部には豪奢で緻密な彫刻が成され、荘厳な面持ちをした美麗な神像が教会最奥に奉られている。その初見の光景に思わず溜息をこぼしながらも、招かれるままに会衆席の最前列へ足を運ぶ。
「そこへ腰を掛けてくれ。普段であれば別室を用意するのだが、なにぶん急なのでな」
「いえ、自分が事前連絡も無しに押しかけたので……申し訳ありません」
ニックは頭を下げながらも着席すると、自身から数メートル先に腰をおろした彼女の姿を横目に見た。薔薇窓から差す朝日を吸う硬貨のような金の髪。同色の睫毛を瞬かせるその下には、透き通った硝子玉のような青色の双眸が覗く。横から見た背筋は伸び切っており、良質な環境で育ってきたのではと思わされる。
先程遠目からではわからなかったが、彼女の着る白色の祭服は、どうやら混ぜものの無い純正の布地によって織られた物のようで、独特の光沢を見せている。しかし何処かその服飾は、軍人が纏う戎衣のような趣きも感じられた。訝しげに思ったニックが彼女を注視していると、聖職者の女性は少し口角をあげて笑う。
「私の風貌が気になるか?」
「いえ、まぁ、少しだけ」
「大した意味などない。ただ、今は戦時中だからな。戦う覚悟の象徴というものだ」
現在マダスティアは隣国──共和国ドロテアとの戦時下にある。この国を囲う分厚い防壁の先では日々攻防が繰り広げられているらしい。広報や口伝によるところには戦況は拮抗状態。こと十年近く続くこの戦争に終幕の目処は立っていない。口さがない話ではあるが、どうやら隣国が生物兵器というものを投入してきたという風の噂もある。
件の生物兵器というものの形状は不明。醜聞では無いはずだが、国からの情報が直接民草へ渡った試しはない。しかしニックは、壁外に出向く用があったと話す人間が、冷や汗を流しながら悍ましげに言うのを小耳に挟んだことがある。
『継ぎ接ぎの醜い化物がマダスティアの防壁に群がるのを見た』と。
「それはさておき、本日の要件は?詳しく聞かせてくれ」
「いえ、聖職に就いている方にお話を聞いていただきたいなと……まぁ、人生相談というかなんというか、ちっぽけなものですが」
「それならば我々の本領だ。それに、悩みに大小など存在しない。存分に話してくれ」
「はい、ありがとうございます」
ニックは居心地悪そうに苦笑いをしながら居直ると、自身の視界内で高らかに掲げられている神像を厭うように見上げながら、ぽつりぽつりと言葉を溢した。
「聖職者の方の前で発言する内容ではないと承知の上ではありますが……自分は、神というものをあまり信用していないんです」
通常、必要とする救済なんて三者三様。多種に罹患する者あれば、それに処方される薬も違うのと同義だろう。ひとまとめに──しかも聖書だ御言葉だと大仰に言い広めるだけで、それが何か御利益を存分にもたらしてくれるわけではないというのは、現世に生きていれば痛感すること。
ニックは良妻と愛娘を持つ家庭の大黒柱である。当然のことながら背負う苦難もそれ相応。だがいくら懊悩や煩悶を繰り返そうとも、その神という存在から救いがもたらされる兆しは無かった。外国から良家の妻のもとへ婿入りしてきたニックにとって、戦争によって退路を絶たれ味方が居なくなったこの事実は、身を蝕むほどに辛いもの。
「どうすれば良いかもわからなくて、神を信用していないとか言いながら、こうやって教会に足を運ぶぐらいには、心身ともに限界が来てしまいました」
声を震わせながら心境を語る彼の目尻からは、いつの間にか涙が溢れていた。その目元には青黒く濃い隈が。眉間に刻まれた歳不相応な深い皺からは、彼が悩んだ月日が鮮明に見て取れる。束の間の静寂が教会内を包んだ。ニックの啜り泣く声だけがやけに木霊して聞こえる室内。女性は直ぐには言葉を発しなかった。
沈黙を破ったのはカツカツという固い足音。萎れた花のように涙を流していたニックは、俯いた視界の中に入ってきた黒い靴を見て思わず、垂らしていた首をもたげる。すると目の前には、深々と頭を下げる金髪があった。
「返答を述べるより先ず、教会を担う人間として謝罪をさせて頂こう。申し訳無い」
淡々とした声音だが、重苦しく伝えられた謝罪。
「あ、頭をあげてください、貴方が謝ることじゃないでしょう」
「嗚呼。だが、上に立つ者としての義務がある。人として我慢ならないものがある」
眼前で揺れる金糸の髪の奥で、彼女の精悍な顔つきが僅かに歪んでいるのが見えて、ニックは思わず目を見開く。
「人間の行動や感情など、玩具のように操れるものでは無いと知っている。だからせめて、起きてしまった事態だけでも自分の手で処理したいんだ」
彼女の心情はニックにはあまり理解が及ばなかった。対岸の火事と捨て置けばよいものを、わざわざこうして頭を下げる意味がわからない。彼女の凛とした声音が震えている。頭を垂れる胴体にそえられた手は、白手袋の下で強く拳を握っていた。
「でも、貴方が謝ったところで、何かが変わるわけではありませんから、大丈夫です」
「嗚呼、それも……そうだな」
ようやく頭をあげた彼女はなお一層の痛苦を顔色に反映させていた。眉根を寄せ僅かに血が滲む程に唇を噛み締めている。その様をニックは制止などしなかった。自分の苦境においても人の痛みに気を遣えるほど、正しい人間の作りをしてはいないから。
「話を戻そう。私の自論なんだがな、詳細な悩みを抱える人間ほど、周囲を広く見るための両目を持っているものだ」
目にかかった髪を後ろに払うと、彼女は斜に構えてそう告げた。その青い双眸はニックを見つめているようで、何処か虚構を凝視しているようにも伺える。
「唯我独尊。傲慢に生きている人間が周りを気にして頭を抱えている様を想像できるか?公衆の面前で勝手をする者が、侮蔑の視線に涙すると思うか?」
息つく間も無く彼女は感情をのせ、堰を切ったように問答を吐き出す。その勢いに僅かだか唖然とした。僅かな沈黙。ニックは彼女の目を見返したまま少しだけ頭を悩ませていた。自分ならどうだろうか、しかし考えは思いつかない。
「私なら──想像も、肯定も、できやしない」
一言一言が重い言葉だった。ニックは思わず唾を飲み込み彼女の言葉に耳を傾ける。
「被害妄想が激化する程に多感になって心的外傷を抱えるのは、視野が広い人間の特権だ。または、過去を嫌って塞ぎ込んだ人間の。主観でしか見られない矮小な人間に、自己否定を語る権利は無い」
ニックは思わず息を飲んだ。流麗な花の顔、芯のある声で連ねられる辛辣な言葉の数々。聖職の人間とは思えない、傍から見れば過激で苛烈な思考。
「嗚呼、驚かせてしまったな。矢張り私は聖職者らしくないだろう?喋り方だって、軍職に就く人間のようだ」
言葉を発さないニックの表情から溢れる驚愕の念を汲み取ってか、彼女は少し困惑したような微笑を浮かべる。
「いえ、そんなことは」
口では否定しながらも内心ニックもそう感じていた。初めて彼女を視界に捉えた時は目を剥く麗人だという印象。しかし第一声から言葉を交えて見ればその内面には明白な自己が確立されており、梃子でも動かぬ信念と大義が掲げられている。
「自分の意見をもっているのは良いことだと思います」
事実として、ニックは自分の考えを自立させて話すことができなかったのだから。それに比べればいくらか角があろうとも彼女は立派な人間だ。
「貴方は優しい性根なんだな、遠慮せずとも構わない。何分、悪環境で育った身の上でな。敬語の類を使うのも得意ではなくて、初対面であれどもほら、こうやって誰彼構わず古い仲のように長話をしてしまう」
「はは」
苦笑いを返しながらニックはまた少し驚いた。彼女の立ち居振る舞いは良家特有のものだと思っていたが、どうやら見当違いらしい。しかしそれでも確かに、彼女の出で立ちには洗練されたものがある。独学か、はたまた誰かに叱責と指導を受けたか。他人の事情を推し量る権利はニックには無いため、深く踏み込む真似はしないが。
「そうだ、つかぬことを伺うのだが、別教の信者の方か?もしかしたら、奥様と信仰する宗教に違いがあるのでは?」
問いかけながら彼女は、ニックの隣席へ腰をかけた。その口調は何処かニックには、凝り固まった緊張感や疑心のようなものが解れた声音に感じられる。
「えぇ。妻はこの国の、えっと、セシア?教の教徒です」
「──少し、胡散臭い信憑性の薄い事を言うのだが……聞いた限りでは貴方のその懊悩、改宗でいくらかは緩和されるのではないか?」
緩和というのは言葉の綾だと思われるが、ニックは小首を傾げて思考しつつ、教会の最奥に飾られた豪奢な彫刻を見上げた。遠目から見ても管理が行き届いていると分かるそれには、傷一つ無いように思える。夜空の星屑をかき集めた流麗な青髪に、湖畔の揺らぎを摸した青眼。それが、この国の唯一神であるセシアという女神のご尊顔。
「そうでしょうか?もう少し、相性だとか日々の行いだとか、根本的なところに問題がある気が……それに、改宗とかって、大変なんじゃ」
「まぁ、決意の枠組みで言えば大変だろうけれども、大丈夫だ。我々は貴方のように棄教を行う者達を受け入れている。宗旨変えというのは、存外難しい話では無いんだよ、本人の心の問題ではあるが」
僅かばかりか困惑したような顔色と何処か高揚した声音で、ちぐはぐに彼女は告げる。
「貴方が決断したとなれば、即座に貴方を支える手筈を整えよう。何、大変なことではない。貴方の心労を減らし日常生活を豊かにする為に身を削る覚悟をお見せしよう」
声は急く。選択、決断や思考を疾く済ませようとするかの如く、堰を切ったかのように淡々と、それでいて躊躇なく言葉を連ねた。その様が少しだけ恐ろしいものに思えて──別段彼女に嫌悪感を抱いてしまったというわけではないが、自身の人生を急激に転変させかねない選択に怯えてしまって、ニックは顔色を曇らせる。
彼女の言葉は確かに的確で、何かをしなければ状況に変化は生じないというのも理にかなっている。しかしニックには、決断をするような気概は無かったのだった。
「すみません。矢張り自分にはまだ、わからないことが多すぎて……直ぐには何かを決められそうにはありません」
今度は、ニックが起立をする番だった。謝る程のことでは無いと頭の片隅では理解していながら、彼女の前で頭を垂れる萎れた花のような男。頭から薄汚れたハンチングがずり落ちて、視界に映る地面に落下する。
「けれど、お言葉はとてもありがたいです……優しい聖職者様に付け入るようであれですが、その、できれば少しずつお力を貸していただければなと」
「嗚呼、当然だ。気にすることは無い。聖職者はこの国の盾も同義。民草の安ぎが我々の願いであり、守るべき至高。そう思えば苦など無いに等しいものだ」
怖気づき尻すぼみするか細い願望は、現状のニックにできる最大級の努力だった。一辺倒に臆病な質の彼は、その酷く突飛で傲慢な要望を跳ね除けられる覚悟で述べた。しかし一拍すらおかずに了承の声が返された時、彼は思わず髪を見出しながら顔をあげた。見開いた目にいっぱいに映るのは、聖職者の彼女の憂いと哀愁を帯びた、それでいて穏やかな、まさしく聖人の顔。
「はは、はははは!」
「え、なぜ、わらってらっしゃるので?」
「いや失礼、馬鹿にした訳ではない」
脈絡もなく笑いだしたことに呆気にとられ見つめていると、彼女は肩で息を整えた。何が面白いのか、ニックには毛ほどもわからない。
「先ず、手荒な策を講じようとしてすまなかった。それに喋りすぎてしまったな、私の悪い癖だ」
「いえ、大丈夫です」
「兎にも角にも、貴方がそう決めたのならば存分に手助けをしよう。それこそが、神が与えたもうた使命だからな」
「あ、りがとうございます。あの、そういえば聖職者様のお名前って」
今度は謝辞で頭を下げながら、ふと思い至ったニックは考えなしに言葉を発する。喋ってから失礼に当たる聞き方だったのではと考えたが、彼女は何も気にしないような素振りで答えた。
「嗚呼、名乗るのを忘れていたな、失礼した。私はヘレン。ヘレン・ガーナだ」
薔薇窓から差す陽光をヘレンの髪が吸い、眩むほど輝く。いつの間にか教会内は、微睡む程の朝の陽気に満ち満ちていた。その様は、朧げながらも晴れやかになったニックの心情そのものを表しているようにも思えて、彼は雰囲気に酔ったように思わず微笑を浮かべてしまった。
「ヘレンさん、改めて宜しくお願いします」
これから先さらに大変な事態が身を滅ぼしにかかるかもしれない。けれどこの人と共にならば困難も苦ではないだろうという、確証のない思いがニックの中にはある。友好、またはこれからの信頼や協力の関係を期待して、ニックは手を差し出した。しかしヘレンは恐縮したかのように一瞬肩を震わせると、困ったように笑って両手のひらを掲げてみせる。
「申し訳無い。ご厚意は嬉しいのだが、自分は体温が低いのでな。人と触れ合うのが苦手なんだ」
「そうでしたか、それは失礼しました」
「代わりと言っては何だが……一度だけで良い。共に神に祈ってはくれないか?ほら、こうやって──」
そういってヘレンは席から立ち神像の前に膝をつくと、指を交互に組んで見せる。彼女いわく、セシア教においての祈りの捧げ方だという。その対象は神であれ死者であれ、この宗教においてはこの方法で信仰を表す。
「祝福を。正義を。そして安らかな生を」
空気に溶け入りそうなほど小さな声で呟いたのを聞いて、ニックもそれを復唱する。
「祝福を。正義を。そして安らかな生を」
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