四章 祝福を。正義を。安らかな生を
警鐘
ステラが投獄された同刻の晩。
西方の山脈間に緋色の恒星が沈み、星月の瞬く空が都会の雑踏と喧騒に霞む暮夜。風音すら止んだ薄明かりの下、グレイは室内照明すら点灯させずにホテルの小部屋に篭り、寝台の上で眠っていた。朝方起こった怒涛の一件による余波で、寝返りをうつこともままならず、指先一つ動かすことすら億劫となっている。それほどまでにグレイにとって今朝の出来事は甚大で、心痛を植え付けるにも憤慨を呼び起こすにも充分の代物だ。
テラがステラであり、マダスティアの聖職者だったという事実。壁内への来訪と、そのために行われた偽証の怪我と猛襲、踏み台と化したマグの死。そして、先日彼女の文面で綴られた真摯な言葉の数々が信頼を得るための詭弁であった可能性。
一ヶ月という、人生の枠組みで言えば短い期間とは言え、行動を共にして足繁く看病に通っていたグレイにとっては、度重なった真実と現実は、どれも心労となるに足るもので。グレイの懊悩への助言を含め、彼女に対しての信用が確立し始めていたからこそ、それは何倍にも増加した。
昼過ぎから寝落ちていた意識が覚醒の兆しを見せ、グレイは浅い微睡みの中、開眼に抵抗する。何も考える気力が起きなくて、このままずっと眠っていたい。
やがてまた徐々に思考が霞んできて、浮遊するような感覚と共に睡眠状態へと入り込んだ。
その時。
ィィィイイインヴィィィィィイイイン
聞き慣れたサイレンの轟音を耳にした気がして、グレイは反射で身を起こす。それは一瞬、疲労が呼んだ幻聴の類だと思った。もしくは悪夢の中での出来事か。
しかしそれは紛れもなく、現実のもので。
ィィィイイインヴィィィィィイイイン。
歓楽街の路面店、数本離れた裏路地。天上の雲間に天満月が輝く夜、太陽の沈みきった頃合い。その音が鳴り響くはずのない場所、鳴り響くはずのない時間。しかしビザールレディの襲来を──都市部への侵攻を知らせる警鐘は、屋舎を揺らして鳴り響く。
「嘘だ、まさか」
痛みを訴える頭を抑えて、グレイは個室の窓外へと飛びついた。矢張り陽光は既に途切れ、広大な夜の景色が広がっている。眼下の街道は各所で発火が起き、轟々と燃える勢いを増していた。それでも警報は鳴り続け、聞きなれないそれと市街の混乱に怯えた様相の衆人が、路傍で身を寄せて震えているのが見える。
グレイの視界に映った隅、泣き喚いて逃げ惑う雑踏の中で、ふと、一つの人影に目が止まった。覚束ない足取りで群衆に近づいていくその人物。
否。それは、人間では無かった。
直後、それの前方で立ち竦んでいた女性の右腕が弾ける。惨状に周囲の空気は凍りつき、誰もが一瞬足を止めた。段々と体幹を失って倒れ臥し、横這いになった女性。それに歩み寄って、その頭蓋に踵を叩き落とす人型。ぱぁんという音が、上階のグレイの耳にすら窓越しに聞こえた気がした。
遅延して散った鮮血。女性の肉体が痙攣しているのが、遠目の効くグレイにはよく見えた。
やがて、絶叫が渦巻く。
人型──ビザールレディから逃げ惑って散り散りになる民草に、嬉々として肉塊は駆け寄っては、その膂力を持ってして蹂躙する。
展望する光景は地獄と呼ぶに相応しく、グレイは受けとめきれない現状に呼吸すら忘れて立ち尽くしていた。それでもなお時間は進む。近隣の建築物へ乗り移った火の手、多方で暴れるビザールレディ。防壁から離れた中央街において、あり得ない壮絶な死の数々が積み重なる。
茫然自失のグレイの意識を呼び戻したのは、無機質な電話のコール音だった。震える手つきでそれを手に取ると、画面にはオーガストの名が表示されている。
「もしもし〜?グレイ、生きてまス?」
「オーガスト、今、街が」
相変わらず能天気な声に、見える景色全てが紛い物なのではと錯覚しながら、グレイはぽつりぽつりと呟いた。
「はいはい、話は後スよ。とりあえず、今直ぐ地下牢に来てほしいっス」
「それよりもはやく、奴らを始末しねぇと!このままじゃ皆死んじまう!」
状況の理解できていないような気の抜けた彼の要請に、グレイは怒号を飛ばした。しかし返答の声音は、変わらず平坦で危機感を帯びないもの。
「いくら殺したって大元を絶たないと意味ないに決まってまスよね?状況理解してんならさっさとこっち来ることだけ考えてほしいんスけど。んじゃ」
一方的に来られた連絡に釈然としない気持ちを抱えながらも、寝台に放っておいた上着を引っ手繰るようにとって、グレイは部屋を飛び出す。道中に相見えたビザールレディも、泣き喚く人々も、一度助けてしまえば矢継ぎ早に手を差し伸べてしまう気がして、見えない振りをした。
緋色に染まる景観と鼻をつく死臭の数々を切り抜けて、警護のいなくなった中枢施設に駆け込む。ステラは現在地下牢に投獄され、オーガストの監視下に置かれている状況にある。総統殺害に関与した機密が何処かに露見し、ともすれば復讐を果たされる可能性を考えると、彼の目の届く牢屋内に居ることは安全だと思えよう。
蛍光灯の明滅する非常階段を一段飛ばしで駆け下りて、うちっぱなしのコンクリート質な地下通路をゆく。体温を奪う冷気と悍ましい静謐に満ちた廊下を抜けると、そこにはオーガストが欠伸を溢して待ち構えていた。
「おいオーガスト!今、今はもう夜だよな?なのになんで警報が、そうか、誤報か?ビザールレディが夜中に攻めてくるなんて、そんなはず……」
「勘違いでも何でもないっス。実際に、ビザールレディが押し寄せて来てるんスから」
饒舌なグレイに相対して、オーガストは落ち着いた様子を見せる。感情の吐露すらされない彼の声音は場に不相応で、その冷静さは酷く歪なもののようにすら感じられた。
グレイは言葉を失って立ち竦んだ。オーガストの問いを否定することのできる可能性が、僅かにすら浮上してこなかったのである。
通常であれば今は、皆が安心して過ごすことのできる夜なのだ。ビザールレディの侵攻が始まったとはいえ、奴らが行動できない夜間は進軍することはない。昼間に徐々に都市部へ接近すると考えられ、それを前提として対策が練られ始めていたというのに。
「でも、なんで!今は夜だ、奴らが来るはずがねぇ」
「なんでって、ブラフだったとしか考えようが無いスよ。これまでの約八年間近く、奴らはわざと夜間の襲撃を行わず、日が落ちると行動できないって思わせ続けたんスよ。というか、壁が壊されたんスから遅かれ早かれ敵はここに来てたでしょ」
「ブラフなんて、そんなはず──」
言いかけて、口を噤む。グレイには心当たりがあった。マグを救出しようとビザールレディを蹴り飛ばした際、普段なら痛苦に悶える奴らが嬉々としてグレイに向かってきた。
あの時点で異変に気がついて上層部に報告をしていれば、もしかしたら今頃何らかの対策が行われていた可能性はある。妙案が練られなかったとして、少なくとも警戒態勢は築き上げられただろう。
窮地において冷静さを欠いてしまうという、グレイの悪い癖が呼び起こした現状と言っても、過言ではないかもしれない。
「とにかく、急いで避難させないと、皆死んじまう」
「あ〜、そろそろ黙っててもらえまス?」
焦燥しきった様子で反射的に吐き出すグレイに、オーガストは堪えきれなくなったように深く嘆息して、グレイを睨みつけた。珍しく憤慨した面持ちの彼は、飄々とした気風の一切を捨て、間延びした声すら無く、堰を切ったように鋭い正論を浴びせ始める。
「もう既に何万人も死んだ後じゃないスか。根本的なとこ対処しなきゃキリがないスし、その方法知るのが先決でしょ。原因療法見つけない限りにはどうにもならないスよ」
ビザールレディが都市部を襲い実害が目に見えるようになるまでに、幾十もの街を通るはずである。夜間の侵攻があったのならば、国内の拠点のどこかからその情報が伝えられるであろう。
然しそれがないということは、既にその拠点の全てが崩されているという事実に他ならない。
であればこの国には、残り何人の人間が生きているというのだろうか。
「対処って、どうやって」
平坦な声音を装ったその裏で、平常とは程遠い苛立ちが見え隠れする。威圧ともとれるオーガストの風貌に若干気圧されながらも、グレイは細々と疑問を呟いた。
「それも含めて、そろそろ話してほしんスけどね?僕も菩薩じゃないから我慢の限界来そうなんスけど」
そういってオーガストは、部屋の最奥の暗がりを向く。カンテラの灯りが影を揺らす閉鎖空間の中、部屋を分断する格子の先。照明も届かない影の中に、蹲ったステラの姿が見える。反発するようにこちらを睨み返す彼女は、傍らに紙面を掲げていた。
〈わからない〉
「じゃあ、なんでお嬢ちゃん達はたちはこんなことしてるんスか?」
〈わからない〉
「は〜、腹立つ。自分の気持ちは誰かに悟ってもらえばいいとでも思ってるんスか」
端的に記された一文を横目に見て、オーガストは苛ついたように濃紺の髪を掻きむしった。黄金の目が爛々と、殺気立ったようにステラを睨みつけている。滅多に無く感情をあらわにしたオーガストの様子に驚愕の念を抱きながらも、グレイは確かな足取りで檻に近づいて、その中を覗き見た。
鉄製の柵の向こう側は、カンテラの灯火も届かないほどに奥深く広がるコンクリートうちっぱなしの空間。地下ゆえに換気用の窓も無く、隅には埃が溜まって蜘蛛の巣がはっている。長期的に放置されていたというわけではないが、別段使用頻度が高いはずもなく、定期的な掃除のみが行われてきた。明らかに歓待や謹慎などの空気では無く、相手を拘束及び勾留するための場所。年端も行かない少女が長時間軟禁される空間とは、とても思えない。
最深部でしゃがみこむステラの表情は、影を落としていて読み取ることができなかった。唯一僅かに見える文章だけが意思疎通の要となっており、何も伝えてこない紙面では、彼女が如何したいのかも理解できなかった。
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