真実

 激化した雷雨が肌をなぞる血を洗い流し、水分で重くなった服が動きを鈍らせる。鼻をつく腐乱臭と血生臭さ、燃え残りの煙とペトリコール。情報過多の嗅覚に気を取られながらもグレイの双眸は、耐えず打撃を繰り返す傀儡を捉えて離さない。

 女の傀儡は、棒立ち状態から瞬時に走り出し接近。グレイに迫ると同時に左軸へと全体重を乗せ、空いた右足に勢いをのせて後方回し蹴り。待ち構えていたグレイは無謀にもその足に飛びつき、加速しきる前のそれを両腕で抱えると同時に、敵のふくらはぎにナイフを突き立てた。さらに、通常の傀儡であれば脆弱なはずの股関節部で千切ってしまおうと、綱引きの要領でそれを引く。

 反動で傀儡は僅かにバランスを崩す。しかし脚部が外れるどころか転倒する兆しすら見せず、グレイは思わず息を呑んだ。

「は、うそだろ」

 直後。言うが早いか、グレイ顎部を衝撃が襲う。力の作用したままにグレイは背中から吹き飛び、泥濘と死骸に絡まって制止。口腔内を泥と血が満たす。明滅する視界の中で、傀儡が立地していたはずの軸足を蹴り上げているのが映る。そのまま後方に回転して着地したビザールレディに、グレイは呆然と呟いた。

「化物かよ」

 片足に制限が掛かった状態での、人間の肉体構造では成せないはずの技と、準備無しで至近距離の攻撃にも関わらず抑制されない威力。明らかに人外の域のそれらに、グレイは今更ながら戦闘の無謀さを自覚した。

 しかし休む間すら与えられることはなく、傀儡は再びグレイへ向けて突進し、足を振り上げる。立つことすらままならず、グレイは死肉の合間にできた水溜りの上を転がってそれを避けた。敵の踵が落とされた地点のみ死体の山が晴れ、泥濘んだ壌土が露出し、死体が周囲へと雨のように散る。

 いつの間にかグレイは、手にナイフを持っていないことに気がついた。よく見ればそれは傀儡のふくらはぎに刺さったままで、彼女はそれに気がついたかのように刃を抜くと、乱雑に何処かへ投げてしまう。

 傀儡から数メートル離れた地点でグレイは、汚泥に足を取られながらも肉体に鞭を打って立ち上がる。猛烈な雨風に晒されて体が冷えたのか、はたまた目の前の敵に怯えているのか。グレイの下肢は意志と反し震えていた。他より抜きん出た膂力が何によって引き起こされている物なのかは、誰にもわからない。しかしグレイに立ちはだかる本丸は、確かに異質な力を有している。

 人間では、到底叶わない。

 ふと、再び攻めるような姿勢を取ったビザールレディが、急に何故か立ち竦んだ。追撃の素振りも見せず、手腕に力すらいれていないらしく、肩から生えたそれはだらりと垂れている。油断と攻撃を誘うための罠かと思い、グレイは獲物の奪取を目的にしつつ、打撃から防衛すべく腰を落とした。

 数分に渡って奴の行動を待機し、気を詰める。しかし傀儡は瞬き一つすらすることなく、そのまま其処で屹立している。グレイはその様相から、奴が何らかの内面的損害により行動不能になったと判断した。つまり大きな隙がうまれたということ。

 通常の傀儡の弱点である頭部を叩き潰すべく、近場に転がっている礫岩を手にとって敵へと駆け寄り、両腕で勢い良くそれを振りかぶった。

 その瞬間。

 頭上に持ち上げた岩石が崩れると同時に聞こえた銃撃音。音源を探せば、壁上にて拳銃を構えるを人の影が見える。グレイは慌てて後方へ跳躍し、直立したままのセシアから離れる。すると人影は泥の飛沫に白い祭服の裾を汚しながら、崩壊した防壁の残骸上に降り立った。

「不埒者が。セシア様から離れろ」

 絹のように輝かしい、濡れた金の髪。氷塊のように冷たい青目でグレイを睨むその姿は、ステラから聞き及んでいた情報内に含まれる人物の容貌のままだった。ヘレンという名の、ステラの声帯を除去した張本人。聖職者を統率する最重要人物。

「なんで次から次へと女ばっか出てくんだ。そっちの男は非力しか居ねぇのか?」

「負けた時の言い訳がしたいのか?品行方正、清廉潔白の美女に晩酌を願いたいのならば他所をあたれ。私は貴様を殺すためだけに居る」

 言うが早いか、ヘレンは銃口をグレイへと向ける。咄嗟にグレイはその場から駆け出し、付近にそびえる肉塊の山の裏へ隠れた。直後撃ち込まれた弾丸。積み上がった死肉が水音と共に崩れる。倒れて降る死体にまぎれて、グレイは近辺に無造作に転がった瓦礫を盾代わりにする。

「お前、ドロテアの人間の割には良い双眸を持っているじゃないか。青色の美しい目だ。セシア様の一部に相応しい。それを寄越せ」

「ふざけんじゃねぇ、誰がやるか馬鹿が」

 再び発泡されて砕けたそれを捨て、剥き出しの屋舎の骨組みの影に身を潜めた。

「あげるあげないの問答など過ぎた話だ。殺して奪えば問題無い」

 焼け焦げたそれが銃弾の衝撃で砕破して散る中、グレイは決死の覚悟で走り出す。視界内に映った自身の獲物を拾い上げ、それに対してヘレンは引き金を引く。しかし動作を起こそうとも発砲音はならず、彼女が目を見開いているのがグレイにはよく見えた。球切れ。そう判断し、装填の時間を奪うために彼女へ走り寄る。

「くそっ」

 ヘレンは苛立った様子で懐に拳銃を仕舞うと、何処からか小型のナイフを取り出して礫岩上から飛び降りた。銃というアドバンテージを失い、男女の力量差という劣勢をヘレンが抱えようとも、グレイは彼女に対して加減する兆しを見せない。慣れない様子で距離も図らずに刃物を振り上げる彼女の側に迫ると、グレイは足を後方に回してその腹を蹴り飛ばす。体幹の鍛えられていない華奢な体躯は、勢いを受けたままにバランスを失ってよろける。

 ヘレンは反射で手で顔を覆い、グレイはその腕を切りつけた。肉とは違う、骨のように硬い感触が刃先にあたる。トドメをと思い、もう一撃与えるために踏み出す。しかしグレイのその目は、異様な光景を目にした。

「おまえ、その腕」

 ふらつく彼女が抑える片腕。白い祭服を裂いた下に露見する肌に出血は見られない。しかしそれは、およそ素肌と呼ぶに相応しくないものだった。

 見る限り金属製の、滑らかな光沢のある鉛のような銀色。腕手袋に隠されていたが、露出してしまった義手。

 それを見たグレイの目は、ふと、彼女の足元を見た。水面で弾けた泥が汚してしまった衣服が、風を孕んで膨らむ。その下に伺える、同じく銀色をした義足。グレイは思わず攻撃の手を止め、驚愕と共に彼女から数歩分の距離をとった。

「腕も足も、とうの昔に切り落とした。私の両脇はセシア様のお身体へ。私の脚部は、貴様の知るところだと思うのだが?」

「は?俺が知る足って」

 一体なんのことなのか、そう問おうとしてグレイは言葉をつまらせる。脳内で思い当たる節が首をもたげたのである。

 数年前に隣国へ連れ去られ、歪な肉体で帰還した年上の古株兵士。都市部の病床にて臥せったままの彼の下肢は、年齢にそぐわぬ見目形をしていた。肉付きのよい、柔らかな感触の女性的な足。

「お前もなのか。お前も、その木偶のために体を!お前はまだ生きてんだぞ。腕も足も、まだ必要なはずだろ」

 グレイは思わず激昂する。生きていく上で最重要なはずの肉体を容易に切り離し、戯れに縫合の素材にするその行動が許せなかった。彼の感情に呼応するように、付近を落雷が襲って視界が真白に染まり、轟音が脳を揺らした。

「貴様無礼だそ。セシア様は我々の女神だ、侮辱など到底許されるものではない。それに私の四肢など、いくらでも替えが効く」

 しかしヘレンは当然のことのようにそう言ってのけると回転拳銃に弾丸を装填し、照準をグレイの額へと向けた。

「あんなの、神でもなんでもねぇ!」

 怒りの赴くままに怒号を飛ばす。ヘレンはその発言に不愉快そうに眉根を寄せて、引き金に指を近づけた。しかしグレイが逃げる素振りを見せようとしないので、訝しげな顔をして僅かに銃口を下ろす。

「あいつは、人に崇められるような達者な人格者じゃねぇんだよ」

 グレイはヘレンの目を見返して、ぽつりぽつりと語りだした。

 それはグレイが、七年ほど前にガストから聞き及んだ事実だった。事実と一概に言っても、何か確信に迫るような証拠を提示されたわけでは無い。しかし二人に血縁が無いことを示す書類は、童話のように話されたそれを信じる他に無いと証明した。

 女神セシアは、人殺しだ。ガストが言ったその言葉は、深刻そうに悲痛を浮かべた表情と共にグレイの記憶に焼き付いている。

「いくら崇めたって、そいつが神に昇華することなんてねぇ」

「待て。貴様は一体、何の話をしているんだ?」

 ドロテアとマダスティアは、元々一つの国だった。統合された元の名前を、グレイは知らない。ガストも話そうとはしなかった。

 今から数えて約三十年前、一つの大事件が国内全土を騒がせた。残酷で無慈悲な猟奇的殺人事件。ある日は有名企業の社長が、またある日は警察署の警部補が。何十何百もの人が、四肢に長い釘を打ち付けて壁へ磔にされた姿で発見される。現場の指紋や証拠から、警察は一人の人物を割り出した。

 ベティ・ドミトリーという、歳若い女性。

世間は急いた。非人道的な彼女を野放しにしてはいけないと。最初はやはり、犯人を罵倒する声と逮捕を催促する声が上がっていた。

しかし段々と国内では、意見が二分するようになる。何故ならば、被害者数十名の横暴な行いが露見する証拠があがったからだ。賄賂や詐欺や大麻など、犯罪の数々。一部の人々は犯人を賞賛した。正義による制裁が行われただけで、ベティ・ドミトリーは間違っていないと擁護する声は大きくなる。

 それからさらに、何人もの人が殺害され、皆必ず悪事が露見した。児童虐待、性的暴行、汚職。次第に増幅する快楽殺人者への賛同の声に政府は焦った。逮捕時に批判が殺到する事態を避けるべく、速やかに犯人の捜索を行った。

 やがて警察は殺害現場にて彼女を現行犯逮捕し、裁判所はベティ・ドミトリーへ死刑を言い渡した。

 彼女は最後に法廷で語った。

『幼い頃から戦争が嫌いだった。戦争をする大人が理解できず親に問うたが、年齢を理由に答えを誤魔化された。でも今ならばわかる。優越感を覚えるために戦争をするのだと。だから私は、そんな私情ばかりの世界を浄化することにした。考えてみてくれ、少しの努力で平和と幸福が支給され、抗争と定義される事柄が存在しない世界を。約束された平穏ほど喜ばしいものはないはずだ。しかし私はもう死ぬらしい。故に未来に託すことにする。そんな素晴らしい世界平和を』

 彼女のプロパガンダは絶大な効果をもたらした。感化された群衆は二項対立し、やがてドロテアとマダスティアに分かれて双方が不干渉のために防壁を建てた。ドロテアの大人たちは決めた。今後子供にこの事実は伝えないとして、自ら歴史を風化させる道を選んでしまった。故に両国において、神格化されてしまった殺人者が、歴史が経つにつれてその殺害の記録すら抹消され、真の偶像として差し替えられてしまったのだった。

 グレイ。本当の姓はドミトリーという。

「ベティ・ドミトリーは、俺の祖母だ」

 重苦しい声音で喉から絞り出すように言う。しかしヘレンはそれを馬鹿にしたように鼻で笑うと、グレイに歩み寄って額に銃口を押し当てた。

「その程度の妄言で動揺を誘うつもりか、馬鹿馬鹿しい。セシア様は女神だ。現に、其処で私が功績を上げるのをお待ちになられている」

「それは女神でも人間でも何でもねぇ、肉塊だ」

「確かに今は不完全かもしれない。しかしそれは、片目が欠損しているからだ。貴様の目を刳り取って献上すればきっと、喜んでくださる」

 毅然とした態度で言うヘレンが引き金に指をかける音が、轟々降りの雷雨の中、やけに明瞭に耳に入った。発砲に対して何の後ろめたさも持ち合わせていないらしいその様相は、人を殺し慣れているという事実を明確に示している。隠しもしないその真意が怒髪天を衝き、グレイは向けられた拳銃の筒を握って叫んだ。

「てめぇそうやって、ステラの喉も切ったのか?!」

 降雨で張り付いた金糸の前髪の合間に覗く青い双眸が、今日初めて見開かれたように見えた。その直後、ヘレンは回転拳銃でグレイの頬を殴る。唐突な衝撃と冷たく重い鉄製のそれにより、グレイは舌を噛みよろけてしまいながらも、倒れることはなかった。

「汚い声であの娘の名を呼ぶな!」

 立ち直りきれないグレイの腹部に、ヘレンは加減無く正面蹴りを食らわせる。金属質なそれによる重い一撃は鈍い痛みと共に吐き気を催させる。

「あいつがどう思ってるかも知らねぇ癖に、保護者ぶってんじゃねぇ!」

 グレイは涎と喀血が混じった何かを嘔吐いて口を拭うと、真正面からヘレンを睨む。顔をしかめる彼女の容貌は、縮こまりそうな程に冷徹な憤怒を内包していた。

「あの娘は歳若い故に庇護下に置いていただけだ。何も知らない部外者が口を挟むな」

「お前よりは知ってる!少なくとも、お前のせいで喋れなくなって絶望してた」

 泥濘に踏み込むと、距離を詰め彼女の顔面目掛けて拳を叩きつける。ヘレンは身を守るように両腕を犠牲にして攻撃を防いだ。すると一瞬、痛みなど感じない義手を携えた筈の彼女が、何故か痛苦で顔を歪めるのが目に見えた。訝しげに思いながらも、体制を崩す彼女に追撃を行う。

「若い身空で死にてぇんだとよ。お前はあいつに、そんなことを言わせたんだよ」

 がら空きの胴体に向けて、勢いをのせた余裕のある横蹴り。鉄製の覆いの無い横腹に食い込んだそれは、骨の軋む音を鳴らして、彼女の華奢な体躯を横薙ぎにした。

 ヘレンはそのまま、泥水と死肉の中に倒れ込んだ。衝撃で回転拳銃が飛び、白の戎衣と肌が泥の褐色で汚れ、金髪から汚泥がぼたぼたと垂れる。それでも彼女の威圧は消えること無く体をもたげては、仕舞い込んでいたはずのナイフの刃先をグレイへと向けた。

「黙れ、黙れ黙れ黙れ!あの娘がそんなこと言うはずがない。虚言ばかり吐き連ねて、何が楽しいんだ」

 頑として意見を曲げず自身の非を認めない彼女に怒りが募り、グレイはナイフを握る手に力が篭もる。

「言わない。じゃなくて、お前が言えねぇようにしたんだろうがよ!」

 一気に振り上げ、ヘレンの頭部へと振り下ろそうとした。目の前で座り込んだままの彼女が、構えるようにぎゅっと目を瞑ったのが見える。

 そして同時に視界の隅で、セシアが動き出したのを捉えた。思わずグレイはヘレンを捨て置き、セシアの方を向くと攻撃に備えて姿勢を屈める。しかしその傀儡は何処か、先ほどとは違う様子を見せていた。殺戮兵器の命題にそぐわない、ただ急所を狙って破壊行動を続けていたはずのビザールレディのはず。だがグレイの目に今映る女神セシアは何処か、人物が変わったようにすら思える。

「セシア様!」

 魂が抜けたように屹立していた場所から、胸を張って歩幅は大きく、威厳のある風貌にすら思わせる彼女の仕草。直ぐに態度を変えて攻撃に転じてくるだろうと思い、グレイは身構える。しかしセシアはただ泥水で汚れることも厭わずに、グレイの元へ愚直に歩いてくるだけで。むしろ彼女のその様子は、隙だらけと言っても過言では無い。

 呆気にとられ、そして何故かその傀儡に見覚えのようなものを感じ、グレイは向けていたナイフを思わず下ろしてしまう。やがてセシアは、グレイの目の前に立った。

「グレイ!お前はまぁたこんな時間まで起きとるのか。ガキはとっとと寝ろと毎晩毎晩言っておるのに、今何時だと思ってるんだ!深夜二時だ二時、わしもとっとと寝たいってのにお前は。老体を労れと何度言えば!」

 自身より低い上背の彼女の空洞と青眼に見上げられながら、グレイは古臭い語気で言われた。先程まで無表情だったはずの表情は、何処か眉が上がっているように見える。

 そしてその声、態度、全てがグレイには思いあたりがあった。

「って、使った玩具は仕舞え!足の踏み場も無くて困るわい」

 凛としながらも幼く、澄んだ空気のように芯があってよく通る声は、数刻前に初めて聞いた声と類似する。

 ステラの声音と同質のそれ。

 幼少のグレイの奔放さを容赦なく然りつける、しかし何処か節々から老化加減が伺える語彙は、先日死んだ人間のものと合致する。

 ガストの語調と同様のそれ。

「……じいちゃん?なんで」

「あ、ステラ、どうして」

 豪雨が幾らか収まり、霧雨に変わる。嫌な静謐の中でグレイとヘレンが呆然と声を漏らすのは、ほぼ同時のことだった。

 グレイは事前に、オーガストの力でステラの声を聞くことができていた。故にセシアから発されるその声が、ステラのものと完全に一致することは理解できる。そして幼い頃から何度もガストによって叱られてきたグレイは、彼がどのような言葉でグレイに注意を促すのかも、その発言が結局自分の安眠の為であったりするのも、全て覚えていた。

「これが、お前が求めた、正義なのかよ」

 ヘレンへ向き直ることもなく、独り言のようにグレイは吐露する。

 目の前で腕を組み仁王立ちするビザールレディの仕草は、ガストのそれ。彼女の状態が示す事実は二つだった。

 ビザールレディを人間に近づけるという計画は成功を遂げている。どうやら、ガストの死亡時持ち去られていた脳味噌を使用したらしい。人間の脳まで素材を厳選して利用したからこその効果であるかは不明だが、セシアには確実に知能が備わっている。戦闘においても知的に作戦を練り、回避行動を取っていた。

 そしてもう一つ。ビザールレディを女神に昇華するという実験は失敗している。使用された脳味噌が生前と同じように働いたのかもしれないし、そうではないのかもしれない。何にせよ、ステラの声で喋る、ガストの記憶を所持した歪な存在が完成していた。

 女神セシアとは、到底呼べない。

「こいつな元々犯罪者だってのが信じられねぇのは、理解する。証拠も何も残ってねぇし、俺だって口伝されただけだ。でもお前は、これを正しい行いだと思うのか?現実を無視し続けて、お前の言う平和の成就とやらに繋がるのか?」

 無知だったとはいえ、あまりにも残酷な所業だった。問い詰める言葉を吐きながら、グレイはゆっくりとヘレンを見下ろす。彼女は自身の体を抱いて俯き、ぶつぶつと何かを言っていた。その声量はグレイには聞こえないほど小さく、曖昧な滑舌は聞き取りようがない。

「こんな木偶を見てもお前は、正義がなんだって言ってられんのか?」

「ちがう、違う。私は、私は」

 自問自答のように、ヘレンは虚構を見つめて呟く。その身体は震え、彼女は何かを拒絶するように首を振り続けている。戦意が潰えて放心状態の彼女を見て、グレイは最早言い争う意味すら無いことを理解した。事態を収束させるように、取り落としそうになっていたナイフをもう一度強く握り、ヘレンに向ける。

「ままごとは終わりだ。人の命で遊んでんじゃねぇ」

「ッ遊んでなんかいない!私は本気だ。私達は本気だった!」

 叱責の言葉をかければ、彼女は急に息を吹き返したかのように顔をあげた。むけていた切っ先が彼女の肌を掠め、数本の頭髪と共に額に一文字の傷ができる。その創傷から流れた鮮血が目元を流れて彼女の眼球に染み出しながらも、尚も刃先へ自身から頭を擦り付けることになろうとも、ヘレンはこれまで以上に怒りをあらわにして枯れそうな程に叫ぶように言う。

「死ぬ覚悟?そんなものあるわけ無いだろう。死にたいなんて思ったことなど無い!信じる者は救われる。そう信じて、信じて生きてきたんだ!痛苦も飲んで快楽も経て、必死になって生きてきた!頑張っていれば救われると聞いたから!今更になって、はいそうですかと現実を安易に認めてしまっては、今まで殺してきた命が無駄になる!切り落としてきた胴体の数々が、ただの肉片に舞い戻ってしまう!」

 刃先を人血が滴って、グレイは思わずナイフを引く。息つく間もなく捲し立てるように疑問を投げかけるヘレンは、グレイを馬鹿にしているのでも気が狂っているのでもなく、さも当然の質問のように純粋な目をしていて、グレイは目を見開いた。怖気づいたように思わず数歩後ずさる。しかしヘレンはそんなグレイの服の裾を強く掴む。グレイからすれば大した力でも無いはずのそれを、振り払うことができなかった。

「お前にわかるか?既に亡失したはずの四肢が激痛に苛まれていると錯覚する、幻肢痛の辛さが!寒さに手指が凍るような感覚を覚えて両手を擦り合わせても、暖かさも何も感じない悲痛が!もし、もしこれが、遊びだったのなら。私の四肢は一体、何処へ行ってしまったんだ?」

 ヘレンは徐々に勢いを失うと、萎れた花のように俯いてグレイから手を離した。語気が弱くなる彼女の様子は、先程まで強い語調で主張を行っていた人間と同一人物とは思えず、グレイは呆然とする。彼女の言っていることがわからなかった。彼女が何を悩んでいるのかも、どうしてそんなにも取り乱しているのかも。

「今もまだ、時折あの人の夢を見る。あの人は、私の大切な恩人は、どうして死ななければいけなかったんだ?私の何が、悪いんだ?」

 その瞬間、グレイはようやく理解する。

 彼女は自身の非を頑なに認めないのではない。認められないのだ。そもそもそれが過失であることを自覚しておらず、何が悪い行いなのかも分かっていない。

 彼女の心はまだ、幼い子供のままなのだ。

 当然のようにとった行動を咎められて、自身の過ちを理解できずに怒られては涙を流す子供。自分がしたい事が全て叶うと勘違いして。行いを肯定してくれない人間は悪、自分に良くしてくれる人は善。そんな安易な判断基準を抱えた心のまま、権力を得た体で行動を起こした。

 子供のまま大人になってしまった、何も知らない哀れな人間。

「お嬢ちゃん、どうかしたのか?」

 戸惑いながら状況を見ていたセシアが、心配そうな顔をしてヘレンに近づいた。泥の中で蹲るままの彼女を立ち上がらせようと、セシアは彼女へ手を伸ばす。しかしヘレンは差し伸べられたその腕を、乱雑に振り払った。

「その手で触るな、その足で私に歩み寄るな、その声で喋るな、その目で私を見ないでくれ!!!」

 顔を上げたヘレンの顔は涙で荒れていて、充血した目でセシアを痛いほど睨みつける。

「込み入った事情があるんだな、申し訳ないことをした」

 薄い赤色を帯びてしまった手指を撫で付けながら、セシアは困ったような笑みを浮かべて謝罪する。彼女の様相をまじまじと見つめ、ヘレンはさらに目を見開いた。

「あ、あぁ。ああ、ステラ、謝らないでくれ……いや、ちがう。これはステラじゃない。ちがう、ちがう……私は、私は」

 ヘレンは、混乱したように頭を抱える。金糸の髪の乱れも気にせず、瞬きすら忘れて。涙と額からの流血が混ざって汚くなった顔をさらに歪めて、うわ言のように否定の言葉を紡ぎ続けた。

「私はただ、皆に幸せになってほしかっただけなのに。これが当たり前の世界に生きてきた私は、じゃあ、どうやって、自分の過ちに気がつけばよかったの?知らないものと比べて、自分を判断するなんて、そんなの、できないよ……」

 顔を覆うことも忘れて、ヘレンは天を仰いで号哭した。

 霧雨も振りやんだ暗雲の切れ間から差す光芒が地上を照らし始める。久々に視界に入った景色は醜悪なものだった。焦げ臭さも雨空に溶け、鼻をつくようなペトリコールだけが充満する。剥き出しの骨組みも崩折れ、泥の中に死肉が沈んでいる。崩落した防壁の残骸の上で、何処かからやってきたらしい小鳥が囀りはじめた。

 声をあげて泣き崩れたヘレンの側に、汚れることも厭わずセシアはしゃがみこんだ。泣きじゃくる子供の目線に合わせるように寄り添い、一定のリズムで背中を撫でてやる。

 大丈夫、好きなだけ泣いていいんだよ、よく頑張った、偉い。支えるような言葉を投げかけながら、ヘレンの額にこびりついた乾いた血を手の甲で拭く。頭を撫でて頬を擦り、そしてまた優しく声をかける。 

 小さい頃、ガストが慰めてくれた方法と同じそれ。それを横目にグレイは、少し離れた泥濘の合間から、ヘレンが取り落とした回転拳銃を拾い上げて。

 パァンッ。と、澄んだ空気に乾いた銃声を鳴らしながら、セシアの脳髄を撃ち抜いた。

 血抜きされたらしい脳味噌から、流血は無かった。柔らかな顔立ちが目を剥いて、勢いのままに汚泥の中な沈み込む華奢な体躯。青い眼球が完全に泥の中に埋まってしまって、代わりに見える側面の空洞にも泥が流れ込んでいる。

「ごめんな、じいちゃん。二度も死なせちまって」

 グレイは覚束ない足取りで倒れ伏した体に近寄ると、横を向いた遺体を仰向けにさせて、空を拝ませてあげた。

──銃口を引く直前、一瞬だけ。このまま殺さなくても良いのでは無いかと考えてしまった。

 知能が宿って害を成さない存在になったかもしれないのだから、またガスト・イェスパールとして生きて欲しいと思った。これまで息絶えてきた命の全てを無駄にして、血縁のない家族に生きて欲しいと思った。彼はもう、死んでいるはずなのに。幸か不幸か与えられた生に縋ろうとした。

「もういいから。俺、ちゃんと後片付けするからさ」

 死したその瞼をおろしてやろうと触れた指が震える。死に顔を映す視界が揺らぐのは、双眸から涙が溢れ出て止まらないから。

「じいちゃんはもう、ゆっくり眠ってくれよ」

 語りかける声に嗚咽が混じる。笑って送り出そうと、無理矢理あげた口角が歪に痙攣した。

「おやすみ、じいちゃん」

 穏やかな笑みを浮かべたままの骸の頬に、雫が数滴垂れる。グレイは唇を強く噛んで声を押し殺した。爪が食い込むほどに拳を握って、遺骸の側に膝をついたまま、その顔を見下ろし続けた。

「私は一体、どうするのが、正解だったんだ?」

 嘔吐くグレイに、平坦なヘレンの声が投げられた。死体の横で座り込んだままの彼女を見れば、意気消沈した様子で虚空を見つめ、静かに涙を流すヘレンの横顔が目に映る。

「教えてくれ。私は、正義か?悪か?」

 グレイはその瞬間、ベティ・ドミトリーが法定で言いたかった事を理解した。

『善も悪も、定義が変われば立場が変わる。犯罪や殺人も大衆がそれを善とすれば善になるし、人助けを悪と決めればそれは悪になる』

 グレイは、ヘレンの問いに答えを投げてやることができなかった。

 ふと思い起こされる、先程脳髄を撃ったときの、容易に脳漿が弾ける感覚。ビザールレディ特有の、銃弾のめり込む硬い頭部とは違う。

 彼女は確かに、人間だった。

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