三章 飼いならそうとも狼は森を見る

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 悲報と死に様を電話越しに痛感したグレイはその夜、再度眠りにつくことは無かった。ベッドメイキングのされた寝台に臥せっても、およそ眠気のようなものは首をもたげない。詳細な事件当時の様子を見聞したわけではないが、親しい間柄の人間が無残にも殺されたという惨状は、容易にできてしまうもの。戦場に身を置くグレイにとって、それはより一層明確な形をもって脳内にこびりついて離れないのだった。

 憤怒、焦燥。しかしそれを大きく勝る哀傷と後悔。事情がどうあれ家出まがいのことをして防壁任務に就き、長期的に連絡を交わさなかった自身への憤り。用心棒として総統の元に就いていた場合を考えた無念。ああしていれば、の可能性を考えるだけで胸が張り裂けそうで。

 『正体不明の侵入者による被害』として通達されたグレイは、電波越しに感じた戸惑いや躊躇いの真偽を知ることもできず、まるで報復を抑止するように意図して伏せられた敵の素性に対して、自らの手で殺めるという復讐心すら抱くことは許されなかった。

 

 死亡が内密に伝えられた同日の早朝、グレイは中央街をあてどなく彷徨っていた。空がようやく白みだした今では、鎧戸のあがらない店屋が並ぶばかりで、御天道様が見下ろす頃の街路の賑やかな色には見当たらない。重い足音が静謐な冷気に飽和する。抱える心苦しさに比例したそれと共に、グレイは一歩また一歩と革靴の底を擦り減らした。

 そして彼の数歩後ろを困惑した面持ちで追随するテラの姿。彼女もガストの悲報をグレイから聞き及び、魔が差しかねない彼を見張るために後を追っている。先日購入したばかりの衣服に身を包んでいるが気分は晴れず、日も昇らない歓楽街に嘆息した。緊張或いは憂いの類から来るものであろうそれが空気に混ざって消える。

 文面に何か励ましを記してグレイに見せる気は湧かなかった。それが彼の望まない邪魔な行動であることは理解しているし、それをしたとしても現状のグレイには文字を読む気力すら湧かないだろうから。

 しかしこのまま彼を放っておくこともできず、テラは立ち止まって慌ただしくノートのページを捲った。ちょうど、その時だった。

「ども〜、一ヶ月ぶりスねグレイ。元気だったスか?」

 足音も影も無く、濃紺の髪をした男──グレイの知り合いであるオーガストが、二人の目の前に降り立った。文字通り、何処からともなく降り立ったのである。高層の建築物に囲まれた大通りの上空から現れた彼は、着地した下肢を痛める素振りすら見せることなく、平然とグレイに手を振った。

 脳天気に振る舞う彼は、緩い笑みを浮かべて二人を見やる。対してグレイは暗澹とした表情をさらに曇らせ、眉間にシワを寄せてオーガストを睨みつけ、唸るような低い声を出した。

「おい、この顔が元気に見えるのか?状況も考えられねぇなら、お前、マジで殺すぞ」

「おお、こわ。意気消沈してる友達を助けようとする、優しい冗談じゃないスか〜。それに、状況が見えてるからこうやってお話に来たってのに、そんな酷いこと言わないでほしいスよ」

 一挙手一投足を大袈裟な彼に困惑しながら、テラは隠れるようにグレイの背面についた。小動物のように丸まった彼女の姿を一瞬、オーガストの黄金の瞳が冷たい目で見たような気がして、グレイは小さく舌打ちをする。

「要件だけ言ってさっさと消えろ。お前の相手をしてる暇はねぇんだよ」

「休暇中の身でよくいうもんスね……っと、本題本題。防壁の欠陥について調査した結果をお伝えしにきたスよ」

 わざとらしく大きく咳払いをして、オーガストは激しい身振り手振りで話を始めた。

「調べてみたんスけどね?やっぱり警備のザルなところがあったみたいスわ。おかげで、マダスティアの敵がニ人も紛れこんでた始末スよ。結局壁も壊されちゃうし。この国もまだまだ甘いところがあったんスねぇ」

「は、本当かよそれ、じゃあ、じいちゃんは」

「特異なビザールレディによって殺られたってのが、映像記録に残ってる事実スね」

 大事でも無さそうに飄々と連ねられた言葉に、グレイは息をつまらせる。もしそうだとすれば先月グレイが体感した猛襲は、敵を忍び込ませる布石だった可能性が浮上するからだ。やすやすと見逃して、挙句その脅威が自国の総統を討ったとなれば、グレイの背が♔後悔の残数は計り知れないだろう。

「そいつは今、何処に?」

 体の脇にそえた拳を固く握り締め、グレイは痛いほどに唇を噛んだ。制止されていた仇討ちの衝動が加速する。ガストがそれを望んでいないとしても、グレイは捨て切れない殺意の消化を望んでいる。

 背面のテラが震え始めるのが、グレイには直接実感できた。彼女もまたビザールレディに襲われ、恐怖しているのだろうと思った。

「僕の目的はそれスよ、そいつを捕まえに来たんス。ほら、そこに居るじゃないスか?グレイの後ろ」

 声と共にオーガストがグレイの後方を指差す。それを視認するがはやいか、グレイは咄嗟に背後を向き直った。しかし、誰も居ない。視界に映るのは怯えた様相をしたテラのみで、傀儡の姿も他の人影すらも見受けられない。

 特異と称されるその存在が身を隠したか、または状況の深刻さを鑑みないオーガストの笑えない悪ふざけか、そう思ってグレイは顔を顰めた。

 しかしふと、頭の中に一つの考えが浮かぶ。

 先月のあの強襲の起きた当時、壁内に侵入した敵国の存在。ビザールレディと手榴弾の爆風を駆け抜けて、無傷のまま居られる訳も無い。オーガストは言った。マダスティアの敵がニ人も紛れ込んでいたと。そのうちの一人がビザールレディの特殊体であるとするならば、もう一人は。

「お気づきの通り、お嬢ちゃんスよ。直接殺したわけでは無いスけど……マダスティア国聖職者、ステラ・マーガレット十八歳。証拠の写真もここに、ほら」

 相変わらず淡々と、何でもなさそうな声音でオーガストが告げるのを、グレイは一瞬嚥下できなかった。テラというのがあだ名であり、ステラ・マーガレットが彼女の正しい名前なのだろうと、理解はできた。しかしそれを除いた事柄は全て、脳味噌が反芻することを拒んだ。

 オーガストが言う言葉に反応して、グレイはゆっくりと振り向く。その際の最後に映ったテラの顔は俯いていて、何も記述の無い紙面からは思いを読み取ることもできなかった。

 錆びついた機械のようにオーガストの方を伺うと、彼は平手程度の大きさをした紙を一枚かざしていた。それは、色付きの写真。豪奢に飾り付けられた舞台上にマダスティアの国旗がたなびき、祝いの青い花弁が舞い散る絶景。その舞台上に立つ一人の少女の姿から、グレイは目を離せなくなった。

 月桂冠をのせた黒髪、夜空を思わせる紫の瞳。嬉しそうに綻びながら開かれたその口は、演説などを行っているというより歌唱中のように見える。

「嘘だ」

 事実を飲み込むより先に、脊髄反射的にグレイの口から言葉が漏れ出した。テラへ向き直るような勇気も湧かないままに、拒絶を示す脳味噌がそのまま意見を吐き出したかのように、グレイは瞬きも忘れて否定する。

「えぇ……そういわれても、密入国は立派な犯罪だと思うんスけど……もう少しちゃんとした理由を提示したらお気に召すんスか?」

 呆れたように大きく嘆息して、オーガストは面倒臭そうに眉間を抑えて天を仰ぐ。

「そこのお嬢ちゃんスよ。今までビザールレディを操って来たのは」

 絶句した。母音を漏らすことも無く、グレイは息を飲む。周囲環境の時間が停止したかのように錯覚して、先程まで聞こえていた風音も止み、自身だけが世界から別離されたかのような感覚に包まれる。

「何、僕が嘘なんてつくと思ってるんスか?」

 不服そうに述べる彼に、呆然としたままのグレイは肯定することができなかった。ありえないのだ。『オーガストという男が間違えることが』。そう確定付けられる根拠が、グレイの中にはあった。

 心中で彼の言葉を確信しなければいけない事実が、そこにはあった。だからこそグレイは、現状から意識を逸らすように、柔く首を振り続けた。それでもその眼球は、吸着したようにオーガストの手元の写真を注視し続けていた。

「変な情でも移ったんスか?そこのお嬢ちゃんが何をした人間なのか、理解してないって顔じゃあなさそうスけど」

「テラが、そんなこと、するわけ」

「は〜、現実逃避か……そこのお嬢ちゃんは人殺しなんてする人間じゃない〜って、いいたいんスか?いつからグレイはそんな純粋無垢になったんスか?現状、起きた事実だけが判断材料。根拠もない感情論って、君の私情スよね?」

 唖然としたままうわ言を吐露するグレイに、オーガストの普段と変わらない飄々とした──それでいて冷静な正論が飛ばされる。オーガストの発言は事実。そう信じさせるような実績と理由が彼にはある。

 ならばテラ──ステラが聖職者であるという事実は確率する。聖職者はグレイにとって、憎むべき相手だ。奴らが製造をしてきたビザールレディによって、過去八年で何千何万という兵士達が殺められてきた。実験体のように扱われた知り合いが、今も病院の最奥で眠っている。マグが殺された。ピッチも死ぬかもしれない。

 これまで傀儡兵を操っていた張本人であるなら、なお一層その憎悪は濃くあるべき。だとしても。

「大方、腕と腹部の負傷も偽造だと思うスよ。声帯摘出についても話さなかったのもわざと。だってそうすれば、怪我をした孤児としてでも都市部に連れてきてもらえるじゃないスか?」

 オーガストが吐き出す堰を切ったような真実の数々が脳に到着する中、グレイはそれでも首を振った。

『数々の屍を越えてきた貴方には、生きる義務があるでしょう』と、ステラは言ってくれた──なんの面目があって?

「国内の状況を探るには、首都に来るのが一番なんスから。それに、中央のほうが壁から遠くて安心できるじゃないスか?防衛の空気が緩くなったのを見計らい、何らかの手段で外部に連絡をとって援軍を呼んだと考えるのが妥当っス」

『理由もなく──生きるのが疲れたとかいうちっぽけな理由で死んだら、私は絶対に貴方を許さない』と、ステラはグレイの傷心を支えてくれた──一体どういう心境で?

「あの猛攻も、お嬢ちゃんの侵入を紛らわせる隠れみの。攻撃が止んだのは、一時的にだとしてもビザールレディを操れる人間がいなくなったと考えてみたらどうスか?そう考えれば、辻褄が合う気がするんスけど」

 グレイはゆっくりと、テラの方へ向き直った。

〈その写真に映ってるのは私。数年前のだけど、そこで歌ってるのは私で間違いない〉

 いつの間にかそこには、そう書かれた紙面が掲げられていた。グレイは息をのんだ。彼女が肯定したということは、事実と捉えて相違ない。であれば何故彼女は、グレイに対して懇意であったのか?敵ながらの同情心、哀れみの念?心中では嘲笑をしていたのか?信用が、欲しかったのか?

 全ての状況を嚥下して、グレイに時間の感覚が戻ってきた。数時間にも思えていたそれがたったの数分にも満たないことを示すように、快晴の空は未だ心許ない薄明かりで、通行人は遠い場所に疎らに存在する程度。

「彼女に情報を吐かせるのは、物理的に難しそうスけどね……うちの一番上を手にかけた奴は、まだこの国に居るはず。僕の仕事はそれを見つけだして殺すことだけスよ」

 無情な累々の発言が、現実味を帯びさせて止まない。グレイも彼のような心境に陥るのが正しいはずであり、先程まで復讐心で満ちていたというのに、最早何も感じなかった。

「ほらほら警備の人達?その娘、さっさと牢屋に運んでもらっていいスか?」

 オーガストの一声で、街路脇から数名の警邏が現れる。元よりステラを捕らえるために控えていたのだと思われる彼らが、眼前で立ち竦む彼女の腕に手枷をはめ、その会話手段であるノートと鉛筆を奪ってしまう。

 意思疎通がとれなくなろうともステラは、曇らせた顔色を変えることはない。ただ真摯な目でグレイを見つめ、危害を加えるだとかそれ以上の動作は行わなかった。グレイはそれに対して、何も告げることができなかった。恨み言だとか雑念だとか、殺害予告だとか問いただしだとか。吐くべき何かは列挙すればキリがないはずなのに、言いたい言葉は見つからない。

『それに少なくとも、この戦争が終わらないのは貴方のせいじゃない。この戦争は』

 数日前にテラが書きかけた言葉の真意が、グレイはようやく嚥下できた。彼女はきっと、こう綴るつもりだったのだろう。

『この戦争は、私のせいで終わらない』

「なぁ、テラ」

 警護に連れられて遠ざかるステラの背中に、グレイは声をかける。それを聞き漏らすことがなかったのか、ステラの足が止まった。しかし、振り向こうとはしない。続きを待つように、動かず立ち止まり続けている。

「おまえは、一体、どういう気持ちで」

 グレイの頭の中に、数日前のステラの言葉が浮かんだ。

『例え全員が貴方を憎んでいようと、地獄に道連れにしてやりたいと思っていようと、貴方のために誰かが死んだ事実に変わりはない。だから誰も恨んでなんかいないなんて言うつもりは毛頭無い。ただ、死んだ人達全員、無駄死にで済ませたいの?』

「お前が殺した人間が、無駄死にになるとか言ったんだ?」

 ステラの背中が、大きく震えた。グレイはそれ以上、何を言う気にもなれなかった。僅かに、ステラがグレイの様子を伺って後ろを向く。

 何も言葉を発することの出来ない喉で嗚咽を漏らし、彼女の目は、涙を流していた。

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