来客
『ドロテア国総統 ガスト・イェスパール死去』
その一報がグレイの耳に届いたのは、防壁を突破された日の、深夜の事だった。
夜も更けた頃。中枢施設付近の監視塔が、総統執務室の窓に不審な影を観測した。目測は人間の姿形をした物が、十数階にもなる高層のそれから飛び降りる姿を視認し、警邏へ通達。駆けつけた先では、総統ガスト・イェスパールの体躯が無残にも床に転がっていた。争った痕跡、付近に散乱している割れた花瓶、散った花々。
──首より上の引き千切られた、老骨。頭部が付随していたはずの接合面は、およそ断裂と呼ぶに相応しくなかった。肉が捻じれ、折れて露出した頚椎の破片が血溜まりに浮いている。
遺骸をガスト・イェスパールであると判別できる要素はその場において、鮮血染めの戎衣のみだった。しかし皮肉にも彼が彼であることを証明したのは、彼の懐に仕舞われていた一枚の写真。幼少の頃のグレイやその他の子供が映った、ガストのお守り代わり。
室内の隅に設置されていた集音カメラは、彼の死に際を明確に記録していた。
日も暮れた空を暗澹とした雲が覆う夜。職務を終えたガストは、民草の営みで栄えた街並みを見下ろす。防弾製の窓外に広がる景色は、ガストが何よりも大事とする情景だ。地平線に沿って点々と色付いた住宅地、中央街は夜の帳が下りようとも人々が往来する。数十年の月日を費やして作りあげ、皆と共に死守してきた景趣。たとえ街頭照明で星月夜が途絶えようと、黎明を経て築き上げてきた新たな世界がそこにある。
ガストは大きく嘆息し、室内を見渡した。現在執務室内には、彼の他は誰も居ない。ディルは別室にて防壁近辺で発見された少女についてを調査を続行しており、オーガストは尚もビザールレディの監視にあたっている。ディルは少女に対して猜疑心を抱いているようだったが、ガストにその心境は無い。疑心を抱くより先ず信頼するというのが、彼の基本形である。
そろそろディルを呼び戻そうか。そう、彼が心の中で決めた時のこと。ギィという木材の軋む音と共に、ノックも無しに戸口が開かれる。未だ開ききらない扉の奥で覗いたのは、見知らぬ人影だった。瑠璃色の癖毛に虹彩の異なった青と黒の双眸。少年のように見えて、少女のようでもある面持ち。
彼、もしくは彼女の容貌に、およそ鼻と呼べる部位は存在しない──奴は、ビザールレディだ。ガストの脳味噌は一瞬で情報を受理し、腰を低く落として前傾姿勢を取る。その直後完全に開け放たれた扉から、目にも止まらぬ初速で敵はガストの眼前へ飛び込んできた。
「ぐっ……」
衝撃。少年の足払いが直撃した執務机が吹き飛び、壁に当たって大破。両腕で顔を覆った頬を破片がかすめる。ガストは片足を踏み込むと、敵のがら空きの胴体部を蹴り上げた。敵は咄嗟に重心を動かし、致命傷を回避。後方へ跳躍し、およそ人間とは思えぬ動作で戸口へと控えた。そのまま姿勢を低く低く、膝が接地する程に落とすと、両手を地に置き猪突を可能とする体勢をとる。
「奴らならば取らぬはずの回避行動、戦闘においての知能があると見た。何者だ」
片脚を下げて臨戦態勢を取りながら、ガストは脅すような低い声音で問う。しかし少年らしき風貌の彼は相対して平常な面持ちで、緊迫した状況下であることすら自覚していないような様子であっけらかんと口を開いた。
「だ、誰って、僕は、アリスだよ。そんな怖い顔しないで」
話しかけながらも、返答が来た事にガストは驚愕する。ビザールレディは基本会話が不可能とされている為である。傀儡製造の技術向上、これまでの言語不良がブラフの可能性。一瞬にして説を列挙する思考。しかしそれを遮ったのは、アリスと名乗る敵が僅かに指を痙攣させたのみの動作だった。
「会話ができるのか、珍しいの。して、要件は何だ」
「あ、貴方の首を貰って来いって」
言うが早いか、先駆。直線距離を瞬く間に縮めたアリスは愚直に下肢を狙いその平手を伸ばし、ガストは反射で地を蹴って上方へ。執務椅子を転がり混んできたアリスへ向けて蹴倒して、再び距離を稼ぐ。
高層で手狭な室内は膂力に優れたビザールレディにとっては何とも思わないだろうが、人並みより外れながらも人外の域には及ばぬガストにとっては、大立ち回りを演じるには不利を被るもの。長椅子、破損した執務机、棚の骨董品に花瓶。奴の手に渡れば最後、自身を殺す武器と成り果てる可能性から距離をとりつつ、敵を拘束または殺害するのが目的として確立。元より肉弾戦を行うべきではない相手との対峙は、敵の研究より存命が先決となる。
転がって壁に激突したアリスは、痛苦を感じないように顔色一つ変えずに立ち直す。硬い。通常のビザールレディなら現時点で肉体がひしゃげているはずが、奴は頭部のみならず胴体や下肢に及ぶまでもが強固である。
千鳥足で脚部に付着した木片を振り落とし、アリスが再び腰を落とす。刹那、ガストは悟った。敵の傀儡は先程から同じ動作のみをとっている。他とは外れた戦闘技術は持ちながらも、その脳内に浮かんでいる戦術は一つのみなのだろう。ならば、ガストの選択も一つのみ。
奴が踏み込むより早く、ガストは部屋の隅へ駆けた。敵の進路変更を促す数瞬の時間稼ぎ、駆け出す刹那の利用。直後、弾丸のように突撃をしてきたアリス。それへ向けてガストは寄り付いた手元にあった花瓶を鷲掴んで振りかざすと、殺害を目的に敵の頭部へと叩きつける。
──その刹那、彼の目は、傀儡の容貌をまじまじと見つめ、優秀な脳味噌はアリスの情報を処理した。無性と思わしき容姿、削ぎ落とされたか元より存在しないか不明ながらも取り付けられていない鼻。色の違う双眸と──そこから流れていた、涙。
「ッ……?!」
ガストは善意のある生温い人間だった。故に一瞬躊躇った後、両腕に込めていた力を僅かに減少させ花瓶を叩きつける。ゴッと、鈍い音が痛いほど耳に入った。目を剥きながら前傾するアリスの体。宙を漂う彼の腕は余力を失ったようで、顔面の接地を防ぐことは無かった。
傀儡の肉体が倒れ込み、痙攣や微動すらしない。応戦からの殺害処理を躊躇しながらも敵の昏倒には成功したのかと、ガストは疑心を抱きながらも肩で呼吸をした。しかし未だ気を抜くことは無く、気絶状態のままのアリスを見つめながら花瓶を元の場所へと戻す。その肉体から視線を離さず、ガストは徐々に戸口方面へと移動した。じりじり、じりじりと一歩ずつ慎重に。
一瞬、一瞬のことだった。開けられたままの扉の外に、ガストは人影を見た。門前を守る警護の、無残な死体。一瞬だけ、ガストはそれに気を取られてしまった。それが、命とりだった。
「ぐぅッ……?!」
頭部側面へと及んだ衝撃に動作を奪われる。右から左へ凪ぐようなそれの当たりどころが悪かったのか、ガストは胴体から指先に至るまでの全身から力が抜ける感覚に覆われた。
力の作用したままに左へ崩折れる。その最中、力を失って無様に生えているだけの彼の指は、放られた反動で付近の棚にかかり、そこへ陳列されていた骨董品の数々の雨を降らせた。陶器、木箱、写真。床に倒れ臥したガストの胴体や頭部へ降り注ぐ。
床との接地面の肉へ何かが刺さるような痛烈な痛みを覚えて目線だけをそちらへ向けると、散乱した木片や散った花瓶の欠片が腹這いになった腹部を抉っていた。打撃によって舌を噛んだことにより幸か不幸か激痛を携えながらも、意識は朦朧としつつも未だ現存している。脳震盪でも起こしたのか指先一つ動かすこともままならない。
唯一自由のある眼球だけを動かして見ると、先程気絶したはずのアリスが、無心を思わせる表情で大粒の涙を流してそこに居た。血すら流れていない彼は、無傷と言えよう。片腕に掴んだ割れた花瓶には、ガストから飛散したと思われる血液が随所に付着して滴っている。彼は少しずつ歩みをすすめると、ガストの目前に足を揃えて立ち竦んだ。
「身寄りのない人間の振りをしていればドロテアの人間は助けてくれる。優しいから。数日経ったら匿ってもらった家をでて、首都部に連れて行ってもらえ。仕事を探すと言えばきっと信用してくれる。ドロテアの人間はきっと助けてくれる、優しいから。折角ならばと首都部に連れて行ってくれるだろう、ドロテアの奴ら偽善者だから。総統の首は目前だ。反撃されそうになったら涙の一つでも流せ。ドロテアの総統は愚かだから」
うわ言のようにぼそぼそと呟くその声は、聞くか見るかしか行なえないガストにとって、やけに明確な音として耳に入って来た。
「こうすればいいって、こうすれば平和になるって、言われたんだ」
段々と感情の起伏が声に乗り、声量があがっていく。自戒のように言い続ける彼に対して何か言い返せることもなく、ガストは自身の口に含まれていく血の味に顔をしかめるのみだった。
「貴方の脳があれば、全部終わるって」
確信に至ったような言葉。その直後。曝け出された頭部に鈍痛が襲い焼けるような熱量を抱え、ガストは痛苦に身悶えしそうな感覚を纏う。しかし痛みを逃すべく頭部を抑えることも、顔を覆う鮮血を拭うこともできず、段々と遠ざかる意識を体感することしかできない。
しかし、連撃。再度頭部に花瓶を叩きつけられ、その破片が頭蓋に埋め込まれる。痛みの感覚はもう無い。唯一聞こえていた声も徐々に朧気になり、視界も靄を帯びはじめる。
「僕にしかできないことだって、私の力が必要だって!自分だけが、私だけが、僕しか皆を救えないんだって!!」
殴打、殴打、殴打、殴打、殴打、殴打、殴打、殴打。
「だからお願い、死んでください!僕のために死んで!死んでください!私のために」
呼吸をせずに吐き出される慟哭のような声が、号哭のような心の叫びが、段々とガストにはわからなくなった。その代わりに脳裏に思い浮かんだのは、数年ぶりに聞いた、大人びたグレイの声音と風貌、それのみだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます