苦悩
それから、約一ヶ月が経過した。ビザールレディによる襲撃は影を潜め、防壁兵たちは束の間の休息に身を委ね、怠惰を謳歌するする日々を送っている。
数週間の入院を経て患部の治療を終えたテラは、先日問題なく退院を果たした。創傷を負わなかったこと、早期的に傷口への処置を行えたことが功を奏したとされている。
グレイはというと、郊外の質素なホテルの一室に身を置き、住居代わりにしつつ休暇を過ごしていた。テラの退院後は、金銭の払いはグレイの負担で、同じホテルの別室をとっている。
総統執務室で落ち合った後にオーガストからの詳細な連絡は未だ来ておらず、テラは相変わらず自身の内情を吐露することはなかった。故に彼女は未だ孤児扱いのまま、グレイの管轄下に居る。
ガストに口を酸っぱくして言われていた衣服の新調と、晴れて病院着から脱却したテラの洋服の購入をすべく、二人は絢爛な街道を行く。日々の凝り固まった疲労の気晴らしの一環として散策するドロテアの街は、雑踏の喧騒の中多彩な魅力を内包させている。民草の人柄や国の色合い、全てを体現させたようなその賑やかさにあてられてか、テラは常に顔色を歓喜で染めていた。
道塗に点在する植木に露が融け乱れ咲く中、鎧戸をあげた喫茶店では学生が団欒し、車道には走行車が往来する光景。雲の切れ間から覗く太陽が照らす昼下がりは、栄えた町並みがより一層活気に溢れて見える。
〈グレイあれ見て!わたあめが虹色してる、あれは何の味なの?いちご?メロン?それとも普通のわたあめと同じ味?〉
そう書かれたページをグレイに向けながら、テラは力強く指を指して言う。その先にあるのは、若人や家族によって行列の織りなされた、飴細工の路面店。集客の増加をはかっているらしく、別個の屋台を店頭に出して製作を見せ、それに興味を示した通行人が足を止めている。テラもそれに魅了された例に漏れなかったようで、はやる気持ちがを全面に押し出して満面の笑みを浮かべていた。
彼女が反応を欲しがるように腕を引く度に、グレイの両腕に提げられた購入品の袋が揺れた。テラがノートと鉛筆を持つために、商品袋を抱える余裕が無い為、グレイが全てを負担しているのである。
グレイはテラが幾ら爛々と目を輝かせて主張しようとも、微塵も反応する素振りを見せることは無かった。そんな様子をようやく目にとめてか、テラはページの隅に小さく別の言葉を綴る。
〈顔色が悪い。どうしたの?大丈夫?〉
眼前に突きつけられたその紙にすら気が付かなかったのか、グレイは数秒間反応しなかった後はっとしたように首を振る。
「嗚呼、別に、何でもねぇよ」
歯切れの悪い言葉で否定をするが、その顔色は良いとはいえなかった。普段から悪い目付きはさらに細められ、薄らとした隈が浮かび、瞳は虚構を見つめている。休暇を楽しんでいる人間には思えないそのやつれた風貌に、テラは困惑したように慌ててふためいて筆を走らせた。
〈体調悪い?今日は帰って、明日また来る?〉
何処か遠い場所をみつめるグレイを見兼ねてか、その顔を覗き込むテラの表情は、路店に対する好奇心、グレイに対する心配の念、様々な感情が入り混じっていた。
「風邪でも何でもねぇから心配すんな。それに俺はそんなヤワじゃない」
〈じゃあ悩みごと?話聞くよ?〉
「別に、悩みってほどでも……」
否定をしようとして、グレイは口を噤んだ。その脳内では様々な思考が巡っており、それを一度整理したいという思惑がグレイの内部に存在していないわけではない。誰かに相談をしたいと言えば、嘘になる。
「もし、聞いてくれるんなら、話したい」
遠慮がちに一言ずつを吐き出して俯いた。視界の端に映るテラが、大きく一度頷いてページを捲ったのが見える。しかし何か文字を連ねる様子は無く、彼女は手加減を感じられる弱い力で、グレイの手を優しく引いた。それに抵抗する余力も無く、グレイは連れられるまま彼女に着いて行く。
誘導されたのは、雑踏渦巻く大通りからいくつか道の外れた、人気の無い路地裏。稀に誰かが通り抜ける程度の人通りのそこは、陽気な街並みと相対して薄暗く陰っている。
〈ここなら、誰も聞いてない。話していいよ〉
話を聞く体勢を取るように、テラは道脇の室外機に腰をかけて頷いた。その側にグレイも、商品鞄を立てかける。自身より年若い彼女の信頼できる姿が大きな存在に思えて、グレイは萎れた花のように俯きながら、独り言のように言葉を吐き出し始める。
「ここ一ヶ月、ビザールレディが襲撃して来てねぇんだよ。一度も」
〈それは、いいことなんじゃないの?〉
「勿論いいことだ、いいことに決まってる。自分が知らないところで友達が死んでいくことも無いし、皆も体を休めることができる」
しかし、戦争が終わったわけでは無かった。いつ警報機が轟音を響かせるかもわからず、油断をしながら好きなことに没頭することもできない。いつまた襲撃が再開するかも全く不明なため、昼間まで布団の中で眠っていることもできない。休暇をとって首都の家族に会いに行くことも安易にはできない。
「何よりも、俺が、俺自身が気が気じゃねぇんだよ。この間に奴らが強大な力を用意してるんじゃねぇかって考えたら、安眠も休暇も糞もない」
〈どうして?〉
「この戦争は、俺のせいなんだよ」
附していた目をあげて、グレイはテラの顔色を伺った。驚いたのか僅かに目を見開くが、直ぐに真剣な面持ちになると、話の続きを促すように再度頷く。
「俺が生きてるからこの戦争がはじまって、俺が死なないからこの戦争も終わらない」
〈グレイが、何か悪いことをしてしまったの?〉
「──いや、何もしてない。何も」
詳細まで話す気にはなれなかった。それでも、グレイがただこの世界に産まれ落ちて生活をしているだけという事に、虚言は内包されていなかった。
〈じゃあ、グレイのせいじゃない。貴方が直接この戦争を引き起こしたんじゃないのなら、貴方のせいじゃない〉
テラは速筆で、しかし丁寧な字で書いたそれをグレイに提示しつつ、さらに次のページへ新たな言葉を綴り続けた。
〈詳しくは聞かない。もしかしたら貴方が何かやらかして、隠してるかもしれない〉
「皆、俺のせいで死んだ。戦場に駆り出されて、それで」
〈誰も貴方を恨んでない、貴方は何も悪くとは言わない〉
テラは微塵もグレイの様子を確かめることなく、ただ鉛筆を紙面に走らせ続けた。
〈死んでいく中でそれが不本意だった人も少なからず、いや、大半がそうだったと思う。将来の夢があった人、大事な家庭があった人、理由は様々だろうけれど〉
単語の一つずつが、段々と整った字体になっていく。時間を費やして徐々に連ねられる字面と動き続けるテラの腕を、グレイは食い入るように見つめた。
〈グレイのことを強く憎んでた人もいるかもしれない〉
グレイは唇を噛み締めた。かつての友に追われる夢なら幾度だって見て、その度に流れる脂汗に気分を悪くしてきたのは忘れられない。
ふと、テラの手が止まった。鉛筆を走らせること無く、これまでに書き終えた数十のページを遡る。
〈それで、それがどうしたの?〉
その文字は、擦れて掠れた、それでいて濃い筆圧で書かれていた。
〈だから貴方は死ぬの?〉
ページを捲る。
〈数々の屍を越えてきた貴方には、生きる義務があるでしょう〉
堰を切ったように文章が提示される。
〈例え全員が貴方を憎んでいようと、地獄に道連れにしてやりたいと思っていようと、貴方のために誰かが死んだ事実に変わりはない。だから誰も恨んでなんかいないなんて言うつもりは毛頭無い。ただ、死んだ人達全員、無駄死にで済ませたいの?〉
一面に敷き詰められた文を読むが早いか、グレイはまた下を向いていた顔を勢い良くあげた。すると視界に映るのは、何故か泣きそうな顔をしたテラの姿。
「そんなつもりは」
思わず躊躇しながら否定をこぼすと、テラは紫根の目の尻に溜まっていた涙を手の甲で拭って、再びページに手をかけて捲る。
〈だったら生きて。泥水啜って地べた這いつくばって、さらに人身を賭して生きて。これ以上さらに犠牲を増やして、全世界から反感を買っても生きて〉
テラの声が聞こえてくるような感覚を身に浴びて、それが幻聴だと気がつくのに時間がかかった。責めるような、それでいて諭すような文面は、元よりそのノートに書かれていた物を知っていながらも、グレイに向けて書かれたように思えてならない。
〈理由もなく──生きるのが疲れたとかいうちっぽけな理由で死んだら、私は絶対に貴方を許さない〉
グレイは、頭を抱えてしゃがみこんだ。詳細は彼女に全く口伝していないのに、テラはグレイの心に寄り添った。思わず苦笑を零しながら、顔を覆った腕越しにテラの顔を見上げる。
「お前にまさかこんなこと言われるなんて、夢にも思ってなかった」
〈私が今までずっと、ある人に言いたかったこと。貴方にも言いたくなったから、貴方に先に言うことにした〉
下から見た彼女の顔は紙で隠されていて表情を確かめるには至らず、グレイは力の抜けた足を無理矢理動かして起立する。テラはもう、泣いてはいなかった。しかし何処か虚無に浸ったかのような、別の場所を見ている表情。ある人、のことを考えているのだろうなとグレイは思ったが、詮索する気は微塵もわかなかった。
〈それに少なくとも、この戦争が終わらないのは貴方のせいじゃない。この戦争は〉
見下ろす大勢になったテラの手元がそんな字面を綴り始めているのが、グレイにはよく見えた。しかしテラを知ってか知らずか、紙面に書き続けようとしたその文章の上を、乱雑に色濃く鉛筆で塗りつぶした。
〈やっぱなんでもない〉
黒が大半を覆った紙の隅に控えめに、そんな訂正の言葉が飾られる。グレイはそれを見て首を傾げるが、追随して何かを問う気にはならなかった。誰も通過せず誰も口を開かず、何かを書く摩擦音も聞こえない時間がすぎる。それを破るようにグレイは大きく嘆息すると。
「わたあめ、食べにいくか?」
喧騒の街路に目をやりながら、独り言のように呟いた。それを逃さずに拾ったテラは、腰を掛けていた室外機を蹴って勢いよく立ち上がる。
〈たべる!!!〉
ページを数枚捲り、これまたあらかじめ書かれていたかのような文をグレイに突きつける。元より購入してもらう気概だったのだろう。先程までテラの椅子だった室外機に立て掛けておいた商品鞄を両腕に提げると、勝手に駆け出したテラを追うようにグレイは足を勧めた。
当初ほどの懊悩は、その脳内に残留しては居なかった。
その瞬間のことだった。
ィィィイイインヴィィィィィイイイン
グレイにとっては聞き慣れた轟音が、突如として鳴り響く。重くノイズ混じりの機械音が空気を震わせ、心臓の鼓動を早める。グレイはまるで調教された犬のように反射で身構えながらも、声すら発することのできない緊張感で肉体が強ばっているのを自覚していた。
「は、なんで、なんでこの音をここで聞くことになるんだよ!」
『防壁が突破されました。防壁が突破されました。ドロテア国民は有事の際に備え、頑丈な建築物の中に避難してください。ドロテア国民は有事の際に備え、頑丈な建築物の中に避難してください』
無機質に繰り返される防災アラームは、単調なその言葉で、紛うことなき壊滅を示していた。被害実数までは追えていないだろうけれども、死者の数は計り知れない。防衛拠点の生存は望めない。
油断しきっているとすれば咄嗟に手榴弾を携帯することなど不可能だろうし、そもそも既にビザールレディが首都にまで強襲してきているのであれば、防壁付近に群がった傀儡の数が数千はくだらないことなど想像がつく。
〈グレイ?これ何の音?防壁って、ピッチさんのいるところ?何が起きたの?〉
心配そうに紙面を掲げるテラに、グレイは言葉を絞り出すことすらできず、冷や汗を流してぼうっと立ち尽くしていた。
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