発声

 ディルに戦況報告をし、床についたかつての同僚の見舞いへ赴いたその後。グレイは手近な安価のホテルの一室をとり、数日間はそこで寝泊まりすることを決めた。政府のお偉方へ謁見し不穏な現状の詳細を口伝し、検査のために入院中のテラの様子も伺わなければならない故にグレイは、長年利用することの無かったいわば有給の制度を消費したのである。

 約一ヶ月ほどの期間に渡り、職務から自由散策を含め都市部での自由が許諾された。日々の疲れを癒やすまで任務に戻らなくてもいいぞという、さらに猶予を与えるかのような中年事務員のお言葉つきで。

 時間を持て余しつつグレイはテラが入院する病院へと赴いた。入り口で受付を済ませると、来院者の札を手渡されながら部屋番号を伝えられた。院内でも比較的上層の階の小部屋を利用しているとのこと。死体現象による感染症の疑いがある以上は、一般患者とは少し離別された位置にされる。

 昇降機に揺られながら階層をあがってたどり着いたのは十一階。テラの使用する病室があるとされる場所。一階や二階と違って廊下の各所の窓には不透明硝子フィルムが貼られ、網目の格子が外部に取り付けられている。患者の自殺を対策するものだろう。窓外の景色も拝めないそれを横目に歩きながら、グレイは受付で案内された病室番号の札がついた戸口をノックした。

「はいるぞ」

 引き戸を開くと緻密な機器が取り付けられた寝台で体を起こしながら、テラが窓外を展望していた。通用口とは違ってフィルムも柵も設置されていない部屋からは、ドロテアの栄えた壮麗な街並みが一望できる。

 入り組んだ街道、見下ろす街路樹は青々と葉を揺らし、花壇に咲く小粒のような花々にも普段とは別種の可憐さを感じられた。時折小鳥が付近を飛行しては不思議そうな顔をして病室を覗き、また何処かへ居なくなる。地上とは一風変わった情景に見惚れてしまう気持ちはグレイにも理解できた。

 患者が常時滞在するこの場にこそ自殺防止の備えをしておくべきだと心底思いはしたが、テラに対して言うにしては不相応なその不満は口に出さず飲み込む。汚れの無い白色の布団を腰丈までかけながら、テラは何処か楽しそうに口角をあげている。彼女もこの光景が気に入ったのだろう。

「調子はどうだ?」

 声をかけると彼女は、今更気がついたかのように肩を震わせ、寝台横の卓上にあったクロッキー帳を手に取って鉛筆を走らせた。

〈ぼちぼち〉

「何処か痛むとかは?」

〈万事オーケー無問題〉

「そうか、ならよかった。何かあったら先生に直ぐ言えよ」

〈了解〉

 紙の扱いも既に手慣れたのか、一度の文章を見せる中でページの隅に猫や兎の落書きが残され、一文が簡潔にそしてわかりやすくなり始めた。迅速な会話を済ませると、グレイはテラと取り留めのない世間話をしようと近場の椅子を寄せて腰掛ける。しかしちょうどグレイが着席したのと同時に病室の戸が優しくノックされた。

「失礼しまーす。お体の具合はどうですか……ってあら、御見舞ですか?」

 横開きの戸の奥から現れたのは白衣を身にまとった女性。看護師が検査に来たのかと思いグレイは座ったばかりの席から咄嗟に立ち上がった。

〈先生、この人が昨日話した人だよ〉

「嗚呼なるほど、病院に連れてきてくださったって方のことですね!はじめまして、私テラさんの担当医を努めさせていただいている、咽喉科のエマと申します」

「自分はグレイです。テラの知り合いみたいなもので……よろしくお願いします」

 一概に保護者と名乗って良いものかわからず、反射的に言葉を濁らせた。しかし医師は気に止めるような様子も無く、背が高いですねと朗らかに笑って見せている。

 担当医が女性医だったことにもグレイは驚愕したが、何よりも彼女の担当区分が咽喉科であることに違和感を覚えた。ビザールレディによる感染症の疑いから内科もしくは皮膚科に分類される医者が担当すると思っていた。咽喉科専攻ということは、ビザールレディによる害よりもテラの喉の調子の方が悪状況であることを示している。

「先生。検査をしてみて、どうでしたか?テラの体から何か異常が見つかったりだとかは」

「今日は、そのことについてお話に来たんです。どうぞ、お掛けになってください」

 医師の指示するまま先程まで起立と着席を繰り返していた椅子へ再び腰を下ろすと、その様が面白かったのかテラが少し苦笑したのが聞こえた。それに合わせて担当医も微笑むものだから、グレイは少しばかり居心地の悪さを感じながらもテラの側に寄り添うように椅子近づけ、話を聞く構えをとる。

「まずは感染症についてですが、検査の結果、罹患時特有の体内組織の数値的異常は見られませんでしたので問題ありません。ですが噛み跡が深いので細菌などの侵入を防ぐ必要があり、衛生状態が保たれた環境で数週間過ごして頂くことになります」

 資料に目を通しつつ医師が言った言葉に、グレイは安堵が自身の心を染めるのを実感した。死体現象の進んだ遺体内で病原菌が急激に増繁殖し、体液を媒介として人体に移ることで発症をする事例は過去にもいくつかあがっている。

 罹患したものにもよるが、最悪の場合は細胞の壊死や感染者が死亡してしまうことも。その可能性の芽が潰えたということは、テラにとっても周囲の人間にとっても喜ばしいことであり、グレイも例に漏れずそれを歓喜した。

「そうですか、それはよかった……それで、テラの喉のほうはどうだったんですか?」

 胸を撫で下ろしながら、畏まった態度でグレイは問う。すると医者は少し困惑したように眉を寄せて、顔色をうかがうようにグレイへと向き直る。

「その、ですね。テラさんは文字も書けますし、言語能力が備わっていない訳では無いんです」

「まぁ確かに、文面上ですけど会話はできまね」

「はい。ですが、精神的なショックで一時的に発音が困難となっているということでもなくて」

「えっと、それは一体どういう?」

「テラさんに血縁者の方、または事情を知っていそうな、現在保護者としての立ち位置にある方はいらっしゃいませんか?」

 おずおずと言った様子で、医師は言葉を繋げた。しかし勿論、内情を教えあっていないグレイが彼女の親族についてを知るはずもなく。

「いえ、自分は知らないです。テラ、誰か居ないのか?」

〈いない〉

「それは、話したくないって意味でか?」

〈違う。親は本当に居ない。けれど、家族代わりみたいに優しくしてくれた人は居る〉

 保護者、親権の所有者にある立場の人間ということだろうか。テラが孤児であると仮定すれば、拾って育ててくれた人という考え方もできる。内情の何も吐露していないテラに対して乱雑に踏み込んで問うことができないため、グレイは聞こうとした言葉を飲み込むように一瞬口を噤んだ。

「その人の名前、分かるか?」

 考えに考え抜いて、当たり障りの無い言葉を吐き出した。本当ならばもっと本質をついた事を問いただしたいところだった。出生は何処なのか、住居はどこに置いているのか。両親は何故居ないのか、どうして一昨日あの場所に居たのか。聞こうと思えばきっと溢れ出て止まらず、無礼なまでに詮索してしまう気がしたから、グレイは咄嗟に発言の内容を変更した。

 しかしテラは、幾ら待っても筆を執ろうとしない。紙面に筆先をつけて、躊躇ったように離し、また鉛筆を走らせようとして一文字書いてやめる。何かを悩んでいるかのような素振りだった。保護者の氏名や文字の綴りがわからないというよりは、書くこと自体を考えあぐねているような様相。

〈ソフォラ〉

 たった一言。しかしこれまでにテラが今までに書いた文章や単語のどれよりも整った字体で、ページを一枚消費しながら丁寧に小さく記されたそれ。その女性──ソフォラという名前は基本的に女名なので、きっと女性なのだろう──がどのような素性と風貌をしているのか、年齢すらグレイは知り得ないが、テラにとってどれほど大事な存在なのかが浮き彫りになる一文字だった。

「それで、何か関係あるんですか?」

 これ以上踏み入ることを遠慮してか、話を早急に切り替えるようにグレイは医者へ向き直る。

「いえ、保護者の方なら事情を詳しくお聞きすることができたのですが……テラさん、私の口からお伝えしますか?それとも、貴方自身の文章で話しますか?」

〈先生お願いします〉

 理解のできない会話がグレイの眼前で繰り広げられる。右見左見して伺った医師とテラの表情が、何処か少し曇ったように思えた。

「わかりました……グレイさん、テラさんはですね、言葉を発することができないんです」

「それは、どういう?」

「発音において必須とされる声帯。その全てが既に摘出されており、テラさんは今後一生、自身の声を用いた会話を行うことは出来ません」

「は?」

 絶句した。吐息のような疑心の言葉が漏れ、そのままグレイは口を開いたまま何も言えなくなる。理解ができず、次ぐ質問を咄嗟に考え出す脳味噌すら働かない。しかしグレイは既に、思考の奥で医師の発言を嚥下できていた。現状とその事実が隙間なく合致するからである──否。グレイの中には一つだけ疑問が残存していた。

 何時施術をしたのかということ。出生時に声帯に異常がある事例は、稀有だが世界の各所で発見されている。しかし声帯が産まれつき無いという新生児はいない。

 グレイはテラの首元を一瞥した。入院着を着用しているからこそ、その痕はよく見えた。咽頭摘出手術を行ったとするのならば、必ず残るであろう手術痕。鎖骨と、おとがいの合間にできた一文字。消えきっていないその傷跡は、摘出の処置が行われてから過ぎた月日が浅いことを明確に示している。彼女が未だに発声できると勘違いしたかのように口を開閉する素振りを見せたり、喀血をしている事を考えれば、声帯が失われたとされるのは。

「傷口の状態や事後症状から見るに……ちょうど、一年ほど前の手術かと思われます」

 グレイは心中にて防壁施設の医者に対して毒を吐いた。手術痕の見分けすらつかないヤブ医者が、と。それと同時に、真摯な目でグレイを注視するテラを見つめ返す。紫根の瞳を瞬かせる彼女は、何も言わなかった。何も言えないというのが正しいが、文字を書く素振りも発音する仕草も無い彼女は、何かをグレイに伝えるつもりがないのだろう。

「先生は何か、テラから聞いていないんですか」

「いえ……質問こそしたんですが、本人は何もわからないの一点張りで」

「質問って、どんな」

「咽頭癌などを発症したのか、喉の腫れが肥大化したことはあるのかなどを」

 担当医が思い起こすように言う中、テラはクロッキー帳のページを数枚戻して見せた。そこにあるのは、医師とやり取りをしたときに記入したと思われる文章の数々。

〈覚えてる限りで、大きな病気になったことは無い〉

〈手術はした。けど関係ないと思ってた〉

〈血が出ちゃうだけだったし〉

〈なんで手術したのかは私にもわからない〉

〈嘘じゃない。手術をするって言われたからしただけ〉

 各所に書かれたその文面を流し読みして、グレイは頭に酷い鈍痛がするのを覚えた。彼女が事実を伝えなかった理由は、口伝するタイミングや心境の問題だろう。出会って二日の人間に自身の過去を曝け出す気概はグレイにも無い。本人が知らずに外部の人間のみが把握する症例などあるはずが無い。となると、本当に何も発症していないと思われる。

 とすると、何故摘出を行うことになったのか。皆目検討もつかない事案であるが故にグレイは思わず頭を抱え、萎れた花ように俯いた。そんな姿を心配そうに見るテラの純真無垢な表情が理解できず、グレイの思考は一層堂々巡りをする。思えば出会って未だ二日の二人は、互いの心境も状況も素性も、名前以外は何も知らないのだった。

 テラの身体状況を見聞して書類に記述した医師は、少しばかり気まずそうな顔で眉間にシワを寄せ、居心地の悪さをあらわにした表情のまま退室して行った。室内に重苦しい静謐が満ちる。テラが何か話題を提示する素振りもなく、グレイも彼女に対して話しかける勇気がわかないでいた。

 互いの呼吸、窓の外を吹き荒ぶ風、布団の摩擦。全ての音が明瞭に聞こえるほどの静寂。唯一発声の行えるグレイでなければ打破できない状況が築き上げられてしまい、息を吸うことすら息苦しい空間に耐えきれず、肺の中の空気を全て吐き出す程に大きく嘆息して言葉を紡ぎ始めた。

「ドロテアは戦争をしてるわけじゃねってのが、お偉方のお題目なんだよ」

〈急にどうしたの?〉

 心底困惑したように訝しげに顔を歪めて、テラは文面を掲げてみせる。

「お前が、家族について話したくなさそうだったから。紙に書いてこそいねぇけど、嫌な気持ちにはなったんだろ?」

〈なんでそう思ったの?〉

「顔に出てる」

 そう告げるとテラは、ハッとしたように自身の両頬を包んで隠した。先程までの彼女の表情は調子が良いとは思えない様子で、機嫌が悪くなったのか鋭い目つきで空虚を睨んでいた。

「嫌々言ってる相手に何かを強制すんのは嫌いなんだよ。等価交換みてぇな、そもそも等しい価値なのかもわからねぇが……俺にとっての話したく無え話の一つだ。これでお愛顧にしてくれると助かる」

 グレイは彼女に対して少なからず罪悪感を抱いていた。無理強いのように聞き出して、彼女が筆を執らなければならない状況を作り上げた。それがどうしてもグレイの信念に背いてしまい、心の中に暗澹と立ち込めた靄を払うには、自己満足といえども何かをする他思いつかなかった。

「多分だが、この国の技術を結集させて武装すれば、気取った孔雀みてぇなマダスティアの安上がりな防衛なんざ、一ヶ月もあれば壊して蹂躙できるんだよ」

 しかしドロテアが作戦行動にそれを含めないのは、この戦いが防衛であって戦争ではないため。勿論、そこまでに大仰な指揮をとるには良質な兵士は潰えてしまっていて、とても攻めきれるような現状では無いというのも含まれてはいる。

 マダスティアは傀儡兵こそ世界を脅かす程の脅威だが、それを退けた後に残った人間のみの戦力は、周辺他国と比較してみれば赤子程度の非力なもの。本格的な戦車を用いて対人榴弾を装填しようものなら即座に壊滅することだろう。

 しかしドロテアのお上は、それを良しとはしなかった。マダスティアとドロテアの国民全てを巻き込んでまで、無意味な殺生をする意味はないとの主張を長年曲げないのだ。

 ドロテアの最上位に腰を掛けている総統は、真摯な姿勢を貫く、よく言って誠実悪く言って傲慢な、支配者としての才覚のある人間。故にグレイ達防衛兵が行うのは、攻めてくる傀儡から国を守るのみ。身を賭して、例え死亡するリスクを小さな上背に抱えようとも、という枕詞が附随してはいるが。

 グレイはただ、終わらぬ争いに終止符を打つためだけに、最適解を選んで戦い続けるだけである。それでも心の何処かでは、死者を量産する現今の体制に憤怒を抱えてはいる。もう誰も死んでほしくないから。

「とりあえず、俺は現状が嫌いだって言う話だ。おまえが家族について話すのが嫌そうだったから、俺も嫌いなことを話した……って、嫌いの方向が違うかもしれねぇけど」

 グレイはそうして、自身の感情を吐露した。その間テラは紙面に何も記述することは無く、頷きを交えてグレイを見つめ続ける。

「長々とつまんねぇ事に時間使わせちまったな、すまん」

 話を終えて再び静かな空気が場を支配したのが気まずくて、グレイは気を紛らわせるように頭を掻く。テラの心情を悟るのが嫌で、彼女と目を合わせることはしなかった。

〈大丈夫。話してくれてありがとう、これで貸し借り無しだね〉

 俯いた視界の端に映ったページには控えめな文字が綴られており、グレイの吐き出した中身のない虚ろな不満に否定も肯定もしない姿勢は、少なからず心の支えになった。

「そうなったんならいいんだけどよ……んじゃ、今日はもう行くわ」

 その場から逃げるように椅子から立つと、テラは速筆で文字を書く。

〈お見舞いありがとう〉

「見舞いってほどじゃねぇだろ、俺が愚痴りに来ただけだ。暇さえあれば明日も来るから、その紙に絵でも書いて時間つぶしてろよ」

 最後までテラ自身に対して一瞥することは無く、グレイは病室を後にする。その胸のうちには、未だ不可思議な彼女という存在に対する疑念と、互いに開け広げることのない心情への距離感を抱えていた。

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