第22話

 飛鳥さんとの話のあと、なかなか寝付けないまま朝を迎えた。部屋がだんだんと明るくなっていくのをボーっと見つめているとコンコンという遠慮がちなノックの音が聞こえた気がした。看護師さんが回ってくるには早すぎるし、と思った瞬間に一つの可能性が頭をよぎった。もしかして、ううん。もしかしなくても……。


「はい」


 返事をすると、静かにドアが開けられて――そこには綺麗な女の人が立っていた。やっぱり……。私は、その人を知っていた。あれは……望ちゃんの、お母さん……。


「おはようございます」

「……おはよう、ございます」

「朝早くごめんなさいね。でも、もうじき……病院を去らなきゃいけないから」

「っ……」


 その言葉が意味するところを、私は、知っている。きっと、それは――。


「その表情じゃあ、もう知ってらっしゃるみたいね」


 悲しげに、望ちゃんのお母さんは微笑むと私に頭を下げた。


「昨日の夜遅くに、娘は――望はなくなりました」

「あ……」

「先生たちが駆けつけて下さったときには、もう手遅れだったみたいで……私も、死に目には会えなかったの……」

「っ……」


 その言葉に、私は何も言えなかった。

 だって、私は知っていたから。その瞬間を、この目で見たのだから。


「生前、娘を可愛がってくださって、ありがとうございました」

「そんっ……な……」

「いつも、お姉ちゃんと遊んだのってとっても嬉しそうで……入院中だっていうのに、たくさんあの子が笑っていられたのは、きっとあなたのおかげ……ね」


 そう言った望ちゃんのお母さんの肩が、小さく震えているのが見えて、私は首を振ることしかできなかった。

 私に、そんな言葉をかけてもらう資格なんて、ない。だって、私は死神さんが――あの人が望ちゃんの魂を取るのを止めることができなかったんだから。

 どうしてもっと早く気付かなかったのか……。ううん。本当は、心のどこかで望ちゃんの言動がおかしいことに気付いていた。「お兄さんにお願いした」って望ちゃんが言ったときに、どういう意味だろうと疑問に思ったこともあった。でも、それを確かめるのが怖くて私は何も言えずに疑問に思う心に蓋をした。気付かないふりをした。あのときに確かめていれば、もしかしたら……。


「っ……それじゃあ、失礼します……」


 望ちゃんのお母さんは、ハンカチで目頭を押さえると必死に笑顔を作って、そして私の部屋から出ていった。


「……辛い、なぁ」


 望ちゃんのお母さんがいなくなった病室で、私は思う。私も、お父さんやお母さんにあんな顔をさせるのだろうか、と。あんなふうに悲しみに満ち溢れて、辛くて悔しくてやりきれないというようなあんな顔を、させるのだろうかと。

 今まで病気になったことで、両親にはたくさんしなくてもいい苦労を、迷惑をかけてきた。なのに、最期の最期まであんな思いをさせるなんて、辛い。どうしようもなく、辛くて苦しい。


 しばらくすると、再び病室にノックの音が響いた。


「おはよう、真尋ちゃん」

「……看護師さん」

「朝ごはんの時間よ」

「……食欲がないので、いらないです」

「え……」


 私の表情を見て、何かを悟ったのか看護師さんは机の上にトレーを置くとベッドのそばに置いてあった椅子に座った。


「もしかして、聞いた?」

「っ……何を、ですか」

「望ちゃんのこと」

「…………」

「聞いたのね」


 思わず俯いた私を……看護師さんはギュッと抱きしめてくれた。そのぬくもりが、余計に辛くて悲しかった。


「仲良かったものね」

「っ……」

「悲しまないで、と言っても無理だとは思うけれど……でも、あなたが望ちゃんの分まで生きることが――」

「簡単に言わないで!!」

「……真尋ちゃん」


 私は、看護師さんの身体を押し退けるようにすると、顔を上げた。涙でぐちゃぐちゃになった視界の向こうで、看護師さんが驚いたような表情で私を見つめているのが見えた。


「私だっていつ死ぬかわからないじゃない!!」

「な、なにを言ってるの……」

「それに、私は……私のせいで、私が助けられなかったから、だから望ちゃんは……!!」


 子どものように声を上げて泣く私を、看護師さんは「あなたのせいじゃない」と優しく何度も何度もそう言って背中を撫でてくれた。どれぐらいの時間そうしていただろう、看護師さんのポケットから呼び出しの音がして、私と電話を見比べたあと「ごめんなさい」と立ち上がった。

 「これ、気が向いたら食べてね」と優しく言うと朝食のトレーの上からオレンジとあと牛乳パックを置くと看護師さんは病室を出ていった。

 私は机の上に置かれたオレンジを一口かじる。


「っ……酸っぱい」


 それは甘いのに酸っぱくて、胸が苦しくなるような味がした。

 結局、そのあとの昼食も少ししか食べられなかった。けれど、それでもとりあえず看護師さんは納得してくれた。「あなたのせいじゃないの。あまり自分を責めすぎないでね」なんて言って寂しそうに微笑まれると、胸の奥をギュッと握りしめられたような気持ちになって、苦しかった。


 みんな気を遣ってくれているのだろうか、今日は誰も病室に来ることがない。回診の先生が去ったあと、私は一人きり音のしない静かな病室にいた。


「……ねえ、死神さん」


 私は、気が付けば夕日が沈み始めた病室で、死神さんを呼んだ。

 すると、一瞬躊躇ったかのように息を呑んだような音が聞こえて、それから「何か用かい」と、どこからか声が聞こえた。やっぱり、いた。どこにいるのかと、目を凝らす。すると、窓のそばに見慣れたシルエットがあることに気付いた。


「そんなところにいたの……」

「……今、来たんだ」


 誤魔化すように、死神さんはそう言う。

 その言葉が本当か嘘か、そんなことはもうどうでもよかった。


「あの子は、望ちゃんはもういないの……?」

「ああ」

「そっ……か」


 彼が殺したわけじゃないと、わかっているつもりなのに、それでもその言葉に涙が溢れてくる。もう二度と、あの笑顔には会うことができないのだと改めて思い知らされると、涙が止まらない。


「おにいさんに」

「え?」

「おにいさんにお願いしたらすっかり元気になっちゃったって、いつか望ちゃんが言ってたけど……」

「ああ……。風邪をひいて寝込んでいたときに、少しでも元気にいられる時間が欲しいって言われたから……」

「すご、い。死神って、そん……なことも、できるの……ね」


 あのときの、望ちゃんの笑顔を作りだしたのはこの人だったのだ。嬉しそうに廊下を歩く望ちゃんの姿を思い出して、また涙が溢れてくる。


「あの、さ」

「え……?」


 そんな私に、死神さんはおずおずと口を開いた。


「あの子が、お姉ちゃんに伝えてくれって」

「なに、を……?」

「いっぱい遊んでくれてありがとう。すっごく楽しかった。おねえちゃんのこと、大好きだよ、って。そう伝えてくれって頼まれた」

「っ……!!」


 その言葉が、本当なのかそれとも死神さんの吐いた優しい嘘なのか、私にはわからない。でも、望ちゃんのことを見殺しにしてしまったことを悔やんでいた私の心をほんの少し癒すには十分な言葉だった。

 溢れ出る涙を何度も何度も拭いながら私は、望ちゃんの姿を思い出す。

 私も、望ちゃんと一緒の時間を過ごすことができて楽しかった。まるで妹ができたみたいで「おねえちゃん」って望ちゃんに呼ばれるとくすぐったくて嬉しくて照れくさかった。もっともっと一緒に遊びたかった。いつかまた会えたらそのときは、一緒にたくさん遊びたい。今度は、望ちゃんのことを追いかけて、それでつかまえてみせるから……。だから……。


「……ねえ」

「ん?」


 日が完全に落ちて、真っ暗になった病室で私は死神さんにもう一度尋ねた。


「私が死んだら……望ちゃんのように、死神さんが魂を連れて行くのよね」

「……ああ、そうだね」

「それで?」

「え?」

「そのあとはどうなるの?」


 一瞬の沈黙のあと、死神さんは言った。


「僕はそこまでしか知らない。魂を取って、所定の場所まで連れて行く。それで僕の仕事はおしまいだから」

「……ふーん」


 死神さんの言葉に、私は納得できず、曖昧な相槌を打つ。きっと今、死神さんは首に手を当てている。いつかの廉君のように。なんとなく、そんな気がした。


「じゃあ、そこで死神さんとはお別れなの?」


 そのまま問いかけてもきっと聞きたいことの答えは帰って来ないだろうと、私は質問を変えた。その問いに「ああ」と短く答えると、彼は「じゃあ、僕はこれで」と病室を去ろうとした。


「あっ……」

「……知っているかもしれないけれど、先輩が死神をやめたんだ。その後処理なんかで今バタついていてね。また明日顔を出すよ」

「っ……」


 口を開きかけた私をけん制するかのように、死神さんはそう言った。

 飛鳥さん、本当にやめてしまったんだ……。

 死神をやめたあとどうなってしまうのかとか、聞きたいことはあったけれど私が何か言うよりも早く、彼は病室から姿を消した。


「そっか、お別れなんだ」


 再び、静寂が訪れた部屋で私は一人呟く。

 私の周りから、飛鳥さんがいなくなり、望ちゃんがいなくなり、死んだあとは家族がいなくなり、そして死神さんもいなくなる。

 結局、私はまた一人ぼっちになるんだ。

 そして、その日が訪れるのが、そう遠くない未来であることを私は知っている。

 死神さんが私の元にやってきてから、もう二十五日が過ぎた。約束の日はあと五日以内に訪れる。それはつまり、私の命があと五日以内に尽きることを、示していた。

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