優しい死神は、君のための嘘をつく(旧題:桜色に染まる空の向こうで優しい死神は笑う)
望月くらげ
第1章 はじめまして、死神さん
第1話
真っ暗な病室に、私はいた。うっすらと月明かりが差し込むけれど、真っ白なカーテンに遮られて、部屋を明るく照らすほどではない。
ふーっと息を吐きだして心臓に手を当てる。ドクンドクンと脈打つ鼓動の音が、今日も生きていることを教えてくれる。
「寒い……」
私は手探りで、いつの間にか脱いでしまっていた布団を引っ張り上げる。病室の中に吹き込む風が、春の夜の少し肌寒い空気を届けていた。
「……風?」
思わず口に出して問いかける。そもそも自分自身が感じたことを疑問に思うなんておかしな話だ。けれど、たしかに今、病室に風が吹き込んだ。
……ううん。でも、そんなことあるはずがない。寝る前に戸締りはしたし、看護師さんが来たのだとしても空調が完備している病室で夜中に窓を開ける必要がない。でも、じゃあさっきのはいったい……。
そのとき、カーテンの前で何かが動くのが見えた。
「誰かいるの……?」
それは人影だった。
誰かわからない。けれど、看護師さんじゃないことだけは確かだった。看護師さんなら小さなライトを持っているはずだ。
その人影は私の声に気付くと、一歩また一歩と、ベッドに向かって近付いてくる。
枕元にあるはずのナースコールを鳴らそうとしたけれど、手が滑って上手く掴むことができない。そうこうしている間にも、人影はベッドの横までたどりついていた。
「こんばんは」
少し低めの優しい声がすぐそばで聞こえる。
その瞬間、開いた窓から病室に風が吹き込んで、カーテンが大きく揺らいだ。
「はじめまして、僕は死神です。君の魂を貰いに来ました」
その少年は、
死神と、今この人は言った……? 聞き間違い? ううん、確かにはっきりと私の魂を貰いに来たと、そう言った。
私の、魂を……。
「そう」
「……え?」
「それで? 今日貰ってくれるの?」
「えっと……」
私の返事が気に入らなかったのか、それともこういう答えを想像していなかったのか、死神と名乗ったその人は面喰ったように一瞬言葉に詰まったあと「信じるの?」と逆に私に尋ねてきた。
信じるも何も……。
「あなたがそう名乗ったんじゃない。それとも嘘だったの?」
「嘘じゃないけど……。ただ、だいたいの人間はそんなにすぐに信じないですから」
たしかにそうかもしれない。自分は死神だ、なんて言われたら普通はこいつ頭おかしいんじゃないか、と思うだろう。でも、ここは病院で、私は病人だから。いつも死が隣り合わせにあった。同じ病棟で、突然誰かが姿を消すことだってあった。気付かれないようにそっと病室が空っぽになって、そして知らないうちに新しい入院患者が入っている。そういうところなのだ、ここは。
「そうなの。でも、私は信じるよ。だから早く魂を持って行って」
「どうしてですか?」
「嫌になっていたの。こんな生活を続けることが。……それに、桜も咲かないし」
「桜? 桜なら外にたくさん咲いて――」
「そんなことより!」
私の言葉に死神さんは振り返って窓の向こうに咲く桜を指差す。そこに桜が咲いていることなんて知っている。知っているけれど、その桜は私にとっては何の意味もないものなのだ。あの、桜以外は……。
私は窓の外に咲く桜から目を背けると、てのひらをギュッと握りしめ、もう一度さっきの言葉を繰り返した。
「今日、貰ってくれるの?」
「……今日は無理です」
「じゃあ、明日貰ってくれるの?」
「明日も無理です」
淡々とした死神の口調にイライラする。今日も明日もダメだというのなら、いったいいつならいいというのだ。
不服そうにしている私の態度に気付いたのか、死神はフード越しに頭を掻きながら、不思議そうに問いかけてきた。
「どうして、そんなに死にたがるんですか? 殺さないでくれって言ってくる人はいても、あなたみたいに早く貰ってくれなんて言う人は初めてです」
「……別に。早くあちらに行きたいだけ」
「どうして?」
「どうしてって……」
「何か理由でもあるの?」
いつの間にか敬語が抜けた死神さんが私に尋ねる。
あぁ、もう。どうしてどうしてと質問ばかりめんどくさい。そんなの……。
「私が生きていると、邪魔だからに決まってるじゃない」
「邪魔って……」
「……家族に、迷惑がかかるのよ。こんな出来損ないの、お荷物のような私がいちゃあ」
吐き出すように言った言葉に、死神が息を呑むのがわかった。私の魂を取りに来たくせに、どうして私のことに私以上にショックを受けるのか。顔なんか見えないくせに、態度から私を気の毒がっているのが分かる。やめてほしい。それじゃあまるで、私が可哀そうな子みたいじゃない。そうじゃない。私は、私の意志で……。
「別に、死ぬのは怖くないの」
「……そう」
「たくさんの友達が先に逝って向こうで待っているからね。早く逝って久しぶりにみんなの顔が見たいぐらいよ」
いつの間にか、ギュッと握りしめていたシーツから手を離す。しわが寄ってぐちゃぐちゃになったシーツは、まるで泣くのを我慢している顔のようだった。
「っ……」
まるで私の心の中を見透かされたようで、ぐちゃぐちゃになったシーツを引っ張ると、私は「それで? いったいいつ私を殺してくれるの?」と目の前の死神に尋ねた。死神はコホンと咳払いを一つして、口を開いた。
「
「あってるわ」
「そう。……さっきも言った通り、君の命はもうすぐ尽きる」
「具体的には、いつ?」
「今日から三十日以内」
三十日以内……。と、いうことは最長であと三十日も生きていなくちゃいけないのか。
早咲きの桜が咲き始めた窓の向こうに視線を向ける。三十日後にはきっと、桜は散ってしまっているだろう。つまり春が終わるころ、私は逝くということだ。あの桜に、見送られながら。
「話を続けてもいいかな?」
「ええ」
気付けば暗闇に浮かぶピンク色の桜の花をジッと見つめていた私に、死神は声をかけた。ほんの少しの動揺も気付かれたくない。私は何でもないふうを装って、死神へと視線を戻した。
「三十日以内に、何らかの要因で君は死ぬ。そして、僕がその魂をあの世に連れて行く。以上だ」
「ねえ、三十日以内って全然具体的じゃないよね? それに何らかの要因ってどういうこと? 病気で死ぬんじゃないの?」
「何日に死ぬ、ということは教えることができない」
「どうして?」
「……以前、死神から自分が死ぬ日を聞いた人間が、それよりも早くに自殺してしまう事件が起きたんだ。死因も変わってしまって、あの時は大変だった」
死神は何かを思い出したかのように、フードの上からこめかみのあたりを抑える。他人事を装って言っているけれど、この反応は案外伝えた死神本人なのかもしれないと、私はそう思った。
「だから、死ぬ日を教えることはできない」
「そう。なら、死因は?」
「それもダメだ。死因を変えられてしまうかもしれない」
「ケチなのね。じゃあ」
もしも、先程のあれが私の思い違いじゃなくて、この死神が過去にやらかしたことなのだとしたら。そういう甘いところがある人なのだとしたら。
私は、私自身の左胸を指差した。
「一つだけ教えて。それはこのポンコツな心臓が原因?」
「……違う」
悩んだような間のあと、死神さんは手帳のような何かを見て首を振りながらそう言った。あの手帳のようなものに何かが書いてあるようだ。背表紙には頭の欠けた星が印字されているのが見えた。どうして欠けているんだろう? 一瞬、そんな疑問が頭をよぎったけれどそんなことは別にどうでもいい。それほどまでに興味があるわけでもない。
「そう。……これだけ長いこと病気で入院しておいて、心臓が原因で死ぬんじゃないなんて
思わず笑いが込み上げる。なんのために、今まで治療をしていたというのだろう。なんのために、今こうやって一人で入院しているというのだろう。心臓が原因で死ぬのでないのなら、今私がここにいる必要なんてないではないか。
……いや、そんなことないか。私がここにいなくちゃあ困る人たちが少なくともいるのだから。私が病院の外にいちゃあ邪魔な人たちが……。
でも、そっか。心臓が原因じゃないのか……。まあでも、もういっか。あの苦しい思いをして死ぬんじゃないとわかっただけで、少し気持ちが楽になった気がする。
「教えてくれてありがとう」
死因を伝えることはできないと言っていたにも関わらず、心臓が原因ではないことを教えてくれた。
もしかしたら、この人はぶっきらぼうな態度とは反対に、意外といい人なのかもしれない。自分の魂を取りに来た死神にいい人というのはおかしいのかもしれないけれど。思わず、自分の単純な思考回路に笑ってしまう。そんな私を死神は何も言わずにジッと見つめていた。
そして、思わず「ねえ」と話しかけていた。死神は不思議そうに「どうしたの?」と尋ねる。そんな死神に、私はまるでいたずらを思いついた子どものようににっこりと笑って言った。
「それじゃあ、その日まで私の喋り相手になってもらおうかな」
「え?」
「よろしく、死神さん」
もしかすると死神さんは今、困ったような表情を浮かべているのかもしれない。
笑顔を浮かべる私とは対照的に「あー……」だの「それは……」だの往生際悪く言っている死神さんに、なんだかおかしくなって私はわざともう一度「よろしくね」と言う。すると、そんな私に観念したかのように「……よろしく」と消え入りそうなほど小さな声で死神さんは呟いた。
これが私と死神さんの、長くて短い三十日間の物語の始まりだった。
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