第9話

 気が付くと私は、外にいた。ここは、どこだろう? あたりを見回すと、桜が満開でお日様の光が眩しかった。ああ、そうだ。ここは、病院の外だ。たくさんの桜の木が植えられている、あの場所だ。

 懐かしい場所に胸の奥がキュッとなる。そんな私の耳に「きゃはははは」と小さな子どもが笑い合う声が聞こえた気がして、思わずそちらへと視線を向けた。


「あれは……まさか、私?」


 少し離れたところにある桜の木の下で、今よりももっと幼い頃の私が楽しそうに笑っていた。

 そうか、これは夢だ。きっと懐かしい夢を見ているんだ。楽しかったあのころの夢を。それならば、もしかして彼もいるかもしれない。小さな私が大好きだった、彼が――。


「真尋」


 誰かが、小さな私を呼ぶ声が聞こえた。温かくて、優しい声で。


れん君!」


 小さな私の口から出たその名前に、心臓がドクンと音を立てて鳴るのを感じた。

 幼い私の視線を追うようにして、私は桜の木を見上げた。廉君は、桜の木の枝の上に立って、幼い私に手を振っていた。

 懐かしい……。廉君――椎名しいなれん君は、私より二つ年上の同じように入院している男の子だった、

 廉君の病気がなんだったのかは知らないけれど、たまに部屋から出てこないときがあった。でも、それ以外は元気でこうやって二人で病室を抜け出して、病院の中庭や併設されている小さな公園で遊んだりしていた。

 そういえば……。桜の木に登って、入院中なのに廉君が足の骨を折って、看護師さんに二人してこっぴどく怒られたこともあったっけ。

 看護師さんに二人でごめんなさいをして、それから顔を見合わせて笑ったことを今でもはっきりと覚えている。


「真尋、もう熱は大丈夫なの?」

「うん。ビックリさせてゴメンね」

「僕の方こそ……。無理させちゃってごめんね」


 器用に桜の木から降りてくると、廉君がしょんぼりとした顔で幼い私に謝っているのが見えた。私よりも少しだけ背の高い廉君が頭を下げると、幼い私よりも小さく見える。

 でも、熱……? と、いうことはこれは……。そっか、これはあのときの――。

 廉君と二人して遊びまわったあと、私は熱を出して生死の境をさまよったことがあった。

 と、いっても廉君のせいじゃない。私が一緒にいたくて無理をして、そのせいで体調を崩したのだ。でも廉君は自分のせいだと言って、この日以降、私を外に連れていくことをやめてしまった。だから、これは廉君と最後に外に行った日の出来事だった。

 それが寂しくて、悲しくて、残念で。けれど今思うと、それだけ廉君は自分のせいだと思い悩んでいたのかもしれない。

 でも、そっか。これがあのあとの出来事を回想しているのだとしたら――。


「ねえ、真尋。こっち来て」

「どこいくのー?」

「おじさん、こんにちは」

「廉君か。こんにちは」


 廉君が近くで桜の木の手入れをしていた病院の樹木を管理するおじさんに話しかけた。おじさんは「ちょっと待ってね」というと、荷物を入れた箱の中から何かを取り出すと、廉君の手のひらに載せた。


「それ、なあに?」

「これはね、桜の苗木だよ」

「苗木?」

「桜の木の赤ちゃんみたいなものかな」

「そうなんだ!」


 幼い私がキラキラと目を輝かせて苗木を見つめると、廉君は少しだけ恥ずかしそうに頬を掻いてそれから私に言った。


「この桜の木を一緒に植えよう」

「植えるの?」

「そう。このサイズの苗木が花をつけるまでにだいたい五年ぐらいかかるんだって。だから、花が咲いたら一緒に見よう。ここで」

「でも……」

「でも?」


 あのとき、廉君の優しさが辛かった。だって、この頃の私は――。


「五年後に、私が生きているかどうかなんてわからないじゃない」

「っ……」


 生死の境をさまよったときに、おぼろげな意識の向こうで看護師さんたちが「もう少しもつかと思っていたのに」「思ったよりも早かった」「あと一年は大丈夫だって先生も言っていたのに」なんてことを話しているのが聞こえてきた。

 その言葉が何を意味するかなんて、幼い私にもわかる。ああ、自分は大人になることなく死んでしまうんだと。だから私は、廉君と約束するのが怖かったのだ。約束を守れないことがわかっていたから。


「……大丈夫」

「なにが大丈夫なの?」

「絶対に大丈夫!」

「どうして……」

「もしも真尋が死んでしまいそうになったとしても、僕が死なないでって神様にお願いするよ。真尋のことを連れて行かないでって。だから、絶対大丈夫!」


 今思うと、廉君の言葉にはなんの力もなくて、そんなことを願ったからって死なないわけがない。でも、このときの私には、廉君の言葉が全てだった。廉君が大丈夫だって言うなら大丈夫。廉君ができるっていうなら、きっとできる。そう思わせてくれる何かが廉君にはあった。


「絶対?」

「絶対! 僕が今まで真尋に嘘ついたこと、ある?」

「ない、けど……」


 まだ不安そうに顔を曇らせる幼い私の手をギュッと握りしめると、廉君はもう一度「大丈夫だよ」と言った。


「元気になって一緒に見よう」

「……見れるかな」

「見れるよ! きっと! ううん、絶対!」

「……じゃあ、約束だよ! 絶対の絶対だよ!」

「うん、約束」


 廉君がそう言うと、本当にそうなるような気がしていた。

 小指を絡ませて約束をすると、私と廉君はおじさんからスコップを借りて二人で桜の苗木を植えた。いつかこの苗木が大きくなって、二人で一緒に桜の花を見る日を夢見ながら。


 あのあと、廉君の言葉通り、私は悪化していた心臓がなんとか落ち着いて、死ぬことなく無事五年目を迎えることができた。でも、桜の木が花を咲かせることはなかった。

 周りの桜よりも見るからに小さな木。つぼみもなく葉が生い茂るだけだった。

 そして、六年目の今年も花が咲くことはなかった。

 次の春が来るころには、死神さんいわく私はこの世界にいない。だから、咲くところは結局見られないままだ。でも、もうそれでよかった。だって、一緒に見ようと約束した廉君は――五年後の春を待たずにこの病院から退院して、それっきり顔を見せることはなかったのだから。

 退院の日に彼は「きっと会いに来るから」と言っていた。なのに、一度も来ることはなかった。それでもあの桜が咲く五年目の春にはきっと会いに来てくれると信じていた。だって、約束したのだから。

 でも――結局、彼は来なかった。

 もしかしたら年数を間違えているのかもしれない、と思ったこともあった。来年になればきっと廉君は来る。それで「約束って今年じゃなかったっけ?」なんて恥ずかしそうに頭を掻きながら言うんだ、と。そう信じていた。信じたかった。でも……今年も彼は来なかった。来年も、再来年も、きっと廉君があの桜の木を訪れることはないのだろう。

 きっと彼はあの約束をおぼえていないに違いない。ここでした約束なんて、退院してしまえばきっとみんな忘れていく。覚えているのは、いつまでもこの場所に残されている私だけ。

 私一人であの桜が咲くところを見るぐらいなら――。

 胸の奥がズキンと痛む。私は、忘れたふりをしていた胸の痛みがよみがえるのを感じた。

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