第3話
数日後、その日も当たり前のように死神さんは「こんにちは」と窓から現れた。
彼が現れるのは決まってお昼を少し回った頃。お昼ごはんが終わって、誰も部屋に来なくなった頃だった。
「今日はどんなことがあったの?」
「毎日毎日そんなに面白いことばかりないよ。昨日と同じだ」
「そう? でも、毎日ここにいる私よりはいろんなことがあるんじゃない?」
「…………」
我ながら、嫌な言い方だ。私がここにいるのは別に死神さんのせいじゃない。代わり映えのない毎日だって、もしかしたら私自身が変えようと思えばいろんな変化があるのかもしれない。それを何もせずに一日中このベッドから外を見つめているのは私なのに。
「ごめ……」
「でも」
「え?」
「でも、ここからは桜が見えるよ」
「桜?」
死神さんの言葉に、私は言いかけたごめんなさいを飲みこんで思わず尋ねた。
どうして、よりにもよってその花の名前を……。
「そう。僕、桜好きなんだよね。だから――」
「私は! ……あんな木、嫌いよ」
「え……?」
「それより――」
話を変えようとしたとき、部屋にコンコンというノックの音が響いた。その音にビクッとして視線を向けると、いつの間にか開いたドアの向こうから看護師さんが顔を覗かせていた。
「真尋ちゃん。ごめんねー、朝測り忘れちゃったから血圧測らせてほしいんだけどいいかな?」
「あ……はい」
どうしよう、この状況を何と言えばいいんだろう。思わず死神さんの方を見るけれどフードで表情の見えない死神さんは、声を発しなければ何を考えているのか全くと言っていいほどわからない。
けれど、そんな私をよそに看護師さんは淡々と血圧のチェックなどを行っていく。まるで死神さんの存在になんて、気付いていないかのように。
これは、どういうことだろう。そもそも、だ。病室に私以外の人がいれば看護師さんは挨拶するだろうし、きっと「邪魔しちゃってごめんね」なんて言葉を言うだろう。
と、いうことは――もしかして死神さんのことは見えていない?
そんな都合のいい話があるのかと思うけれど、そもそも私だって生まれてこの方、死神の存在なんて知らなかったし見たこともなかった。小さな頃から何度も病院に入院していて、悲しいけれど永遠のお別れというのも何度かしたことがある私だけれども、自信を持って言える。死神なんて、数日前この死神さんに会ったのが初めてだ。
なら、きっと今まで私に見えていなかったようにこの死神さんも私以外には見えないのかもしれない。そう考えるのが、一番自然だ。
そう思うと急に力が抜けた。心臓がドキドキしていたから、これで寿命が縮まったら死神さんのせいだな-、なんて思うとちょっとおかしくなった。そんな私に看護師さんは「よし、終わり!」と言って腕から血圧計を外し始めた。
「ねえ、真尋ちゃん」
「はーい?」
外した血圧計を片付けながら看護師さんは言った。
「さっき、私が声をかけるまで話してたのって彼氏?」
「え……?」
突然の言葉に、私は頭が真っ白になって何も言えなくなってしまった。
どういうこと? 見えていないと思っていたけれど、やっぱり見えていたの? もしかして、死神さんのことを彼氏だと勘違いして、それで気を使って話を振らなかったとか?
相変わらず素知らぬ顔をしている死神さんにイラっとしながらも、私は看護師さんに何と言ったらいいかわからず、口をパクパクさせるものの言葉が出てこなかった。
けれどそんな私に、看護師さんは何を勘違いしたのか、ベッドの上に置いてあったスマホを指差した。
「ここ病院だからさ、それをあんまりおおっぴらに使われちゃうと困っちゃうのよね」
「え……? あの……?」
「でも、真尋ちゃんは入院期間長いものね。退屈しちゃうわよねー」
「しょうがないかー」なんて言いなが、困ったように看護師さんは笑うと、わざとらしく左右を確認して、それから小さな声で私に言った。
「私だからいいけど……看護師長の前では彼氏と電話しているところ、見られないようにね」
「え? いや、えっと……」
「いいの、いいの。年頃の女の子だもん、看護師さんわかってるから」
どうやら私の話し声だけが聞こえていたようで、やっぱり死神さんの姿は見えていなかったようだ。ホッと小さく息を吐いて、それから話を合わせるように「すみませんでした」と言うと、手をひらひらとさせながら看護師さんは優しく笑った。
「若いっていいわねー。私も真尋ちゃんぐらいのときは楽しかったなぁ」
「そうなんですね」
「そうよお。まあ、もう十何年も前の話だけどね」
そう言って看護師さんは片付けた器具を片手に病室を出て行こうとして、もう一度私を振り返った。
「でもね、無理しすぎはダメよ。楽しくてもほどほどにね」
「はい」
頷く私に微笑むと、今度こそ看護師さんは病室を出て行った。
「焦ったー!」
ドアが閉まって、さらに足音が遠ざかるのを確認してから私は息を吐いた。
「どうしたっていうのさ」
「どうしたって……。死神さんのことが看護師さんに見つかったんじゃないかと思って、ヒヤヒヤしちゃったの!!」
私はベッドの上の枕を手に取ると、死神さんに向かって投げた。それを悠々とキャッチすると、死神さんは「担当の人間以外には僕らの姿は見えないって言わなかったっけ?」なんて
「聞いてないよ!」
「あれ?」
受け取った枕を膝の上にボスっという音をたてながら置くと、すっとぼけたような声を出しながら、死神さんはポケットからゴソゴソと何かを取り出した。それは初めて会った日に持っていた、あの頭の欠けた星の書かれた手帳だった。
「それは……?」
「これは、僕らの仕事道具。ここに自分の担当する人間の名前が書かれている。もちろん、君の名前も」
「そう……。でも、それがどうしたの?」
「この手帳に名前のある人間しか、僕の姿を見ることはできない。逆にいうと、僕の手帳には君の名前がある。だから、君は僕以外の死神を見ることもできない」
つまり、看護師さんには死神さんの姿が見えていなくて、勘違いしてくれたからよかったけれどスマホがもしなかったら私は病室で一人喋っていたと思われていたっていうこと……?
もしかして、看護師さんはずっと一人で喋り続けている私に不安を覚えて病室に来たんじゃないだろうか。血圧を測り直すという理由をつけて。
だとしたら、特に誰かから連絡が来るわけでもないけれど、なんとなくスマホを手に取って近くに置いたままにしていたことが功を奏したのかもしれない。
「なーんだ。それを早く言ってよ! そうしたらあんなにドキドキすることもなかったのに」
「ああ、それであんな百面相をしていたんだね。僕を笑わそうとしているのかと思ってたよ」
「そんなことしないよ!」
思わず突っ込んでしまった私に、死神さんは堪えきれなかったのか「ははっ」と笑い声を漏らした。
こんなふうに笑う姿を初めて見たかもしれない。それどころか、この人が感情を表に出すところ自体初めて見る。
「死神さんも、笑うんだ……」
そう言った私に、ゴホンと咳払いを一つすると「笑ってなんかいないよ」といつものように感情がない声で言う。でも、その声のトーンがいつもよりもほんの少しだけ上ずっているのに気付いてしまって、私は小さく笑った。
「でも、そっかー、彼氏かー」
「ん?」
「そうだ! ねえ、この前言ってた何か思い残すことはないかって話、あれまだ有効?」
「そりゃあ君はまだ死んでないんだから、有効といえば有効だけど……」
なんとなく、嫌な予感がしたのか死神さんは歯切れ悪くそう言った。
そんな死神さんに、私はニッコリ笑う。そして死神さんを指差すと言った。
「私、デートがしたい」
「デート?」
「そう、あなたと!」
「……僕と?」
その口調がとても迷惑そうで、表情なんて見えなくてもこんなにも人の感情というのは伝わってくるのだと私は感心してしまう。
けれど、気付いてしまったところで私だって引けない。
「さっき看護師さんに彼氏って言われて気付いたの。私、今までに一度もデートしたことないってことに!」
「そう、それは気の毒に。なら誰かに頼んで……」
「頼めるような知り合いもいないし、いたとしても言いたくない」
「どうして?」
「だって、何かあったら絶対に迷惑かけちゃうでしょう」
外出中にもしかしたら病気が急変するかもしれない。そうじゃなくても、きっと外出なんてしたら怒られるに決まっている。そのときに、私じゃなくてその人が怒られるようになることが嫌だ。私の我が儘に他人を巻き込みたくない。
「でも、死神さんなら……」
「僕なら?」
「仕事だし」
「それは、そうだね」
「それに誰からも見えないから、怒られることもないでしょう」
「確かに」
私の言葉に、思わず納得しかけたのか「いやいやいや、だからと言って……」と、慌てたように死神さんは言う。
もう一押し。
私は、同情を誘うように、悲しそうな表情を浮かべて死神さんの袖口を掴んだ。
「可哀そうでしょ……? ね、お願い! このまま一度もデートしたことがないまま寂しく死んじゃうなんて耐えられない! 年頃の、女の子なのに!」
私の勢いに押されたのか「あー」だの「うー」だの言いながら死神さんは後ずさりを始める。このまま帰ってしまうつもりなのだろうか。でも、そうはさせない。袖口を掴んだ手に力を入れると「死神さん」と呼びかけた。
「どうしても、ダメ……? 死神さんが、心残りがあれば言えって言ってくれたのに……」
「それは……。でも、僕なんかと言っても楽しくないだろうし……」
「そんなことない!」
死神さんの言葉を否定した私の声が思ったよりも大きくて、ちょっと恥ずかしくなりながらもコホンと咳払いを一つしてそれからニッコリと笑った。
「誰と一緒に行きたいかは私が決めるわ。私は、死神さん。あなたとデートに行きたいの」
そう言い切った私に、これ以上言っても無駄だと思ったのか……死神さんは観念したように小さく頷くと「わかったよ」と呟いた。
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