6-3 揺り籠の中で

 地面を踏み砕きながら、ケースケは弾丸のように飛び出す。

 身体能力だけならば、すでに雨音すらも凌駕している。その上で全身に浮かび上がった目玉が三百六十度を死角なく見張り、四方八方から襲いくる触手を一本残らず捉える。


『てけり・り!てけり・り!』


 不気味な嬌声をあげたのは、自分か、相手か、それともその両方か。

 ケースケは多角的に迫る触手を、人間ではありえない肉体の動かし方でかわしていく。しかし、必死なのは風香も同じこと。すべての攻撃を視覚的にとらえようとも、どのような動きで攻撃をかわそうとも防ぎきれないほどの密度で、触手の暴風雨を作り出す。

 傷口こそすぐ塞がるものの、身体が抉られるたび、自身の質量は減っていく。武器として拾った鉄パイプは、右腕ごと切断され、いつの間にか取り落としてしまっていた。

 風香までの距離が、月に手を伸ばすように果てしないもののように感じる。徐々に身は削られていき、一歩一歩死に近づいて行くのがわかる。このままでは、風香の元まで辿り着くまでに身を削りきられるか、脳天を破壊されるのは間違いない。


 賭け――ケースケは全身の目玉で触手の動きを仔細に捉え、風香までの距離を測る。背後から迫る触手が自分に接触する瞬間に合わせて、渾身の右後ろ回し蹴りを放つ。

 正面衝突する触手の槍と蹴撃。局地的爆発でも起こったような衝撃が走り、右足が四散する。足を失ってバランスを欠いたケースケの身体は、風香に向かって吹き飛んだ。

 狙うは脳。吹き飛んだ勢いそのままに、ケースケは左腕を鋭利な槍に変え、突き出す。

 肉を貫く嫌な感触が、左腕から直接伝わる。

 笑ったのは、風香だった。ケースケが繰り出した渾身の一撃は、風香の右腕によって、阻まれてしまっていた。槍は腕を貫通し、傷口から骨が飛び出していたが、風香の額を薄皮一枚傷つけたところで止まっていた。

 相手を殺すには、脳を破壊するしかない。それは、互いに認識している事柄。なればこそ、風香にはケースケの狙いがわかった。ケースケが右足を犠牲にして距離を詰めたのは予想外だったが、狙いが分かっていればとっさに防御は間に合う。

 ケースケは追撃を放てない。左腕は風香の腕に埋まっていて離れないし、右腕はまだ再生しきっていない。右足も失っているので、離れることもできない。

 身動きの取れなくなったケースケの脳天を狙い、触手の槍が飛ぶ。


 ケースケは体を後ろに倒すことで回避。そのままの勢いでバック転。四肢で唯一残っていた左足を腕に変え、風香の胸元に刺さったままだった玉虫磨穿を掴む。

 一瞬で、刀身の空洞を、ショゴスの体液が血脈のように満たす。魂を与えられた魔刀はバック転の勢いそのままに、風香の胸元から真上に、一直線に線を走らせた。


 ――彼女を初めて見たのは、揺り籠の中で眠る赤ん坊の姿。

 ――誰よりも愛していた。彼女のためなら、修羅になることすら厭わなかった。

 ――とても泣き虫で、怖がりで、甘えん坊で……そして、優しい子だった。

 ――死んで首だけになった彼女。それでも僕にとっては、世界で一番大切な存在だった。

 ――僕はただ、彼女にもう一度、目を覚ましてほしかっただけなんだ。


 ケースケの中で、涼森螢助の記憶がフラッシュバックする。それは兄としての最期の意地か、あるいは奇跡か。彼は少しだけ涼森螢助に戻り、兄として風香を抱きしめた。


「おに、い、ちゃ……」

「……ごめんな、風香。眠ってるところを無理やり起こしちゃって」


 風香の瞳に涙が浮かぶ。変わり果ててしまっても、泣き虫なところは相変わらずだった。

 螢助は風香の頭を撫で、おでこに優しくキスをして微笑んだ。そうすれば彼女も笑い、安らかに眠る。それが彼らにとっての日常だった。


「もうおやすみ」


 風香の顔がゆっくりと左右二つに割れる。そのあまりの切れ味故、斬られた当人は死んだことにすら気付かず、ショゴス=風香は、静かに生命活動を停止させた。


◆◆◆◆◆◆


『てけり・り!てけり・り!』


 制御を失ったショゴスたちが、興奮したように蠢く。

『銀の操手』による支配から解放され、生まれて初めて自由の身となった怪物たちが混乱するのも無理はない。

 ショゴスたちは、先刻まで自分たちが狙っていた相手――ケースケにゆっくりと近づく。

 ケースケは、片腕片足の身体で床を這い、雨音の傍へと寄った。いくらショゴスとはいえ、消耗が激しすぎる。再生には今しばらくの時間がいるだろう。

 雨音の元へとたどり着いたケースケは、その身体を守るように覆いかぶさる。もう戦う力は残っていない。だから、これがケースケにできる最後の抵抗だった。まだほんのり温かい身体を抱きしめ、ケースケは目を閉じる。


『てけり・り!てけり・り!』


 逡巡していたショゴスたちだったが、『ただの仲間』だと思い、その場を離れる。

 どうしていいかわからずにしばらく蠢いていた彼らは、マンホールの蓋を押し上げ、地下水道へと潜っていった。今後ショゴスたちがどうなっていくのかはわからない。ただ、数日も経てば、布槌に新たな都市伝説が一つ生まれることだろう。


「…………はぁ。なかなか死ねないもんだな」


 雨音のような高潔な人間が死に、自分のような化け物が生き残る。そんな現実に、ケースケはやるせない気持ちになる。

 あの世の存在など信じていないが、いっそ死ぬことができたら、雨音と一緒になれるのに。ケースケはそう思わずにいられなかった。


『――――生きてね』


 雨音の声が聞こえたような気がして、雨音の方を見る。

 彼女の身体は拷問でも受けたかのようにぼろぼろだった。苦しかっただろう。辛かっただろう。だが、その死に顔は、何かをやり遂げたような穏やかなものだった。


『――ケースケくんは、生きてね』


 雨音が、最後にケースケに捧げた言葉。

 残酷な言葉だ、とケースケは思う。ここまで自分に惚れさせておきながら、一人で逝き、自分には生きろと言うのだから。


「でもまぁ、仕方ねえよな。惚れちまったんだから」


 惚れた女には、どうあっても勝てない。辛くても苦しくても、彼女の言葉を受け止める。


「……帰ろう。雨音」


 雨音の遺体を抱え、ケースケは工場の外へと足を踏み出す。

 死闘の影響で、工場の鉄骨が軋みをあげ、ケースケの背後で大きな音を立てて崩れ落ちたが、彼は最後まで振り返ることはなかった。

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