3-1 玉虫色のお化け
そこは都会でありながら寂れた空気のある、閑静な住宅街だった。古臭い和風建築が並んでおり、店はコンビニをたまに見かける程度。ここまで来るとハロウィンの喧騒も薄れ、祭りから家に帰る途中の人々だけが余韻として残る程度だ。
狭い道には遊びまわる子供たちと井戸端会議をする奥様方の声。周囲の住宅からはテレビの音が聞こえてくる。古風な風情であったが、実にのどかだった。
風香とその友人と見られる一団は見失ってしまったが、行き先は見当がついていた。携帯の地図アプリを起動させて探ってみると、案の定、ケースケの家の近くを指していた。
「……家の近くまで行くだけだ。風香がちゃんと家に帰れたことを確認したら、それ以上はなにもしない」
自分自身に言い訳するようにつぶやき、歩を進める。
曲がり角を曲がると、小さな公園に差し掛かった。砂場に滑り台、そしてブランコがあるだけの簡素なものだ。大人から見れば侘しくも見えるそれらも、遊びの天才である子どもたちからすれば宝物なのだろう。数少ない遊具を、飽きもせずに何度も堪能していた。
ふと、既視感を覚える。遠い昔、ここで遊んだことがあるような気がするのだ。
「…………」
もしかしたら、もっと思い出せるかもしれないと立ち止まる。しかし、記憶のフラッシュバックは先ほどの一瞬だけ。記憶を取り戻す一助にはならなかった。
諦めて再び歩き始める。アプリが指し示す住所はもう目と鼻の先だった。
そこは、二階建ての屋敷だった。一般家屋よりは大きく、裕福であることがうかがえるが、古臭く、庭の草木は荒れており、幽霊屋敷といった様相だった。人など住んでいないと言われれば納得してしまいそうな侘しさだったが、屋敷に燈る明かりがそれを否定する。
それを見たケースケは、声を失うほどのショックを受けていた。
――――帰ってきた。
記憶はまだ戻らない。ケースケにとって、『初めて見る』建物だった。だが、それでも、ケースケは確信できた。こここそが我が家であり、自分が生まれ育った場所であると。
雨音の警告は、頭から消え失せていた。誘蛾灯に引き寄せられるように、ケースケはふらふらと屋敷の敷地内へと足を踏み入れる。門を通り抜け、玄関口の前に立つ。
屋敷は静かだったが、明かりは灯っていた。我が家に帰ってきただけなのに、ひどく緊張して喉が渇く。呼び鈴を押す指は、緊張で少し震えていた。
ピンポンという、場違いなほど軽い音が鳴り響く。
屋敷の中で人が動く気配がし、扉が開くまでの時間がとても長く感じられた。
「は~い、どちらさ……って」
明かりとともに顔を出したのは、自分より小さな少女。風香だ。少女はドングリのような眼をいっぱいに開き、兄の姿を見上げた。
「お兄……ちゃん?」
その声からは、信じられないものを見た驚愕がにじみ出ていた。
言葉に詰まる。連絡を怠ったことを謝るべきか、事情を説明するべきか。いや、それ以前に胸の中に到来した激情から胸が詰まり、声を出すのにも苦労させられた。
「……ただいま、風香」
迷った末、結局、ケースケの口から出たのはそんな言葉だった。
ケースケは気恥ずかしげに頬をかく。
「お兄ちゃん……」
その言葉を受け、風香は眼尻に涙を浮かべ、思い切り叫んだ。
「お兄ちゃんがお姉ちゃんになっちゃったああああああああああああ!!」
「……あー」
そういえば、女装したままだった。
◆◆◆◆◆◆
小さなシャンデリアを模した電灯には薄く温かい明かりが灯っていた。光としては弱々しいが、それでも広い室内を見渡すには十分だ。奥は観音開きのガラス戸となっており、扉の向こうは中庭に繋がっている。部屋の中央には長テーブルといくつもの椅子。上座には今時珍しい本物の暖炉があり、その上には肖像画や家族写真が飾られていた。
肖像画に描かれているのは、ケースケや風香にどことなく似通った顔立ちの男性だ。きちりと整えられた黒髪と着物、くすりとも笑わぬ厳格な顔立ちをケースケは見つめる。
「今時、肖像画かよ……」
「お父様は考え方が古いからね。大してお金持ちでもないのに名家ぶってって、お兄ちゃんもよく愚痴ってたよ。……覚えてる?」
振り返ると、ティーカップを乗せたお盆を持った少女が立っていた。
幼いながらもきちんとした性格。彼女がこの肖像画の主の娘であるのも頷ける。ケースケは自身が記憶喪失であることを話したが、風香はそれを受け入れ、何でもないことのように兄を迎えてくれた。厳しい父にしつけられたしっかり者の妹であることが伺える。
「いいや。そういえば、父さんと母さんは?」
「……今はお仕事中でいないよ。大人は大変だよね。家族が行方不明なときくらい、休めばいいのに……。まぁ、お父様らしいといえばらしいけど」
寂しげに笑う風香の顔が、少年の胸に刺さった。病院で起きた出来事の凶報に、行方不明の兄、彼女がどんな思いで時間を過ごしたかは想像に難くない。そして、彼女を苦しませてしまった原因は、早く家に帰らなかった自分自身にもある。
「あー、悪い、知らせるのが遅くなって。本当はもっと早くに帰るつもりだったんだけどな。いろいろ事情があって、帰るのが遅くなっちまった」
「ううん。いいの。何があったのかよくわかんないけど、大変だったんだよね?心配だったから連絡がなかったのは辛かったけど、お兄ちゃんが帰ってきてくれただけで、私は十分嬉しいよ。……それより、はいこれ。早く着替えちゃってよ」
風香は苦笑しながら衣服を差し出す。男物の上下で、恐らくケースケのものだろう。どうやら、お茶を入れるついでに部屋まで行って一式持ってきたようだ。
「……えー」
「なんで微妙に残念そうなの!?実は割と気に入ってたの!?帰ってきた兄が女装癖に目覚めてたなんて、行方不明とは別の意味でショックなんだけど!?」
「あー、なんというか……着替えんの、めんどい」
あまりに不精すぎる理由に、少女は兄をギロリと迫力ある瞳で睨む。
「お兄ちゃん?事故のせいで、ただでさえ噂になってる上に、火傷で顔面包帯なんだよ?その上で女装趣味の兄がいるなんて噂されたら、私、もう表歩けないよ?」
「えー、でも、めんどくs――」
「き が え な さ い」
「……はい」
鬼のような形相を浮かべる妹の気迫に押され、ケースケは大人しく衣服を受け取る。
だが、確かに、配慮が足りなかったとケースケは思う。和葉や雨音からは、目立ってはいけないと十分に注意されていたはずだ。だというのに、自分は正面玄関から堂々と呼び鈴まで鳴らしてから入ってしまった。不用心にもほどがある。遅まきではあるが、もっと警戒する必要があるだろう。
「なぁ、風香。悪いんだけど、俺が家に戻ってきたこと、父さんや母さん、他の知り合いにも内緒にしていてもらえないか?」
「えっ、なんで?」
「あー、ちょっと説明しづらいというか……」
怪物の話をしたところで、信じてもらえるとは思えない。記憶喪失や女装の件もあることだし、脳に障害でもあるのかと思われるのがオチだろう。かといって、適度に誤魔化しつつ、物事をうまく説明できるほど口達者ではなかった。
「あー、実は俺にも事情がよくわかってないんだ。うまく話せないんだけど、ひと段落つくまで家には留まれない。でも、絶対帰ってくるから、言う通りにしてくれないかな?」
「……そういう言い方はやめてよ。かえって不安になるよ」
言外に含まれた不安を読み取り、風香は心配そうな瞳で訴えかける。ケースケは困った顔でそれを受け流すしかなかった。
「……お兄ちゃんがそう言うなら、何も聞かないけどさ。でも、なにか変なことに巻き込まれたんなら、ちゃんと相談してね?記憶が戻ってなくても、私たちは兄妹なんだから」
「あぁ、ありがとう、風香。父さんや母さんはうまく言いくるめておいてくれ。二人とも心配するだろうから、それとなくフォローも頼む」
「妹使いの荒いお兄ちゃんだなぁ」
苦笑しながらも断らない妹を見て、ここに来てよかったとケースケは思った。
記憶がなくとも、自分を受け入れてくれる家族がいる。自分は一人ではなく、帰るべき家がある。それがわかっただけでも、大きな収穫だった。
「じゃあ、着替えるけど……せっかくだから、俺の部屋に案内してくれないか?室内を見れば、何か思い出すかも」
「ん、いいよ。ついてきて」
風香は大して金持ちではないと言ったが、涼森家は外観通りとても広かった。部屋数も多く、風香の案内がなければ、どの部屋が自分のものか分からなかっただろう。
案内されたのは2階の一室だ。着替えのため、風香はすぐに出て行った。ケースケは新しい衣服に袖を通しながら、自身の部屋を見渡す。
学習机といくつもの本棚。趣味と呼べるものは一つもなく、写真立てが一つあるくらいだ。本棚に並ぶ本も漫画の類は一冊もなく、外国語で書かれた分厚い書物がたくさんあった。ベッドやクローゼットなどがなければ、書斎かと思えるほどだ。
記憶を失う前は勉強熱心な人間だったのだろうか?自分の頭の回転の悪さを考えると、それはないなとケースケは判断する。きっと、親が揃えただけなのだろう。
ケースケは机の表面を軽く撫でた。上質なオーク材の机で、古いがかなり使いこまれているようだ。埃はほとんどなく、バインダーがいくつも並ぶほか、覚え書きと思われるルーズリーフが何十枚も積み重なっている。書類の横には、使い込まれてグリップ部分がへこたれているシャープペンシルが転がっていた。
部屋に置いてある一つ一つが記憶の片隅に引っ掛かり、むずむずと何とも言えない居心地の悪さを感じる。だが、記憶回復からは未だに遠く、喉元まで出かかっているのにあと一歩で出てこない感覚は相変わらずだった。
小さく、失望のため息を吐く。
少なからず、期待していたのだ。我が家に戻れば、記憶が完全に戻るのも夢ではないと。だが、現実はそう都合よくはいかないようだ。
焦って記憶を取り戻す必要もない。どのみち、あのショゴスとかいう化け物をどうにかしない限り、安心して日常生活を送ることもままならない。あんな怪物がどこかに潜んでいると思いながら生活するなんて、想像するだけでぞっとしない。
やはり、雨音の元に戻るのが一番なのだろう。とりあえず、置き去りにしてしまったことを謝らなくちゃなと考えながら、ケースケはなんの気なしに机上の書類を手に取る。
「…………え?」
最初、そこに描かれているものがなにかわからなかった。そのスケッチは非常に丁寧で、精密に描かれていたが――いや、精密に描かれていたからこそ、現実感がわかなかった。
玉虫色に輝く体色、体表に浮かぶ無数の目や口、肉体から生える幾本もの触手。その生物を見たことのある彼であっても、それは容易に容認できない非現実的な怪物だった。
SHOT-GHOST-TYPE.D……そのスケッチには、そう題名づけられていた。
「
その声は震えていた。あれと同系列の怪物が他にも最低三種類はいるであろうということに対する恐れではない。そんなものが、自分自身の部屋から出てきたことに対してだ。
見たくない現実から逃れるように、ケースケは後ずさって机から離れる。だが、本人が信じたくない事実であっても、そのスケッチが消えることはない。後ろに下がったケースケの身体が本棚にぶつかり、何冊かの本が床に落ちて散乱した。
「あ……」
自分で落とした本に驚いて、視線が床で止まる。
本は英語で書かれていたため、ケースケには理解することができなかった。だが、挿絵に書かれているおどろおどろしい怪物の姿が、否応無しに見えてしまう。
それは、ただのオカルト本と断じるには学問的過ぎた。見たこともないような生物の生態が精緻にデータ化されており、学術書の類であることが素人目でもわかる。
たまたま落ちたのがそれだったのだろうか?いや、違う。よくよく見れば、本棚に敷き詰められている本は、すべて似たようなものばかりだった。ここにあるものは全て、神話生物研究の学術書だった。
「涼森……螢助」
ケースケは自分の名前を――自分であるはずの名前をつぶやく。
それは自分自身のものであるはずなのに、黒い沼の底に住む得体のしれない怪物の名前であるかのようだった。彼は初めて、これ以上記憶を思い出すことに恐怖を覚えた。
「おまえはいったい、何者なんだ?」
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