2-5 人か怪物か
風香と会った時に感じた狂おしいほどの郷愁を、この町からは感じない。そのことに焦りを感じつつ、もう一度風香に会いたいという気持ちが少年の中で強くなってきていた。
「まぁ、そんなに急いで思い出す必要もないでやがりますし、焦らずに行きましょう。……そうだ。少し遅いけど、お昼ごはんにしやがりません?お腹減ってるでしょう?」
言われ、昨日から何も食べていないことを思い出す。
せっかくのお祭りだし、ちょっと高そうな店に入ってみようという話になったが、値段と互いの所持金を確認し、戦略的撤退の後にごく普通のバーガー店に行くことになった。
「うぅ、貧乏は敵でやがります……」
「まぁ、俺は腹いっぱい食えればいいや」
窓際の席に向かい合って座る二人の姿は、周囲の目を引いた。片や妖精のように儚げで美しい美少女、片やミイラ男のような風貌の醜い少年。美女と野獣と表現するのがぴったりなこの組み合わせは、一度祭りの空気から外れれば、とても目立つものだった。
加え、二人の食事風景も対照的だった。雨音は一般的な女子高生と変わらない食事量を、小さな口で少しずつ食べていた。対して、ケースケの眼前にはバーガーが山のように積まれ、大口を開けて次々と胃袋に落としていく。
「……そんなに頼んで、食べ切れるんでやがります?」
「んー?腹減ってんだから、仕方ねえだろ。雨音こそ、ゆっくり食いすぎじゃね?こんなの、そんなふうにちまちま食うもんじゃねえだろ」
「うっ……し、仕方ないでやがりましょう。子どもの頃からの癖なんだから。……友だちからも指摘されたことあるんでやがりますが、やっぱり変でしょうか?」
「いや、まぁ……メシくらい、好きに食えばいいんじゃね?」
内心では、リスみたいな食べ方でかわいいと思ったが、さすがに恥ずかしいので口には出さないでおく。それに、食べかたが普通じゃないという点では、ケースケも変わらない。
「……あー、そういやさ」
「ふぁい?」
「普通にメシ食えるんだな。人間じゃないのに」
シャッガイ。半人半虫の神話生物。科学館の少女は、雨音のことをそう呼んだ。だがしかし、今、目の前にいる彼女は、どこからどう見ても普通の少女に見える。無理をして人間と同じ食事をとっているようにも、平静を取りつくろっているようにも見えない。
「本来の食事とは違いますが、人間の食べ物も問題なく食べられますし、栄養にもなりますよ。シャッガイは幼少期、自分がシャッガイであるとは教えられず、普通の人間として育てられるんです。だから、こういう食事の方が慣れてるんでやがりますよ」
「じゃあ、雨音も最近までは、自分が人間だと思ってたのか?」
「えぇ。……私がシャッガイとしての本能に目覚め、変身能力を手に入れたのは、ほんの一か月前です。先刻話した、『家庭の事情』というのはそういうことでやがります」
思った以上に最近の出来事であったことに、ケースケは驚く。
人間として育ってきたのに、ある日突然、自分が怪物であるということを知るというのはどういう気分なのだろう?少なくとも、優越感を持てるようなものではないということは、雨音の顔を見れば察することができた。
「でも、人間と変わらない生活を送れるんだろ?じゃあ、人間と大差ないんじゃ――」
「ケースケくん」
雨音がケースケの発言を遮る。髪が少し流れ、隠されていた金の瞳が露になった。月のように妖艶な光を内包する美しい瞳だったが、ケースケの背筋にぞくりと寒気が走る。
「私がシャッガイとしての本能に目覚めたとき、初めに感じた欲求は、『食べたい』っていう気持ちだったんですよ」
まだ成人にも達していない少女とは思えないような重みがその声にはあった。彼女の声だけで、ケースケは改めて、彼女が普通の人間ではないということを思い知らされる。
「ただの食べ物をいくら食べても満たされない、特定の食べ物を食べたいと思う強い欲求。その欲求は食欲というより性欲に近いんでやがります。欲求が満たされなくても死にはしないんですが、ひどく喉が渇くような飢餓感に常に襲われ続けるんでやがります」
「……なんだよ、その特定の食べ物って?」
「なんだと思います?」
想像はついているんでしょう?と、雨音の瞳が語りかけてくる。ケースケはごくりと生唾を飲み込み、口を開いた。
「ハンバーガーとか?」
「怒りますよ!?ケースケくんの頭が悪いのはそろそろわかってきやがりましたが、せめて空気読みましょう!?今、そういう空気じゃなかったですよね!?」
雰囲気をぶち壊しにされ、雨音は涙目になりながらケースケの頬を思い切り引っ張る。
ケースケは、『はて、自分は何か変なこと言ったかな?』といった顔で、大人しくされるがままになっていた。
「……人間、ですよ。本来、シャッガイの主食は人間なんでやがります。その他の食料は栄養にはなっても、人間を食べたいという欲求が和らぐことはないんでやがります」
ケースケから手を放し、雨音は改めて真剣な顔になる。その瞳は少し困ったような、泣きそうなようなものであり、口には自嘲気味な笑みが浮かんでいた。
「ショゴスの肉体を溶かした強酸を見たでしょう?あれは本来、人間をドロドロに溶かして液状にしてから啜るためのものなんでやがります。加えて、人間をさらうための飛行能力、人間に近づくための擬態能力……なにもかも、人間を襲うための能力でやがります」
玉虫色の怪物の触手が、雨音の針を刺された瞬間にドロドロに溶けたことを思い出す。確かに、あれなら人間など簡単に溶かされてしまうだろう。
だが、雨音が人間を襲う場面を想像できなかったし、したくなかった。自分のために命がけで戦ってくれた彼女が、液状と化した人間をすする様など、考えたくもなかった。
「……雨音はあるのか?人を襲ったこと」
「ありますよ」
しかし、ケースケの甘い期待を、雨音は一言で否定した。雨音は、自分が口をつけたバーガーの残りに目を落とし、努めて感情のこもらない言葉で続ける。
「私が、初めてシャッガイとして覚醒した時。私は本能を抑えることができなくて、周囲にいる人たちを襲いました。彼らの私を見る目……今でもはっきりと覚えてやがります。文字通り、化け物を見て怯えている瞳でした」
「……食ったのか?そいつらを」
この質問に対しては、雨音は首を振った。内心、ケースケはほっとするも、雨音の顔はまったく晴れていなかった。
「全員、病院送りにはなりましたが、死人はなく、食べてもいません。でも、そんなの何の慰めにもならないんでやがります。今、人間を食べていなくても、いつかは食べてしまう日が来る。遅いか早いかの違いだけ。……それがわかるんです」
「…………」
それは、いったいどんな気持ちなのだろう。
雨音は自分のことを人間だと思っていたのだ。ごく普通に育てられ、ごく普通に学校に通い、ごく普通に友達と遊んでいた少女だ。
だが、ある日突然、自分が怪物であると知ってしまった。
選択の自由など、そこにはない。彼女は生まれながらのシャッガイなのだから。彼女に選べる道は、本当の自分を隠し、いつかばれるのではないかという恐怖を胸に抱いたまま生き続けるか、怪物としての運命を受け入れ、武装した人間たちに退治されるかしかない。
「ねぇ、ケースケくん」
雨音が悲愴な瞳で見つめる。儚げな空気を見に纏った彼女は、美しくも可憐で、今にも霞のように消えてしまいそうだった。
「私は怪物だと思いますか?それとも、人間だと思いますか?」
ケースケには、雨音にかける言葉が思い浮かばなかった。
彼女は人間だ、と言ってやるのは容易い。だが、それでは雨音は納得しないだろう。彼女が人間ではないことは覆らない事実なのだから。どれだけ綺麗事を並べても、彼女と同じ悩みを抱えたことのない人間の言葉など、真に心に届くことはないだろう。
「雨音はさ。自分はどっちだと思ってるんだ?人間か、怪物か」
だからこそ、ケースケは問いかけた。
「……人間でありたいとは、思ってますよ」
ケースケは頷く。ならば、答えは簡単だ。
「じゃあ、雨音は人間なんだろ。答えは出てんだから、悩むことなんてないだろ」
「……ケースケくん、そういう話じゃないんでやがりますよ。私はいずれ、欲求を抑えられなくなって人間を食べてしまう日が来ます。生きるために必要でもないのに人間を食べる怪物なんて……どんな言い訳をしても、人間とは言えないでしょう?」
「そんなもん、その時になってから考えればいいだろ」
何とも言えない微妙な顔をする雨音に気付き、あのな?と、一つ前置をして話を続けた。
「俺、バカなんだよ」
「知ってるでやがります」
「……おう、即答されたのがちょっと腹立つけど、それは置いとこう。俺はバカだからよ?たらればだとか、もしもだとか、そういう先のことなんか考えられる脳みそしてねえんだよ。俺にわかるのは、今、雨音は人間でいたいって考えてるってことだ」
自分でも伝えたい気持ちが言葉にまとめられていないのだろう。たどたどしい言葉で、時折考え込みながら、ケースケはゆっくりと話す。
それは会話としてはもどかしく、つい口を挟みたくなるほどだったが、雨音はただ黙って聞いていた。彼がこれほどまでに長く難しい言葉で話すのは初めてであり、それだけでも、自分の問いに対して真剣に考えてくれていることが伝わってきたからだ。
「だったら、悩む内容間違えてんだろ。雨音が悩むべきなのは、自分が人間かそうじゃないかじゃなくて、どうやったら人間を食べずにいられるか、だろ」
「…………簡単に、言わないでください。ケースケくんはシャッガイじゃないから、この感覚がわからないんでやがります。この衝動を抑え込むのは、生半可なものじゃない。地獄の苦しみと言っても過言じゃないんですよ?」
「地獄の苦しみだって言うなら、死ぬ気で耐えろ。耐えられなかったのなら、雨音の人間でいたい気持ちがそれまでだったってことだ。それならそれで、いいじゃねえか。その時は、シャッガイとして気持ち良く生きていくにはどうすればいいかを考えようぜ」
最終的に精神論になってしまったことに気付き、ケースケは自分の短絡思考と語彙の少なさに溜息を吐く。慣れない頭の使い方をしたので、知恵熱で頭が焼き切れそうだった。
「雨音が人間かそうじゃないかなんて、結局のところ、俺が何言っても答えにならねえよ。答えを出すのは雨音自身だ。雨音が、自分は人間だって言うなら、それが答えなんだろ」
一息ついてから、ケースケは自分の考えをそう結論付ける。結論に至るまでに婉曲な道をたどってしまったが、言いたいことは言い終えた。
雨音はどう思ったのか。彼女は顎に手を当て、俯いたまま黙りこくっていた。手持無沙汰になったケースケは、バーガーを口に運ぶ作業を再開する。通信簿を返されるのを待つ中学生のような気分で落ち着かず、味を感じることができなかった。
やがて、ケースケが3つ目の包みを開けた頃合いに、雨音が再び口を開く。
「ケースケくんは、私が人間でもシャッガイでもいいと思ってるんでやがりますか?」
「あ?どっちにしろ、雨音は雨音だろ?違いなんて、羽が生えてるかどうかくらいだろ」
質問の意図が理解できなかったようで、逆にケースケの方が不思議そうな顔をする。事実、彼は素直に思ったことを口にしているだけで、裏表は一切なかった。
ケースケの様子を見ていると、まるで自分の悩みは、本当は悩む価値なんてないのではないかと思えてくる。雨音は少年にも伝わるように、質問の表現を変えた。
「……私が人間じゃなかったら、ケースケくんを食べちゃうかもしれませんよ?」
「あー、そいつは困るな。食われるのは痛そうだし、何より死ぬのは嫌だ」
言葉の内容と裏腹に、本気で困っている様子はない。少し考えた後、答えを捕捉する。
「でも、雨音は俺を食わねえよ。絶対に」
「……なんでそんなことが断言できるでやがりますか」
「なんとなく」
即答だった。迷う様子は欠片もないが、そう思える根拠を示すこともなかった。元より、物事を筋道立てて考えられるような頭の持ち主ではない。
つまり、この少年は、明確な理由も根拠もなく、出会ってから一日しか経っていない怪物のことを心から信じ、少女が自分を殺すことなどないと決めつけたということになる。
「…………本当に、バカ」
「あ?そんなの今さらだろうが。雨音だって、知ってるだろ?」
「そういう意味じゃありません!」
雨音が拗ねたように顔を背ける。その頬は、それとわかるくらい赤く染まっていた。
「もういいです。ケースケくんに論理的意見を求めたのが私の間違いでやがりました。それより、ケースケくんの方こそ、どうなんでやがりますか?なにか思い出せました?」
この話は終わりとばかりに、雨音は話題を強引に変える。とはいえ、今回の外出の目的はそれだ。むしろ、今までの会話が脱線と言える。
だが、答えはやはりノーだ。やはり、家の近くまで行くか、風香に会うかしなければ、思い出せないのかもしれない。しかし、それを雨音に提案しても、やはり拒否された。
「人と会えば、その人を巻き込んでしまう可能性があります。家族や記憶が大切だってことはよくわかりますが、今は我慢して下さりやがりませ」
「……おう、わかった」
あまり納得できていない表情ながらも、ケースケはおとなしくうなずく。雨音が少し困った顔で口を開こうとしたところで、彼女の携帯の着信音が鳴った。
「和葉ちゃんからですね。ちょっと席をはずしますが、うろついたりしないでくださいね。飴ちゃんとかもらっても、知らない人について行っちゃダメでやがりますよ?」
「幼稚園児か!雨音、俺が園児並の思考回路しか持ってないとか思ってないか!?」
「………………………………………………………………電話してきます」
「おい、今の沈黙はなんだ。そして、なんで否定しないんだ、こら」
足早に去っていく雨音の背中を見送ったあと、残されたケースケは窓の外に視線を向ける。街ゆく人々を眺めながら、追加のバーガーを頼もうかどうか悩み始める。
――――と、その時だ。
「あ……」
視界の遠くで、小学生くらいの一団が通る。ハロウィンの参加者なのだろう。みなそれぞれ、思い思いの仮装をしており、手にはお菓子を入れるための籠を持っている。
その中に一人。ケースケの記憶に残る人物が混じっていた。
彼女は周囲の子供たちと違って仮装をせず、あまり楽しそうではない表情でとぼとぼと歩いていた。それを見ただけで、ケースケは胸を締め付けられるような苦しさを感じる。
「風香……」
会いたい。会って話をしたいという思いが胸中を占める。どうしてそこまでの感情が湧いてくるのか、自分でも説明ができない。説明しようにも、記憶がないのだから。
雨音はまだ戻ってくる気配はない。戻ってきたところで、風香に会いに行くことを許可してくれないだろう。そして、力づくで来られた場合、ケースケに抗うすべはない。
「……幼稚園児扱いされても、反論できねえなぁ」
迷っている暇はない。雨音が戻ってくれば機会を失い、風香も見失うことになる。
風香を巻きこむことになるかもしれない。だが、遠目でもいいから、もっと彼女を見ていたかった。その思いの正体がわからないまま、ケースケは席を立った。
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