4-4 だから殺した

「う……」


 薄暗く、裸電球だけが灯る暗闇の中、雨音はうめき声とともにゆっくりと目を開いた。

 雨音はあのとき、涼森家の屋敷で死んだと思っていた。いくらシャッガイが頑丈であるとはいえ、全身を何か所も刺し貫かれればさすがに死ぬ。まさか再び光を見ることになるとは思ってもいなかったが、安堵の気持ちは欠片もなかった。

 全身、ひどい有様だった。手足の腱が斬られ、ぴくりとも動かない。重傷部分は治療が施されているが、かなり乱暴なものだ。いつぽっくり逝ってもおかしくない。

 唯一動く首だけを巡らし、周囲を観察する。どこかの建物の中のようだが、雨音には見覚えがなかった。貸倉庫か廃工場か、とにかくそんな感じの人気のない場所だった。


「あら、目が覚めたの?ごきげんよう。気分はどう?」


 暗がりから小さな少女が姿を現す。このような場所にはふさわしくないほどのあどけない笑顔で、優しく雨音に問いかける。


「……最悪でやがります。ひどい施術ですね。お兄さんの方が、何十倍もうまくできるんじゃないですか?これじゃ、治療というより素人のお裁縫でやがりますよ」

「クソ兄貴の話はするな!」


 突如、般若のように顔を歪めた風香が、雨音の腹部を蹴り上げる。庇うこともできない状態で傷口をえぐられ、声も出ないほどの激痛で体をくの字に折る。


「兄貴は私が殺した!不意打ちでも何でも、生き残ってる方が強くて偉いんだ!私の方が、兄貴なんかよりずっとずっとず~~っとすごいんだから!」


 狂ったように叫びながら、風香は無抵抗の雨音を何度も蹴りあげた。あまりの激痛に何度も意識を飛ばしそうになるが、そのたびにさらなる激痛で無理やり現実に引き戻される。

 一通り叫んだあと、風香ははたと気づいたように蹴るのを止める。


「あぁ、ごめんごめん。死なれたら、実験材料にできないもんね。ねぇ、大丈夫?まだ生きてられる?死んじゃったら、急いでショゴスの餌にしなきゃいけないから言ってね?」


 心底心配そうに聞く風香に、雨音は答えることができなかった。痛みで脂汗が浮かび、呼吸もままならない。陸の上の魚のように、身体を痙攣させながら短く息を整える。

 返事がないことを不満に感じた風香は、雨音の髪を鷲掴みにして顔を上げさせた。そこに優しさなど微塵もなく、物を扱うよりも乱暴な仕草だった。


「私が心配してあげてるんだから、ちゃんと返事しなさいよ!返事の一つもできないなんて、とんでもない間抜けね!所詮、虫女は虫女ってことね」

「……あぁ、すみません。聞く価値もない虫以下のバカのさえずりが退屈で、眠ってたみたいでやがります。で、なにか、おっしゃいました?」


 この状況でなお不敵に笑ってみせる雨音を、風香は額に青筋を浮かべ、再び何度も蹴りあげる。口答えされたことで頭に血が上り、より苛烈にしつこく腹部を蹴り続ける。

 理不尽な暴力は、風香が息切れを起こすまで続いた。傷口が開いて飛び散った血が周囲を濡らし、喉に絡みついた血反吐で雨音が何度も咳きこむ。

 そんな雨音の哀れな姿を見て、風香は悦に入った顔になる。


「やっぱり、兄貴ってセンスないよねぇ。脳や内臓を別個に保管なんて、技術の無駄遣いしてさ。確かに便利ではあるんだけど、実験動物をいたぶる楽しみってのがないじゃない?あれ、脳は眠ってるような状態になって、反応がなくて本当につまらない。真の探究者たるもの、実験過程も楽しめるようでないとねぇ?」


 さすがの雨音も息も絶え絶えで。血反吐で汚れた顔を上げ、胡乱な瞳で風香を見上げる。


「……一つ、不思議だったことを聞いてもいいでやがります?」

「あれ、まだ返事が出来るんだ。さすがは虫人間。ゴキブリ並みの生命力ね。で、なぁに?」

「なんで、実の兄をショゴスの材料にしたんでやがります?」


 ケースケの前では、決して口に出すことのできなかった疑問を上げる。

 実のところ、雨音も多くの情報を持っているわけではない。復讐の為に涼森螢助の拠点の一つである立体駐車場に乗り込んで見つけたのは、当の本人である涼森螢助の死体とショゴスの入った巨大な水槽。そして、風香だった。

 風香と雨音の間で激しい戦闘が繰り広げられ、その拍子に水槽が割れ、中のショゴスが這い出してきた。しかし、そのショゴスは雨音には目もくれず、涼森螢助の死体を貪り食った。食事を終えたショゴスは暴走し、周囲を無差別に攻撃し始めた。これには風香も驚き、雨音と二人して実験室から逃げ出し、勝負はうやむやのままに終わった。

 地下の実験室から這い出したショゴスは暴れに暴れ、建物を破壊した。風香は逃げ、雨音は一人でも多くの人間を逃がそうと奮闘したが、瓦礫に巻き込まれ気絶してしまった。

 そこで一度、雨音は死を覚悟したが、目を覚ました時、目の前にいたのは自分を必死に助けようとするケースケの姿があった。

 病院のとき、ケースケは記憶喪失で混乱していたが、雨音も同じくらい混乱していた。深夜、ケースケのベッドに忍び込んだ際、殺すべきかどうか本気で迷ったほどだ。

 地下実験室で涼森螢助を見たとき、彼は確実に死んでいた。ならば、今生きているケースケはショゴスだと考えるのが自然だが、彼の挙動はあまりにも人間に近すぎた。液状生物であるショゴスは変形能力を持っているが、知能が極端に低いため、人間の所作をまねることができない。バカだが人間らしいケースケは、実にショゴスらしくない存在なのだ。

 結局、ケースケがショゴスであるという確信を雨音が持ったのは、ケースケが病院でショゴスによる攻撃を受けた後だった。ケースケは和葉による治療で傷が治ったのだと勘違いしたようだが、本当のところはただの自然治癒だ。液体生物であるショゴスに、物理攻撃は効かない。時間がたてば自然と塞がるのだ。

 ――以上が、雨音の知っていることのすべてだ。

 状況から推測して、涼森螢助を殺したのは風香で間違いはないだろう。だが、どうして彼が殺されなければいけなかったのか。涼森螢助の死体を取りこんだショゴスがどういう性質を持っていて、今のケースケがどういう状態であるかなどは全く知らなかった。

 そのあたりの裏事情を風香に聞いたのは、純粋に好奇心だった。風香は顎に人差し指を当て、可愛らしい動作で返答に悩む仕草をする。


「あいつ、うざかったんだよねぇ。ことあるごとに兄貴面して、私に指図してくるんだよねぇ。神話生物の研究知識も自分で独り占めして、全然教えてくれないし」


 兄への正直な感想を述べた後、風香はにこりと天使のような笑顔を浮かべる。


「だから、殺しちゃった」


 気に入らなかったから、殺した。それも唯一の肉親を。雨音にはまったく共感できない殺害動機に、彼女は心中ですさまじい嫌悪感を抱く。


「でさぁ、兄貴が残した研究資料を読んで、神話生物の技術を奪ってやろうと思ったんだけど、これがちんぷんかんぷん!最後のページに書かれてた内容だけ比較的簡単だったから、せっかくだし試してみようかなって。材料もちょうど揃ってたしね」

「……そして、できたのが、今のケースケくん?」

「せいか~い」


 ぱちぱちと感情のこもらない乾いた拍手が響く。


「うちのショゴスは操りやすくて、お金持ちに人気なんだけどさ。ものすごく頭が悪いのが欠点なの。そこでショゴスに人間の脳を取りこませ、人間並みの知能を持った個体を作ってみることにしたんだ。と~っても、レアなんだよ?そんなのが作れる探究者Chaserなんて、私くらいしかいないんじゃないかな?」


 兄の研究成果を、自分の手柄のように自慢する風香。一般の科学技術と違って、特許で守られることのない神話生物技術は極力外に漏らさないのが常識だが、それを惜しみなく話す風香に、雨音はかえって唖然とした。


「欠点は、脳を液体化できないからその部分が弱点になっちゃうことと、人間だった頃の記憶に引きずられちゃうことかな。兄貴の姿をしたあのショゴスもさ、本当はもっといろんなものに変身できるはずなのよ。だけど、人間の記憶が強すぎて、人間の姿から大きく変えることができない。まったく、兄貴がクソなら、研究内容もクソだったってことね」


 先刻まで自慢していた研究内容を、一転してけなし始める風香の支離滅裂さに違和感を抱きながらも、雨音は一つ納得する。

 病院での襲撃に対し、雨音はずっと疑問を抱いていた。事件を起こすに当たって、隠蔽工作が雑すぎるのだ。オリジナルの涼森螢助はあのような悪目立ちするようなタイプではなく、事実、彼が生きている間は、世間の目に触れるような事件はなかった。

 だが、ショゴスの扱い手が風香に変わったとなれば、事情が変わる。涼森螢助と違い、風香には密かに計画を実行しようという考えが存在しない。強大な力に酔い、むしろ自分の力を見せつけるように大規模な事件を次々と起こす。実に幼稚な思考回路だった。


「……じゃあ、変身能力がなくて価値のないケースケくんは用済みでやがりますよね?彼のことはもう、放っておいてもらえるでやがります?」

「あんた、バカね。所詮、虫頭ってことかしら。役立たずでも希少性があれば、金持ちの買い手はつくものよ。それに、なにより――」


 にぃ、と実に楽しそうな笑みを風香は浮かべ、右手に装着した銀の爪を見せた。


「この機械を使えば、ショゴスを自由自在に操ることができるのよ?兄貴の姿をした奴を、私の好きなように操れるなんて、想像するだけでも楽しそうだと思わない?」

「申し訳ないでやがりますが、欠片も楽しそうには思えないでやがります」


 また暴力を振るわれることを覚悟しながらも、雨音は吐き捨てるように言い切った。今までは怒らせないていどに適当に聞き流していたが、さすがに限界だった。

 案の定、同意を得られなかった風香はむっと膨れた顔になる。

 風香は屈みこんで雨音と視線を合わせた。この状況においてなお、雨音の瞳には光が宿っている。命乞いを期待していた風香はとても不服だった。


「ねぇ、あなたを屈服させるには、どうすればいいのかしら?抵抗できない状態で犬に犯させる?その顔を二度と見れないくらいにぐちゃぐちゃにする?……あぁ、そうだ」


 そこで一度言葉を切ると、風香は口の端を吊り上げて、にぃっと邪悪な笑みを浮かべる。


「あなたにぴったりの、いい方法があったわ」


 風香は一度その場を離れると、蠢く肉塊を手に戻ってくる。今まで見てきたどのショゴスよりも小さいショゴスだ。色合いも玉虫色というより赤に近い。


「珍しいでしょう?私のお気に入りよ」

「……なにをするつもりでやがります?」

「あなたの身体の中に埋め込むのよ。この子を」


 雨音の眼前にそのショゴスを突き出し、反応を楽しむ風香。聡い雨音は、風香の言葉と仕草で、自分にどのような運命が待っているかを察した。


「『エイリアン』っていう映画知ってる?あれと同じで、この子はゆっくり時間をかけて、あなたを捕食する。あなたはその間、体内で怪物が育っていくのを感じられるわ。そして、成体となったショゴスはあなたの肉体を食い破り、新種のショゴスとなって誕生する。嬉しいでしょう?おぞましいでしょう?あなたは、新種のショゴスの母となるのよ」

「……本っ当に、悪趣味」


 風香はニッコリ笑って、雨音の口にショゴスをねじ込んだ。巨大なナメクジを口の中に押し込まれたような不快感。雨音の身体がのけぞり、声にならない悲鳴を上げる。

 手のひらサイズとはいえ、少女の口と比べればショゴスの方が明らかに大きい。だが、液体生物であるショゴスは形を変え、ゆっくりと雨音の体内に入ってくる。

 時間をかけて胃袋に落ちていったショゴスだったが、異物感は払拭されず、腹部でなにかが蠢く感覚がダイレクトで伝わってくる。体型こそほとんど変わらないが、胃袋に無理やりぬいぐるみをねじ込まれ、縫合されたような気分だ。

 雨音は覚悟を決めると、舌を歯で挟み、顎に力を込める。しかし、彼女が舌を噛み切るより早く、風香が雨音の口に手を突っ込んでそれを阻止した。


「あぁ、ダメよ。舌を噛み切るくらいならすぐに蘇生できるけど、面倒だからやりたくないの。それに、万が一あなたが死んだら、体内のショゴスも死んじゃうし、新しいシャッガイを仕入れるのも大変じゃない。だから、生きていてもらわなくちゃダメなの」


 聞き分けのない子どもを諭すように、風香は猫撫で声で雨音に語りかける。


「兄貴は実験動物を材料としかみない非道で、死に様には一切興味を抱かなかった。でも、私は違う。私は実験動物を愛してるの。だから、あなたが苦しむさまを、愛をもって観察してあげる。絶対、簡単には殺してあげない」


 二度と舌を噛み切ろうとしないよう、しっかりと猿轡を咬ませる。常人ならば、発狂してもおかしくない所業。だが、雨音はキッと睨みつけ、目だけで反抗する。

 だが、それはかえって相手を喜ばせるだけだった。反抗心の強いほど、屈服させたときの達成感があるというもの。風香は、雨音がいつ死を願うようになるかが楽しみだった。


「さぁて、おなか減ったし、私はちょっとご飯食べてくるね。雨音お姉ちゃんには、犬の餌でも買ってきてあげる。あぁ、雨音お姉ちゃんは虫女だから、同じ虫でも食べさせてあげたほうがいいかな?やだなぁ、私、女の子だし、虫嫌いなんだよ。私がそんなの食べさせられたら、死んじゃいたくなるなぁ。うふふふ、あはははははははは!!」


 下品な高笑いとともに、風香は部屋から出て行った。

 一人取り残され、意地を張る相手がなくなった途端、押し込めていた感情の波が雨音を飲みこむ。彼女の瞳から、ボロボロと熱い涙がとめどなく流れ始めた。


(ケースケくん……)


 震えるほどに怖かった。何度も心が折れそうになり、風香に泣きついて命乞いをしようと思った。だが、そのたび、心の中に一人の少年の顔が浮かび、雨音の心を奮い立たせた。


(もう一度、会いたい)


 これは罰だ。真実を隠していた自分にこんな願いを抱く資格はない。彼はきっと自分のことを恨んでいるだろう。それでも、願わずにはいられなかった。


(死にたく、ないよぉ……)


 自分以外誰もいない室内、雨音は一人、静かに泣いた。

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