1-3 深夜の唱和

「ん……」


 ふと、夜中に目が覚める。カーテンが薄く開き、雲間から漏れる月光がわずかに照らす室内で、ケースケは自身を襲う息苦しさから意識を戻した。

 薄く開いた目に、黒い影が映り込む。身体は重く、何かがのしかかっているかのように動けない。あぁ、これが金縛りってやつかなと寝ぼけた頭でぼんやりと考えていたが、徐々に覚醒していくうちに、それが実際に自分の上に誰かが乗っているのだと気づく。

 影はケースケの上にまたがった状態で、右手をケースケの喉に近づける。ケースケは、自分の喉元が固く鋭いものによって圧迫されているのを感じ、ナイフのようなものを喉に当てられているのだと察する。


「誰、だ?」


 明らかに友好的ではない相手に対し、ケースケは冷や汗を流しながら問いかける。ちょうどその時、月を覆っていた雲が引き、明るい月明かりが室内を白く染めた。


「あ……」


 ケースケはその光景を目にした瞬間、息を呑む。先程までの恐怖は一瞬にして消え失せた。今はただ、目の前のことで頭がいっぱいだった。

 それは、あまりにも……あまりにも幻想的すぎたから。

 月光を受けて流れ煌く黒髪。夕日のように紅く燃えるような右目と月のように黄色く静かに輝く左目は、まだ成熟していない少女にミステリアスな妖艶さを演出している。

 それは一つの芸術の到達点とも言えた。ケースケは、喉元に突きつけられた刃物に生命の危機を抱きながらも、いや、抱いていたからこそ、こう思った。

 今、こんなに美しいものを見ながら死ねるなら、死んでも構わない、と。


「どうして……」


 崩壊する立体駐車場の中で聞いた、あの涼やかな声がケースケの耳を打つ。そこでようやく、目の前の人物が、駐車場で出会った雨音という少女であるということに気付いた。

 雨音はケースケと同じように身体の各所に包帯が巻かれ、病院着を纏っている。ケースケと違うのは顔には包帯が巻かれていないこと。そのことに、ケースケは内心ホッとする。

 立体駐車場で会った時とは違って薄汚れた感じはなく、なによりあの時は髪に隠れて見えていなかった左目が露になっていたので、印象がまったく違っていた。

 だが、どうして彼女がここにいるのかケースケにはわからなかった。しかも、自分に対して明らかな敵意を向けている。わけがわからず、ケースケは少女の言葉に傾聴する。


「どうして、私を助けやがりましたか?」

「…………えっ」


 沈黙が流れた。さっきとは別の意味で、対応に困りやがるんですけど?

 ケースケは無い頭をフル回転させて熟考する。今の口調をギャグのつもりでやっているのなら、ツッコミなりなんなり返してやるべきだが、そうではなく、ただの言い間違いなら何も聞かなかったことにしてスルーするべきだ。まさか、この口調が素ということはないだろう。もしそうだったら、幻想ぶち壊しである。いやいや、そんなまさか、こんな美少女がそんな痛いキャラなわけがない。うん、俺の勘違いだ。

 自分が抱いた幻想が、ジェンガを鉄球で叩き壊すがごとく破壊されつつあるケースケは、そんな感じで自己保全を測る。しかし、そんなナイーブな思春期少年の思惑が相手に理解できるはずもなく、雨音はイライラとして怒鳴りつける。


「さっさと答えやがれでやがります!でないと、おまえのた○きん突き刺して、明日から女として生きるように去勢するですよ!?」


 現実は非情である。ケースケは頭を抱えたくなった。こいつ、女子が人前で言っちゃいけない言葉ベスト3に入るような言葉を大声で言い切りやがったよ。

 半ば現実逃避気味な思考をしつつ、ケースケは顔を引きつらせる。口調はともかく、彼女の目は真剣だった。返答を誤れば、本気で男を奪われかねない。


「……あー、どうして助けたとか言われてもなぁ」


 そういえば、立体駐車場でも同じようなことを聞いてこなかったか?あの時は意識が朦朧としていて、なんと答えたのかケースケはいまいち思い出せなかった。

 正直、深く考えずにノリと勢いで助けたというのが本音だが、そんな答えを返したらひどい目にあうのは、あまり頭のよろしくない彼でも予想できた。さりとて、気の利いた答えを返せるほどの語彙もない。


「なに黙りこんでやがります!本当に去勢されたいんでやがりますか!?」


 頭から煙を噴き出しそうになりながら解答を模索するケースケに、少女は苛立ちの混じった声を上げる。だが、それは逆効果で、ケースケはむっとした顔になり、脅されていることも忘れて反抗的な瞳を雨音へと向ける。


「うっせえよ!んなこと知るか!俺は頭悪いんだよ!そんな細かいこと考えて行動するか!可愛かったから、つい助けちゃったんだよ!バーカ!えっと、あと……バーカ!」


 あまりに少ない語彙で正直な気持ちを並べるケースケは、癇癪を起こした幼稚園児のようであった。ケースケは雨音を腹の上に乗せたまま、腹筋のみで体を起こしてがなりたてる。その反応は雨音にとっても予想外だったのか、驚いた顔で少し体をのけぞらせる。

 突然の豹変ぶりに戸惑わされた雨音だったが、一拍置いてケースケの言葉を理解すると、暗闇でもそれとわかるほどにみるみる顔を紅潮させた。


「え?いや、いきなり可愛いなんて言われても……。お互い、名前も知らない仲だし……」


 幼稚園児レベルの暴言は全力スルーしつつ、両手を頬に当て、身悶えし出す少女。

 雨音にとってケースケの返答は予想外だったが、ケースケにとっても雨音の反応は予想外だった。お互いに、この状況どうしようという空気が流れる。


「……あー、俺の名前は涼森螢助って言う……らしい。いいかげん、どいてくれね?月海雨音……さん、でいいんだよな?」

「……どこで私の名前を?それに、自分の名前に自信がなさそうでやがりますが」

「あんたの名前は栗林っていう女医さんから。自分の名前は……事故のショックで記憶喪失になっちまってな。同じく栗林センセに教えてもらったんだよ」

「記憶喪失?」


 雨音は言葉の真偽を計るように、朱と金の瞳でケースケの目を覗きこむ。


「事故のショックって……そう言えば、なんであんな高いところから落ちたのに、こんなにピンピンしてやがるでありますか?いや、でも、そういえば――」


 包帯に包まれたケースケの腹部をぺたぺた触りながら、雨音は難しそうな顔になって考え込む。口は悪いし、状況も最悪だが、息のかかる距離で美少女に触れられれば、自然と胸が跳ね上がる。しかし、それを顔に出すのは雨音に負けることのような気がしたので、ケースケは努めて平静な顔で為されるがままになっていた。


「……ということは、あそこで起きたことも覚えてねえでやがりますか?」

「お、おう。覚えてねえ。まぁ、事故のことなんて大して思い出したくもねえけど――って、そっか。あんたもあの場にいたんだから、なにがあったのか知ってるのか」


 どぎまぎしていたので、少し声が上ずってしまった。問われた雨音は迷う様子を見せたが、やがて口を開く。


「それは――」


 少女が何か口にしかけたところで、ずしん、と軽い揺れが起きた。バランスを崩した雨音は、ケースケの胸に飛び込む形になった。

 柔らかいものが押し当てられ、ふわりと甘い香りがケースケの鼻孔をくすぐった。不意打ち気味の状況に、これ以上早く動いたら壊れますという勢いで心臓を高鳴らせてしまう。


「じ、地震か?」

「違ぇます。地震だったら、もっと揺れが続くはずでやがります。地震というより、何かが病院全体を揺らしたような……しっ、静かに。聞こえますです?」


 一瞬、自分の心臓の早鐘を悟られたかと思ったが、雨音の表情は厳しいと言えるほどに真剣味を帯びていた。それだけで何やらただならぬ事態であることを察する。

 何事かと思い、意識して耳を澄ませてみれば、確かに階下が騒がしい気がする。もう深夜だというのに、大勢が歌っているような声が聞こえる。かすかな唱和であるが、時間帯を考えると、不気味に感じられた。


「あー、言われてみれば、確かになんか歌声みたいのが聞こえるな。て、て、てけりり?外国語か?意味はわかんねえけど、そんな感じの声がする」

「っ!?さ、最悪でやがります。こんなに人の多い場所で――って、そんなにはっきり聞こえたんでやがりますか!?」


 なぜか驚愕する雨音に対し、不思議そうに首を傾けるケースケ。彼女が何をそんなに驚いているのか理解できていなかった。


「……ここは4階でやがります」

「ん?おー、そうなんだ。知らなかった。それで?」

「はっきりとはわかりやせんが、音の出処は1階か2階ってところでやがります。徐々に上がってきていやがりますが、普通、それだけ距離が離れた場所の音なんて、そんなにはっきり聞き取れるわけねぇです」

「いや、雨音……さんにも聞こえてんじゃん。まぁ、俺の耳がいいってことはわかったけど、それがどうしたんだよ」

「今さら無理して、さんづけしなくてもいいでやがりますよ。というか、私の話を聞いて、他に感想はないんでやがりますか?」

「あ?んー、感想って言われてもなぁ。……強いて言うなら、腹減ったなぁってことぐらいかな?もうだいぶ長いこと食ってないみたいで、腹ペコなんだよなぁ。売店行こうにも、この時間じゃ開いてないだろうし。雨音、なんか食い物持ってねぇ?」

「……あぁ、うん。よくわかりやがりました。バカなんでやがりますね」


 頭痛を抑えるように、こめかみに手を当ててため息をつく雨音。本人を目の前にしてずいぶんな言いざまだったが、自覚はあったので怒る気にはならなかった。


「……まぁ、その話は後にしやがりましょう。それより今は、急いで逃げることが先決でやがります」

「は?逃げるって……」

「あれは正面から戦って勝てる相手じゃないでやがります。まずは生き残っている人たちを誘導して避難させ、私たちは急いでこの病院から離れましょう。狙いが私たちなら、私たちがいなくなれば、向こうも手を引くはず」

「いや、だから、何言って……」

「詳しい説明は後で!早く来るでやがります!」


 女性の割には強い力で、ベッドから無理やり引きずり立たせられる。ケースケは慌てて携帯と財布を手にとり、勢いのままに雨音に引きずられていった。

 二人とも、上履きは愚か、スリッパすら履いていなかったので、廊下の冷たさを足の裏に感じながら、ぺたぺたと進む。抵抗することもできたが、雨音のただならぬ様子に気圧され、ケースケはおとなしく随伴した。

 夜の病院は暗くて不気味だ。ナースセンターは明かりが点いていたが、なぜか当直の看護師はいなかった。


「ケースケくん。監視モニターとか、館内放送できる機材とかあったら探してください。私は脱出方法を考えるでやがります」


 まるでわけがわからないが、彼女の真剣なまなざしに気圧され、ケースケはおとなしく従う。雨音の方をちら見すると、彼女は棟内地図を睨んで考え込んでいた。

 そこでふと、彼女が無手であることに気づく。


「……あれ?雨音、先刻刃物かなにか持ってなかったか?俺の喉元に当ててたよな?」

「え?あぁ、あれは――」


 言いかけたところで、布を斬り裂くような悲鳴が響き渡る。


「ひぃ、ひいいいいい!!た、助けてくれええええええ!」


 驚いて顔を向けた先には、階段を駆け上がってくる一人の男性患者が見えた。彼は何かに追われるように背後を振り返りながら、ナースセンターにいるケースケたちに救いを求めるように手を伸ばす。

 だが、彼が階段を登りきるより早く、男の体に玉虫色の触手のようなものが絡みつく。


「うおおやぁだああああああ!!やめてえええええええええええええ!!」


 悲壮な声を出して抵抗するも空しく、男は階段の方へと引きずられていく。ナースセンターから飛び出した雨音が、男の腕を掴もうと手を伸ばしたが、それは指先が触れることもなく空を切った。


「あ……」


 触手に攫われた男を追って、ケースケたちは階段の前まで走る。そこで眼下の光景を目にし、暗闇の中でもそれとわかるほど、雨音の顔が青ざめた。おそらく、ケースケも同じような表情だったろう。顔から血が引く音というのを、初めて実感していた。


「あああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」


 男の悲鳴が、ケースケと雨音の耳にねっとりと絡みつき、すぐに途切れた。

 廊下は、病院特有の薬臭い匂いを塗りつぶすほどの濃い血臭に満たされていた。先程から階下から聞こえてくる『テケリ・リ』という歌声は、もはや耳をそばだてる必要もないほど近くから聞こえてきている。

 そして、その唱和のリズムに合わせるように、肉と骨が咀嚼される音が鳴り響いていた。


「なん、だ、あれ……」


 返事はなかったが、ケースケはそれを非難する気になれなかった。問いはしたものの、ケースケも雨音も吐き気を抑えるのに必死だったからだ。

 無理もない。本来あるはずの階段は消失し、代わりとでも言うように、玉虫色の肉塊がその空間を埋め尽くしていたのだから。肉塊には無数の目と口がついており、その瞳がケースケと雨音を捉えると、一際大きな声で『テケリ・リ!』という唱和の声を強める。

 その玉虫色の肉壁の周囲には、ところどころ赤や肌色の物体がいくつも転がっていた。それは人間の皮膚や内臓、血であった。そのことを見てとったケースケは、それらが目の前の肉壁の『食べかす』であることを本能的に理解してしまった。

 ――あれはなんだ?生き物なのか?

 ケースケは、自分が今いる場所が、本当に病院なのかどうか――いや、そもそも現実なのかさえ定かではない感覚に陥る。しかし、そんな現実逃避の思考も虚しく、目の前の凄惨な光景を目の当たりにして、胃からこみ上げてくるものがあるのを感じる。


「うっ……」


 思わず、口元を抑えて、一歩後ろに下がる。その行為を逃走と判断したのか、玉虫色の肉塊から、いきなり数本の触手が飛び出してきた。

 アレに捕まったら、自分も目の前に転がっている『食べかす』と同じ末路を辿る。そのことを理解していながら、ケースケはその場を一歩も動くことができなかった。仮に動けたとしても、触手はことのほか素早く、それらに体が対応できなかったであろう。


「うわっ!?」

 それでも彼の生存本能が、両腕を顔の前で交差されて目をつぶらせた。そんなものは、人間の体をガムのように噛み潰してしまう触手の前では無意味なはずだったが、いつまで経っても想像していたような痛みはやって来なかった。


「?」


 恐る恐る開かれたケースケの瞳に、雨音の後ろ姿が映った。玉虫色の触手群は雨音の体に吸い込まれるように伸びて静止しており、だらんと力なく下がる雨音の腕からはポタポタと雫が断続的に落ちていた。


「あ、雨音!?」

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