1-4 絶望の棺桶
最悪の事態を予想してしまったケースケが声を上げると同時に、玉虫色の触手群がグズリと音を立てて崩れる。床に落ちたそれらは、強酸でもかけられたかのように溶けていた。
驚くケースケをよそに、雨音は両手をゆっくり前に上げ、拳闘の構えを取る。
その両腕には、左右一本ずつ巨大な刺が生えていた。いや、刺というより、蜂の針に近いかもしれない。針にこびりついていた玉虫色の液体を、雨音は軽く振り落とす。
『テケリ・リ!テケリ・リ!』
それに応えるのは、玉虫色の肉塊。心なしか怒りを含むように甲高い鳴き声を上げると、先ほどよりも遥かに多くの触手が飛び出してくる。
その数、十六。
一本一本が必殺。人間であれば、例え一本であっても反応できずに命を奪われるであろうそれらを、雨音は目にも止まらぬ速さで捌いていく。捌かれると同時に針を突き立てられた触手は、形を崩し、床や壁に玉虫色の肉液として叩きつけられていく。
『テケリ・リ!テケリ・リ!』
全ての触手を捌ききられ、溶かされた肉壁から、再び倍近い触手が生えてくる。と、同時に、肉壁が真一文字に避け、そこが何百もの牙が生えた口になる。
そこで初めて、ケースケは目の前の肉壁が一匹の得体の知れない怪物の顔であると気づいた。階段を丸々埋めてしまうそれの全長を想像し、ぞっとなる。
「なんなんだよ……なんなんだよ、これ」
「説明は後にして、今は生き残ることだけに集中しやがれです。ここは私が足止めするです。ケースケくんは火災用の脱出器具を探して準備しやがってください」
「あ?だけどよ……」
反論しかけて、ケースケはぐっとこらえる。少女を置いて一人で逃げることは気が引けたが、自分が足でまといであることは明らかだ。彼女が何者かわからないが、少なくとも敵ではないようだ。ならば、彼女の言うとおりにした方がいいだろう。
「なぁに、あんな雑魚、すぐにやっつけて追いつきます。帰ったら二人でパインサラダでも食べながら、一杯やりましょう。私、未成年でやがりますが。……あいるびーばっく」
「盛大に死亡フラグ立てるのやめろ!縁起でもない!」
冗談めかして親指を立てる雨音を残し、ケースケは走り出す。直後、背後から激しい闘争の音が響く。振り向きたい気持ちを一心に抑え、言われた通りのものを探す。
来た道を戻ると、さすがに一般患者たちも騒ぎに気づいたのか、廊下に出てきていた。
「なんか騒がしいのぉ。看護師さんもおらんし、なんかあったんか?」
「ん?おぉ、兄ちゃん。なんか慌ててるみたいだけど、どうした?」
「あ?えと……」
廊下に出ていた患者の何人かが、ケースケに声をかける。
正直に言ったところで信じてもらえないのは明らかなので返事に困っていると、患者の一人が、雨音がいる階段とは別の階段から階下に降りようとしているのが目に止まった。
「待て!階段に近づくな!」
しかし、その忠告は遅かった。階段から無数の触手が伸びてきたかと思うと、悲鳴を上げる患者を引きずり込み、豚を粉砕機に放り込んだような音が廊下中に響き渡る。
呆気にとられる患者たちの前にころころとボールのようなものが転がってきた。――先ほど階段に向かった患者の頭部が、光のない目で見つめてきた。
「う、うわあああああああああああああああああああああああ!!」
一瞬の静寂の後、患者たちはパニックを起こして絶叫を上げる。その場にへたり込む者、病室に逃げ込む者。それぞれがてんでバラバラな行動を起こす恐慌状態となった。
「そっちには行くな!そっちの階段にもさっきの化物がいるぞ!」
雨音のいる階段の方へと逃げようとした患者の足が、ケースケの言葉で止まる。これ以上混沌とした状況になったら対処のしようがない。ケースケは内心、少しだけ安堵する。
「火災用の脱出器具を使うんだ!手伝ってくれ!」
ケースケの言葉に多少の落ち着きを取り戻したのか、その場にいたほぼ全ての患者が、廊下に設置されている非常用脱出器具へと向かう。一階まで伸びる布のトンネルを作り出し、四階から直接一階に行くことのできるようにするタイプのものだ。
幸い、あの玉虫色の怪物がすぐにやってくる様子はない。患者たちは、慌てながらも脱出器具の設置を完了させる。――だが、本当の地獄はそこからだった。
「どけ!俺が先だ!」
「何言ってるの!?レディーファーストでしょ!?先に私を降ろしなさいよ!」
脱出器具は、その機構上、一人ずつしか使えない。患者たちは我先にとそれに群がり、誰が一番に降りるかで醜い争いを始める。
ただ一人、雨音の安否が気になっていたケースケだけは、周囲よりは少しだけ冷静でいられた。元より、雨音を置いて先に逃げ出すつもりはなかったからだ。彼は患者たちの争いをよそに、雨音の階段の方へと目を向ける。
背後では、誰が最初に下に降りるかで未だにもめていた。
「お、落ち着いてください。と、とりあえず、女性の人から……」
「はぁ!?こんな時に紳士ぶってられるかよ!こういう時は早い者勝ちだ!俺が最初にコイツに触ったんだから、俺か、ら……あ?」
一際興奮していた男性患者が、不意に大人しくなる。
彼は、自分の体を見下ろし、そこから突き出た玉虫色の触手を不思議そうに見ていた。
「あ、あれぇ?なんでこんなの生えてるんだ?」
直後、男性の身体は宙を舞い、背後へと飛んでいく。他の患者たちは、ブリキのおもちゃのようなぎこちない動作で、男が飛んでいった方向に振り返った。
『テケリ・リ!テケリ・リ!』
「ああああああああああああああああああ!!離せ!離せぇ!いやだぁああああああ!!誰か、誰かあああああ!!助けてええええええええええ!!」
怪物と犠牲者の二重奏が響き渡る。
そこには、廊下一面を埋めるほどの玉虫色の肉塊が存在していた。
あの巨体で、いかにして階段を昇ってきたのか――いや、考えれば当然のことである。身体から幾本もの触手を作り出している以上、この生物は不定形ということになる。何の障害もない以上、階段から廊下まで這い上がってくるのは造作もないことだったろう。
玉虫色の肉塊に、一際大きい口が開くと、捕らえた男を無造作に放り込む。絶叫は数秒続いたあと、不意に途絶え、咀嚼音だけが響いた。
「うわああああああああああああ!!来たあああああああああああああ!?」
もはや恥も外聞もなく、他の患者を殴り飛ばしながら、全員が脱出器具のトンネルに殺到する。中には他の患者に突き飛ばされ、四階の高さから地上に叩きつけられる者もいた。
そして、そうやって一塊になった群衆は、怪物にとっての格好の餌でしかなかった。
怪物本体の動きは鈍いが、そこから生え出てきた触手の群れは、銃弾のように速く、猛獣のように力強く、雲霞のように数が多かった。無数の触手は脱出トンネルごと患者たちを包み込み、生者の希望の道であったそれは絶望の棺桶と化した。
「うわああああああああ!!いやだああああああああああ!!」
「やめろ!やめろおおおおおおお!食うな!食わないでくれええええええええ!!」
阿鼻叫喚。その言葉にふさわしい状況が、今を置いて他にあろうか?
「うそ、だろ……」
一人、唯一脱出器具の近くにいなかったため巻き込まれなかったケースケは、呆然と後ずさりする。自らの救いを求めた者たちが食われ、他人を心配していた者だけが生き残るとはなんという皮肉か。
だが、それはあまり意味のないことかもしれない。ただ順番の違いでしかないのだから。
もはや逃げ場はない。二つの階段は怪物に塞がれ、最後の頼みの綱であった脱出器具は怪物の胃の中だ。救いの道など、どこにもなかった。
トスっ
それは、あまりに軽い音だった。初め、ケースケは、自分に触手が突き刺さっていることに気づかなかった。痛みを認識するより先に、ケースケの身体は刺さった触手に引っ張られ、他の犠牲者と同じように怪物に取り込まれる。
が、その前に、ケースケを空中で受け止める者がいた。
彼女は腕の針を突き刺して触手を溶かすと、ケースケを抱きかかえて窓際まで下がる。
「ケースケくん!?大丈夫でやがりますか!?」
大丈夫なわけないだろ。胸に大穴が空いてるんだぞ。しかも、かなりやばい位置。そんなふうな返事をしようとしたが、肺に穴が空いていては言葉にならない。ヒューヒューと空気の漏れる音だけが響き、口と傷口から生命の雫があふれだすばかりだった。
「っ、まずい」
傷口を見て、雨音は眉を歪める。
医学に明るいわけではないが、危険な状態であることは一目でわかる。すぐに治療を施したいが、治療は愚か逃げることすら難しい状況だ。
「……できれば、やりたくなかったでやがりますがね」
雨音は、ケースケを抱えたまま、窓を背にして怪物と対峙する。
彼女たちを襲う触手を、雨音は腕の針で迎え撃とうとする。だが、ケースケを脇に抱えていたため、片腕しか使えず動きも鈍い。いくつかの触手は針を突き刺すことに失敗し、雨音は右腕でそれらを受け止めた。
人間の胴体を易々と貫通した触手はしかし、なぜか少女の細腕を貫通できずに防がれる。だが、その勢いは殺しきれず、窓ガラスを突き破って、二人の身体が夜空へと舞った。
今回は爆風が救ってくれる偶然も樹に引っかかる幸運もない。二度目の自由落下は、意識が朦朧としているため、一度目ほどの恐怖はなかった。ケースケは、ただゆっくりと時間が過ぎ、頬を風が撫でる冷たさと雨音の体の温かさを感じた。
立体駐車場の時とは真逆の状態。あのときはケースケが雨音を抱きしめていたが、今は雨音がケースケを抱きしめていた。
(ああ、またかよ……)
死にかけるのも二度目だった。何もかもが立体駐車場の時の焼き増し。あの時と同じように、ケースケは虚ろな目で雨音を見上げる。
風を受けてたなびく髪。月光を受けて照らし出される横顔は、まるで妖精のよう。
そんな少年の思いが幻想を見せたのだろうか。
ケースケは、意識を失う間際、彼女の背に透明で美しい二対の羽を見た気がした。
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