2-1 惨劇の跡

 布槌総合病院の4階階段踊り場に、一人の小柄な女性が佇んでいた。

 定規で線を引いたかのように真っ直ぐ整えられた白髪。ぴたりと身体にフィットしたスリーピーススーツは皺一つ許さず、床に対して垂直に伸ばされた背筋は一切の揺らぎがない。人間というよりむしろ彫像的である印象の女だ。

 周囲には、『鑑識』の腕章をつけた人間が、大勢で現場検証を行っている。女性はその作業の邪魔にならない位置で、年配の鑑識官と時折会話を交えながら、タイプライターのような速度と正確さで、手帳に一言一句まったく同じ大きさの文字でメモを取っていた。


『布槌総合病院の人間が、全員失踪した』


 その連絡を受けて、彼女が現場にやってきたのは早朝のことだ。病院全域という膨大な捜索範囲での調査は難航し、収穫も芳しくないらしく、みな苦り切った顔をしている。

 しかし、それは鑑識が無能であるというわけではない。彼らの優秀さを女はよく知っていたし、信用している。傍から見ていた彼女にも、鑑識の苦悩ともどかしさが手に取るようにわかった。なにせ、病院からは、文字通り塵一つ発見できないのだから。

 病院内の人間全員が一晩で消えた。何らかの事件があったのは確実なのに、院内の隅々まで探しても何の痕跡も見出せない。鑑識の顔が曇るのも当然であろう。

 その苦悶が理解できるからこそ、女性も鉄面皮を僅かに崩して眉を寄せる。まだ若いが、彼女を軽んじるような者がいないのは、会話をするまでもなく伝わってくる生真面目さが好印象を与えるのか、あるいは――


「やぁ、おはよう、ミス白兎!今日も一段と麗しいね!せっかく君からお誘いの電話をくれたのに、待たせてしまって申し訳ない。お詫びにモーニングコーヒーでも奢ろうかと思うのだが、下のカフェまで一緒にどうかね?」


 あるいは、上司の不真面目さが、相対的に荒木白兎の評価を底上げしているのか。

 イタリア製の高級スーツを身に纏ったその男は、シャツの胸元を大きく開け、レッドカーペットの上でも歩くかのように優雅に歩を進める。鑑識が調べているのも気にせず、ずかずかと足跡を残す男に対して、鑑識たちから悲鳴が上がった。


「要請拒否。おはようございます、半津警部。訂正。最初の出動要請から5時間42分が経過し、現在時刻は11時15分。モーニングというには遅い時間と判断」

「おっと、もうそんな時間だったのかい?早朝の9時に起きて、たったの2時間で身支度を整えて出てきたというのに、時の流れとは早いものだね。だが、移ろいゆく時の中でも変わらないものがある。それが何かわかるかね?」

「返答不可。回答を要請」

「君への愛さ」


 そう言い、白兎の胸に向かって撃つ仕草をする。モデルもかくやという美形のウインクは、気障でもときめいてしまう魅力があったが、白兎の表情はぴくりとも反応しなかった。

 代わりとでも言うように、ぴしりと乾いて、ひび割れるような音がする。


「軌道修正を要請。雑談を終了し、報告任務の遂行を希望」

「ふっ、ミス白兎も大胆だね」


 半津は髪をかきあげて流し目を送る。辺り一帯に、男物の豊潤な香水の香りが漂った。


「疑問。大胆とは?」

「僕に告白するつもりなんだろう?こんな大勢の前で打ち明けるなんて、大胆だなと思ったのだよ。僕としても、女性に恥をかかせるわけにはいかない。返事はもちろんOKさ」


 バキン。先ほどのひび割れるような音に続き、何かが折れるような音がする。見ると、荒木が手に持っていたボールペンが握りつぶされ、中ほどから砕かれていた。

 なお、白兎の表情は型取りでもされているように、一切の変化がない。


「……すごい握力だね、ミス白兎?あと、なぜだろうか。表情は全く変わってないはずなのに、君を見つめていると背筋がぞくぞくしてくるのだが」

「要請。報告任務の遂行を希望」

「ん?なんだ、聞き逃していたのかな?まったく、ミス白兎はドジっ娘さんだね。でも、そういう君もかわいいと思うよ?もう一度言ってあげよう。僕の返事は――」

「要請。報告任務の遂行を希望」

「……あの、ミス白兎?」

「要請。報告任務の遂行を希望」

「あっ、はい。よろしくお願いします」


 壊れた録音機のように同じ言葉を繰り返す白兎に怖いものを感じたのか、半津は話を促す。彼女が右手に握っていたボールペンの残骸は、言葉が繰り返されるごとに更なる破壊の憂き目に遭い、もはや原形を留めていなかった。


「要請受諾。半津警部のスペックに合わせ、情報を小学生レベルに簡易化して報告。約6時間に及ぶ科学的調査の結果、院内からは、医者・看護師・患者その他すべての人間の姿かたちはおろか、指紋の一つも未発見。必然、血痕の類も未発見」

「ほほぉ。この病院の清掃係はずいぶん優れているようだね。ぜひともうちで雇いたいのだが、どんな人物かね?美しい女性なら文句なしだが」

「否定。清掃係も失踪者の一人」


 真顔で尋ねる警部の言葉を冗談と捉えたのか、あるいは本気で聞いていると理解した上で諦めているのか不明だが、白兎はバカ真面目に返答する。

 それは残念だと惜しむ半津を置いて、白兎は手帳のページをめくる。


「続報。ベッドには寝ていた痕跡があり、その他にも人がいた痕跡は見受けられる。しかし、姿かたちの一切がなく……まるで突然人が消えてしまったかのような様相」

「ほほう!それは面白い。まるで、メアリーセレスト号のようじゃあないか」

「質問。メアリーセレスト号とは?」

「なんだ、知らないのかね?メアリーセレスト号というのは、1872年に発見された無人の漂流船のことだよ。この船が普通の漂流船と違うのは、船の状態が良好であったにもかかわらず、船員だけが忽然と消えてしまった点だ。現代の幽霊船のモデルは、ほとんどがこの船だと言っても過言ではない」


 自慢げに語る半津に対し、無言を返す白兎。無意味な雑学には興味はないようだ。だが、珍しく知識で勝てている半津は、調子に乗ってさらに自分の考えを上乗せする。


「ふふふ、ミス荒木。私はこの事件の犯人がわかったよ」

「……要請。半津警部の考える犯人像とは?」

「ずばり、宇宙人さ!」


 相変わらず表情は一切変わらないが、向けられている瞳には極寒の思いが込められていることに気付かず、半津の『名推理』は続く。


「さしものミス荒木も、私の推理に驚きを隠せないようだね?」

「肯定。一般人には考え付かない推論と判断。要請。行方不明者に対する意見」

「無論、宇宙人に攫われたのだよ。アメリカではよくある話らしい」

「……疑問。行方不明になった人々の痕跡がない理由は?」

「ふっ、犯人が宇宙人であるのなら、隠蔽工作など造作もないだろう」

「…………疑問。施設の一部破壊が確認されているが、隠蔽工作されていない理由は?」

「はっはっはっ、地球人より優れた技術を持つ宇宙人はそんな細かいことにはこだわらないものなのだよ。勉強不足だね、ミス荒木」

「…………」


 荒木が黙り込んでしまったことに対して、半津は彼女が自分の推理に納得したと判断したようだ。半津は髪をかきあげ、満足そうな笑みを浮かべる。


「では、これにて事件解決だね。ミス荒木は報告書をまとめておいてくれ」

「疑問。本当にその内容で報告書の作成を?」

「無論だとも!はっはっはっはっ、事件解決時の気分は爽快だね!」


 自らの意見に一切の疑問を持っていない男に、さすがの荒木も反応に困って少し目が泳ぐ。そこでふとなにかに思いついた表情になった半津が、爆弾を投じた。


「あぁ、そうだ。今回の事件の責任者は荒木くんということにしておこう」

「……疑問。説明要求」

「私の推理で君の手柄を奪ってしまうのは忍びなくてね。君の担当事件ということにすれば、君の手柄になるだろう?部下思いの上司からの粋なプレゼントとでも考えてくれ。なに、お礼ならば、今度ディナーを一緒してくれるだけで構わないよ」

「疑問。拒否。迷惑。思考回路が混乱。再考を要求」


 さすがの荒木も、これは止めておかなければまずいと反応せざるを得なかった。半津自身は欠片も悪気がないのが逆に性質が悪い。


「おっと、ランチの時間のようだ。では、私はこれで失礼するよ。ディナーの件、楽しみにしているよ、ミス荒木」

「拒否。再考を要きゅ……」


 まるでそれが当然であるかのように、白兎の声を無視し、半津は嵐のように去っていく。彼の頭の中にはもう事件のことはなく、ランチを何にしようということだけだった。

 荒木は、声をかける体勢で固まったまま、ぽつんと残された。


「……嬢ちゃん、報告書書くの手伝おうか?」

「否定。その場合、鑑識メンバーにも責任が及ぶ。現在のところ、責任を押し付けられたのは自分のみ。被害を抑える意味でも、自分一人で済ませることが効率的」


 気を使ったベテラン鑑識官の提案を辞退する白兎。このようなことは初めてではないのだろう。もはや諦めているのか、鉄面皮が揺らぐことはない。


「……記憶領域から情報発掘。質問。昨日の大事故における生存者搬入先」

「昨日の大事故って、港近くの立体駐車場のやつか?まぁ、布槌で大病院といえば、ここしかないからな。重症だったのなら、ここで間違いないと思うが……」


 荒木は手帳をめくって、事故の情報を確認する。自分の管轄外の事件であったが、並の捜査官が知りうる以上の情報がそこには書き記されていた。


「(事故と関係があるという明確な情報はなし。だが――)」


 無表情で考え込む荒木の懐から、携帯の着信音が響く。

 彼女の仕事用アドレスを知っている人間は限られている。半津からだったら居留守を決め込んで無視しようと考えながら、白兎は携帯を取り出して着信相手を確認した。

 ぴくりと荒木の表情筋がわずかに動く。彼女にしては非常に珍しいことだ。

 荒木は鑑識のメンバーに一言告げてからその場を離れ、携帯に耳を当てた。

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