1-2 夜の始まり
チャンネルを切り替えていくと、ニュースをやっていた。ニュースでは、まさにケースケが巻き込まれた立体駐車場の事件が報道されていた。ニュースキャスターが違法建築だとかガス爆発だとか言っているが、要するに事故として扱われているようだ。
「……あー」
事故の原因について色々話しているが、難しすぎてほとんど理解できなかった。自分はあまり頭の回転はよくないようだ。そろそろ聡美たちも戻って来るだろうし、電源を切ろうかなと思ってリモコンを持ち上げたところで手が止まる。
『爆発で瓦礫が降り注ぎ、怪我をした人が大勢いますが、周囲にいた人々に死者はありませんでした。ただ、駐車場内にいた方たちの生存率は絶望的で、現在生存が確認されているのは涼森螢助さん(16)と月海雨音さん(17)のみで――』
「(生き残ったの、俺とあの子だけなのか……)」
九死に一生とはこのことだろう。全身包帯だらけになるほどの怪我を負っているのだから、自分も死者の中に入っていたとしてもおかしくはなかった。文字通り胃がひっくり返った感覚を思い出し、ケースケは気分が悪くなった。
「……そういや、腹減ったなー」
腹をさすりながら、ケースケはテレビの電源を切る。嫌な思い出は湧き上がる食欲で容易く打ち消されていた。
そのとき、コンコンと病室のドアをノックする音が響く。どうぞ、と声を掛けると、小学生くらいの少女が聡美に付き添われておずおずと入ってきた。小鹿のようにクリクリとした大きな瞳を持ち、髪を両脇で纏めたツインテールの少女だ。
少女はケースケと目が合うなり、びくりとして聡美の背中に隠れてしまう。
その反応にケースケは少しショックを受けたが、よく考えれば、自分の顔は現在包帯に包まれているのだ。子どもが怖がっても仕方ないと気付いた。
よく考えれば、記憶喪失の自分がこの少女と話をしたところで、話題にできることなどない。悪戯に少女を怖がらせても仕方ないと一つ溜息を吐き、彼女を帰そうと思ったところで、少女が聡美の背中から顔を半分出して言った。
「おにい、ちゃん、なの?」
幼い声を聞いた瞬間、ケースケの脳は激しく揺さぶられる感覚を覚えた。
「……あ」
不安を感じると何かの後ろに隠れようとする癖。それでも気になることからは目を逸らさないし、逃げもしない。危機感よりも好奇心が勝ってしまう、危なっかしい子猫のような存在。そんな少女のことに覚えがあった。
脳がちりちりと焼けるように痛む。サブリミナルのようにフラッシュバックする、覚えのない記憶。喉まで出かかっているのに思い出せないもどかしさ。あるいは、それ以上思い出してはいけない、と何かが軋みを上げてブレーキを掛けるように。
「風香?」
その名前は良く舌に馴染んだ。何度も何度も繰り返し口にした言葉を、脳が記憶していたような感覚だ。
「お兄ちゃん!」
包帯に包まれた顔におびえていた少女だったが、ケースケの声を聞き、それが兄のものだと確信したのだろう。相手が怪我人であることも忘れて、その胸に飛び込んだ。
「よかった!本当に本当に心配したんだからね!?お兄ちゃんが事故に遭って入院したって聞いて、目を覚まさなかったらどうしようって……」
「あ、あぁ」
風香と名乗る少女を抱きしめたケースケの声は震えていた。
傷が開いて痛かったというのではない。自分はこの少女のことを知っている。そのことを確信しながら、少女との思い出の一切を思い出せないという矛盾に戸惑っているのだ。
「……お兄ちゃん?どうしたの?」
様子のおかしい兄を不思議そうな瞳で見上げる風香。
何か返事をしなければいけない。だが、ちりちりと頭痛がする。記憶にない風景が何度も脳内に浮かびあがっては消えていく。それはちかちかと点滅する電灯のようで――
「ケースケくん!?」
聡美が慌てた様子で風香を押しのけ、ケースケの顔をのぞきこんでくる。
ケースケが何事かと顔を触ると、べったりと赤い色が手のひらに広がった。そこでようやく鼻血が出ていることに気がついた。
「風香ちゃんを退室させて。それと、MRIの準備を――」
聡美が次々に指示を出し、看護師たちが慌てて動き出す。おろおろした顔の風香は室外に連れ出され、面会は本当に短い時間で終わってしまった。
その後、物々しい検査をいくつも受け、ケースケはたっぷり一時間は拘束された。検査の説明は受けたが、話の半分もわからず、言われるがままに検査を受けていった。
しかし、ケースケの頭痛はそれ以来起こらず、検査でも特に問題は見つからなかったので、結局は経過観察ということでベッドに戻された。
あの頭痛は、一体なんだったのだろう?
そんな疑問を胸に、ケースケの慌ただしい一日は終わりを告げた。
◆◆◆◆◆◆
「お疲れ様。ねぇ、栗林先生もう帰っちゃった?」
「お疲れ様。先刻、当直の先生に引き継ぎを終えて帰ったところよ。今日は事故のせいで大変だったからね。何か用事でもあったの?」
「うぅん。急ぎじゃないからいいの。また明日……って、もう今日か。出勤されてからお話しすることにするわ」
草木も眠る深夜帯。院内の見回りを終えた当直の看護師たちが、ナースステーションで雑談の花を咲かせる。昼間は多くの患者が来訪したこの場所も、夜中は閑散としたものだった。急患の知らせもなく、看護師たちの間にも穏やかな空気があった。
こういったとき、話題になりやすいのは患者に関することだが、大事件があった直後である現在は、必然的に立体駐車場での事件の話になる。
布槌市最大の病院である布槌総合病院は、大事故が起きた際の患者の第一受け入れ先だ。決して他人事ではなく、実際、今日は一日、医者も看護師も忙殺されることとなった。
立体駐車場での事件は、テレビでも報道されていた通り、看護師たちもガス漏れによる爆発事故と認識していた。生き残ったのはケースケと彼が救った少女のみなのだが、その直後のガソリン引火による爆発でガラスや小さな瓦礫を被った野次馬が大勢いた。
不幸中の幸いで、野次馬の中から死人は出なかったし、大怪我をした者もいなかったが、治療を求める患者たちが大挙として病院に押し寄せた。ようやく一心地つけたのは、診療受付時間が終わってしばらくしてのことだった。
「そういえば、事故で助かった子って、記憶喪失なんだって?」
「えぇ、そうらしいわね。女の子の方も、まだ意識を取り戻してないし……まぁ、あれだけの事故にあったんだから、五体満足で生きていることを喜ばなくちゃね」
「ふふ、それもそうね。……あら?」
ふと、雑談を交わしていた看護師の一人が会話を止める。
彼女たちがいるのは一階受付に当たるナースステーションだった。そこからは待合室と病院玄関のガラスドアが一望できる。救急車を駐車できるように広く取られた玄関が、街灯の光を受けて、白くぼんやりとした色に染まっている。
看護師がそちらに注目したのは、そこに人影があったからだ。全身を覆うロングコートに幅広帽。素顔をさらさないそのレトロな出で立ちに、看護師はやや不信感を抱きつつも、看護師は己の職務を全うするために応対に出る。
「あの、今日はもう診察時間を過ぎているんですが、急患ですか?」
「…………」
人影は、問いかけに答えず、扉を引き開け、院内へと足を踏み入れる。何事かと近寄る看護師は、その人影がひどく不気味な鳴き声のようなものを発していることに気づいた。
「テケリ・リ……テケリ・リ……」
「どうしました?どこか具合でも――」
気遣う看護師の言葉は、最後まで続かなかった。
来訪者は近づいてきた看護師に対し、自然な動作で片腕を上げる。握手でも求めるように突き出されたその腕は、看護師の腹へと吸い込まれていった。
「あ……え?」
何が起こったのか理解できない看護師は、自分の腹部を不思議そうに見下ろす。その部分の白衣が赤く染まっていた。脳が現実を拒否した看護師は『あぁ、洗濯しなくちゃ』と場違いな考えを頭に抱いた。その口から、つぅ、と一筋の血が流れる。
「ひっ、きゃああああああああああああああああ!!」
その様子をナースステーションから一部始終見ていた同僚が、甲高い悲鳴を上げる。不幸なことにその悲鳴で正気に戻ってしまった看護師は、来訪者の腕が自分の胴体を貫通して突き刺さっていることを理解してしまう。
「あ、ああああああああ」
力が失われつつある両腕で、看護師は自分の体を貫いている腕を掴んで引き抜こうともがく。だが、その腕はびくともせず、傷口からグチュグチュと何か蠢く音と感触が伝わってくるだけだった。
その音には聞き覚えがあるが、一体なんだったか――そうだ、肉を噛み締めている時の咀嚼音に似ている。これは自分を殺そうとしているのではない。ただ、食べようとしているのだと看護師は理解する。
「や、やめて。食べないで。私のおなか、おなかかかかかかかかか」
嘆きの声はもはや言葉にならず、看護師の目がぐるりと反転して絶命する。来訪者は『食事』を続けながら、看護師の死体を引きずり、ナースステーションへと近づく。
「ひっ!?だ、誰か!!」
身の危険を感じ取ったもう一人の看護師は、ナースステーションから転がり出て、病院の奥へと駆け出す。警察を呼ぶ余裕も理性もなかった。動揺から周囲の物を散らかしながら、ただ、人がいる方向へと急ぐ。
来訪者にそれを走って追いかける様子はない。片腕で捕食中の死体を引きずりながら、散歩でもするような速度で、逃げた看護師の後を追う。
だが、狂乱していた看護師にそんな冷静な分析ができるはずもなく、何度も振り返りながら、そこかしこに体をぶつけながらも必死の形相で走る。
看護師は廊下を走り、非常階段へと続く扉まで辿り着く。大した距離ではないはずなのに、それはひどく遠いもののように感じた。だが、いざ到達すると、彼女にとってそれは救いの門に感じられ、その扉に安堵と希望を抱く。
ドアノブに手をかけ、この地獄のような場所から逃げようとした時、看護師は胸に軽い衝撃を感じる。何事かと見下ろすと、自分の胸からは玉虫色の何かが生えてきていた。
自分を追っていた来訪者は、まだ十メートルは後ろのはずだ。では、これはなんだ?
振り返れば、予測通りの場所にあの忌むべき来訪者の姿があった。捕食されていた同僚の遺体はすでにない。代わりとでも言うように、来訪者の身体が一回り大きくなっており、人間とは思えない玉虫色の肌が服の下から覗いていた。また、その腕が蛇のように伸び、逃げようとした看護師の背中から胸部までを貫いている。
『テケリ・リ!テケリ・リ!』
死の間際、逃げようとしていた看護師の耳に、聞いたことのない鳴き声が聞こえる。それは彼女のすぐそば――彼女の胸を貫いている腕から聞こえてきていた。
「げ、が……」
見下ろすと、『目』が合った。
看護師を貫いた腕には『目』があった。『口』があった。肌は人間や動物とはまったく違ったもので、玉虫色に蠢いていた。その腕に浮かぶ口々は、まるで唱和するが如く、『テケリ・リ!テケリ・リ!』という鳴き声を繰り返している。
看護師は来訪者の腕に貫かれた同僚が捕食された理由を知る。これは来訪者にとっての『腕』であると同時に、『口』であり、『目』でもあるのだ。それを理解してしまった看護師はまた悲鳴を上げそうになったが、口からは血液があふれるだけだった。傷口から肉を咀嚼する音が響き、彼女もまた先刻の同僚と同じ運命を辿った。
『テケリ・リ!テケリ・リ!』
来訪者は食事を楽しむように、一際大きな鳴き声を上げる。捕食した分だけ大きくなった肉体はロングコートを突き破り、もはや衣服としての体をなしていない。
「おい、さっきの悲鳴はなんだ!?何かあったのか!?」
看護師の悲鳴を聞きつけたのか、何名かの人間がその場へと向かってくる気配がする。だが、来訪者には慌てた様子はなく、次の『獲物』の気配がする方へと自ら近づいていく。
『テケリ・リ!テケリ・リ!』
慌ただしい一日は終わった。だが、長い夜はまだ始まったばかりだ。
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