1章

1-1 赤い実験室

 ほのかに赤く薄暗い現像室のような部屋の中、一つの影が机の上に座り込んでいる。

 その部屋はまるで実験室。フラスコや試験管といった一般的な実験器具のほかに、用途のわからない機材がいくつも立ち並んでいた。部屋中にチューブが走っており、中を赤い液体が流れている。その液体自体が発光しており、部屋の明かりの代わりとなっていた。

 機材の駆動音が小さく響き、電気が通っていることを示している。だが、人影は電灯のスイッチを入れるでもなく、薄暗い中、正面にある水槽をじっと見つめていた。

 大きな水槽だった。チューブ内を通っているものと同じ赤い液体で満たされており、水槽全体が仄かな光を発している。どうやら水槽は巨大な標本容器のようで、水槽の中央で標本がぷかりぷかりと浮いていた。

 その水槽をぼんやりと眺める人影の耳に、かたん、と金属がこすれる音が届く。人影がそちらのほうに首を傾けると、通気口の外枠が外れ、何かが這い出てくるのが見えた。


『……っ!……っ!』


 通気口から這い出た存在は人影の近くに寄ると、奇声のような声を発する。常人が聞けば鳥肌が立つような奇怪な声だったが、人影は動じず、ただ一つ小さくうなずく。


「……そう。病院に運ばれたの。まぁ、あの程度で死ぬわけがないとは思ってたけど。困ったわね。人目が多いと手が出せない。……あぁ、それを狙ってるのかな?」

『……っ!……っ!』

「近くにもう一人いた?どんなやつ?」


 人の声とは似ても似つかぬ発音だったが、人影はごく普通に会話しているように相槌を打つ。奇声の持ち主からの返答に人影は口元を三日月の形に曲げて笑った。


「へえ?それは面白いわね。ちょうど退屈していたところだし、いい玩具になりそうね。やっぱり、反応がないのはつまらないわ。あなたもそう思うでしょう?」


 人影が手をついた水槽に、標本が浮き上がる。標本の頭部には黒い頭髪が躍り、眼は見開かれている。恐ろしいことに、水槽の中に保存されている標本は、人間だった。

 少女が指で合図すると、奇声の主は素早く動き、水槽を叩き割る。大きな音とともに赤い液体が流れ出し、『中身』が転がり出る。奇声の主がそれに覆いかぶさると、部屋に肉を咀嚼する音や骨が砕ける音が響いた。

 言うまでもなく、通気口から這い出てきた奇怪な生物が、水槽に保存されていた人間の肉を貪る咀嚼音だ。与えられた『餌』がお気に召したのか、奇声の主は、歓喜を示すように一際大きな声で鳴く。


『テケリ・リ!テケリ・リ!』


◆◆◆◆◆◆◆


 まどろみの中から引きずり出された少年が、ゆっくりと目を開ける。

 狭い個室のベッドだ。ベッド脇には点滴を初めとしたいくつかの機材が並んでおり、大げさなくらいいくつものの管が少年の身体に繋がっていた。

 機材のモニターには少年の状態を示すいくつもの数字が並んでいたが、医学の知識のない少年には、それが何を示しているのか分からなかった。機材の前には看護師が一人、なにやらモニターの数値をチェックしていたので、少年は声をかけることにした。


「あー、ちょっと看護師さん?」

「え?……ええええええぇぇぇぇぇぇ!?」

「……えー」


 声を掛けただけでお化けを見たような反応をされ、軽くショックを受ける少年。

 看護師は少年の質問とリアクションを無視してナースコールに飛びつき、医者を呼ぶ。その後、医者が来るまでの間に体調を尋ねる質問をいくつか投げかけられたが、むしろおまえの方が大丈夫かと問いかけたくなるほどの狼狽ぶりだった。


「おはよう、涼森螢助くん。具合の方はどうかしら?」


 やがてやってきた女医は、栗林聡美と名乗った。聡美は看護師からカルテを受け取り、それを確認しながら少年に話しかける。


「スズモリ、ケースケ?」

「あなたの名前だけど……思い出せない?」

「あー」


 言われ、自分の名前が思い出せないことに気付く。

 ケースケと呼ばれた少年の記憶にあるのは、立体駐車場での決死の脱出劇だけだった。あの時の傷は致命傷だと思ったのだが、人間案外頑丈らしい。身体中に包帯が巻きつけられ、色々な機材をつけられているが、あまり不具合はないように感じられる。


「……記憶に混濁あり、と。何か思い出せることはある?」

「あー、そういえば、俺と一緒に女の子がいなかったか?」


 記憶を漁って、一番に出てきたのは、自分が命がけで守ろうとした少女だ。今いる部屋は個室であり、他の患者の姿はない。彼女がどうなったのか、とても気になった。

 ケースケの質問にすぐに心当たりが浮かんだのか、聡美は微笑を浮かべてうなずく。


「あぁ、月海雨音さんのことね。彼女は別の部屋で治療を受けているけど、命に別状はないから安心して。……あの子、ケースケくんの彼女?」

「いんや、違う……と思う。思い出せねぇや」


 少女の安否を聞かされてホッとしつつも、ケースケは頭を押さえる。記憶がないというのは、殊のほか精神的負担になるものだった。言いようのない不安がこみ上げてくる。


「あー、そうだ。俺の名前、どうしてわかったんだ?」

「あぁ、刑事さんが調べたのを教えてもらったのよ。それに、あなたの持ち物に財布と携帯があったから、名前の特定は簡単だったわ」

「……おー」


 財布と携帯の存在を知らされ、ケースケはその手があったかと手を打つ。むしろ、真っ先に思いついてしかるべき手段なのだが、ケースケはそれらの存在をすっかり忘れていた。


「ええっと、てことは、俺も事情聴取とかされるんすかね?」

「安心して。さすがに今日怪我を負ったばかりの人間に尋問なんて、医者として断固として拒否するから。あなたは自分の怪我を治すことだけ考えていればいいわ」

「ういっす」


 今日怪我を負ったばかりと聞き、まだ一日も経っていないということをケースケは知る。窓の外が暗くなっているところを考えると、事故から数時間といったところか。

 その後、聡美はケースケにいくつか質問したが、記憶を失っているのだから、まともに答えられるようなことは一つもない。聡美もしつこく返答を迫るようなことはしなかった。

 二人がしばらく話をしていると、先ほどの看護師が戻ってきて、聡美に耳打ちをする。


「あの、栗林先生。風香ちゃん、どうします?」


 声を潜めたつもりのようだったが、風の流れか、近くにいたケースケにも会話は届いた。風香という名前に憶えはなかったが、記憶の片隅に引っ掛かるものを感じ、首を傾げる。

 聡美はケースケを見、腕時計で時間を確認し、少し考えた後でケースケに声を掛けた。


「ケースケくん、ご家族がお見舞いにいらしてるんだけど会ってみる?」

「家族?」

「あなたの妹の涼森風香ちゃんよ。保護者の方は……その、お仕事の関係でいらっしゃられないみたいなんだけど、妹さんだけいらしてるの。思ったより体調がよさそうだから、私は会わせてもいいと思ったんだけど……どうかな?会ってみない?」


 特に迷うことなく、ケースケは頷いた。大げさな処置が施されていたが、痛みやだるさなどは感じられない。それよりも、自分の記憶がないことの方が気になった。自分のことを知る人間に会えるのならば、それは願ってもないことだ。


「わかったわ。じゃあ、手続きを終えたら連れてくるから、少しの間待っていて。面会時間は過ぎてるし、起きたばかりだからあまり長い時間は話せないけど、我慢してね?」


 そう言い残し、聡美と看護師は退室する。

 手持無沙汰になったケースケは、室内に目を彷徨わせる。静寂が耳に痛く、どうにも不安をかきたてた。

 窓の外はすでに夜闇に包まれており、スフィアの緑光がオーロラのように空にかかっている。外の様子は見づらく、街灯の光がぽつぽつと浮かぶのが見て取れるだけであった。

 そんなケースケをぼんやりと見つめ返す少年と目が合う。それが窓に映りこんだ自分の姿であるということに気付くのに数秒かかった。記憶喪失で顔がわからなかったというのではなく、それ以前の問題――顔に何重もの包帯が撒かれていた。

 これではまるで、ホラー映画に出てくるミイラ男だ。ケースケが負った傷は、本人が思う以上に重いもののようだ。もっとも、全身に火傷を負った上で4階から落ち、この程度の怪我で済んだのだから、御の字と思うべきなのだろうが。

 ふと自分と一緒に落下した、雨音という少女のことを思い出す。彼女はこんなことになっていなければいいなと思う。男である自分はともかく、女の子である彼女が顔に傷を負うのは嫌だった。なにより、あんなに綺麗な顔をしていたのだから。


 ぽりぽりと頭をかき、ケースケは再び室内を見渡す。

 飾り気のない殺風景な部屋だったが、ベッド横のサイドボードに、携帯電話と財布が置かれていることに気付く。今どきのスマホではなく、塗装のはがれたガラケーだった。

 そういえば、聡美という女医が、所持品に携帯と財布があったと言っていた。ということは、これがそうなのだろうか?ケースケはそれらを手にとり、中身を改める。

 所持金は一万円と少し。私立城戸高校の学生証が入っており、眼鏡をかけた少年の写真が貼られている。現在の包帯姿とは比較できないが、顔のつくりなどはケースケの面影がある。携帯の方にはほとんどデータが存在せず、自分の電話番号・住所・名前が登録されているくらいだ。学生証も携帯データも、確かに『涼森螢助』という名前になっていた。

 現役高校生の所持品としては寂しい内容だが、他にはなにもめぼしいものはなかった。外観から想像して、大して大切に使われていなかったのだろう。ケースケ自身、財布と携帯の中身を見ても何も思い出せなかった。そのせいか、涼森螢助という名前にもあまり実感が湧かなかった。

 他にも何かないかと病室を見渡す。殺風景な室内で、唯一の娯楽機材であるテレビに目が止まった。備え付けの小さなものだが、個室にテレビとはなかなか贅沢だ。ケースケはありがたく思って、テレビの電源を入れる。

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